新古今集 後鳥羽院と定家の時代

これから読もうと思っているのだが、「天才帝王と空気の読めない秀才貴族」
という解釈は間違いだと思う。
後鳥羽院の宮廷で「空気を読む」ということはつまり自我を捨てて幇間になるということだ。
皇帝の前の宦官になれというのか?
だから北条氏と戦争して負けるんでしょう?
むしろ後鳥羽院が暴走して破滅するのを定家は予測してたんじゃないの。

どちらかというと
「空気が読めない裸の王様と、それなりに現実的でニヒリストな秀才貴族」というところか。
どちらも天才ではない。
後鳥羽院は天才というよりは狂人というべき。

いや、狂人というのも当たらないかも。
菊池寛に『[忠直卿行状記](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/501_19864.html)』
というのがあるが、この[松平忠直](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4)に近い。
御曹司にありがちな錯覚と狂乱(ただしこの小説は、忠直自身の行いに、古代中国の暴君の行いをモチーフに脚色したものが加わっており、忠直の人格を忠実に記したものではない、か。なるほどね)。

> 八番目の勅撰集『新古今和歌集』が編まれた時代は、和歌の黄金期である。新たな歌風が一気に生み出され、優れた宮廷歌人が輩出した。

これも大きな間違いだ。
黄金期というよりは一種の狂乱期。
すでにこの時期には宮廷以外のところに優れた歌人が現れ始めた。

> 未曾有の規模の千五百番歌合、上皇自ら行う勅撰集の撰歌、と前例のない熱気をみせながら、宮廷の政治と文化は後鳥羽院の磁力のもと、再編成されていく。

いや、それが狂気。
後鳥羽院の狂気。

> 後鳥羽院と藤原定家という二つの強烈な個性がぶつかりあい、日本文化の金字塔が打ち立てられていく時代の熱い息吹に迫る。

金字塔(笑)

この時代ほんとうの天才歌人は西行だけだ。
なぜみんなそんな簡単なことがわからんのか。
菊池寛ならわかるだろうに。

パソコンと図書館

図書館に行って新編国歌大観って電話帳みたいな本読みながら、和歌を俺様のレッツノートでメモろうとしたのだが、
持ち込みパソコンは専用のブースに行って使ってくださいみたいなこと言われて、
その専用ブースってのは違う階にあって、しかも席が限られている。

新編国歌大観ってね、でかくて重いんですよ?
禁帯出なんですよ。

もうね、図書館。
時代についていけてねーよ、ていうか、新編国歌大観をどうにかしろっ。
Windows 8 とか最新の OSでも動くようにしろよっ。
早く改訂版だしてくれ。

一太郎とword

久しぶりに一太郎ではなくWordを使ったんだが、wordはコピペするときリンクとか文字サイズとか色までコピペするじゃん。
そうするとネットからコピペするときうざくて仕方ない。
一応右クリックでメニュー出してテキストだけペーストとかできなくはないが、うざい。
一応Ctrl + Alt + V で選択できるが、うざい。

思えば MacOS 9 使っててぶちきれて二度とマック使わんわーと思ったのもこの件だった。
なんか回避策あるのかな、しかし今更マックなんか使わんが。

でまあ、一太郎だと、Ctrl + V は普通にテキストだけペーストなんですよ。

あとスクロールがね。
縦書きなのに縦スクロールするでしょ、word。うざいよね。
縦書きなら横スクロールして欲しいじゃないですか。

まー一太郎にも不満がないわけじゃないのだが、例えば横スクロールがページ単位で飛ぶとか勘弁して欲しいんだが、
それでもwordよりはまし。
今度から一太郎で書いてwordで提出するときはword出力するわまじで。

不便な方が便利なことってあると思うんだな。
自分がPCで使ってる機能ってそんな多くない。
それこそ1991年当時のワークステーションのGUIで十分とか思う。
ウィンドウシステムはSunViewで十分。
あとはコンテンツだと思うのよ。

あのぬるぬるするトランジションな。マックの。
あれのどこがいいんだよ。

北条泰時

北条泰時はすごく地頭がよかったのは確かだが、
ちゃんと子供の頃から勉強してなくては、和歌が詠めたり、御成敗式目を作れたりするようにはならないと思うんだよね。
そうすると、誰が泰時に学問を教えたのか、ということになるのだが、ざっと調べた限りではよくわからない。
泰時は1183年生まれ、源頼家が1182年生まれなので、泰時は頼家の学友だったのではないか。

頼朝はインテリだから、子供の頃から勉強しなきゃいけないってことはわかっていたはずだ。
だから頼家に京都から呼んできた教師を付けて学ばせたはずである。
その教師とは僧侶であったかもしれないし公家だったかもしれない。
しかし、頼家についてはほとんど何も記録が残ってない。

頼朝は泰時をかわいがっていた。
もともとは頼朝から一字もらって頼時という名前だった。
頼朝が死んだ後、泰時という名に変えた。
なぜ変える必要があったのか。これもさっぱりわからない。
いずれにしても頼朝にかわいがられたということは頼朝からも学問を教わったと思われる。

実朝も聡明だったのだから、頼家もある程度頭は良かったはずだ。
頼家は蹴鞠ばかりして泰時が諫めたという話がある。
事実かどうかはともかく、これなども、泰時が頼家と一緒に学問をしていた証拠になるかもしれん。
頼家が遊んでいる間も(学問好きな)泰時は勉強をしていたのではなかったか。

北条泰時をあらためてちゃんと調べなきゃなという気がしてきた。

嵯峨中院

明月記に現れる嵯峨中院というのはほんとうに宇都宮頼綱の山荘だったのか。
頼綱はすでに出家して御家人ですらないし、定家に頼んでふすま絵に揮毫してもらうほど、
立派な邸宅に住んでいたとは思えない。
またわざわざ定家が日記に書き残すようなこととも思えない。

障子とは今で言う襖であろう。常設の引き違いの襖というのはすでにあった。
障子色紙というのだから今の明かり障子ではなくて、襖に貼る紙であったはずだ。
襖が100枚というのはいかにも多すぎる。
襖100枚で囲まれる部屋というのは1辺が25枚として300畳くらいの大広間になってしまう。
ちと考えにくい。
頼綱個人の屋敷というよりはやはり幕府のために嵯峨に作られた別荘のようなものではなかったか。
そして定家に近い頼綱が仲介役になったのではないか。

頼綱に頼まれてというのは要するに幕府の依頼でという程度の意味なのではないか。
当然、西園寺公経という親玉がそこにはいる。
1235年当時の執権は泰時。おやまた大物が。
御成敗式目ができたのもちょうどこのころ(1232)。
泰時はときどき六波羅に来ていただろう。
六波羅は辛気くさいところだから嵯峨野の「別荘」あるいは「山荘」で遊ぶこともあっただろう。
定家は泰時の歌の師匠でもあったから、会ったこともたびたびあっただろう。
ひょっとすると泰時本人の依頼であったかもしれぬ。
うーむ。これはどうもフィクションに仕立てた方が面白いのではという気がしてきた。

襖の両面に貼ったとすると、98枚ならば半分の48枚。
48を4で割ると割り切れて12。
1辺が12枚の部屋は72畳。
あり得るな。