タルコフスキーのソラリス

原作では中程に出てくる「バートン報告」が冒頭に持ってこられているのがきわめて興味深い。

先に、「バートン報告」こそが「ソラリス」の核であり、その前後は後から付け足したのかもしれない、などと書いたのだけど、タルコフスキーはそれに気付いていたか、或いはレムから直接聞いたのかもしれない。その「ソラリス」のキモであるバートン報告を省略することなく、むしろフィーチャーしようとしたのは良い。が、こんな台詞棒読みの謎シーンにしてしまっては、まったく生きてこない。前振りになっていない上に邪魔ですらある。レムの原作を読んだことがある人、特にまじめに読んだことがあるひとは、おやっと思って、そして腹を立てると思う。

主人公クリス・ケルヴィンはリトアニア人のドナタス・バニオニスが演じる。クリスの妻のハリー役はナタリア・ボンダルチュク。彼女がソラリスをタルコフスキーに紹介したという。スナウト役はエストニア人のユーリー・ヤルヴェト。クリスの父ニック役はウクライナ人のニコライ・グリニコ。

この他、後半でクリスの夢の中に若い頃の彼の母親が出てくる。この女性の意味もよくわからない。そしてこの夢を見た後、ハリーは置き手紙をしていなくなる。

冒頭はクリスの父ニックの家。叔母のアンナがいる。車でバートンとその息子が到着する。この家には少女と馬と犬がいる。この少女はアンナの娘(クリスの姪)であるらしい。クリスはバートン本人からバートン報告と調査委員会のビデオを見させられるのだが、そもそも原作ではクリスとバートンは出会ってないし、バートン報告のビデオなどないし、ニックもアンナも、馬も犬も出てこない。宇宙に旅立つ息子に「親の死に目にも会わないつもりか」などと父が怒ったりもしない。

バートンの息子は馬にびっくりする。タルコフスキー映画によく見られる雨や水辺の映像。もちろんこれらはレムの原作にはまったくないものだ。バートンは息子を連れて帰る。その際に東京の首都高をぐるぐる走るシーンが入る。今 youtube にアップされている東宝の日本語吹き替え版では、このバートンと会ったシーンは完全に削除されている。しかし首都高のシーンはツタヤで借りたDVDで見たことがあるので、私がかつてみたソラリスはも少し違った編集がされていたものとおもわれる。

廃仏毀釈

明治政府が発令した神仏習合の禁止は、廃仏毀釈運動にまでエスカレートした。

神道にもある程度の多様性があり、仏教との相性もさまざまだった。
神道の中でも例えば伊勢神宮のようなご神体とか神域、
物忌みをしなくてはならない斎宮などと関係が深いところは仏教と相容れない。
同じように斎宮がいる上賀茂神社もそうである。

神道がその純粋性、純潔性を保ち得たのはこの「物忌み」「穢れ」という神道固有のタブーのおかげだった。
タブーを否定することで世界宗教となった仏教と、
タブーを中核とする土着宗教である神道は、最終的に決裂した。
皇室行事の中核にもこの「物忌み」「穢れ」があって、故に、その中心部まで仏教の影響が及ぶことはなかったのである。
神道から見れば仏教は「穢れ」そのものであるからだ。
神道の本質は「穢れを忌む」ことであるという原点に立ち戻れば、
神仏分離という原則が当然発動する。
この信仰は千年を経ても風化しなかった。

天皇は神官であって仏弟子になることは許されないが、
上皇になってしまえば出家することができる。
同じように、伊勢神宮には仏教は侵入できないが、
神宮寺というものが伊勢神宮を取り巻くことなった。
ここまでは仏教が入ってきてもよい。ここから先はダメという線引きがなされるようになった。
天皇がいなければこのようなぎりぎりの基準が模索され、議論されることもなかったに違いない。
平安時代にはすでにこの慣例が確立していた。

しかしそういう明確な線引きができない神社では、
神道は仏教によって際限なく侵食されていく。
出雲大社や熱田神宮ですらそうだった。

八幡宮は、おそらくは渡来人が建てた神社であって、もともと仏教の禁忌が弱かったと思われる。
宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴丘八幡宮などは速やかに習合が進んだ。

明治の神仏分離で一番に影響をうけたのは、当然、神宮寺であった。
八幡宮は、武家の守護神ということで、国学の影響をもろにうけて、
仏教的色彩を意図的にぬぐい去ろうとした。
奈良の興福寺は春日大社との癒着が強すぎ、
また内山永久寺は石上神宮の神宮寺であり、
それがために攻撃された。

それ以外の仏教宗派では、比較的影響は少なかったはずであるが、
一部の狂信的な神道家が、明治政府の権威を笠に着て、たとえば県令という立場を利用して、
無茶な命令を出すこともあった。
しかし、神仏習合と同様に廃仏毀釈の主体は民間であったことはもう少し指摘され、
平田篤胤が提唱した国家神道理論にかぶれた明治政府のせいという見方は矯正されて良い。

