タルコフスキーのソラリス

原作では中程に出てくる「バートン報告」が冒頭に持ってこられているのがきわめて興味深い。

先に、「バートン報告」こそが「ソラリス」の核であり、その前後は後から付け足したのかもしれない、などと書いたのだけど、タルコフスキーはそれに気付いていたか、或いはレムから直接聞いたのかもしれない。その「ソラリス」のキモであるバートン報告を省略することなく、むしろフィーチャーしようとしたのは良い。が、こんな台詞棒読みの謎シーンにしてしまっては、まったく生きてこない。前振りになっていない上に邪魔ですらある。レムの原作を読んだことがある人、特にまじめに読んだことがあるひとは、おやっと思って、そして腹を立てると思う。

主人公クリス・ケルヴィンはリトアニア人のドナタス・バニオニスが演じる。クリスの妻のハリー役はナタリア・ボンダルチュク。彼女がソラリスをタルコフスキーに紹介したという。スナウト役はエストニア人のユーリー・ヤルヴェト。クリスの父ニック役はウクライナ人のニコライ・グリニコ。

この他、後半でクリスの夢の中に若い頃の彼の母親が出てくる。この女性の意味もよくわからない。そしてこの夢を見た後、ハリーは置き手紙をしていなくなる。

冒頭はクリスの父ニックの家。叔母のアンナがいる。車でバートンとその息子が到着する。この家には少女と馬と犬がいる。この少女はアンナの娘(クリスの姪)であるらしい。クリスはバートン本人からバートン報告と調査委員会のビデオを見させられるのだが、そもそも原作ではクリスとバートンは出会ってないし、バートン報告のビデオなどないし、ニックもアンナも、馬も犬も出てこない。宇宙に旅立つ息子に「親の死に目にも会わないつもりか」などと父が怒ったりもしない。

バートンの息子は馬にびっくりする。タルコフスキー映画によく見られる雨や水辺の映像。もちろんこれらはレムの原作にはまったくないものだ。バートンは息子を連れて帰る。その際に東京の首都高をぐるぐる走るシーンが入る。今 youtube にアップされている東宝の日本語吹き替え版では、このバートンと会ったシーンは完全に削除されている。しかし首都高のシーンはツタヤで借りたDVDで見たことがあるので、私がかつてみたソラリスはも少し違った編集がされていたものとおもわれる。

廃仏毀釈

明治政府が発令した神仏習合の禁止は、廃仏毀釈運動にまでエスカレートした。

神道にもある程度の多様性があり、仏教との相性もさまざまだった。
神道の中でも例えば伊勢神宮のようなご神体とか神域、
物忌みをしなくてはならない斎宮などと関係が深いところは仏教と相容れない。
同じように斎宮がいる上賀茂神社もそうである。

神道がその純粋性、純潔性を保ち得たのはこの「物忌み」「穢れ」という神道固有のタブーのおかげだった。
タブーを否定することで世界宗教となった仏教と、
タブーを中核とする土着宗教である神道は、最終的に決裂した。
皇室行事の中核にもこの「物忌み」「穢れ」があって、故に、その中心部まで仏教の影響が及ぶことはなかったのである。
神道から見れば仏教は「穢れ」そのものであるからだ。
神道の本質は「穢れを忌む」ことであるという原点に立ち戻れば、
神仏分離という原則が当然発動する。
この信仰は千年を経ても風化しなかった。

天皇は神官であって仏弟子になることは許されないが、
上皇になってしまえば出家することができる。
同じように、伊勢神宮には仏教は侵入できないが、
神宮寺というものが伊勢神宮を取り巻くことなった。
ここまでは仏教が入ってきてもよい。ここから先はダメという線引きがなされるようになった。
天皇がいなければこのようなぎりぎりの基準が模索され、議論されることもなかったに違いない。
平安時代にはすでにこの慣例が確立していた。

