ディアーキー

スパルタは君主制ではあったが、モナーキーではなかった。スパルタには常に王が二人いたのでモナーキーではなくディアーキーと言うべきなのである。このディアーキー状態が500年以上に渡って、ほぼ純粋な形で持続したらしいのだが、私は他に類例を知らない。ローマ帝国など見るとディアーキー状態は不安定で一時的なものに過ぎない。 スパルタはアテナイほど饒舌でなく、自ら何も歴史を書き残さなかった。だから私はエウメネス4で、スパルタの王制をほとんど推測で書くしかなかった。 私はスパルタを原始共産王制と表現してみた。蟻や蜂の群れと同じく、王や女王はいるが、彼らも他の個体と同様に分業しているに過ぎないのだから、一種の共産制であると言える。 スパルタが建国当初から安定してそのような政体を維持し得たのは驚くべきことのようでもあるし、必然でもあったようにも思える。彼らはまさに蟻であり、蜂であったのだ。全体主義。滅私奉公。

特務内親王遼子の蓬莱国もモナーキーのようで実はディアーキーだったというのが落ちで、広げた話になんとか落ちを付けるための苦肉の策だった。スパルタの事例は知らずに書いた。ある意味、事実は小説より奇なりだなあとおもう。

エウドキア

最近『エウドキア』が割と良く読まれているのがうれしい。

『エウメネス』のついでで読んでもらえているのだろうか、第一次十時軍前史というあたりで興味を持ってもらえているのだろうか。 いずれにしてもありがたい。 『エウドキア』はKDPでは「古代ギリシャ史」に分類されているのだが明らかに「中世ギリシャ史」である。 しかし「中世ギリシャ史」というカテゴリーがないから仕方ない。 また『エウメネス』は「古代ギリシャ史」に違いはないのだが、どちらかといえば「ヘレニズム史」「西アジア史」というべきだ。 しかしそんなことを言っても、仕方ない。 ともかく西欧史観というのがじゃまくさい。 最近よく思うのは、たしかに自然科学というものは西欧の発明だが、それゆえにあまりにもキリスト教との親和性が高すぎて、 自然科学とキリスト教の癒着は非常に強くて、しかも無意識的なものなので、 すぐに本卦還りして、疑似科学とか精神世界とかに引きずられちゃうんだよね。 だから before and after science とかポスト自然科学とか言いながら、スピノザの汎神論まで戻っちゃうバカが現代でもどんどん湧いてくるんだよなあ。 儒教なんかだとそんな傾向はもっと薄いんだけどなあ。 でも儒教を下敷きに自然科学が出てくる可能性はないしな。 まともかく自然科学がキリスト教神学から生み出されたのは人類にとって一つの不幸であるには違いない。

話を戻すと、『エウドキア』は、もともとは、One Upon a Time in Eurasia というとてつもなくでかい話を書いてその一部を切り取ったものである。 One Upon a Time in Eurasia ではあまりにわけがわからないのでのちに『セルジューク戦記』という名前にした。 オスマン・トルコは知ってても、セルジューク・トルコを知っている人はあまりいない。 ましてマラズギルトの戦いを知っている日本人は滅多にいない。 アルプ・アルスラーンは少し(名前だけは)知られているようだ。 この話、 主人公はもとはといえばオマル・ハイヤームだった。 私は西行、太田道灌など詩人を主人公にしたがる傾向があり、 エウメネスという書記官を(アレクサンドロス本人ではなく)主人公にしたがるのも同じといえば同じである。 全般的に文人を書きたいので、新井白石や大塩平八郎も同じ理由で主人公になっている。 エウドキアもギリシャ古典文芸が好きな文学少女なので、やはりヒロインにしてみたかったのだが、まあ、歴史的にはほとんど無名なひとだよね。 エウドキアとエウメネスには共通点があるわけで、そのあたりがまあ、私が描きたい歴史上の人物、ということになる。 オマル・ハイヤームは数学者でもあって、私の場合そういう学者を主人公に書きたがる傾向もある。 『安藤レイ』『生命倫理委員会』『司書夢譚』『妻が僕を選んだ理由』『西京極家の秘仏』などがそうだ。 といった傾向をわかって読んでもらえているのだろうか? オマル・ハイヤームはその上酒飲みでもあって、私が主人公で書かないはずがないのだが、書きにくい。それはやはり中央アジアという、面白くもわかりにくい世界を舞台にしなきゃならないためでもある。一度あのへんに住んでみたいなあという気持ちはある。だがもうこの年になっては無理はきかないだろう。 『エウメネス』が最初ゲドロシア編から始まるのは、やはり私に、そういうペルシャとか西アジア、中央アジアなどの世界を書きたいという願望があるからだ。それは、多分に、宮崎市定の影響によるものだろうと思う(東アジアを書いてないわけではない。『特務内親王遼子』とか。これまた全然読まれないのだが)。