神仏習合は長い時間をかけて、民間主導で、
しばしば由緒正しい神社の権威に寄生して肥え太ってきた文化的侵略である。
上田秋成も国学者ではあるが神仏習合自体が悪いとは考えていない
(というか、神仏習合にかなり同情的だった、と言うべきか)。
明治の廃仏毀釈に相当するのはかつての物部氏の反発であったり、
清盛の南都焼き討ち、信長の比叡山焼き討ちも一種の揺り戻し、
仏教勢力が力を持ちすぎると自然に起きてきた反発である。
特に江戸時代になって、檀家制度によって肥大華美となり、神道の権威にすりよった仏教は、
江戸時代の古文辞学、国学の発達によって、
ある程度まで見直される必要があった。

廃仏毀釈、或いは廃寺によって行き場をうしなった檀家は、
神道に改宗したり、寺を神社に改組したり、
神道系の新興宗教を立ち上げたりしたであろう。あまり意味のあることとは思えない。
また工芸品としての仏教美術をうしなうことにもなった。
ただ「廃仏毀釈」の是非を問う人たちのほとんどがこれを単なる愚挙と見做しているのは愚挙である。
仏教勢力は結局、GHPの農地解放によって、領主、地主としての地位を失って大きく衰退した。
その後、仏教そのものの衰退によって、
「無駄に多い」寺は存続の危機に立っている。

日本には寺が多すぎる。
江戸期にどれほど仏教が無秩序に肥大化していったか。
特に関東の人間にはそれがわからない。
平気で寺の隣に神社を建てたりする。
京都市街など見れば、寺と神社は明らかに区別されている。
その、神道と仏教は区別しなければならない、
という感覚に鈍感すぎる連中が関東には多すぎるのである。
神道も仏教もキリスト教も、冠婚葬祭は全部同じところでやれば良いという発想はわからぬでもない。しかしそれではダメだと思う人も関東以外にはたくさんいる。

鎌倉仏教の基礎を築いた北条氏は、
南宋の文化と文明を輸入するための方便として臨済宗を取り入れた。
しかし、民衆たちが、仏教を念仏と偶像崇拝の宗教にしてしまった。

もしキリスト教が神道と無秩序に混淆してしまったとしたら、
キリストと天照大神は同じだなどと神道の教義が説くようになったとしたら、
反発する日本人は少なくないだろう。
しかし仏教に関しては長らくこのような説が主流だったのである。

神道が念仏にも偶像崇拝にも、大伽藍建築の悪弊にも、
かろうじて染まらなかったのは幸いだった。

アメリカ映画

ハリウッド映画やアメリカドラマでは、よく夫婦が離婚する。離婚した状態で物語が始まる。或いは別居中である。仕事はできるが夫としては頼りない男が主人公で、ヒロインは別れた妻で、子供は妻に取られてて、困難を克服して夫婦はふたたび仲直りする。というストーリーになっているのがすごく多い。ナンデヤネン。

一方で、主人公が軍人の場合には(退役軍人をのぞく)、彼は理想的な男であり、良き夫であり、妻とも子とも仲が良い。しかし軍人なので家を離れがちであり、しばしば愛する妻に電話した後に死んだりする。

この扱われようの違いはなんだとおかしくなる。

アメリカでは、軍人は頼りない夫であってはならない。そんなストーリーはタブーなのだ。

ソラリス

自分で小説を書くようになると、むかし読んだ小説が違って見えてくる。『ソラリス』を読み解くのはなかなか厄介だ。まず原作のスタニスワフ・レムという人がややこしい。『ソラリス』を読んだだけではよくわからん人だ。それをアンドレイ・タルコフスキーというソビエトの監督が映画化した。これまたよくわからん映画だし、映画版『ソラリス』を見ただけではタルコフスキーという人はわからない。

さらに『ソラリス』をよくわからなくしているのはハリウッド版の『ソラリス』なのだが、ハリウッドという存在をある程度知っていれば、このような脚色になるのは理解できるし、その知識に基づいてリバースエンジニアリングすれば元の『ソラリス』をある程度「復元」することも可能だ。

タルコフスキー『惑星ソラリス』:悪しき現実逃避映画。山形浩生もまたそのややこしさに目くらましされているように思う。もしかすると彼は東宝が配給した日本語吹き替え版を見たのかもしれない。この日本配給版は、冒頭で説明的なナレーションをかぶせたり、
意味深な前振りをざっくり省略したりしている。この前振りはラストと呼応しているわけだが、前振り抜きでラストだけ見させられると、どうしても山形浩生のように、

タルコフスキーは最後の最後でそこから逃げる。

という印象になってしまうだろうし、そこから

現実との直面を妄想との置換で逃げるやりかたのあらわれでもある。

という結論に導かれてしまいがちなのである。レム原作の『ソラリス』は現実逃避な話でもなければ、「愛が世界との関係の比喩になっている」作品でもない。最初から最後まで完全純粋なSFである。SFというか、物語仕立てにした、科学的手法に基づいた思考実験、というべきか。その「まな板」の上で「恋愛」が調理されているに過ぎない。この「まな板」はレムの他の作品と共通なものだから、それを知った上で『ソラリス』を見れば、ああ、レムは今回は「恋愛」をSF的手法で徹底的に切り刻んだわけだと、簡単に理解できるのである。

大嫌いです。冷たくて人工的で。だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。あんなの全部、口先だけのインチキです

変なことを言う、と思う。創作者はみな自分を狂気に追い込まなくてはならない。狂気の中に身を置かねばならない。いつも自分がほんとうに狂ってしまわないように自分の理性をコントロールしながら生きていくものだ。家族が好きかどうかということはあまり関係ない。それに妹に兄のことがわかるはずがない。親にも子にもわかるはずがない。映画監督の気持ちなんて。