しかしそういう明確な線引きができない神社では、
神道は仏教によって際限なく侵食されていく。
出雲大社や熱田神宮ですらそうだった。

八幡宮は、おそらくは渡来人が建てた神社であって、もともと仏教の禁忌が弱かったと思われる。
宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴丘八幡宮などは速やかに習合が進んだ。

明治の神仏分離で一番に影響をうけたのは、当然、神宮寺であった。
八幡宮は、武家の守護神ということで、国学の影響をもろにうけて、
仏教的色彩を意図的にぬぐい去ろうとした。
奈良の興福寺は春日大社との癒着が強すぎ、
また内山永久寺は石上神宮の神宮寺であり、
それがために攻撃された。

それ以外の仏教宗派では、比較的影響は少なかったはずであるが、
一部の狂信的な神道家が、明治政府の権威を笠に着て、たとえば県令という立場を利用して、
無茶な命令を出すこともあった。
しかし、神仏習合と同様に廃仏毀釈の主体は民間であったことはもう少し指摘され、
平田篤胤が提唱した国家神道理論にかぶれた明治政府のせいという見方は矯正されて良い。

神仏習合は長い時間をかけて、民間主導で、
しばしば由緒正しい神社の権威に寄生して肥え太ってきた文化的侵略である。
上田秋成も国学者ではあるが神仏習合自体が悪いとは考えていない
(というか、神仏習合にかなり同情的だった、と言うべきか)。
明治の廃仏毀釈に相当するのはかつての物部氏の反発であったり、
清盛の南都焼き討ち、信長の比叡山焼き討ちも一種の揺り戻し、
仏教勢力が力を持ちすぎると自然に起きてきた反発である。
特に江戸時代になって、檀家制度によって肥大華美となり、神道の権威にすりよった仏教は、
江戸時代の古文辞学、国学の発達によって、
ある程度まで見直される必要があった。

廃仏毀釈、或いは廃寺によって行き場をうしなった檀家は、
神道に改宗したり、寺を神社に改組したり、
神道系の新興宗教を立ち上げたりしたであろう。あまり意味のあることとは思えない。
また工芸品としての仏教美術をうしなうことにもなった。
ただ「廃仏毀釈」の是非を問う人たちのほとんどがこれを単なる愚挙と見做しているのは愚挙である。
仏教勢力は結局、GHPの農地解放によって、領主、地主としての地位を失って大きく衰退した。
その後、仏教そのものの衰退によって、
「無駄に多い」寺は存続の危機に立っている。

日本には寺が多すぎる。
江戸期にどれほど仏教が無秩序に肥大化していったか。
特に関東の人間にはそれがわからない。
平気で寺の隣に神社を建てたりする。
京都市街など見れば、寺と神社は明らかに区別されている。
その、神道と仏教は区別しなければならない、
という感覚に鈍感すぎる連中が関東には多すぎるのである。
神道も仏教もキリスト教も、冠婚葬祭は全部同じところでやれば良いという発想はわからぬでもない。しかしそれではダメだと思う人も関東以外にはたくさんいる。

鎌倉仏教の基礎を築いた北条氏は、
南宋の文化と文明を輸入するための方便として臨済宗を取り入れた。
しかし、民衆たちが、仏教を念仏と偶像崇拝の宗教にしてしまった。

もしキリスト教が神道と無秩序に混淆してしまったとしたら、
キリストと天照大神は同じだなどと神道の教義が説くようになったとしたら、
反発する日本人は少なくないだろう。
しかし仏教に関しては長らくこのような説が主流だったのである。

神道が念仏にも偶像崇拝にも、大伽藍建築の悪弊にも、
かろうじて染まらなかったのは幸いだった。

ハリウッド映画やアメリカドラマでは、よく夫婦が離婚する。
離婚した状態で物語が始まる。
或いは別居中である。
仕事はできるが夫としては頼りない男が主人公で、
ヒロインは別れた妻で、
子供は妻に取られてて、
困難を克服して夫婦はふたたび仲直りする。というストーリーになっているのがすごく多い。
ナンデヤネン。

