月別アーカイブ: 2014年10月

新古今集 後鳥羽院と定家の時代

これから読もうと思っているのだが、「天才帝王と空気の読めない秀才貴族」 という解釈は間違いだと思う。 後鳥羽院の宮廷で「空気を読む」ということはつまり自我を捨てて幇間になるということだ。 皇帝の前の宦官になれというのか? だから北条氏と戦争して負けるんでしょう? むしろ後鳥羽院が暴走して破滅するのを定家は予測してたんじゃないの。 どちらかというと 「空気が読めない裸の王様と、それなりに現実的でニヒリストな秀才貴族」というところか。 どちらも天才ではない。 後鳥羽院は天才というよりは狂人というべき。 いや、狂人というのも当たらないかも。 菊池寛に『[忠直卿行状記](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/501_19864.html)』 というのがあるが、この[松平忠直](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4)に近い。 御曹司にありがちな錯覚と狂乱(ただしこの小説は、忠直自身の行いに、古代中国の暴君の行いをモチーフに脚色したものが加わっており、忠直の人格を忠実に記したものではない、か。なるほどね)。 > 八番目の勅撰集『新古今和歌集』が編まれた時代は、和歌の黄金期である。新たな歌風が一気に生み出され、優れた宮廷歌人が輩出した。 これも大きな間違い… 続きを読む »

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パソコンと図書館

図書館に行って新編国歌大観って電話帳みたいな本読みながら、和歌を俺様のレッツノートでメモろうとしたのだが、 持ち込みパソコンは専用のブースに行って使ってくださいみたいなこと言われて、 その専用ブースってのは違う階にあって、しかも席が限られている。 新編国歌大観ってね、でかくて重いんですよ? 禁帯出なんですよ。 もうね、図書館。 時代についていけてねーよ、ていうか、新編国歌大観をどうにかしろっ。 Windows 8 とか最新の OSでも動くようにしろよっ。 早く改訂版だしてくれ。

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一太郎とword

久しぶりに一太郎ではなくWordを使ったんだが、wordはコピペするときリンクとか文字サイズとか色までコピペするじゃん。 そうするとネットからコピペするときうざくて仕方ない。 一応右クリックでメニュー出してテキストだけペーストとかできなくはないが、うざい。 一応Ctrl + Alt + V で選択できるが、うざい。 思えば MacOS 9 使っててぶちきれて二度とマック使わんわーと思ったのもこの件だった。 なんか回避策あるのかな、しかし今更マックなんか使わんが。 でまあ、一太郎だと、Ctrl + V は普通にテキストだけペーストなんですよ。 あとスクロールがね。 縦書きなのに縦スクロールするでしょ、word。うざいよね。 縦書きなら横スクロールして欲しいじゃないですか。 まー一太郎にも不満がないわけじゃないのだが、例えば横スクロールがページ単位で飛ぶとか勘弁して欲しいんだが、 それでもwordよりはまし。 今度から一太郎で書いてwordで提出するときはword出力するわまじで。 不便な方が便利なことってあると思うんだな。 自分がPCで使ってる機能ってそんな多くない。 それこそ1991年当時のワークステーションのGUIで十分とか思う。 ウィンドウシステムはSunViewで十分。 あとはコンテンツだと思うのよ。 あのぬるぬるするトランジションな。マックの。 あれのどこがいいんだよ。

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北条泰時

北条泰時はすごく地頭がよかったのは確かだが、 ちゃんと子供の頃から勉強してなくては、和歌が詠めたり、御成敗式目を作れたりするようにはならないと思うんだよね。 そうすると、誰が泰時に学問を教えたのか、ということになるのだが、ざっと調べた限りではよくわからない。 泰時は1183年生まれ、源頼家が1182年生まれなので、泰時は頼家の学友だったのではないか。 頼朝はインテリだから、子供の頃から勉強しなきゃいけないってことはわかっていたはずだ。 だから頼家に京都から呼んできた教師を付けて学ばせたはずである。 その教師とは僧侶であったかもしれないし公家だったかもしれない。 しかし、頼家についてはほとんど何も記録が残ってない。 頼朝は泰時をかわいがっていた。 もともとは頼朝から一字もらって頼時という名前だった。 頼朝が死んだ後、泰時という名に変えた。 なぜ変える必要があったのか。これもさっぱりわからない。 いずれにしても頼朝にかわいがられたということは頼朝からも学問を教わったと思われる。 実朝も聡明だったのだから、頼家もある程度頭は良かったはずだ。 頼家は蹴鞠ばかりして泰時が諫めたという話がある。 事実かどうかはともかく、これなども、泰時が頼家と一緒に学問をしていた証拠になるかもしれん。 頼家が遊んでいる間も(学問好きな)泰時は勉強をしていたのではなかったか。 北条泰時をあらためてちゃんと調べな… 続きを読む »