それでまあ、山形浩生は律儀な人だから、レムの原作も読んでみたわけだ。感情なき宇宙的必然の中で:スタニスワフ・レムを読む。ところが彼はレムの小説ではなく彼が書いたSF評論を先に読んでしまったようだ。山形浩生は作家ではなくて評論家であるから、評論家としてレムを見ようとしたのかもしれないが、レムの評論に何か意味があるとは思えない。レムはSF作家以外の何者でもないからだ。

さようなら、人間嫌いのレム。死んで、水のつまったべちゃべちゃの醜悪な肉体から解放されたあなたは、機械に生まれ変われたでしょうか、それとも情報の炎を放つ星になれたでしょうか。もうしばらくして人間の時代が終わり、宇宙の主役が交代して機械となったとき、その機械たちにあなたの慧眼が伝わりますように。もっとも……あなたが正しければ、おそらくぼくたちは、その交代が起こったことにすら気がつくことはないのでしょうけれど。でもその一方で、かれを悼む人々に対してレムなら平然と言い放つだろう。悲しむことはない、と。

「機械に生まれ変われた」というのは『砂漠の惑星』のことを言っているのだろうし、
「情報の炎を放つ星になれた」というのは惑星ソラリスのことを言っているのだろう。
しかし、レムはおそらくただの「人間嫌い」ではなかったはずだし、宇宙の主役が機械になってしまうことを望んでもいなかっただろうし、自分自身が機械になりたいとも思ってなかったはずだ。

レムが嫌っていたのは、例えばウェルズの『宇宙戦争』のように、地球に人間が住んでいるのならば、火星には火星人が住んでいるはずだ、とか、火星人がいたら、地球人が民族どうし戦争するように、戦争するはずだ、文明人が野蛮人を征服するように、火星人のほうが地球人よりも文明が進んでいれば、先に火星人が地球に征服に来るはずだ、という「あまりにも人間的」な発想だ。19世紀のヨーロッパ帝国主義的と言ってもよい。

このウェルズ型の素朴な「宇宙人」「侵略者」は、徐々に洗練されていく。人間と良く似た宇宙人がいて、地球を侵略しに来て、時には宇宙人と地球人の間に恋愛が成立して、子供まで出来てしまうという、実にご都合主義的なSFも出てくる。そのご都合主義は、イデオンのように宇宙人も地球人ももともとは同源であるとか、キューブリックのように、キリスト教的な、地球のすべての生命体のスーパーバイザーとしての知的生命体の存在を仮定したりする。『未知との遭遇』のように、戦争に倦んだヒッピーたちは人間の形に似ているが友好的な宇宙人像を求めた。すべて馬鹿げたことだとレムは思っただろう。そんな人間に都合の良いような、人間の想像力で説明が付くような宇宙人が存在するはずがない。人間の都合で宇宙人を作るな。それは、人間の都合で神を作ってきたのと同じくらい馬鹿げたことだ。人間固有の発想に囚われている。先入観を捨てて、人間的発想から脱出しなくてはホンモノのSFは書けない。レムはそう思ったはずだ。

宇宙には人間とはまったく異なる知的生命体が存在するに違いない。それはどういうものであり得るか、ということを(20世紀に生まれた人間という限界の中で、ぎりぎりまで)追求したのがレムという人だった。他のSF作家が「あまりにも人間的」なSFばかり書くのでそれに反発したのがレムであったというだけであり、そここそがレムのオリジナリティーなのである。作家が自分のオリジナリティーに過度にこだわり、必要以上にのめり込むのは当然といえる。レム自身が人間嫌いだったとは言えない。

飯田規和氏の訳はともかくとして、『ソラリスの陽のもとに』という早川文庫の邦題は余計だ。「ソラリス」はもともと「太陽」の意味でかぶってるし、「ソラリスの陽」ではまるでソラリスは恒星のように思える。まあ、惑星をソラリスと名付けるのがそもそも問題だが。『ソラリス』だけでわかりにくいというのであれば『惑星ソラリス』くらいにしておくのが一番良かろう。『ソラリスの海』というのは冨田勲の命名。

タルコフスキーが『ソラリス』をあんな恋愛ものに仕立ててしまった理由はよくわからない。レムは反発してそして抵抗を諦めたのに違いない。『僕の村は戦場だった』で、白樺林の中でマーシャがくるくる回るシーンがある。そしてあの暗く冷たい湿地帯のイメージ。まさにポーランドの原野だ。『ソラリス』では東京の首都高をぐるぐる走ってる。要するにタルコフスキーはそういう映像表現が好きな人であって、それを『ソラリス』に投影すればあんなふうになるのだろう。としか言えない。

ハリウッド版の『ソラリス』はまあどうでもよい。タルコフスキー版からヒントを得て、きちんとしたSF恋愛ものにリメイクしてしまった。ヒロインは悲劇のアンドロイドとして描かれている。和食がみんな醤油味なのと同じで、ハリウッドの『ソラリス』はハリウッド味のハリウッド映画、としかいいようがない。