一方で、主人公が軍人の場合には(退役軍人をのぞく)、彼は理想的な男であり、良き夫であり、
妻とも子とも仲が良い。
しかし軍人なので家を離れがちであり、
しばしば愛する妻に電話した後に死んだりする。

この扱われようの違いはなんだとおかしくなる。

アメリカでは、軍人は頼りない夫であってはならない。
そんなストーリーはタブーなのだ。

ソラリス

自分で小説を書くようになると、むかし読んだ小説が違って見えてくる。『ソラリス』を読み解くのはなかなか厄介だ。まず原作のスタニスワフ・レムという人がややこしい。『ソラリス』を読んだだけではよくわからん人だ。それをアンドレイ・タルコフスキーというソビエトの監督が映画化した。これまたよくわからん映画だし、映画版『ソラリス』を見ただけではタルコフスキーという人はわからない。

さらに『ソラリス』をよくわからなくしているのはハリウッド版の『ソラリス』なのだが、ハリウッドという存在をある程度知っていれば、このような脚色になるのは理解できるし、その知識に基づいてリバースエンジニアリングすれば元の『ソラリス』をある程度「復元」することも可能だ。

タルコフスキー『惑星ソラリス』:悪しき現実逃避映画。山形浩生もまたそのややこしさに目くらましされているように思う。もしかすると彼は東宝が配給した日本語吹き替え版を見たのかもしれない。この日本配給版は、冒頭で説明的なナレーションをかぶせたり、
意味深な前振りをざっくり省略したりしている。この前振りはラストと呼応しているわけだが、前振り抜きでラストだけ見させられると、どうしても山形浩生のように、

タルコフスキーは最後の最後でそこから逃げる。

という印象になってしまうだろうし、そこから

現実との直面を妄想との置換で逃げるやりかたのあらわれでもある。

という結論に導かれてしまいがちなのである。レム原作の『ソラリス』は現実逃避な話でもなければ、「愛が世界との関係の比喩になっている」作品でもない。最初から最後まで完全純粋なSFである。SFというか、物語仕立てにした、科学的手法に基づいた思考実験、というべきか。その「まな板」の上で「恋愛」が調理されているに過ぎない。この「まな板」はレムの他の作品と共通なものだから、それを知った上で『ソラリス』を見れば、ああ、レムは今回は「恋愛」をSF的手法で徹底的に切り刻んだわけだと、簡単に理解できるのである。

大嫌いです。冷たくて人工的で。だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。あんなの全部、口先だけのインチキです

変なことを言う、と思う。創作者はみな自分を狂気に追い込まなくてはならない。狂気の中に身を置かねばならない。いつも自分がほんとうに狂ってしまわないように自分の理性をコントロールしながら生きていくものだ。家族が好きかどうかということはあまり関係ない。それに妹に兄のことがわかるはずがない。親にも子にもわかるはずがない。映画監督の気持ちなんて。

それでまあ、山形浩生は律儀な人だから、レムの原作も読んでみたわけだ。感情なき宇宙的必然の中で:スタニスワフ・レムを読む。ところが彼はレムの小説ではなく彼が書いたSF評論を先に読んでしまったようだ。山形浩生は作家ではなくて評論家であるから、評論家としてレムを見ようとしたのかもしれないが、レムの評論に何か意味があるとは思えない。レムはSF作家以外の何者でもないからだ。

さようなら、人間嫌いのレム。死んで、水のつまったべちゃべちゃの醜悪な肉体から解放されたあなたは、機械に生まれ変われたでしょうか、それとも情報の炎を放つ星になれたでしょうか。もうしばらくして人間の時代が終わり、宇宙の主役が交代して機械となったとき、その機械たちにあなたの慧眼が伝わりますように。もっとも……あなたが正しければ、おそらくぼくたちは、その交代が起こったことにすら気がつくことはないのでしょうけれど。でもその一方で、かれを悼む人々に対してレムなら平然と言い放つだろう。悲しむことはない、と。