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嵯峨中院

明月記に現れる嵯峨中院というのはほんとうに宇都宮頼綱の山荘だったのか。 頼綱はすでに出家して御家人ですらないし、定家に頼んでふすま絵に揮毫してもらうほど、 立派な邸宅に住んでいたとは思えない。 またわざわざ定家が日記に書き残すようなこととも思えない。 障子とは今で言う襖であろう。常設の引き違いの襖というのはすでにあった。 障子色紙というのだから今の明かり障子ではなくて、襖に貼る紙であったはずだ。 襖が100枚というのはいかにも多すぎる。 襖100枚で囲まれる部屋というのは1辺が25枚として300畳くらいの大広間になってしまう。 ちと考えにくい。 頼綱個人の屋敷というよりはやはり幕府のために嵯峨に作られた別荘のようなものではなかったか。 そして定家に近い頼綱が仲介役になったのではないか。 頼綱に頼まれてというのは要するに幕府の依頼でという程度の意味なのではないか。 当然、西園寺公経という親玉がそこにはいる。 1235年当時の執権は泰時。おやまた大物が。 御成敗式目ができたのもちょうどこのころ(1232)。 泰時はときどき六波羅に来ていただろう。 六波羅は辛気くさいところだから嵯峨野の「別荘」あるいは「山荘」で遊ぶこともあっただろう。 定家は泰時の歌の師匠でもあったから、会ったこともたびたびあっただろう。 ひょっとすると泰時本人の依頼であったかもしれぬ。 うーむ。これはどうもフィクショ… 続きを読む »

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承久の乱

北条義時と西園寺公経は親しく、 後鳥羽院は公経を殺そうとしたと日本外史にある。 公経は頼朝に近く、おそらくは関東申次的な役職だった。 というより西園寺家が関東申次の家で、公経がその嚆矢であった。 公経は平頼盛の曾孫。 徳大寺公継と葉室光親も後鳥羽院を諫めた。 光親は光俊の父。 光親は後鳥羽院側の中心人物とみなされていた。 伊賀光季と大江親広は鎌倉幕府の京都守護。 藤原秀康・三浦胤義は幕府から朝廷側についた者。 三浦義村は胤義の兄。 胤義は使者押松丸をつかわして、後鳥羽院の院宣を義村にもたらした。 義村は直ちにこれを義時に知らせ、 幕府の御家人は少なからず動揺したが、 義村は幕府の武将として参戦し、胤義は討ち死にした。 西園寺公経と伊賀光季からもたらされる情報で幕府は速やかに動いた。 まあ要するに、幕府の御家人と幕府に味方する公卿は一枚岩だった。 後鳥羽院は切り崩しを図ったがうまく行かなかった。 ということだわな。 後鳥羽院側の公卿「合戦張本公卿」一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂は処刑。 一条信能は能保の子。ただし母は坊門姫ではなく遊女。 源有雅は後鳥羽院の寵臣。 葉室宗行と葉室光親の関係はよくわからんが葉室家は九条家の家宰のようなものだったらしい。 つまり九条家は明らかに後鳥羽院派で、これに対して西園寺家が幕府派であった、ということになる。 高倉範茂も後鳥羽院の寵臣。… 続きを読む »

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九条良経と田安宗武

九条良経と田安宗武。 一人は藤原氏で一人は徳川氏だが、 この二人はある意味でよく似ている。 和歌をダメにした二大元凶といえる。 九条良経は和歌を権威主義のおもちゃにした。 田安宗武はそれを武家に都合の良いように作り変えた。 一方は惰弱、他方は空元気。 九条良経は歌が下手だったが題詠や本歌取りという手法でとりつくろった。 田安宗武も歌が下手だったが、万葉調という手法で取り繕った。 それぞれの時代の和歌のわからん連中はみなそれにならった。 題詠、本歌取り、万葉調、いずれも歌学者が門人を増やすためにこしらえた方便にすぎぬ。 これらによって、 和歌は大衆化し、同時に和歌は死んだ。 明治や昭和の歌壇も九条良経や田安宗武がやったのと本質的には同じ過ちを繰り返している。 かなり悪質だが、枝葉末節だからこのさいどうでもいいとして、 今私たちが和歌がダメだと言っていることの多くは、 九条良経と田安宗武という為政者による芸術への介入に遠く起因している。 万葉時代までの原始蓄積を光孝宇多醍醐三代が発展させた。 それが和歌の本質だ。

