A Sketch of Kawagoe

[kindle版川越素描](http://www.amazon.co.jp/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E7%B4%A0%E6%8F%8F-ebook/dp/B00BLNTYBQ/ref=sr_1_5?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1361926480&sr=1-5)
やっと出た。

ていうか、芥川龍之介の[素描三題](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/157_15212.html)
なんか見ると、ものすごく短い短編。
ショートショートというか、掌編小説というか。

司馬遼太郎の『アメリカ素描』というのは割と長い随筆なんだが、
まあ、素描といったら、
スケッチなわけだから、短編か、短編集みたいなものを言うのだろうが、
この「川越素描」というのは、どちらかと言えばがっつり長編であり、
今更だが素描らしくない。
というより、私が書いたものの中では一番複雑怪奇な構成になっていて、
たぶん今後もこんなへんてこなものは書かないと思う。

しかも川越というよりは関東全域の話になってしまっている。

だけどまあ気分としては、私はこれを
A Sketch of Kawagoe と呼びたいのだ。
ざっくりとラフな記述スタイルの長編、と言えば良いか。

kindle paperwhite は「実機」として、kindle版の見た目の最終確認に使う感じ。
まあ、一応必要だわな。

秩父

新人賞に応募したやつをパブーで公開してそれを今度からはkindleで出そうと思っているのだが、
パブーのやつも順次kindle化していく。
で、「川越素描」kindle版を用意していたのだが、もともと400枚くらいのかなり長い小説なんだが、
そもそも太田とか長尾とか上杉とかなんなんだとか調べ始めたらきりがなくて。

足利成氏とか。結城とか。多賀谷とか。

で、長尾景春はなぜ秩父で挙兵したかとか。
どんな不満があったのか。どんな勝算があったのかとか。秩父面白い。

長尾とか上杉というのは長尾景虎すなわち上杉謙信のイメージでなんか越後の人みたいに思うが、全然違う。
上杉はもと丹波の藤原氏だ。
長尾は頼朝より前から鎌倉に居た。
太田は上杉と一緒に鎌倉に来たらしい。

上杉は越後上野武蔵相模の守護。
本州の一番肉厚なところを縦断している。
だから、鎌倉公方は東関東の下野国古河を拠点とした。
決して、鎌倉を追っ払われて古河に逃げたのではない、たぶん。
その下総には鎌倉公方シンパの結城氏がいる。
上杉ラインの要となるのは武蔵と上野の境、利根川沿いの五十子陣。
景春は秩父に入り込んで長瀞奥の鉢形(今の寄居町)に城を築き、
五十子を背後からヒットアンドアウェイで攻撃した。
秩父は三方を山に囲まれ出口は長瀞渓谷のみ(今は西武秩父線とかいろいろ通ってるが)。
長瀞口に城を築けば敵は容易に攻め込めない。
秩父は水も豊かで土地も肥えている。しかも広い。奥多摩の二倍はある。
五十子が落ちると上杉の越後・上野・武蔵・相模ラインが秩父・五十子・古河ラインで分断されてしまう。
景春すげえ。頭良い!ってことに気付いてしまった。

長尾上杉がなんで越後とか上野に居るかというと、尊氏について新田を討ったからなのだ。
新田がもともと上野・越後に土着した人で、足利が上杉・長尾に新田の旧領を気前よく与えてしまった。

とか調べだしたらもう切りがなくて。

古河公方と上杉の主戦場は上野と下野の間で行われた。
太田氏が守備した川越・江戸ラインに侵入してきたのは主に下総千葉氏だったらしい。

アマゾンの概要のところは本文を一部転載するようにした。
その方が楽だし、どんな雰囲気かわかりやすいと思ったから。

kindle版は紙媒体版と同じくらい改版が難しいのだけど、
もう校正ばっかりやってるとまじ切りがない。
売れ出してもないのに完璧を期するのもあほだと思い、
とりあえず出す。

五十

五十嵐はなぜ「いがらし」と読むのだろうか。
五十子は「いらこ」「いかご」「いかっこ」などいろんな呼び方がある。
五十日を「いそか」といい、「いか」というようになったので五十を「いか」と言うようになったとウィキペディアにはある。
ようわからん。

多賀谷氏家

[多賀谷氏家](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E8%B0%B7%E6%B0%8F%E5%AE%B6)
には、

> 宝徳3年(1451年)、足利成氏の命により関東管領・上杉憲忠の鎌倉西御門館を急襲、氏家・朝経兄弟は憲忠の首を討ち取った(享徳の乱)。

と書かれているが、
[上杉憲忠](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%86%B2%E5%BF%A0)
には、

> 享徳3年12月27日(1455年1月15日)に鎌倉にある成氏の西御門邸に招かれた憲忠は、成氏の命を受けた結城成朝の家臣多賀谷氏家・高経兄弟によって謀殺されてしまった

と書かれている。
どっちなんだよ。

神宮式年遷宮

明治聖徳記念学会紀要『式年遷宮を終えて』を読んでいて思ったのだが、
確かに式年遷宮が天武天皇から始まったのかどうかということも、疑おうと思えば疑えるわけで、
天武天皇は確かに古すぎるし、
その起こりから「廿年に一度まさに遷御せしめ奉るべし」などという明確な勅令があったのも不自然で、
持統天皇からじわっと自然に始まったというのが、ありそうな気がする。

さらに疑うと、伊勢神宮というのはもともと、天皇一代限りで移築される御所に付属したものであり、
恒常的な都が作られるようになって初めて伊勢に移され、
移築の伝統が伊勢という一箇所で式年遷宮という形式で繰り返されることになったのかもしれない。
そう考えるのが一番自然ではなかろうか。