レムの『ソラリス』だが、導入からして完全にSFである(タルコフスキーとはまったく違う!)。第一章の終わりで、スナウトの手に干からびた血がこびりついている、という記述がある。この日の朝、ギバリャンは死んだとスナウトは言っているのだから、スナウトがギバリャンを殺したか、あるいはその死に深く関わっているだろうということが暗示される。うまいひっかけだと思う。読者はこのひっかけにひっかかってさらに読み進めざるを得なくなる。多くの謎が第一章で投げかけられるが、そのほとんどすべてがあとで裏切られていく。そこがまあこの作品のおもしろさだろう。第二章ではさらに昔死んだ恋人が現れる。これがだめ押し。ここまで読めばとりあえず読者は中盤までは読み進めるだろう。レムの他の作品にもあると言えばあるが、これほど巧妙な仕掛けはしてないと思う。

私もこういう仕掛けを使わなきゃならんなと思わせる。

ま、しかし、レムの代表作が『ソラリス』なのはタルコフスキーの映画のせいであって、『ソラリス』が真に理解されたからではないし、『ソラリス』だけに恋愛要素があるからでもないだろう。『ソラリス』は確かに傑作だが、その評価はかなり本質からずれていると思う。

『ソラリス』の多くの部分は、おそろしく退屈だ。恋愛なんて一言も語られない。ここはレム自身による作品解説になっている。タルコフスキーもハリウッドもこの部分はざっくり省略している。多くの読者もそれらはよみとばしているのではないか。

真ん中あたりに「バートンの飛行日誌と調査委員会における証言」というエピソードがある。巨大な人間の赤ん坊がソラリスの海の中で、ソラリスに操られて無意味な動きをしているという場面などが出てくる。実は『ソラリス』は他を一切読まず、ここだけ読んでもわかる。『ソラリス』という話の核とも言える。もしかするとレムは最初にここを書いて、前後を付け足したのかもしれない。

レムはおそらく科学者に憧れた人だっただろう、宇宙時代を開拓したソビエトという国家に現れた科学者たちに。少なくともレムの作品にはオカルト的な、不条理な、ファンタジー的な要素はひとかけらもない。100%ピュアな科学小説だ。レムにしてみれば、この作品は小説の体裁をした「学術論文」あるいは「哲学書」という性格のものであり、徹底的につじつまを合わせ、ネタばらしをしなくては気が済まなかった。実は私も「エウメネス」や「マリナ」ではそうしている。前半部分は読者サービス。中盤以降の解説部分は、たぶん読者にはあまり興味ないのだろうと思うが、著者としては書かずにはおれない。

finis vitae, sed non amoris

などと言った、恋愛小説めかした文句は結局は飾りなのだ。

じっくりやるしかない。

まあ、そんなに売れない。

しかたないことだ。しばらく放置しよう。
無料キャンペーンも考えたが、たぶん効果は無い。
ダウンロードされても積んどかれて終わりだ。
多少なりともレビューを書いてもらわなきゃ意味がないのだが、たぶん書かれないだろう。

たとえば「マリナ」だけ常時無料というのは少しやってみたいのだが、アマゾンが公式に認めていることではないし、
私としてはやらないでおきたい。

kdp も最初の頃は珍しがってレビューを書いてくれる人がいたが、
今じゃ電子書籍が多すぎていちいち見てレビューしてくれない。
今の時代に評価されることはないのは覚悟している。
しかしそのうち別の時代がくるかもしれない。
世の中はいまだにおそろしく保守的だ。
団塊の世代も、若者も、いまだに新聞とテレビに思想を支配されている。
特に「一部伏せ字」なんてのが売れてるのを見ると世の中はまだこれからずっと暗黒時代が続くのだろうと思わざるを得ない。未来に闇しか見えない。

実はまだちょこちょこ書き足している。
何年か後に、思い出して、最新版をダウンロードしなおしてもらえるとうれしい。

ほぼ完成した。

自分ながら、
どのくらい需要があるかまったく読めない作品になった。
普通、読者というものは、探偵・刑事物、江戸下町情緒もの、アキバ系電脳もの、
それぞれのジャンルに分かれている。
これらのてんでばらばらなものを一つにまとめてしまった。
どっちにしろだらだら加筆修正するのだが、もすこし待ってもらい、
twitter で告知するくらいのタイミングで読み始めてもらいたいと思う。

アキバ系としてはそれほど珍しいものではないだろう。

江戸下町的なものはいくらでもある。

探偵・刑事物としてはかなり異質なものだと思う。
女捜査官ものとしてはわざと読者に肩すかしをくわせている。

著者としてはこれらを組み合わせて今までにない作品を作った気でいる。

電脳都市が江戸の下町の真ん中に存在していることを多くの人は忘却している。
そこにわざと警視庁の女捜査官を送り込む。
そのトリッキーさを楽しんでもらいたいのだ。

文章には、非常に凝ったつもりだ。
文章をそれなりに書いてきて自分なりに練ってきた書き方なんで、五年前の自分には絶対書けない。
どんどんネタばらしすると工藤と山下の恋愛感情の機微も(機微なんで、はっきりとは書いてない)、自分的には割と凝ったつもりだ。
もしここがツボにはまらないとこの小説はつまらないだけだと思う。
舞台はごく見慣れた町並み、
登場人物はすべてごく普通の人、つまらない人、中途半端な人として描写してある。もちろん著者は逆に、その裏にあるアブノーマルさを読んでほしいのだ。
えっ。凡人の日常を描いたものなの、じゃ読まない、と思われる危険性はある。