ついでだが、「エウメネース」は完全にギリシャ語の名だが、「エウ」「ドキア」はギリシャ語とラテン語のちゃんぽんで、 東ローマまで時代が下るとギリシャ語とラテン語が完全に混淆しているのが当たり前なのだが、ヘレニズム時代はきちんとギリシャ語だけで書かないと恥をかくことになる。 そこがけっこうたいへん。

話は戻るが、一番最初に疑問に思ったのは、オマル・ハイヤームはトルコ人だったのかペルシャ人だったのかということで、 少し調べればわかるがトルコ人であるはずがなく、ペルシャ人であった。 しかも生涯、今のイラン東北部のホラサーンとか、トゥルクメニスタンのメルヴあたりに暮らした人だった。

メルヴはアーリア人共通の故地であり、仏教語では須弥山と言い、西へ行った種族はペルシャ人になり、東のインドに入ってアーリア人になった。

オマル・ハイヤームの父イブラーヒムがアルプ・アルスラーンとともに西征してマラズギルトの戦いに従軍した、というのは創作であって、 そのとき若い頃のゴットフリード(ゴドフロア)、バルドヴィン(ボードワン)兄弟と遭遇したというのも創作だった。

それで余りにも話が大きすぎて、特にオマル・ハイヤーム当たりが書きにくいので、書きやすいところだけを切り取って残したのが『エウドキア』と『ロジェール』なのだが、 イェルサレム王バルドヴィンの後妻のアデライーデの息子がロジェール2世なのである。

『ロジェール』がほとんど読まれないところを見ると、どうも十字軍がらみで『エウドキア』が読まれているらしいってことがわかる。 それでまあ、第一次十字軍そのものについて、当時の東ローマ皇帝アレクシオスを主人公にして書けばそれなりに注目はされるかなと思い、 多少構想はあるのだが、書くからにはきちんとしたものが書きたいなとはおもう。すでにアレクシオスは『エウドキア』にも『ロジェール』にも登場している。 彼はすごくキャラの立ったひとだなあと思う。

computō

compute の語源は computō で、con + putō。 putō は綺麗にする、汚れを落とす、剪定する、などが原義であり、 そこから派生して、見積もる、考慮する、見なす、などの意味が生まれ、 さらには数える、考える、という意味にも使われる。

computō はしかし、総計するという意味にしか使われないように思われる。

エウメネス

「エウメネス4」はまったく売れてない。 しかし1とか2はぼつぼつ売れている(いつも通りともいえる)。 たぶん「エウメネス4」の内容紹介がいきなりエパメイノンダスとかアンティパトロスとかカッサンドロスとかなので、 4を読む前にとりあえず1読むか、みたいな気にさせているのかもしれない。新規の読者の場合・・・。

大日本帝国の残留思念

核開発して原爆をアメリカに投下しようなんてことは戦前の日本でも考えていたことで、 敗戦と、アメリカとの軍事同盟で、日本ではそんなことをいう人はほとんどいなくなったが、 中国、ロシア圏に取り込まれた北朝鮮ではそういう反米思想がそのまま純粋な形で70年間生き残っていて、 金正恩は大日本帝国の残留思念みたいなものだと考えれば、全然納得できる。

中国、ロシア、アメリカとの距離関係で、台湾は比較的親日になり、韓国や北朝鮮は反日、北朝鮮は反米になっているが、 もとをただせばやはりいずれも「日帝残滓」なのだと思う。

それで天皇皇后が埼玉の高麗神社を参拝したというのを、日本のメディアではなくて、韓国のメディアが大きく採り上げているのは非常に興味ぶかい。 鳩山由紀夫がなんかモゴモゴ言っているのも彼が韓国メディアのほうにひっぱられている証拠でもある。