「機械に生まれ変われた」というのは『砂漠の惑星』のことを言っているのだろうし、
「情報の炎を放つ星になれた」というのは惑星ソラリスのことを言っているのだろう。
しかし、レムはおそらくただの「人間嫌い」ではなかったはずだし、宇宙の主役が機械になってしまうことを望んでもいなかっただろうし、自分自身が機械になりたいとも思ってなかったはずだ。

レムが嫌っていたのは、例えばウェルズの『宇宙戦争』のように、地球に人間が住んでいるのならば、火星には火星人が住んでいるはずだ、とか、火星人がいたら、地球人が民族どうし戦争するように、戦争するはずだ、文明人が野蛮人を征服するように、火星人のほうが地球人よりも文明が進んでいれば、先に火星人が地球に征服に来るはずだ、という「あまりにも人間的」な発想だ。19世紀のヨーロッパ帝国主義的と言ってもよい。

このウェルズ型の素朴な「宇宙人」「侵略者」は、徐々に洗練されていく。人間と良く似た宇宙人がいて、地球を侵略しに来て、時には宇宙人と地球人の間に恋愛が成立して、子供まで出来てしまうという、実にご都合主義的なSFも出てくる。そのご都合主義は、イデオンのように宇宙人も地球人ももともとは同源であるとか、キューブリックのように、キリスト教的な、地球のすべての生命体のスーパーバイザーとしての知的生命体の存在を仮定したりする。『未知との遭遇』のように、戦争に倦んだヒッピーたちは人間の形に似ているが友好的な宇宙人像を求めた。すべて馬鹿げたことだとレムは思っただろう。そんな人間に都合の良いような、人間の想像力で説明が付くような宇宙人が存在するはずがない。人間の都合で宇宙人を作るな。それは、人間の都合で神を作ってきたのと同じくらい馬鹿げたことだ。人間固有の発想に囚われている。先入観を捨てて、人間的発想から脱出しなくてはホンモノのSFは書けない。レムはそう思ったはずだ。

宇宙には人間とはまったく異なる知的生命体が存在するに違いない。それはどういうものであり得るか、ということを(20世紀に生まれた人間という限界の中で、ぎりぎりまで)追求したのがレムという人だった。他のSF作家が「あまりにも人間的」なSFばかり書くのでそれに反発したのがレムであったというだけであり、そここそがレムのオリジナリティーなのである。作家が自分のオリジナリティーに過度にこだわり、必要以上にのめり込むのは当然といえる。レム自身が人間嫌いだったとは言えない。

飯田規和氏の訳はともかくとして、『ソラリスの陽のもとに』という早川文庫の邦題は余計だ。「ソラリス」はもともと「太陽」の意味でかぶってるし、「ソラリスの陽」ではまるでソラリスは恒星のように思える。まあ、惑星をソラリスと名付けるのがそもそも問題だが。『ソラリス』だけでわかりにくいというのであれば『惑星ソラリス』くらいにしておくのが一番良かろう。『ソラリスの海』というのは冨田勲の命名。

タルコフスキーが『ソラリス』をあんな恋愛ものに仕立ててしまった理由はよくわからない。レムは反発してそして抵抗を諦めたのに違いない。『僕の村は戦場だった』で、白樺林の中でマーシャがくるくる回るシーンがある。そしてあの暗く冷たい湿地帯のイメージ。まさにポーランドの原野だ。『ソラリス』では東京の首都高をぐるぐる走ってる。要するにタルコフスキーはそういう映像表現が好きな人であって、それを『ソラリス』に投影すればあんなふうになるのだろう。としか言えない。

ハリウッド版の『ソラリス』はまあどうでもよい。タルコフスキー版からヒントを得て、きちんとしたSF恋愛ものにリメイクしてしまった。ヒロインは悲劇のアンドロイドとして描かれている。和食がみんな醤油味なのと同じで、ハリウッドの『ソラリス』はハリウッド味のハリウッド映画、としかいいようがない。