書いてて思ったが、私はそれぞのジャンルに、つまり漁場にでかけて、
そこにコマセをまいて、釣りをする人間ではないのだ。
私自身そういう読書の仕方をしない。
少なくとも自分には面白いのだけど、どんな魚が当たるか自分でもわからない。
カテゴライズされたとたんに創作物は二次創作となって死ぬ、と私は思ってる。

筒井康隆が言ってたと思うが、小説とは Novel、何か新しいものなのだから、
今まであるものを書いても仕方ない。私には非常に賛同できる考えだ。

潜入捜査官マリナ

marina2

最初は「潜入捜査官エリカ」というタイトルで主人公は梅ヶ谷エリカという名だったのだが、
いろいろググってると、2010年に「悪貨」という小説が出てて、
主人公が花園エリカ。
それが2014年には黒木メイサがエリカ役でドラマ化されている。

どうも潜入捜査官でぐぐるとエリカという名前が良く出るなと思ってたら、これが元ネタだったらしい。
そしてたぶん無意識に私もどこかでそれを見てて、
意図的に真似たのではないが、なんとなく雰囲気でエリカにしてしまっていた。

まこれはまずいので他の名前を考えて、「潜入」捜査官だから、海のイメージを重ねて、
三崎マリナという名前にした。

表紙の絵を変えたりしてるので読むのはまだ待ってください。

新人賞に応募しようかどうか迷っていた。
ツイッターでアンケートとった際もKDPですぐ出すよりはまずどこかに応募したほうが良いという意見が多かった。
しかしまあいろいろ考えた結果さっさとKDPで出すことにした。
どちらかといえば Kindle Unlimited 用に書いた。
100枚ほどの長さだが、最後まで飽きずに読ませれば私の勝ちだ(笑)。
ミステリーは食わず嫌いというか、今度書いてみて、案外こういう探偵物、刑事物も面白いなと思ったのだが、私という書き手に広く興味をもってもらい、
少しでも自分の得意フィールドの歴史小説に読者を誘導するために書いた。
それが今回の当初の執筆動機。

昔、現代小説として試しに「墨西綺譚」というのを書いてみた。
一時期KDPでも出版していたが、今は全面的に手直しするため公開してない。
ていうか「墨西綺譚」は登場人物がやたらと出てくる割に展開が早すぎて読者がついてこれない謎の群像劇になっていた。
言われてみればその通りで、ひまを見て直そうとおもってる。
これに工藤襄という探偵みたいな探偵じゃないみたいなキャラが出てくるのだが、
今回「マリナ」に出てくる工藤は「墨西綺譚」とまったく同じである。
読んだことある人にしかわからんのだが、
「墨西綺譚」は平成15年頃が舞台。「マリナ」は今現在。
だから13年後の設定になるわな。
「墨西綺譚」はレバ刺しが禁止されるよりも前の話なのである。
守口というのも同じ登場人物。基本的に舞台も設定も完全に一致させている。
だから自分の中では「マリナ」は「墨西綺譚」のリライト作業の派生物(一部)ってことになる。

「探偵物語」で松田優作が演じるのが私立探偵の工藤俊作。
ここでも名前がかぶってるが、キャラ的には全然かぶってないと思う。

こういう女刑事物は世間では官能小説か大衆小説と相場が決まってて、
だいたいハードボイルドにお色気、つまりエログロなんだが、
「マリナ」は全然そんなんじゃない。
私立探偵も出てくるが推理物かというとそういうわけでもないと思う。ガンマニアテイストは単にフレーバーとして足しただけ。だからキャラもストーリーも退屈に見えなくはない、見えるだろう、まあふつう、見える。私自身刑法とか警察が詳しいわけではない。だからもともとこのジャンルが好きな人には絶対受けない自信がある。
で普通非公式・非合法な部署とか架空の組織とか近未来法改正があったみたいなのを仮定しないとこういう刑事物は面白くならんのだが、それも私は「マリナ」では禁じ手にしている。裏返せばそんなおもしろおかしい刑事とか捕り物なんて現実には存在しなくて、ミステリーがネタに行き詰まっている証拠なの。
名探偵コナンだってドラえもん化、水戸黄門化してる。ところてんにはところてんの需要がある。
相棒は頑張ってるほうかなあ。
でまあ私の場合意地でそういうツボをわざとはずして読者の期待をはぐらかさないと気が済まない。

あとあんまり書くとまずいところもあってそこはぼかしてある。
だから全体的になんかもやっとしているがあとは読者任せというか。

食卓の賢人たち

アマゾンで買った電気時計とかリモコンとかが続けて不良品で、
返品、交換することになった。
誰かが出品してるんじゃなくてアマゾン直営。
なんかもう自分がクレーマーか何かになった気分になるし。
届いた品が動かないと精神的に消耗する。
たぶんこういうのって店頭販売で不良品が多くてそういうの家電量販店とか秋葉のショップなんかからまとめて安値でアマゾンが買い取ってるんじゃないかな。
そういうのを返品・交換込みでネットで裁いている。
割と簡単に返品が効くんで、アマゾンとしてもそういう商売でいいんだって割り切ってやってんじゃないのかな。
まあねえ。
普通に量販店で手に入りにくいものを安値で買ってるわけだしリスクはあるわね。
高額な国産メーカー品だと返品理由も割と細かく書かされるみたいだが、
そうでないのはかなり適当だよね。
どうせパチモン買うなら一番安いやつにしといたほうが精神的ダメージは少ないかもね。
250円の得体の知れないリモコンとか絶対わかっててやってるよね。
まあ秋葉のジャンク屋みたいなもんだよな、この手のは。
そういやこないだタイムセールで買ったボクサータイプのパンツにもひどい目にあった。
遊びと割り切って買えばいいんだけどさ。

