10月1日。秋のように涼しい。寒暑計の針は67度。午前6時、スエズ港に至る。アデンからここに至ること1314里。スエズ港は紅海が尽きる所、見渡す限り赤い野であり、通年雨が少ない。アレクサンドリアまで鉄道が通じている。10時、船が出発して運河に入る。運河は長さ100海里。深さは72フィート。幅員はそんなに広くはない。巨艦どうしがすれ違うときには一方を待避させて他方を通す。南のスエズから来たのポートサイドに至る。エジプト王アリーが開鑿した。工事を監督したのはフランス国の学士レセップス氏である。竣工は15年前であるという。緑の木を周りに植えた家が河口にある。おそらく収税所であろう。河に入ると両岸の土の色はみな黄色である。薄が芽を出しているものがある。また水柳がある。堤防の上に電線が数本架かっている。所々に板屋を建てて河を守る者がここにつめている。また小汽船で川底をさらっている。夜は月が明るい。河の中に停泊する。詩を作る。
河をさらって破天荒な功績を成した
地下でまさにナポレオンも驚いたことだろう
人が喜望峰を巡ることもなくなり
十五年が経ってその名はむなしくなった
ナポレオン一世がエジプトを征服したとき運河を作ろうとしたができなかったことを二行目は言っている。
6時に船出する。地中海に入る。寒暑計の針は76度。
3日、船はどんどん走る。しかもいつもよりも安穏である。
4日、カタニア島を望む。これは欧州の地をみる初めである。
5日、波風が起こり、船は揺れて止まらない。イタリア山脈を望む。草木は少ないが谷地が多くやや湿り気を帯びていてアラビアの死の山とは比べようもない。だんだんに山麓に近づくと村落や田園、鉄道、橋梁などが見え、樹木も繁茂している。エトナ山を望むと雲がかかっていてはっきりと見ることができない。
晩にシチリア海峡を過ぎる。船が海峡を行く間、水面はほぼ平らであった。メッシーナの町が目前にある。詩を作る。
帆を二つまたは三つかけた船が浮かぶ
海峡の潮流が紫の嵐を隔てている
楼台がいくつか見えるがまだ灯をともしていない
夕べの霧がメッシーナを深くとざしている
夜、雨が降る。
本文
十月初一日。氣冷如秋。寒暑針六十七度。午前六時。至蘇士港。自亞丁抵此千三百十四里。蘇士港在紅海盡處。四境赤野。累年少雨。有鐵路通歷山府。十時放舟入運河。運河長百海里。深七十二英尺。幅員不甚濶。巨艦相逢。則避一過一。南起於蘇士。北至於卜崽。埃王鵶禮所鑿開。而督工者爲佛國學士列色弗氏。其成功在十五年前云。河口有屋。環植翠樹。盖收稅衙也。入河。則兩岸土色皆黃。有芒抽芽。又有水楊。堤上架電線數條。所所築板屋。守河道者居之。又有小滊船。濬治河道。夜月明。泊河中。有詩。濬河功就破天荒。地下應驚佛朗王。喜望峯前人不到。名虛十有五星霜。〈初拿破崙一世征埃及。欲開河道。不果。第二故及。〉
初二日。行河中。有水禽蹴浪而飛。嘴喙甚大。岸上土人乗駱駝而行。旋風時起。捲砂若柱。堅立数十丈。沙接天処。望之如海。蓋野馬也。至午望綿楂勒湖。見漁父挽網。自蘇士至卜崽。有四湖。緜楂勒湖其一也。午後二時。至卜崽港。則湖北之一沙嘴也。買舟上陸。街上多「尼泪爾弗」樹。土人牽驢勸乗。有楽堂。入而聴焉。堂容二百人。正面爲楽手設座。男五人女十五人。各執楽器。管絃合奏。頗適人耳。每曲終。女子降座乞銭。有詩。水狹沙寬百里程。月明兩岸艸蟲鳴。客身忽落繁華境。手擧巨觥聞艷聲。六時開行。入地中海。寒暑針七十六度。
初三日。舟行甚駛。而安穩異常。
初四日。望干第呀嶋。是爲視歐洲土壤之始。
初五日。風波起。舟蕩搖不止。望伊太利山脈。雖少草木。而皺紋緻密。稍帶生氣。非亞刺伯死山之比也。漸近山麓。則見村落、田園、鐵路、橋梁。樹木亦繁茂。望葉多䏧山。烟雲晦冥。不可明視。晚過細々里海峽。舟行峽中。水面稍平。墨西南府在目睫間。有詩。蒲帆兩々又三々。一帶潮流隔紫嵐。多少樓臺燈未點。暮烟深鎖墨西南。夜雨。
註
埃王鵶禮。直訳すればエジプト王アリーか。おそらくオスマン朝皇帝ムハンマド・アリーのことを言っているのだと思われる。