私としては、天皇の戦争やめなさいというメッセージとは思わない。もちろんそういう意味も含まれているだろうが、 本質は、そろそろマジで戦争になりますよという、国民への天皇の警告なのだろうと思う。 そういう報告を安倍首相からも受けているのだろう。 おなじようなことを開戦前夜の明治天皇も昭和天皇もやっている。

北朝鮮の核開発が大日本帝国の残留思念であるとすれば、それを宥めるにはどうしたらよいか、ということは比較的簡単に導き出されるだろう。日本はすでに核開発を断念しているのだから。どのような形をとるかしれないが、北朝鮮もいずれ日本と同じ道をたどる。

箱根

箱根には箱根で、いろんな利権が渦巻いているようで、しかし国際的な観光地であるから、中国人とか中国人とか中国人とかがわらわら押しかけているせいで、観光客慣れしている。

大涌谷が噴火して以来、箱根は荒ぶる山となって秘境感が増大した。 身の危険を感じる硫黄臭も増大した。 登山道が閉鎖されたり時間制限されたりして以前より不便さは増しているのだが、 観光地としての価値もまた比例して増しているように思われる。 やはり安易に登れる山より難易度の高い山のほうがありがたみがある。

箱根湯本までではわからん不便さというものがその先にはあるのだなあ。 強羅まではなんとか。しかしその先は、よくまあこんなところ開発したなというような山岳地帯。

下界に降りてきた安堵いうものがある。

箱根ロープウェイの料金はとても高いので、二人とか三人で、ケーブルカーとロープウェイを乗り継いで移動するときは、タクシーに乗ったほうが割安だ(もちろんロープウェイの眺望にはそれなりの価値があるのだが、単なる移動手段としてみると、高い)。 箱根は実際に道を歩いてみないとわからんことが多い。 しかし歩くとそうとう太股の筋肉を酷使することになる。 また、道が通じているようで通じてない箇所がある。 坂道を引き返したりして体力を予想外に削られることがある。 素直にタクシーに乗ったほうがよい。

思うに、都心ではタクシーに乗る必然性はあまりない。電車に乗ればいいからだ。 山はタクシーに乗った方が便利だが、普通、山にはタクシーはいないし道も舗装されてない。 しかし箱根は違う。道は通っているしタクシーはじゃんじゃんいるのだ。 箱根こそタクシーに乗るべき。

今、箱根の大涌谷は17:00以降道路が閉鎖されていて、箱根ロープウェイも17:00が「終電」。なんなのだそれは。 不便極まりないではないか。 大涌谷が「噴火」してしばらく通行止めでその余波で今もそういう措置がとられているらしい。 仕方がないのでタクシーに乗ったのだが、タクシーは非常に便利だ。 あとはバスか。1時間に1本は出ているので計画的に利用すればそんな不便でもない。 まあ多少金に余裕があれば箱根なんてそんな広いわけじゃなし、タクシーで回ったほうがよいのだろう。自家用車を維持する費用に比べれば箱根で使うタクシー代など誤差だ。

タクシーの運転手が言っていた。 御嶽山が噴火したあと箱根にもマスコミがきて、大涌谷から温泉が流れ出てくる沢があるのだが、見た目が、森の中から噴煙が上がっているように見える。タクシーがマスコミを連れてきてこんどここが噴火するぞと報道したらしい。 それで大騒ぎになった。 その騒ぎを利用して役人が夜間大涌谷を通行止めにしたんだとタクシーの運転手は言っていた。ま、しかし、未だに硫黄臭がものすごいのには変わりない。 だが温泉場というのはたいていどこでも似たようなものだしな。

話によればその大涌谷から流れ出す沢で勝手に入浴する連中もいるという。

箱根は実に不便だが、その不便さが田舎の良さだろうね。 箱根と小田原は近くて似ているように思えるが、 小田原は典型的な地方都市で観光客のことなんて実は全然大事にしてない。 観光イベントと称して実は地元の祭りに観光客も参加させてやる、くらいの気持ちしかないのである。 一度ならず二度三度そんな思いをしたのでもう小田原観光は決してしないと決めている。 そのイベントが歴史的価値があって面白けりゃこちらもありがたく参加させていただくわけだが、ただのしょぼい村おこしのイベントに過ぎない。 山道には農作業車が通るから歩行者は気をつけて歩けと注意書きしてある。 観光地じゃないんだよな。 観光地のようなふりをしているただの地方都市。 すべてにおいて地元民が優先、観光客は、金をお年はするがただのよそ者だ。 たぶん小田原は横浜が大嫌いなのだろうと思う。 禁煙条例なんかしったことかという店ばかりだ。 箱根は完全に客商売でできているからそんな不愉快な思いをすることはない。