「食卓の賢人たち」は良書だ。
古代ギリシャっぽいフレーバーを文章にふりかけるのに重宝する。
こういうなんということのない、日常の食生活の空気感というのがね、
欲しいわけなんですよ。
フィクションにリアリティを持たすためにね。
てわけでいまだにちょこちょこ書き直してる。

kindle unlimited のおかげでときどき読まれているのがわかる。
以前にはなかったことだ。
そうすると自分でも気になって読み直すと書き直したくなる。
「将軍放浪記」は冒頭テンション高いんだが、途中でだれてくる。
そう、南北朝がどうしたこうした西園寺兄弟がどうしたこうしたとかそういうことを説明しているあたりで明らかにだれている。
以前は気付かなかった瑕疵が今は見える。
ていうか昔はこんな話だれが書こうが読もうがだれるに決まってるからって思ってこっちも書いてるんだが、定家の話とか調べてて、だんだん西園寺さんのことにも詳しくなってきて、
あれっ、こんな雑な書き方してたんだなあ、って自分で気付く。そうすると書き直さないわけにはいかない。

今川了俊なんかが北条時行は死んでないとか言ってて、
まあ彼は今川ですし。足利ご一家の一員なのにわざわざ北朝に不利な証言をしているわけだから、
信憑性がありそうじゃないですか。
ということは、北条得宗家は滅亡したんじゃなくて、
歴史の中にフェードアウトしていった、ってことになる。
頼山陽も「亦不知其所終」なんて書いててそれがまあこのブログのタイトルにもなっとるわけですけどね。龍ノ口で斬られたなんてことは書いてない。
そうすると時行を生かしといてやりたいなあなんて著者ごころがわいてくる。
「将軍放浪記」のストーリーもかなり大きく影響受ける。
ましかし旧作なんでもうこれ以上いじらないことにした。

「将軍家の仲人」もかなり書き換えた。
つまり、話の流れがすっと流れてない。澱んでるところがある。
間部詮房の生い立ちを説明しているところなんかが澱んでる。
つまり昔自分で書いててあまり乗り気でなかったところなんだな。
そゆところをちまちま直している。

すみませんがそんなもんだと思ってください。

西田詮房、十八で百五十俵の小姓となり、間鍋と改め、のちにさらに間部と変えている。
百五十俵はそれなりの御家人なのでたぶん親が死んだか隠居して相続したんだと思うが、
親は西田清貞は甲府藩士で小十人組格とあるから、
推測するにやはり百五十俵十人扶持くらいであったろう。
小十人組頭というのはたぶん下っ端が十人いる中間管理職、みたいなもんだ。
間鍋氏と西田氏。
どちらかが甲府藩士の家柄で、もう片方は浪人か何かで猿楽師もやっていたはずだ。
ま、猿楽師はたぶん西田だろう。
それをいやがって詮房は間鍋に変えた。
間鍋を間部にしたのはおそらく鍋松(徳川家継の幼名)と字がかぶっているせいだと思う。
鍋松は実は詮房がお喜代に産ませた子ではないかという話がここから出てくるのだが、
まあ疑えばきりがないが、どうだろうかね。
そういう話にしてしまうこともできなくはない。
調べ出すときりがない。

でまあ思うにね。
この五年間ほど作家のようなことをやってみたわけだ。
昔のコネを使って紙の本も出させてもらった。
ずいぶん出版業界にも詳しくなった。昔は素人同然だったわけだから。
で、読もうと身構えている人、
探している人はもうほとんど読んでくれたんじゃないかと思う。
私の書いたものを読む読者ってのはそんなにたくさんいない。
そっからさきにはなかなか広がらない。
たとえば、NHKの大河ドラマで主人公が新井白石か、間部詮房かとか、
まあ地味だからやる可能性は低いわな、
でもそんなことがあって、KDPで新井白石書いてるやつがいるっていうんで、
読まれる。読んでみたらなんか普通じゃない切り口でいろんなこと書いてあるってんで話題になる、なんてことはおきるかもしれん。
そういういつ当たるかしれない仕掛けをできるだけいっぱいしかけておく。
そういうやり方しかもう残ってない気がする。
様子見ですよ。

ミステリーでも書いてみようかと思った。
警視庁捜査一課の女性刑事なんかを主人公にしようかとか。
でもまあ、調べてて、私は警察組織になんの興味もないし、
私より警察詳しい人とかいくらでもいるし、
殺人とか詐欺とかやくざとか性犯罪とかそんなものを扱う仕事なんて自分から関わろうなんて全然思ってなくて、書いてて気持ち悪いってことがわかって、やっぱ書くのやめた、ってことになる。
同じように、ラノベとか動物ものとか青春ものとか、或いは漫画とか、売れ筋のもの書いて注目集めて、それで自分の好きなジャンルに誘導するって手も考えたが、めんどくさいなやっぱり歴史物だけ買いてようってところに落ち着いてしまう。
まあ、なんか面白いネタを思いついたらともかく今後も書かないだろうなと思う。