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新三十六歌仙

九条良経は土御門天皇の摂政太政大臣(実質的には後鳥羽院政のトップ)。1206年死去、38歳というからまだ若い。 新古今の寄人で仮名序(どうという見所もない文章)の著者。歌もたくさん採られている。 天皇や皇族で歌のうまいのは当たり前だが、摂政関白太政大臣で歌がうまいというのはかなり疑ってかからねばならない。 後鳥羽院も一応良経をほめているようだが、かなり割り引いて考えねばなるまい。 全然ダメとは言わないがかなり陳腐。 それは慈円にも言える。 良経の娘立子は順徳院の中宮。 良経の長男道家の三男頼経は鎌倉将軍(実質的には承久の乱より前から)。 その次の将軍が宗尊親王(1252-)。 面白いのは、頼朝の実母妹坊門姫は一条能保の室となって二人の娘を産み、 その一人(名前不詳)は良経の室となって道家と立子を産み、 もう一人(一条全子)は西園寺公経に嫁いで倫子を産み、 道家と倫子の子頼経が実朝の死後鎌倉将軍になっている、ということである。 つまり、道家と倫子はいとこどうしであり、共通の祖母・坊門妹を持つ。 道家と倫子の子・頼経は坊門姫の二重の曾孫であることになる。 従って実朝が死んでいきなり藤原氏が鎌倉将軍というよりは、かなり源氏の血筋というものが意識されていることがわかる。 実朝の妻が坊門信子なのだが、坊門姫という名と何か関係があるのだろうか。 [新三十六歌仙](http://www.asah… 続きを読む »

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小倉百人一首の成立

小倉百人一首がほぼ現在の形になったのは、続後撰集が出た後だろう。 1251年続後撰集に、承久の乱の後の後鳥羽院や順徳院の御製が採られたことによって、 おおやけに、院らの名誉回復が行われた。 小倉百人一首が院らの鎮魂という形で完成した。 時の鎌倉幕府執権は北条時頼。 天皇家では後嵯峨院が院政を敷いていた。 為家を選者としたのも後嵯峨院。 後鳥羽院や順徳院の名誉回復を強く願ったのは順徳院の中宮・九条立子だったはずだ。 彼女は1247年に死んでいる。 生きているうちには名誉回復がなされなかったのだから、無念だっただろう。 だれかがその遺志を継いだのだ。 定家が明月記に宇都宮頼綱の依頼で襖絵に歌を書き記した、いわゆる小倉色紙というものが成立したのは、1235年。 承久の乱はそれに先立つ 1221年。 頼綱は鎌倉幕府の御家人だから、後鳥羽・順徳の歌など、たとえ好きだったとしても立場上、 襖絵に飾ることはできなかったし、 定家だってわざわざそんな政治的冒険をするはずもないのである。 では1235年にできたのが「百人秀歌」であったろうか。 「百人秀歌」に名誉回復された後鳥羽院らの歌を載せて「小倉百人一首」ができたのか。 おそらく宇都宮頼綱は小倉山に新築の別荘を建てた。 頼綱の娘が定家の息子為家の室になっている。 これも同じ頃のことだろう。 為家はすでに37歳。 頼綱が定家・為家父子のパトロンにな… 続きを読む »

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百人一首というのは要するに歌を学ぶのには適してない

自分でも定家までの歌人を100人選ぼうとしているのだが、 私の好みのせいもあるかもしれないが、平安時代だけだと50人も選べない。 奈良時代を入れても全然足りない。 素戔嗚尊からずーっと入れて70人くらいにしかならない。 江戸時代まで入れれば簡単に100人になるがそれでは百人一首をまねたことにはならない気がする。 藤原公任とか源俊頼なんかはあんまり興味ないんだよね。 わざわざ取り上げる必要があるのかという。 当時の一流歌人だったのは間違いないんだけど。 百人選んでそれぞれ一首ずつというのは、 まあ、 歴史の勉強にはなるかもしれない。 和歌の歴史を学ぶという意味会いはあるかもしれない。 だが歌を学ぶのには不毛な作業だ。 読み人知らずの歌を採れないのもかなり痛い。 和歌を学びたければ、たとえば西行が好きなら西行の歌ばかり学べばよい。 西行に飽きたら俊成とか。 西行と俊成の比較とか。 人に好き嫌いがあるのは自然だ。 それをせずに、ただ百人並べてみるというのはおそらくはもともと歌のわからん人のやること。 歌を楽しんでいるというよりは、それこそカルタのように歌人を並べて遊んでいるだけなのだ。 要するに百人一首はただのカルタだというごく当たり前の結論に達する。 まったく面白くもなんともない結論だ。 ブロマイド集めたり、ポケモンとか妖怪ウォッチとか、そういう趣味と何の違いもない。 源頼朝と源頼政、… 続きを読む »

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