スピード2

ふつうに面白い。
何も考えずに楽しめる。

マッドサイエンティスト的な役回りのシステムエンジニアが悪役で、
SWATが主人公というのところに、ややいやらしさ、
エンジニアやオタクというものに対する偏見を感じないこともない。

何かの原作があるというより、
もともとアクション映画用にシナリオを書き起こしたものだろう。

カサブランカ

いくつか問題がある。
古い映画なのでテンポが悪い。しかしこれは仕方ない。

オチが気に入らない。
敵(ヴィシー政府の軍人)が実は愛国者だったでは、面白くも何ともない。
すべて丸く収まったように見えるのはアメリカ・フランス側の人間だけだ。

悪くはないが、
総合的に判断すると、アメリカが戦時中に作ったプロパガンダ映画としては良く出来ている、
というしかない。

トータル・リコール

トータル・リコール(シュワルツネッガーのほう)をみた。
この映画は何度もみているのだが、初めて通してみてみた。
良く出来た話だと思う。
特に最後まで夢なのか夢じゃないのかわからないしかけ。
途中、あ、やっぱ夢なんだなと思わせといて、
やっぱ現実かもしれないと思わせる絶妙の駆け引き。
味方かと思うと敵、敵かと思うと味方。
自分までもが実は敵だったというひっかけ。
いやーよくできてるなと思う。

Philip K. Dick という人の短編SF小説
We Can Remember It for You Wholesale
が原作になっているという。
つまり原作は映画ほどのボリュームはなかったということだ。
映画の字幕では inspired by と書かれているので、
ざっくり下敷きにしたくらいというのが当たっているのだろう。

原作は明らかに夢では無いという設定でできている。
リコール社で注射された narkidrine という薬のせいで、主人公は削除された記憶を徐々に取り戻す、という設定。

映画のほうでは主人公は自ら記憶を取り戻すことはない。
主人公は単に昔から何度も火星にいる夢を見る、そこにはいつも同じ女性がいる、というだけだ。
リコール社で薬を打たれると火星にいた記憶がよみがえったようにも見えるがそのこと自体が夢だと解釈できなくもない。

最後まで夢かどうかというネタばらしはない。
映画を作ったスタッフの意図でそうしたのだ。
原作は原作として尊重しつつ、より込み入ったしかけに作り替えたのである。
ここまで手をかけておいて最後にやっぱり夢でしたとか、逆に現実でしたなどとネタばらしをするような、
野暮はしまい。
そういうヒントはすべて注意深く消してあるからだ。

ハリソン・フォードの逃亡者にしても原作のテレビドラマはもっとあっさりしたものだっただろう。
それを映画化するにあたってシナリオをみっちりと練り直したのだ。
一人の人間が思いつくには話ができすぎている。
同じことはシャイニングにも言えるだろう。
これが日本だと、原作に手を加えたり、連作にしたりしても、原作を超えることはおろか、
原作の味わいまでも壊してしまうことが多いように思う。
なので、脚本家は原作をなるだけ忠実に、そのおもしろさを殺さないように映画化してもらいたい、
そう願うようになる。

ハリウッドでも、リメイクしすぎてつまらなくなることは多いのだが、
そうではない、それよりか微妙に手前の、ほんとうに面白い作品もたまに出るので、そこが面白いなと思う。

需要は幻想

KDPをやり始めて、
作家から読者に直接作品が行き渡るようには、まだまだ世の中はなってない。
広報や営業がない状態では、1000人いるかも知れない潜在需要も、100人くらいしか気づいてくれないのだ、と思った。

しかしツイッターなど見ていると、
書き手から読み手へ直接書いたものが伝わる時代はもうとっくに来ているのかもしれない、と思い始めた。
需要というものが存在するという考え方自体が間違っている。
もちろん衣食住には本来の意味での需要がある。
生きていく上で必要だから。
だが小説などというものは、周りが読んでるから読むという、ある種空疎な需要があるだけであって、
読みたいから読むという人は、ものすごく少ないのだ。
だから、日本語の話者が1億人いたとして、その中に1000人私の読者がいるとして、
その1000人をえりだそうというのは、
砂から砂金を集めるようなものであって、
実現不可能なのである。
海水には膨大な金が溶け込んでいるが、その金を濃し取るのに要する費用が、その金そのものの価値を上回るようなものだ。

ツイッターは良く出来たメディアだ。
ここまで個人の発言が流通できるようになれば、
読みたい人のツイートだけを読み、
読みたくない人のツイートは目に触れないようにして、
ただ自分の読みたいものだけに囲まれて生きていける。
新聞やテレビのように、雑多な、不要な、或いは不愉快な情報まで抱き合わせで読む必要がない。
そう、読みたいものを自分の意志で選別できるという意味でツイッターはかなり理想に近い。
これに対して同じSNSでもfacebookは自分の読みたくないことまで押しつけられる要素がまだまだ多い。
友達でも読みたくない人のはフォロー解除すれば良いだけかもしれんが。

小説というものに関して言えば、
人は高校教育まででいろんなものを強制的に読まされる。
そういうコンテンツに条件付けされているので、そういうものを生涯読み続けるのに過ぎない。
これまでは教育以外にも新聞テレビなどのマスメディアも「強制コンテンツ」であった。
「強制コンテンツ」は強い。
圧倒的に強い。
ツイッターのような自由なコンテンツが従来の不自由なコンテンツの影響を消し去るにはまだ時間がかかるだろうし、
私の想像力が欠如しているせいかもしれないが、
原理的にはツイッターよりも優れたメディアは存在しないのではないかとすら思える。

近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。
単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、
詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき
悠悠として官路の浮沈に仕ふ
此の身に更に苦有りて辛在らんと
飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。
文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。
「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し
自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり
なほ一般の優劣の処あり
鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。
私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士
一志を手に伝へ洛陽に入る
昼夜の兵談何事かなさん
攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。
「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。
「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと
今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと
回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん
来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。
「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。
野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。
それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。
神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。
かるがるしく和親を結ぶな。
「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり
之を取りて失無ければ果して英雄
英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも
赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。
すべての行いは、孝と忠に依る。
これらを守って過失がない者が英雄である。
たとえ私は英雄ではないとしても、
真心をもって外敵を払いたい。
「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん
喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん
果して英雄の心上の事を識らば
英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。
いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる
顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る
一片の丹衷よく節に殉ず
雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。
雎陽は文天祥の「正気歌」による。
安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、
頼山陽が見たらきっと感心しただろう。
幕末明治の詩人の中でも一流。
昭和の中島敦などは遠く及ばない。
永井荷風もかなわないのではないか。