「エウメネス1」を読んだ知人から「砂漠のような風景しか思い描けなかったのが残念でした」というようなことを言われたのだが、
サンテグジュペリの「星の王子様」「人間の土地」なんかをオマージュにして、
砂漠を体験したことのないわたしが、必死にリアルな砂漠を表現してみたんですよ!
それがあの「ゲドロシア紀行」なんです。
喜んでよいのか悪いのか悩んだ。
まあ彼はこんなところ読まないだろうとたかをくくってこそっと書いてみる。
「エウメネス1」はギリシャ感が乏しくてインドとか砂漠ばっかりで、
だからこそアレクサンドロス大王のアナバシス(遠征記)なわけだが、
ギリシャの話が読みたかった人には肩すかしだろうと思う。
「エウメネス2」と「エウメネス3」ではギリシャっぽさを大サービスしたつもりだが、
それでもまあ、ほとんどの舞台はギリシャの外なんで、
だからアレクサンドロス大王はギリシャ以外の土地で活躍した人なんだから仕方ないんだけど、
たぶん読んでいる人は釈然としてないんだろうなって思っている。
ていうかアレクサンドロス大王がいまいち人気がないのは、
ギリシャムードに乏しいからなんだよな、ギリシャ世界にどっぷり浸ることができないの。
そりゃそうだよ。アレクサンドロスなんだから!
アレクサンドロスはむしろイスラム世界でイスカンダルとか呼ばれて超人気が高い。
完全にアジアの王なんだよな、アレクサンドロスは。
そこんところが西欧史観に毒された日本人にはわからんのですよ!

「エウメネス4」はたぶんスパルタがメガロポリスで敗北する話をメインに、
オリュンピアスとエウメネスが初めて出会う話をサブに書くことにしたいなとか、
エウメネスとアルトニスが再会してなんか痴話げんかでもやらせるかなとか、
思っている。
しかしそれと同時並行でガウガメラの戦いがあるわけで、
ガウガメラを「エウメネス5」にもっていきたい。
そしてその続きはいよいよソグド。
ラオクスナカ、アマストリー、ヴァクシュヴァダルヴァ、アパマの話にいける。
それが「エウメネス6」になり、やっと「エウメネス1」につながる。
この辺まででたぶん1000枚は超える。超大作。

で、スーサに戻って来たあと、ハルパロスとのすったもんだがある。
アレクサンドロス大王死ぬ。
まあ、私としてはここらへんで終わりにしたい気持ちで一杯です。

ディアドコイ戦争始まってエウメネスやアマストリーが死ぬまで。
ちょっとそこまで書いてたらどんだけ長編になるのか想像もつかない。

イソクラテス弁論集

この解説がいきなり「カイロネイアの敗報」から始まっているのだが、
私は暫くこの文章をイソクラテスが書いたのかと思って読んでしまったのが、
なんだかおかしい。
あきらかにおかしい。
読み返してみたら解説が始まっていたのだけど、
イソクラテスがデモステネスを褒めるはずがない。

> デモステネスの演説がもつ決断の力強い表現は、都市国家が最後に放った閃光であり、ギリシャの弁論術の最高の達成である。

などというはずがない。
イソクラテスはデモステネスに対して真逆の評価をしていたのに違いないのである。

私に言わせればデモステネスはただのバカだ。

カイロネイアの戦いが終わって酒に酔ったフィリッポス2世がデモステネスの決議文を韻文にして吟じたなどというのは、これも誰が言ったかわからない俗説だし(フィリッポスはデモステネスを嫌っていたが、そこまでするとは思えない)、
イソクラテスがカイロネイアの敗報を聞いて断食して死んだというのも後世の俗説である(イソクラテスがそんな馬鹿なことをするはずがない。イソクラテスの死とカイロネイアの戦いがどちらが先かは不明)。
むろんそういう俗説もあると参考までに取り上げるのはかまわないが、
いきなり解説の冒頭にもってくるとはどういうことか。
ミスリーディングだろ?

この、「イソクラテス弁論集」という極めてマイナーな本を読もうという人は、
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、或いはデモステネスと続いた正統派の古典ギリシャ哲学に、多少の疑問をもち、イソクラテスに同情的な人ではなかろうか。
フィリッポスと同時代で、彼の理解者であったイソクラテスの生の声を聞きたくてこの本を読むのではなかろうか。
この本の解説はその期待を完全に裏切る。
この本をさらに読む気が失せるほどに。
この本の著者は、単に学術業績のために、
ペルセウスの英文をたまたま翻訳しただけなのではなかろうか?
イソクラテスに対する「愛」は持ち合わせてないのだろう。

少なくとも、イソクラテスの本なのだからイソクラテスのことを、
客観的に、中立公平に、学術的に論じてほしい。
そして単に今日定説となっていることを羅列して解説とするのではなく、
イソクラテスという人の意義を掘り下げてみせてほしい。
でなければ解説など邪魔だ。