最近は新宿辺りで働いているのでほんとに田舎がここちよく感じる。 田舎のよさを一番よくわからせてくれるものが新宿という町だ。 今、田舎にいる人は、そのしあわせをこれからもずっと維持するようつとめるべきだと思う。 私もいずれ可能ならそうしたい。

田舎というものは、同じ不便でも、小田原型と箱根型があるように思うね。 松本城で酒を飲むイベントが禁止されたってのも小田原に似たような事情じゃないかね。 市役所の役人や地元の名士らが仕切っているところは小田原型になる。 営利企業がただ損得でやっているところは箱根型になる。 どっちが気持ち良いか。金銭尽くの観光地のほうが観光客にはこなれてて気持ちいいんだよなあ。

韃靼タイフーン

安彦良和の『韃靼タイフーン』を読んでみてまず考えたのは、これほど優れた作品が世に知られていないからには、 私のような弱小作家の小説がまったく売れなくても当たり前だな、ということだった。 『韃靼タイフーン』が彼の他の作品と比べてものすごく優れているといいたいわけではない。 出来としては『王道の狗』『虹色のトロツキー』くらいだろうか。 最近の作品で比べれば、『麗島夢譚』や『天の血脈』よりはましな気がする。

『麗島夢譚』もほとんど知られていないが、『韃靼タイフーン』と同じ理由で、連載されている雑誌がマイナーだからだ。 『天の血脈』はアフタヌーンなのでまだメジャーといえる。

安彦良和は恐れずマイナーな雑誌に書きたいものを書く人だ。 逆の言い方をすると、書きたいものを書こうとしても企画会議を通らないから、そういうネタはマイナーな雑誌に回さざるを得ず、それゆえに世間に知られないということになる。

『ナムジ』や『神武』は強烈につまらない。 たぶん『アリオン』の流れでギリシャ神話から日本神話に飛び火したのだと思うが、彼には神話(というより、ファンタジー全般)を書く才能は無いと思う。

『ヴイナス戦記』のつまらなさにはあきれた。アマゾンでまとめてポチったが1巻目の最初のところで挫折してほってある。 たぶん彼にはSFの原作を書く才能も無いと思う。 『Cコート』は非常に面白い。『ヴイナス戦記』を書かせるために『Cコート』の連載を中断させたのだというが、まったく馬鹿げたことだ。なるほど読者は『ガンダム』の作画監督・キャラクターデザイナーが書いた宇宙戦記物が読みたいのだ。『クラッシャー・ジョウ』の挿絵を描いた安彦良和のオリジナル作品が見たいのだ。そして出版社はそれをアニメ化して当てたい。しかし彼にそんな才能はない。彼には『Cコート』を書かせるべきだったのだ。『ヴイナス戦記』に費やした労力は大いなる損失だ。 『韃靼タイフーン』もまた『ガンダムオリジン』を出すために中途半端に終わらせたというのだが、まったくもったいない話である。

『三河物語』は非常に面白いのにほぼ同じ時代を描いた『麗島夢譚』がつまらないのは意外な感じもするのだが、このあたりに安彦良和という人の限界があると思う。 ある程度史実に基づいて脚色したものは面白いのだが、史実から逸脱してほとんど空想だけで書いたものはつまらない。そう思うのは私だけだろうか?鄭成功と宮本武蔵を絡ませた話が面白いだろうか?荒唐無稽というべきだろう。 『韃靼タイフーン』も破綻寸前なのだが、なんとか帳尻あわせてある。

『ジャンヌ』もつまらない。なんなのだあのフルカラー書き下ろしは。よくもこんなくだらない企画を思いついたものだ。 どうも、メジャーなメディアからの頼まれ仕事ほど本人のやる気がなくてつまらなく、 マイナーなメディアで出したものほど本人のこだわりが濃厚で面白くなるのだ。 しかし世間様の評価というものは、作品の出来とはまったく何の相関もなく、 ただメジャーな媒体に出したものほど評価が高く、 マイナーな媒体に出した作品はほとんど認知されない。

