高校生の頃は中島敦と小室直樹をよく読んだ。
この二人に共通しているのは学者タイプだということだろう。
夏目漱石や太宰治は学者というよりは文人だ。
ただし、中島敦も小室直樹も、かなりエキセントリックな学者だ。

今は頼山陽や本居宣長などをよく読むが彼らも文人ではあるが、学者だ。
エキセントリックな学者だ。
平田篤胤までいくともはや学者ではない。単なる思想家だ。

大学教員で作家という人は多いが、あまり読みたい人はいない。
森鴎外や永井荷風も大学教員だったが、そんなむちゃくちゃ好きなわけではない。
森博嗣もそうらしいが私の琴線には触れない。
丸谷才一も一時期大学教員だった。
そういえば丸谷才一もよく読んだなあ。

あと、内村鑑三も好きだった。
好きだったけど今読むとあり得ない作り話を書いている。
小室直樹もそうだ。
この辺が高校生の頃ストライクゾーンだった人はあまりいるまい。

カクヨムで「ジオコミューン」を書き始めたのは、
プライスマッチで売ることを考えたからで、
要するに無料サンプル的なものである。
今現在、けっこういろんな人がやっているんで、私もやってみようかという気になった。
だがほんとにやるかどうかはわからない。

で、カクヨムで、連載で、
ちょっとずつ公開してわかるのは(小説家になろうでもわかったのかもしれないが)、
PVが指数関数的に減衰するってこと。
第1話を読んで、3分の1くらいの人が第2話を読む、くらい。

こういうことやってて思ったのは、読者数は有限だということ、
その読者の多くも、試し読みまでだってことだね。
アマゾンがいろんな新しい出版手法を提案してきて、
また私自身もいろんな人のお世話になって出版を試みてきて、
それでなんとか読んでもらうんだが、
ある一定のところまで読まれると、もう読者が枯渇して読まれなくなる。

今の時代読者よりも著者のほうが多いってのは事実だと思う。
だから KDP ってのは、
読者に向けて書くよりは自分と同じ趣味を持つ(個人出版の)著者に向けて書いた方が売れるのかもしれない。
いやもともとそんな媒体なんじゃないかという気がしてきた。
pixiv なんかもそうで、自分が描くから人の絵も見る、という人の集まり。
コミケもそう。
特に日本はそういう層が発達してる。
しかし、そこから外への広がりが弱い。
まるで研究者が同業者にむけて論文を書いているみたい。

「君の名は。」見てないのにしばしば言及して心苦しいが、
一般人に見せることに特化した作品なんだろうなと思う。
作家とかクリエイターの外の世界の人を楽しませることが第一義に作られている。
それって当たり前じゃんと自分でも今書いてて思うが案外当たり前じゃない。

歌謡曲ってあるじゃないですか。
あれってパターンは決まっててAメロ・Bメロ・サビでできてる。
小説も映画もそうで、もうみんなが見慣れてる、読み慣れてるパターンに沿って作らないとダメなわけ。
流行る前にパターンがあるのではなく、流行ったからパターンとなる。
つまりは古典。
そのパターンを再利用するから、流行りの勢いを利用するから読みやすい、見やすいとなる。
そうやって一つのパターンに収束していく。
もちろんみんなが同じパターンを使うからレッドオーシャン化する。
しかしその激しい競争にうち勝ったごく一部の作品だけがヒットする。
その競争にはとにかく勝つためにはありとあらゆる手段を使う。

それが歌謡曲の原理だし、「君の名は。」なわけじゃないですか。

宮崎駿やジブリは少し違う。パターンを自分で作ったところはすごい。もちろん本人はすごい。
ただ彼らは日本アニメの黎明期からずっと関わってきているから、それが出来た。

庵野秀明も少し違う。彼はともかくも自分の作りたいものを作った。
クリエイター仲間やオタクには受ける。
しかし当たり前だが、外の世界には広がらない。そこがジブリとも違う。
庵野秀明は押井守タイプ。
細田守はジブリへ行こうとして結局押井守や庵野秀明と同じ方向へ行った。
そっちに行かなかった新海誠が結果的に勝った。

KDPは結局仲間向けに書いているものだとして、
だから「小説はこう書け」みたいな本が(素人が書いたくせに(失礼))よく売れる。
よく売れるといってもたかが知れてるわけだが。
私自身は「小説はこう書け」なんて本は恥ずかしくて書けないけど、
似たような近いことはよく書いているわけだ。
こうやって他人の作品を批評したり。
自分の書いたものの解説をしたりする。
私の場合は特に自分の作品を解説しすぎている気がする。