レムの『ソラリス』だが、導入からして完全にSFである(タルコフスキーとはまったく違う!)。第一章の終わりで、スナウトの手に干からびた血がこびりついている、という記述がある。この日の朝、ギバリャンは死んだとスナウトは言っているのだから、スナウトがギバリャンを殺したか、あるいはその死に深く関わっているだろうということが暗示される。うまいひっかけだと思う。読者はこのひっかけにひっかかってさらに読み進めざるを得なくなる。多くの謎が第一章で投げかけられるが、そのほとんどすべてがあとで裏切られていく。そこがまあこの作品のおもしろさだろう。第二章ではさらに昔死んだ恋人が現れる。これがだめ押し。ここまで読めばとりあえず読者は中盤までは読み進めるだろう。レムの他の作品にもあると言えばあるが、これほど巧妙な仕掛けはしてないと思う。

私もこういう仕掛けを使わなきゃならんなと思わせる。

ま、しかし、レムの代表作が『ソラリス』なのはタルコフスキーの映画のせいであって、『ソラリス』が真に理解されたからではないし、『ソラリス』だけに恋愛要素があるからでもないだろう。『ソラリス』は確かに傑作だが、その評価はかなり本質からずれていると思う。

『ソラリス』の多くの部分は、おそろしく退屈だ。恋愛なんて一言も語られない。ここはレム自身による作品解説になっている。タルコフスキーもハリウッドもこの部分はざっくり省略している。多くの読者もそれらはよみとばしているのではないか。

真ん中あたりに「バートンの飛行日誌と調査委員会における証言」というエピソードがある。巨大な人間の赤ん坊がソラリスの海の中で、ソラリスに操られて無意味な動きをしているという場面などが出てくる。実は『ソラリス』は他を一切読まず、ここだけ読んでもわかる。『ソラリス』という話の核とも言える。もしかするとレムは最初にここを書いて、前後を付け足したのかもしれない。

レムはおそらく科学者に憧れた人だっただろう、宇宙時代を開拓したソビエトという国家に現れた科学者たちに。少なくともレムの作品にはオカルト的な、不条理な、ファンタジー的な要素はひとかけらもない。100%ピュアな科学小説だ。レムにしてみれば、この作品は小説の体裁をした「学術論文」あるいは「哲学書」という性格のものであり、徹底的につじつまを合わせ、ネタばらしをしなくては気が済まなかった。実は私も「エウメネス」や「マリナ」ではそうしている。前半部分は読者サービス。中盤以降の解説部分は、たぶん読者にはあまり興味ないのだろうと思うが、著者としては書かずにはおれない。

finis vitae, sed non amoris

などと言った、恋愛小説めかした文句は結局は飾りなのだ。

じっくりやるしかない。

まあ、そんなに売れない。

しかたないことだ。しばらく放置しよう。
無料キャンペーンも考えたが、たぶん効果は無い。
ダウンロードされても積んどかれて終わりだ。
多少なりともレビューを書いてもらわなきゃ意味がないのだが、たぶん書かれないだろう。

たとえば「マリナ」だけ常時無料というのは少しやってみたいのだが、アマゾンが公式に認めていることではないし、
私としてはやらないでおきたい。

kdp も最初の頃は珍しがってレビューを書いてくれる人がいたが、
今じゃ電子書籍が多すぎていちいち見てレビューしてくれない。
今の時代に評価されることはないのは覚悟している。
しかしそのうち別の時代がくるかもしれない。
世の中はいまだにおそろしく保守的だ。
団塊の世代も、若者も、いまだに新聞とテレビに思想を支配されている。
特に「一部伏せ字」なんてのが売れてるのを見ると世の中はまだこれからずっと暗黒時代が続くのだろうと思わざるを得ない。未来に闇しか見えない。

実はまだちょこちょこ書き足している。
何年か後に、思い出して、最新版をダウンロードしなおしてもらえるとうれしい。