安彦良和ほどの人ですらこのようなありさまなのだから、私のようなひよっこが世の中に正当に評価されるはずもない。 そう思ってずいぶん気楽になったし、これからも周りにあわせず自分の書きたいものだけを書いて遺そうと思った。 同時に、世間に媚びず、マーケティングもせずに読者を獲得することは恐ろしく困難なのだと思った。

安彦良和の本質は「右翼作家」なので現代の出版界では決して正当に評価されることはない。笑うべし。

バルシネとネアルコス

こちらのブログを書いているということは執筆活動が一段落したということなんだけど、実はまだ修正しながらちょこちょこ書き足している。

ネアルコスはバルシネの娘(父はバルシネの最初の夫メントル)と結婚した。 この娘がなんという名であるかははっきりしていない。 作中ではアダという名前にしているのでとりあえずアダと呼んでおく。 ちなみに Ada というのは、DARPA が開発した言語の Ada と同じ。 Ada を Ada という女性が開発したのではない。 Ada という名は、世界で初めてのプログラマとされる Ada という女性にちなんだ名だという。 ちなみに女性が開発した言語としては COBOL が知られている。 グレース・ホッパーという人で、彼女もまた軍人だ。

話がそれたが、 アダとネアルコスはスーサの合同結婚式で他のカップルとまとめて結婚したことになっているのだが、必ずしもそうとはいえないと言う気がしてきた。 スーサよりずっと前にバルシネはアレクサンドロスの子ヘラクレスを身籠もった。 ヘラクレスという名はマケドニア王族には見られない名なのだが、明らかに、この名は彼がテュロスで生まれたことによる。 テュロスの神はギリシャ人にはヘラクレスと呼ばれていたからだ。 アレクサンドロスの正式な結婚式はスーサだけであり、ヘラクレスという名がマケドニア王族らしくなく、バルシネはアレクサンドロスよりずっと年上だったことなどから、バルシネは正式な妃ではなく側室であり、バルシネが生んだヘラクレスも庶子とみなされていた、といわれる。

だが、バルシネという人はかなり身分の高い人だったと思えてきた。 バルシネの妹にはアルトニスとアルタカマがいるが、この二人はバルシネほどは重視されていない(のちにアルトニスはエウメネスと、アルタカマはプトレマイオスと結婚したのだが)。 バルシネはメントルと結婚し、その後メムノンと結婚した。この二人の兄弟はアルタバゾスの艦隊を相続した。 バルシネの娘アダはネアルコスと結婚したが、 アルタバゾスの艦隊は、メントル、メムノンと相続され、その後アルタバゾスの子ファルナバゾスに相続され、 その後ネアルコスに相続されたのである。 つまり、バルシネもしくはバルシネの娘と結婚した者がアルタバゾスの正統な後継者とみなされているのである。

アルトニスやアルタカマではダメでバルシネの血筋でなくてはダメらしいのである。 それで、私としては、バルシネをハリカルナッソスの王女アルテミシア(ハリカルナッソス女王アダの娘)ということにした。 ペルシャの王族アルタバゾスが、ハリカルナッソス王女アルテミシアを正妻に迎えることは十分あり得ることで、 アルテミシアの娘であればこそ、バルシネの子はアルタバゾスの後継者にふさわしかったのではないか、ということになる。

ギリシャ、ローマ世界に見られる婿取り婚の伝統はもともとペルシャのものであったと思われる。 オクタウィアヌスがティベリウスを婿に取って以来、ローマ皇帝が婿取りする(皇女と結婚することが皇帝即位の条件となる。ローマ皇帝が女系継承される)ことは珍しくない。 女帝が再婚してその夫が皇帝になることもある(東ローマのことだが)。 カッサンドロスもフィリッポス二世の娘テッサロニケを娶って後にマケドニア王になった。 おそらくカッサンドロスとテッサロニケの結婚もスーサより前に決まっていたと思う。