プロの作家が自分の書いたものの解説をしないのは、
作品が自分の力で読まれているのでも売れているのでないことを知っているからだ。
もちろん作家自身の力はあるだろうが、その比率がどのくらいのものかを、わきまえているから、
解説できないよね。

新作も書かず広報活動もしないとほとんど読まれなくなる。
ほっといちゃダメなんだが、読まれないと書く意欲もなくなってきて悪循環だ。
逆に読まれていると無駄に張り切ってしまうところがある。

夏目漱石という人は、日本人が欧米文学、とくに英文学に飢えているときに、
イギリスで実際にそれを学んで、日本語で書いてみせたひとだ。
当時はほかには森鴎外くらいしかいなかったよね?
漱石や鴎外ってのは、最澄と空海みたいなもの。
供給に対して需要が逼迫してたからみんなが読んだ。
みんなが読むとそれは遺伝子となって後世に残る。
勝れた作品だから面白いのではなくて、古典だから面白い、というところは必ずある。
ていうか私もパターンが嫌いなわけじゃないらしい。古典が大好きだから。
もちろんもともと面白くなくちゃダメだが、ただ面白いだけじゃダメだ。
ボトルネック理論と同じで、
ある時代に希少価値がなきゃだめだ。

村上春樹もボトルネック理論で説明がつかなくもない。
彼の場合、日本人が戦後、アメリカ文学に飢えていた時期があって、
そこに一番うまく乗っかったのが村上春樹だった。
似たような作家には村上龍や山田詠美、田中康夫なんかがいる。
吉本ばななもある意味そうかもしれない。

吉田拓郎が流行ったのも、いちはやくボブ・ディランを真似たからだし、
グループサウンズにしてもそうだ。

自分で書いてみるとわかることがあって、
わかってみると、書いても無駄だってことがわかってくるわけだ。

エロは、衣食住に準じる基本的欲求だから、需要が桁違いに多い。
広く浅く需要があるから読まれる。
うまかろうがまずかろうが人は一日三食たべなくちゃならない。
それと同じでエロはコンスタントに消費される。
エロとおもしろさをうまく調和させて、相乗効果をもたせる天才はいるかもしれない。
谷崎潤一郎はそれに近い。永井荷風は違う。
いずれにしてもエロにおもしろさは必須ではない。

マンガとエロを同次元に論じることはできないが、
絵づらだけ眺めていれば読めなくもないマンガは当然しきいが低く需要も多い。
映画やアニメやゲームも同じ。
私の場合面白いストーリーを書けるかどうか試すために書いている、といってよい。
面白いというか、私の頭の中からしか出てこない話を書きたい、もしそういうものがあるとしたら。
それが新しくしかも面白いならば、ある一定の評価を受けるはずだ、という前提で書いている。

世の中に迎合して注目を集めたり、小遣い稼ぎをしたりするために書いてるのではない。
売れても自分の実力でないなら意味がない。味気ない。
身内ではなく赤の他人に評価されたい。

ただ作家活動というものは広報や宣伝や営業を含めて作家活動だったってことは、
人類の長い歴史を見れば明らかなわけで、
身内だろうがなんだろうが利用できるものはなんでも利用するのが営業なわけだ。
作家活動はやりたいが営業はやりたくないというのは比較的新しいタイプの人種、
つまり学者、科学者タイプなので、私はやはり作家というよりは学者なのだろうと思う。

「ジオコミューン」だが、こういうSFものは今までも書いてきた。
「安藤レイ」「生命倫理研究会」などがそうで、
実は、本名で公開している作品の中に同じようなものがある。

「ジオコミューン」は外人ばかり出てくるので、自分で書いててなんか恥ずかしいのだが、
そんなこといったら「エウメネス」「エウドキア」「海賊王ロジェール」も外人ばかり出てくる話なのだよなあ。

「ジオコミューン」は今からもっと肉付けする可能性がある。
私の場合、最初に50枚くらいのあらすじだけみたいな話を書いてそこに肉を付けて服を着せたりして100枚くらいにする傾向がある。
つまり、最初から最後まで順番に書いているわけではない。
なのでできあがってからまとめて読んでもらってもまったくかまいません。