達磨歌

冷泉為人「冷泉家・蔵番ものがたり」を読む。
藤原俊成・定家から続く冷泉家当主が書いた本。重い。
冷泉家は天皇が東京に遷都しても京都に残り続けたのだと言う。

定家の歌は当時「新儀・非拠・達磨歌」と批判されたという。
達磨とはつまりは禅宗の創始者だ。
達磨歌とはつまり禅問答のようなわけのわからない歌という意味だろう。
まったくその通りだと思う。

> 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

にしても

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮れ

にしてもそうである。
言葉は美しいが、描かれた光景はただの空虚な何もない世界である。
上の句で色彩鮮やかな光景を提示しておいてそれを否定し、下の句では代わりに寒々しい虚無な光景を残して放置する。
和歌をただ二つにぶち切って、華やかな世界提示と否定、そして救いようのない世界の放置という構成にする。
ただそれだけ。そういうパターン。
それで結局なぜ定家が受け入れられたかと言えばその言葉の美しさと禅問答のような空疎さ、難解さだろう。
あるいは本歌取りという退廃的な知的遊戯として。
禅もまたそれから武家社会で受容され、もてはやされた。
禅ってなんかかっこいい、みたいな。
そういうのをさらに発展させると「古池や蛙飛び込む水の音」や
「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」になっていくのだろう。
俳句とは要するに「達磨歌」の末裔なのだ。

だから、定家が当時「達磨歌」と呼ばれて批判されたと知ってなおさら自分の解釈の正しさを確信した思いだ。

神武天皇のひげ

ふと思ったのだが、
昔ひげを生やしていたとき君のひげは神武天皇のようだなといわれたことがあった。
あんたは神武天皇見たことあるんかい、と思ったのだが、
もちろん神武天皇を見た人はいるわけもないし、当時の絵画が残っているわけでもない。
そんなものがあるはずがない。

思うに戦前の人たちにとっては、
ひげをぼうぼうにはやしていると神武天皇というイメージがあったのだろう。
明治の軍人たちもどんどんひげを生やした。
フランスやドイツの軍人の影響もあったんだろうが、
みんなして神武天皇のようなひげを生やすというのが明治には流行ったものと思われる。

神武天皇に代表される神話はファンタジーだった。
今も昔も流行るのはファンタジーとか推理小説とか歴史小説とかライトノベルばかりなのだろう。
それがたまたま戦前は神代七代の神話だったということだろう。

広尾

ふと思ったのだが、明治天皇御製:

> 武蔵野の昔おぼえてはなすすき広尾の原にしげりあひたる

> かぎりなく見ゆる広尾のすすき原市にまぢかき所ともなし

この広尾のすすきの原というのは、
明治のころ広尾に広いすすきの原野が残っていたというのではなくて、
いまの有栖川公園を中心とする一角のことではあるまいか。
もとは盛岡藩下屋敷が皇室の御用地になったというが、下屋敷というのはつまり大名が江戸近郊に、
何にするとなく所有してた広大な空き地のようなものだから、
周りが町屋になってもそこだけ武蔵野の原のように残っていたのだろう。

鎌倉百人一首

尾崎左永子「「鎌倉百人一首」を歩く」を読む。
北条泰時:

> 年へたる鶴の岡べの柳原青みにけりな春のしるしに

藤原長清撰「夫木和歌抄」というものに採られたものと言う。
宗尊親王:

> 十年あまり五年までに住みなれてなほ忘られぬ鎌倉の里

日本史百人一首

渡辺昇一「日本史百人一首」。
平凡な構成。
北条泰時:

> 事しげき世のならひこそものうけれ花の散るらむ春も知られず

いやあ。京都で訴訟に忙殺されていたきまじめな泰時の姿が目に浮かぶような良くできた歌だけど、
本人が詠んだ歌じゃないよな。
太田道灌以来うたぐりぶかくなった。

徳川家康:

> 嬉しやとふたたび起きて一眠り浮き世の夢は暁の空

辞世の歌というが、まあ、本人の歌じゃないよね。というかどう見ても江戸の町人が詠んだ歌だろこれは。

またまた徳川慶喜:

> この世をばしばしの夢と聞きたれどおもへば長き月日なりけり

うーん。どうなのかこれは。