フランク王国や神聖ローマ皇帝やその後の西欧の王室では、しかし婿取り婚は見られない。 それはフランク王国のサリ族の法典が、女子の相続を認めてないからだ。

それで、私としてはネアルコスの結婚は、スーサより前にネアルコスがアルタバゾスの後継者になったときすでに成立していたと思う。 また、エウメネスとアルトニスの出身地が極めて近いことも偶然ではないと思っているわけである。 少なくともエウメネスはスーサでいきなりアルトニスと会って結婚させられた可能性は低い。 プトレマイオスとアルタカマも子供の頃からの知り合いかもしれない。 その他の結婚相手も、たまたまスーサで無理矢理結婚させられたのではなくて、それまでに何か理由があって結婚したのではないかと思われるのだ。

バルシネがヘラクレスをどこで育てたかということは明らかではないのだが、 アルタバゾスのもともとの領地であるフリュギアではなくて、 バルシネの娘とネアルコスが結婚したことから、 ネアルコスの本拠地であるクレタであった可能性もあり、 また、メントルやメムノンの本拠地はハリカルナッソスもしくはロードス島であったから、 ヘラクレスはロードス島かハリカルナッソスで育ったのではないかと思われるし、 であれば、バルシネがアルテミシアの娘であると極めて都合が良いのである。

エウメネス4

そろそろもう読んでいただいても大丈夫かと思います(などとここに書くのも変だが)。

最初に書いた『エウメネス』がなぜか好評で、なぜ売れているのかわからず、調べてみたらエウメネスを主人公にした『ヒストリエ』というマンガがあった。

その後、『エウメネス2』という続編を書こうと思ったら思いのほか長くなったので 『エウメネス2』『エウメネス3』に分けて、最初に書いた『エウメネス』を『エウメネス1』というタイトルに変更した。

この『エウメネス1』~『エウメネス3』も、やはり不思議と読まれている。 理由としてはやはり『ヒストリエ』の読者が、ついでに読んでくれているというのが大きいのではないかと思っている。

ともかく『エウメネス1』から『エウメネス3』まで買って読んでくれている人が少なからずいるというのは驚くべき現象だ。

ところでこの『エウメネス』シリーズというのは終わりの無い、とても長い話である。 続編を書こうと思えばずっと書いていられるだろう。 『エウメネス』の主題は何かといえば、「ヘレニズム史」だ。 「古代ギリシャ史」でも「古代ローマ史」でもない。 日本史で言えば、「平安時代」と「戦国・江戸時代」の間にある、「鎌倉・室町時代」に相当する。

司馬遼太郎なんかは平安・戦国・江戸(幕末)しか歴史小説を書かない。 中国史だと『項羽と劉邦』くらいしか書いてない。西洋史はほとんど書いてない。 まあ要するに、NHKの大河ドラマと読者層がかぶっていて、日本の歴史好きは司馬遼太郎とだいたいストライクゾーンが似ているわけだ。

アレクサンドロス大王は案外人気がない。 いや、あります、という人もいるかもしれないが、本来あるべき人気よりも、はるかに人気がない。 本来エベレストくらい重要なのに、富士山くらいにしか人気がない。これは不当である。 アリストテレスはアレクサンドロスの家庭教師というのにすぎない。 しかし世間一般ではアレクサンドロスよりアリストテレスの方が人気があるだろう。 一事が万事こんなふうにおかしなぐあいになっている。

人気があるのはやはり古代ギリシャ史か古代ローマ史なのであり、 アレクサンドロスはそこからかなり外れている。 外れているがあまりにも重要なのでそこそこ興味を持つ人がいるという状況。 アレクサンドロスやヘレニズムは単なるヨーロッパ史ではない。 ギリシャ史やローマ史よりも、世界史的にははるかに重要なのだが、 西洋史観に慣れている日本人にはそこが理解できない。 理解はできても好きにはなれない。

西洋では、ローマ史ができて、ギリシャ史ができて、その間をつなぐ過渡期として、ヘレニズム史ができた。 西洋史観ではだから重要性はローマ、ギリシャ、ヘレニズムの順番になるのだが、 しかし、世界史というものは西アジア(エジプトを含む)もしくは中央アジア(インドを含む)が中心であって、 そこから東アジアやヨーロッパに伝播していったのだ。 世界史的観点から見ればヘレニズムやイスラムの方が、ローマやキリスト教より重要なのは明らかだ。 欧米の史学もそのように次第に修正されてきているはずなのである。 そういうように理解しなければ世界史というものは、歴史というものは、決して理解できない。 日本人では早くに宮崎市定が主張しているところである。

