酒もコーヒーもずっと毎日呑んでると効かなくなってくる。

同じように毎日薬を服用していると数ヶ月で効き目がなくなるのじゃなかろうか。
それでもやはり飲み続けなくてはならないのだろうか。
まあいいけど。

回転率と禁煙

飲食業界では当たり前のことなのかもしれんが、つらつら考えるに、
飲食店で最近喫煙のところが多いのは単に食後一服している時間がまったく儲からないからだろう。
その時間が十分か十五分であったとしても、全体では大きな損失になる。
売り上げをきちんと計算すればすぐにわかることだ。
飲食業界紙でも当然すでに指摘されていることだろう。
特に昼食時のように少しでも客が回転してもらいたい時間帯では禁煙にしたほうがもうかる。
逆に、昼食時以外であれば比較的客にだらだらしていられてもかまわないから、禁煙でない店もある、
ということではないか。

スタバのように完全禁煙というのは明らかに海外の文化によるものだろう。

また、昼食時にタバコの吸える店がたまにあると、そこには逆に喫煙者が殺到して店は繁盛する。
そういう店はほぼ全員が喫煙者だから、タバコを吸わない人は自然と近寄らないようになる。
店としてはそういう生き残り戦略もあろう。

これが、酒を飲む店になるととたんに喫煙率があがり、故に禁煙にすると儲からないという逆の現象が起きる。
だから居酒屋には禁煙の店が極めて少ない。
条例などあってもかなり消極的だ。

神奈川県の海水浴場でも、海の家は喫煙できる(海岸で海の家が喫煙所を兼ねている)ので海の家が臭くて仕方ない。
砂浜は広いのだから禁煙の海の家と喫煙可能な海の家で分ければよさそうなもんだが、
おそらく未成年と思われる若いバイトのにいちゃんなどもみなタバコを吸う土地柄だからもう何を言っても仕方ない。

ようするに、単に、もうかるかどうかで禁煙か喫煙かが決まっているだけなわけだ。

電波

思うに、携帯電話もテレビも、電波時計の電波も、すべて電波というものは、静止軌道上の人工衛星からふらせれば良いのではないか。

BS放送は全然普及しなかったというが、
それはBSが出てきたのがアナログ地上派の普及率がほぼ100%のときだったからであり、
それでBSが地上派を淘汰するはずがない。
返り討ちにあうのがオチだ。
地デジみたいにアナログ停波するくらいの覚悟があれば移行できていたのではないか。

電車から見るとどこのビルも屋上になにやらあやしげなアンテナが立っているが、あれはみんな携帯とかWiMAXとかのアンテナなのだろう。
設備投資的に言えば全国まんべんなく電波をふらす衛星よりは、首都圏など人口稠密地帯に重点的に電波をまけるああいうアンテナの方が都合がよいのかもしれない。
同じ理由で、首都圏だけの利便を考えれば東京スカイツリーのようなものがもしかすると安くつくのかもしれん。
人口密度の低い田舎まで一様にサポートする、などというのはスポンサーには説得力が弱い。

だがどう考えても衛星をシェアして電波に分け隔てせず、とにかく電波を使いたいやつは必ず衛星を使えと、
そう国で決めてしまった方が国全体のコストは下がるだろうし、くだらない無駄な開発をしなくてすむだろう。

商店街が共同トイレを作るのか、
店ごとにトイレを持つのか、という問題に似ているのかもしれん。
管理組合が適切にマネージさえすれば共同トイレの方が良いに決まっている。
しかし世の中は決してそういう理屈では動かない。
商店街でも飲食店以外はトイレを負担する謂われがない。
同じ飲食店でもトイレがないと成り立たないくらい依存しているところ(居酒屋とか)と、
それほど必要のないところ(ラーメン屋とか)がある。
誰がどれだけ負担するかを不公平なく決めるのは難しい。
結局個別対応になりがちなのだろう。

スケープゴートとしてのゲーム

ゲームはマイナスのイメージを持つものとして比較の対照にされやすい。特に報道において。

ある子供がペパクラで遊んでいて、ふだんはゲームをやっているがたまに手を動かして遊ぶと面白いと。
なぜそこでわざわざゲームを出してくる必要があるのか。
すなおにペパクラは面白いですねではなぜいけないのか。
ふだんはプラモ作ってるけどペパクラも面白いねとかいろんなバリエーションがあり得るのに。

ゲームは、こ汚く薄暗い、うさんくさくいかがわしい、工務店だか町工場だかを改造したインベーダーハウスから生まれてきた。
小ずるい大人が子供の小遣いをかすめ取って儲けた。
今の大人たちはみなその記憶を共有している。
だからゲームは叩かれて、新風営法で規制されて、無限の可能性を秘めたアーケードゲームはそのために死んだ。
パチンコの景品が未だに公然と換金されているのに、だ。
アーケードゲームの死の代償として家庭用ゲーム機が生まれたが、それでも負の運命を担い続けている。

何か犯罪が起きるといつもゲームのせいにされる。
弁護士が加害者の責任をゲームに押しつけたいせいではないか。

ゲームばかりやっていると馬鹿になると言われる。
昔はテレビばかり見ていると馬鹿になると言ったものだが、そのころはまだマスメディアの主役が新聞や雑誌だったからだ。
今じゃテレビをネガティブなイメージに使うことがない。
テレビが最大のマスメディアになったからだ。
特撮戦隊ものばかり見ていると馬鹿になるとか、
刑事ドラマものばかり見ていると馬鹿になるとか、
昼メロとかサスペンスばかり見ていると馬鹿になるとか、
映画ばかり見ていると馬鹿になるとか、
そんなことは絶対言わない。
いつも悪者になるのはゲームだ。
本質的にゲームというメディアが他より悪いわけではない。
単にゲームが叩きやすいというだけの理由だ。

報道というものは、特にテレビの報道というものは、ものすごく偏っている。
偏向していても、互いにバランスのよい公平な状態にもっていこうという仕組みがないから、
偏れば偏るほど偏って、しまいにはひっくり返るしかなくなる。
大東亜戦争当時とどこが違うというのか。

ゲーム産業は、なぜこんなに弱いのか。
卑屈すぎやしないか。
結局日本のゲームが海外のゲーム産業に抜き去られたのも同じ理由ではないのか。
何かがどうしようもなく弱い。
ホリエモンやムネオが有罪になったのと同じ理由じゃないのか。

ゲームをやる人間と、ゲームをやらない人間の住んでる世界があまりにも遠いからだろうか。

未と猶と已

「猶静謐」だといまだに静謐だ、で良いが「未静謐」はいまだに静謐ではない、となる。

「猶静謐」は「なほ静謐のごとし」と訓むこともできる。ややこしい。

「猶」は漢文でも「いよいよ」「その上に」などの意味がある。日本語だけではないらしい。

いずれにしても「未」は用言の頭について否定する助詞であるのには違いない。

「已静謐」だとすでに静謐になった(以前は違った)、の意味であり、「猶静謐」だとあいからわず静謐だ、いよいよますます静謐だ、となるわけだ。