それから、「平和について」と題するイソクラテスの演説も、
これはデモステネスのような主戦論者に反対して言っているのだ、
マケドニアと争うな、テーバイと同盟してマケドニアと戦争するなど大きな間違いだと。
そしてこれは大国ペルシャに対して言っているのでないことも他の演説によってわかる。
ペルシャの脅威に対してはギリシャ人全体の問題として、一致団結して、
適切に対処しろと言っているのだから。
そりゃそうだ。
スパルタ、テーバイ、アテナイ、マケドニア、ギリシャ人が内輪もめしてる場合じゃないよと。
さっさとギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主と認めて外敵ペルシャに対抗しろ。
イソクラテスはそう言っているのだから。

月報の論評は日本の「平和憲法」や「九条」と絡めて話してしまっている。
おかしな左翼思想を持ち込むなよ。
そういうコンテクストで戦争を放棄しろ、平和条約を結べ、などと言っているわけではない。
読めば明らかではないか。

ともかくイソクラテスファン(そんな人がいるかは知らぬが)が読んだら、腹を立てるに違いない。しかしおそらくそんな人は今のギリシャ哲学研究者にはいないのだろう。

それはそうとイソクラテスがスパルタという「王国」を褒めているのは面白い。
結局マケドニアはスパルタと最終的に雌雄を決することになったのだが。
まあ、マケドニアが好きなイソクラテスが同じ王国のスパルタを好きなだけかもしれないが。
そんな彼がアテナイの敗戦を悲しんで断食して死ぬはずない。

アリストテレス

アリストテレスなのだが、
生まれ故郷のスタゲイラはともかくとして、
アタルネウス、ミュティレネ、ペッラ、アテナイなど、
マケドニアにとって重要な拠点にばかり住んでいる。
これは単なる偶然ではない。
アリストテレスはフィリッポス2世とアレクサンドロス大王のエージェントであった可能性が高い。
転居したというよりは、これらの拠点を往還していたのだろうと思う。
王太子時代のアレクサンドロスの家庭教師というのは形式的な肩書きだっただろうと考えられる。

アリストテレスはアタルネウスの僭主エウブロス、ヘルミアスの系統の人で、
ヘルミアスが死んだあとに彼の後継者になったと考えられる。
エウブロスはおそらくアルタバゾスやメントルらと同じ世界の人で、
フリュギア・ヘレスポントス地方の船主で金貸し。
ヘルミアスはエウブロスの奴隷だったが、エウブロスの死後彼のシマを引き継いだと考えられる。
そしてアリストテレスはヘルミアスの婿養子になってアタルネウスに住んだ。

アリストテレス Ἀριστοτέλης は αριστευς (best, noblest) と τέληεις (perfect, complete)
の合成語であり、この当時こんな名前の人はいない。
ソクラテスとかプラトンなどは、まあ当時の普通の人名だが、アリストテレスは後世付けられたあだ名、
というよりは弟子たちが呼んだ美称だろう。
日本語なら「尊師」とでも言うところだ。
アリストテレスが生前この名で呼ばれていた可能性はほとんどないと思う。
後世アリストテレスにあやかって彼の名を名乗った人ならいるようだ。

ウィキペディアなどでは、τέληεις ではなくて τελος (purpose) だとしているのだが、
この二つの単語は明らかに同語源であって、しかも
Oxford Classical Greek Dictionary には purpose などという訳は挙げてない。

アリストテレスの本名だが、
彼の父と息子がニコマコスという名なので、彼自身もニコマコスという名であった可能性が大である。
そうすると『ニコマコス倫理学』は、アリストテレスの息子が編集したものだというのだが、
これこそはまず間違いなくアリストテレス自身の学問を記したものと言えるだろう。

アリストテレスがかくまで崇拝されているのは、
彼がフィリッポス2世やアレクサンドロスのもとで何か顕著な(しかし世には知られていない)功績があったからだろう。
かつ、アリストテレスがアレクサンドロスの教師であったことから、のちに、
ヘレニズム世界の百科事典が編纂されたときに、それを無造作にアリストテレス全集と名付けた。
後世の学者たちはこの全集をアリストテレス自身が全部書いたんだと信じた(というより、
「最高完璧全集」というタイトルが先にあり、最高完璧(アリストテレス)という名前の人が書いたんだと勘違いしたのかも)。

それでまあ、フィリッポス2世とヘルミアスは同盟関係にあって、
ヘルミアスはペルシャのギリシャ人傭兵隊長メントルの謀略によって捕らえられて死んだ。
アリストテレスはメントルとフィリッポスの間のエージェントだったと思われる。
アカデメイアに遊学したのはヘルミアスのおかげだろう。
ヘルミアスの死後、アタルネウスは放棄されて、アリストテレスはミュティレネに移り、
さらにマケドニアの首都ペッラに移り、アレクサンドロスが即位するとアテナイのリュケイオンに移っている。

アリストテレスの学問上の功績はないとは言えないが、
すべてはアレクサンドロスが死んだ後に作られたものだ。
つまり、世に言うように、
アリストテレスの教えによってアレクサンドロスがギリシャを統一しペルシャを征服して大王となったのではなく、
アレクサンドロス大王がヘレニズム世界を統一したことによって、
ギリシャ人によるペルシャ学の編纂事業が成り、
かつ大王の権威を借りてアリストテレスという大哲学者の偶像が作られたのである。

状況証拠的には、どう考えてもそういうふうにしかならない。
なぜこういう学説が主流にならないのか不思議だが、
西洋の学問の源泉が中世のキリスト教神学にあり、
その神学がアリストテレスの名を冠したヘレニズム哲学に呪縛されているからだろう。