しかるに、日本史の中で室町時代が一番面白いというのが変わり者なように、 世界史の中でヘレニズム時代が一番面白いというのはやはり変わり者なのである。 そして、たぶん、読者はそういうトリッキーな(ほんとは正統派なのだが)面白さを求めて私が書いたものを読みたいと思っているわけじゃないと、私は思っている。

岩明均が『ヒストリエ』を書こうと思ったのはプルタルコスの『対比列伝』を読んで面白かったからだろうが、 『対比列伝』は古代ローマ時代に書かれたものであって、 『対比列伝』をおもしろがること自体がすでにローマ文化に毒されているのである。 ローマ文化とは別にギリシャ文化が好きな人はいるがそういう人はプラトンやクセノフォン、アリストテレスを読むわけであり、 アレクサンドロス大王とか、大きなくくりでヘレニズムというものが好きな人というのはおそらくほとんどいない。

ドイツロマン主義などにみるギリシャ偏愛は非常にひどい。 今回私はアルカディアやスパルタを描いた。 スパルタといえば300だし、アルカディアといえばキャプテンハーロックだ。 メガロポリスという言葉もみんななんとなく聞いたことがある。 しかしその実態はまったく異なる。 皆が歴史だと思っていることの多くは後世作られたファンタジーに過ぎない。 私はどちらかと言えばファンタジーに酔うのではなく、ファンタジーをぶち壊して史実に置き換えるのが好きだ。 史実にできるだけ肉迫して、どうしてもわからないところだけをフィクションで補完するのが好きなのだ。 でもまあ最初からそんな読み方をしてくれる読者がいることは期待してない。 ただ私の書いたものを読んでそういう面白さをわかってもらえるとうれしいと思う。

『エウメネス4』がこれまでの『エウメネス1』~『エウメネス3』と同程度に読まれてくれれば成功だが、 さらに『エウメネス4』を読んでみてさかのぼって『エウメネス1』~『エウメネス3』も読んでもらえることを私としては狙って書いている。

さらには、まったくオリジナルな『特務内親王遼子』のようなものに関心を持ってもらえるとうれしい。 ある意味、『エウメネス』は、ほぼ史実に沿っている。 楽しく世界史を勉強したい人も読むかもしれない(実はそういう需要で読まれているのではないかと私は感じている)。 しかし『特務内親王遼子』はほぼ完全な創作なので(というか私の中で実際の歴史が一旦抽象化されて虚構として具体化されたもの)、 これを理解してもらうのはかなり難しいと思う。かなり遠いところにあるせいで、ほとんど読まれてない。 しかし私の中では『エウメネス』と『遼子』にはその主張したいところに何の違いもないのである。

ま、ともかく『エウメネス4』は一つの実験でありこれが売れてくれると私はうれしい。 私としてはここまでの読者を裏切るようなことはできない、失敗は許されない、というような気負いがあった。 しかしこれまでの私の作品がすべて実験であるように今回も一つの実験だから、完全にこけることもあり得るわけである。 著者にとって読者がどう考えるかってことはまったく予測付かない。 配信し始めてはじめてわかる。それはSNSなどのメディアでも同じことだろう。

実は最初書き始めたときは、メガロポリスの戦いだけでこんなに長く書ける気がしてなかったのだ。 だからガウガメラの戦いまであわせて一巻にしようかとも考えていた。 ところが書いてみたら結局今までよりも長いものになった。 史実以外の部分を書くのに慣れてきたせいかもしれない。 じつは史実以外の部分が異様に詳しい、歴史小説というより、新聞に連載されるような、つまり元ネタを薄めにうすめたような、大衆時代小説みたいな、誰とは言わないが吉川英治の『新平家物語』とか司馬遼太郎の『燃えよ剣』みたいなのが私は好きではない。 しかし私もこれまでいろいろ書いてきたせいで多少長く書くテクニックが身に付いてきたようだ。 私の場合、簡潔すぎるとか、戦闘シーンがあっさりしすぎている、と思われることが多いように思う。 それは、私がやりたいことはまず第一に史実を忠実になぞることであって、史実以外の部分は私の創作だから、そこに厚みを付けることに、作者自身それほど興味がないのである。 戦闘の描写よりは戦略的・戦術的背景を描くことを私は好む。 実際どういう戦闘だったかというのはいくら調べてもそんなに詳しくはわからない。 わかることだけ書けば数行で終わってしまう。 それでは作者が物足りないだろうからとなんとか引き延ばそうと努力したりもしている。 読者は戦闘シーンよりも戦闘が始まるまでの軍議の描写が異様に詳しいと感じるだろうと思う(たとえば『江の島合戦』)。 それは私には私なりの必然性があるのだ。 今回もエウメネスとカッサンドロスの軍議のシーンがかなり長くなった。 それは作者が好きな箇所、書きたい箇所だから単に長くなったのにすぎない。

