仮名遣意見2

> 假名遣を國民一般に行はうと云ふことは不可能であると云ふ論があります。此の方の側は大槻博士の御論の中にありました。其の中の最も有力なる論據として仰しやるには、斯うして委員が大勢居るけれども委員の中で一人でも假名遣を間違へないものはないと云ふのでありました。實に其の通りでありまして、自分なども終始間違へますけれども、間違つて居ても、間違つたことは人に聽いて訂して行かう、子供にでも間違つて居ないことを教へてやつて、少しでも正則の方に向けようと云ふことを考へて居るのであります。當局に於ては不可能とまでは申されませぬけれども、困難だと云ふことは申されてあります。是れは一般にさう言つて居ります。困難となれば程度問題であつて、不可能ではないのであります。

森鴎外ですら間違えるんだから、まあ無理がある罠。
確かに無理はある。
みんな困ってたんだねぇ。

鴎外の仮名遣意見

[假名遣意見 森鴎外](http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/677_22837.html)。
すばらしいね、こういうものがさくっと検索してただで読めるのだから。
この中で、本居宣長のことは、本居とか、本居先生とかで出てくるのだが、

> 扨(さて)古學者が假名遣のことをやかましく論じて居るのに、例之ば本居の遠鏡(とほかゞみ)の如き、口語で書く段になると、決して假名遣を應用して居らぬと云ふことを、假名遣を一般に普通語に用ゐるのは不可能である、或は困難であると云ふ證據に引かれますけれども、是れは少し性格が違ふかと思ふ。古學者達は文語と云ふものは貴族的なもののやうに考へて居りますから、そこで貴族の階級を極く嚴重に考へまして、例之ば印度(インド)の四姓か何かのやうに考へまして、ずつと下に居る首陀羅(しゆだら)とか云ふやうな下等な人民は、是れは論外だ、斯う云ふ風に見て居りますから、所謂俗言と云ふものを卑(いや)しんだ爲めに、俗言のときは無茶なことをしたのであります。若し假名遣を俗言に應用する意があつたならば、所謂俗言を稍※(二の字点、1-2-22)重く視たならば、あんなことはしなかつたらうと思ふのであります。

本居の遠鏡というのは
[古今和歌集遠鏡](http://www.milord-club.com/Kokin/nori/kan01.htm)のことだが、
確かにこれは宣長の著作としては珍しく、古今集を当時の完全な口語訳を、しかも逐語訳的に作ろうとしたものである。
しかし、森鴎外の言うように、宣長は、俗語というものを卑しんだがために、ぞんざいな口語訳を作ったかというと、そうとは言えないように思うし、
また仮名遣いという意味では、きちんと「を」「お」や「い」「ひ」「ゐ」などを使い分けているように見える。

> それでありますから芳賀博士が、若し本居先生などが今在つたならば決して假名遣を國民に布くなどと云ふことは云はれないだらうと云はれるのは、同意が出來兼ます。本居先生が今在つたならば、必ずや國民に假名遣を教へようとしただらうと思ひます。本居先生のみならず堀秀成先生の如きも、是れは死なれてから間もありませぬけれども、若し今日居られたら矢張假名遣を國民に行はうとしたであらうと思ふ。

明治も終わりのころまで仮名遣いをどうするか、
結論が出てなかったということだな。
本居宣長が明治に生きていて、国民に「俗語的な仮名遣い」と「歴史的な仮名遣い」とどちらを教育しようとしたか、ということについては、
まったく見当もつかないのだが。
ていうか鴎外は、本居宣長の心境になりかわって、本居宣長ならばどう考えただろうかというような思考実験をしているようにはとても思えない。
ただ宣長という権威を利用して自分の説を補強したいだけのようにみえる。

鴎外は要するに、ドイツ語にも英語にもフランス語にも正書法 (Orthographie) というものがあり、綴りと発音は決して一致していないのであり、
それが当たり前なんだと言いたいわけだ。
フランス語や英語に関してはまったくその通りで、特に英語はひどい。
ドイツ語はかなり綴りと発音が近いが、 lieben の形容詞 lieb が [li:b] ではなく [li:p] と発音するなどの例をわざわざ探し出している。
そして「歴史的仮名遣い」という言い方自体が何か過去の遺物のような印象を持たせてよろしくないから単に「仮名遣い」と言うべきだ、
などと言っている。

* [臨時仮名遣調査委員会](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%99%82%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A)
* [仮名遣](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3)

藤原氏も徳川氏も大差ない。

思うに、徳川氏だって、武力によって強権的に統治していたのではなく、
常備軍を撤廃し、諸侯の軍事行動も極力抑制・抑圧し、
武装解除に近いことをして、
鎖国やキリスト教の禁令などによって生産性や社会的な発展を犠牲にし、
天皇家の権威を飼い慣らして、
「無為な大平」状態を作り出すことによって、
世の中を治めたのだ。
天皇家や藤原氏がかつて平安時代に統治した方法と大差ない。
足利氏とも大差ない。
実際、黒船が来たり外様大名が本気で蜂起したらひとたまりもなかったではないか。
日本では為政者は戦争状態でないときには常備軍を持たないし、
定期的に動員することもない。
ある意味で、それがまずい。
常備軍を持ち、常に臨戦状態だったのは(戦国時代は別として)鎌倉幕府の北条氏くらいだろう。
さぞ神経をすり減らしたに違いない。
源氏や足利氏、天皇家など、身分の高い家柄も統治し得たのは奇跡に近い。
北条氏はおそらく日本で初めて本当の「政治」を行ったというところが強みなのだろう。

ところで、応仁の乱によって、守護大名は京都に常駐しなくなった。
それまで守護職は一応将軍の命令で赴任するものだったのだが、
勝手に領国を取り上げたり与えたり鎌倉公方を廃しようとした義教が殺されたりしたもんだから、
守護大名はいわば勝手に実力でなるようになった。
応仁の乱で大名は領国から出てこなくなる。
足利幕府は合議制で成立していたから、
有力大名が京都に常駐しないから、幕府そのものが存在しないと同じ状態になる。
そうすると守護大名たちは幕府という行政・司法が存在しないから隣国と勝手に交戦するようになる。
守護職も形式的に将軍に事後承諾を取る形になる。
だから自然と戦国時代に突入する。

応仁の乱というのはつまり単に山名氏と細川氏が一定の和解に達して終了したことになっているが、
実はそのまま戦国時代につながっているということがわかる。

また、応仁の乱を避けて京都から公家が地方に散ったために地方文化が栄えたというのだが、
たぶんそれは嘘だ。
京都の戦乱はたかだか3、4年程度の散発的なものだったはずで、その程度で公家が地方に行きっぱなしになるはずがない
(公家は宮中行事に関わることで食いつないでいるのだから、地方で生きていけるはずがない。
明治の奠都でほとんどの公家が天皇と一緒に東京に移り住んだようなもんだろ)。
太田道灌等のように、地方の武士が文化の担い手になったというだけだと思う。
当時の地方武士はすでにそのくらいの教養はあっただろう。