読んだ人はもう気付いているかもしれないが、『エウメネス』の主人公はほんらいエウメネスではない。 アレクサンドロス大王を第三者の視点から、つまり読者の視点から見るためにエウメネスという地味なキャラを選んだのにすぎない。 私はあの時代に生まれ変わってエウメネスという剣豪になりたい、などとは決して思わないし、そういうキャラに感情移入することができない。 もし、私とどうように世界史そのものが好きな人ならば、アレクサンドロスのそばで彼を思い存分観察してみたい、と思うだろう。 それが著者自身の私であり、エウメネスなのである。 エウメネスは明らかにそういう意味で作中への私自身の「投影」である。

しかし『エウメネス4』ではエウメネスはアレクサンドロスと別行動を取り、一人でいろんな体験をする。 もはや単なるアレクサンドロスの観察者ではない。 タイトルが『エウメネス』だからそろそろ彼を主人公として扱ってやらねばならないかなあと、著者が考えたと思ってもらっても良い。 ただまあ、今回エウメネスはスパルタやメガロポリス、コリントス、ドードーナなどいろんなギリシャの町を巡るのだが、 これは私自身にそういう、古代ギリシャのいろんな場所を旅をしてみたいという欲求があって、それを作品という形で実現している、と言えなくもない。

日本人で古典ギリシャ語を学んで本を書いている人は圧倒的にキリスト教徒だと思う。 というのは新約聖書がコイネーで書かれているからだ。 しかも新約聖書が書かれたころにはすでにヘレニズム世界は滅び、ローマがヨーロッパ世界を形成していた。 ヘレニズムとローマは一部かぶってるが全然別物だ。

それでいろんな意味で、ギリシャについての学問は偏っている。 ローマ的に、キリスト教的に解釈されている。 ソクラテスやプラトン、アリストテレスなどの哲学でさえもローマの、キリスト教のフィルタがかかっている。

さらにのちのドイツロマン主義などは、ローマやキリスト教を否定するためにギリシャを理想郷のように勝手に解釈してしまった。

そうした長い長い曲解と捏造のために、ギリシャをありのままに理解することはほとんど不可能に近い状態にあるとさえ言える。

日本人が読んでるギリシャの古典というのは、ほとんどすべてが英訳の和訳である。 英訳というのはだいたいオックスフォードがやった仕事だ。 すべていったん西洋史観のフィルタを通したものなのである。 しかし、ギリシャというものは、ヘレニズムというのもは、ヨーロッパとかローマの範疇で見てもわからない。 ヨーロッパから見えたギリシャというのに過ぎない。

古代ギリシャでもっとも非ギリシャ的だったのはテーバイやアテナイだ。 アテナイはギリシャのボロスの中ではむしろもっともペルシャ的と言うべきだ。 アテナイの民主制は確かに極めて独特だが、それはアテナイの特殊性というものである。 しかもほとんど完全な直接民主制だったのはペリクレスの時くらいだが、ペリクレスは内政も外交も戦争もすべてがめちゃくちゃだし、 そもそもペリクレスのせいでアテナイは衰退し、スパルタによってアテナイの民主制は一時停止した。 アテナイに対するスパルタの影響力を失わせ、アテナイに民主制を復活させたのはテーバイだ。

アテナイは確かに非常にユニークだが、しかし、 アテナイほどペルシャの影響を受けたギリシャのポリスはなかろうと思う。 少なくともアテナイをギリシャの典型的な、最終最高形態のポリスであると考えるのは完全に間違っている。