epub3.0

ワープロでルビを振ってからpubooのエディタにコピペするのが楽だなと思っていたのだが、
『新井白石』でそれをやったらフォントサイズがばらばらで困った。
そこで一からやり直すことにした。
すでにいろいろ追記してしまった後だったので、
ブラウザからテキストを一太郎2012承にコピペしようとしたのだが、改行が余計に入ったりしてあまり相性がよろしくない。そこでword2010にまずコピペして、それからフォントサイズや行間などを修正し、
puboo の編集画面から入力していく。

フォントはHGSゴシックM、フォントサイズは12にする。
これでコピペするとだいたいうまくいく。
ブラウザからwordにコピペするときに不要な半角空白文字が入るので置換ですべて削除する。
明朝体とか教科書体にすると、
『大塩平八郎』のように文字が汚くみえてしまうので、適当なゴシック体を使うことにした。

wordでは横書きにしておいた。
これを縦書きの一太郎にコピペして、epub 形式でエクスポートして
windows 用の epub3.0 reader である EAST espur reader で確認する。
または、google chrome 用の epub3.0 reader 拡張 readium で確認する。
firefox 用の epub reader プラグインは epub3.0に対応していない。
readium は epub リンクをクリックしただけでは開いてくれない。一度ダウンロードして、
iBooks のように書棚に追加してそれから読まなくてはならないのだ。
リンクを辿るとすぐ表示してくれる firefox の epubreader の方が仕様的には好きだ。

epub を Mac にコピーする。
espur についてくる kusamakura.epub もついでにコピーしておく。

iTunes の iBooks アプリは epub reader ではないらしい。謎の仕様。
iPad にも iBooks をインストールしておく。
iTunes のファイル→ライブラリ→ライブラリを追加(わかりにくい。App Store で有料で買う場合には親切でも、それ以外でコンテンツを追加しようとするとどこをどうすればいいか実にわかりにくい)、で epub を iTunes に追加する。
追加した epub を iTunes のデバイスのブックにコピーする。
そうすると iPad の iBooks でやっと epub が読めるようになる。

espur の kusamakura.epub は iBooks で読めた。
しかし、一太郎でエクスポートした epub は本文の1ページ目までしか読めない。
どうにもわからない。
一太郎のせいなのか iBooks のせいなのか。
espur や readium では問題なく読めるのだが。
どうも一太郎のせいのような気がしなくもないし、iBooks 独自仕様のせいのような気もする。

Mac で動く iBooks がなく epub も読めないという糞仕様にはあきれかえる。
とうぜん Windows の iTunes でも epub は読めないと思う。
いやそもそも Windows に iTunes をインストールしたくない。

Android の puboo アプリで epub を読もうとすると、aldiko という epub reader をインストールするようになっているのだが、この aldiko というのが、ルビにも縦書きにも対応してないとてもだめな子である。
私としてはもっとまともな epub3.0 reader が Android にも出て、
PCでもAndroidでもepubが自由にかつ安定して読めるような時代になってもらいたいものだ。
Apple の糞仕様には付き合う気力すらない。
できるだけ Mac とか iPad からは遠ざかりたい。

横書きではあるものの、puboo が生成する epub は iBooks でも普通に読める。
現時点では epub のエクスポーターとしてかなり実用性が高いと言える。

とりあえず[大塩平八郎](/~nagae/oshio.epub)を一太郎でepub3.0でエクスポートしたので確認してみてほしい。

御用提灯

ふと、御用提灯というのはほんとにあったのだろうか、
同心やら岡っ引やらが大勢あんなものを持って御用御用と言いながら捕り物をしたのであろうか、と疑問に思ったので、
つまりアレは時代劇にありがちなステレオタイプではないのかと思ったので、少し検索してみると、
なるほど青空文庫にいくつか事例があっていずれも戦前の時代小説。
その中で直木三十五の『[相馬の仇討](http://www.aozora.gr.jp/cards/000216/files/1716.html)』というごく短い話があるのだが、その四節目、少し長いが面白い語り口なのでまるごと引用すると、

 喜遊次が高座を降りて、楽屋――と云っても書割のうしろで坐る所も無い。碌に削りもしない白木を打交えた腰掛が二つばかり、腰を下して渋茶をすすっていると、

「喜遊次とは御前か」

 と背後からぴったり左手へ寄りそって立った男。田舎の同心だけは知っている。右手へ立つと抜討というやつを食うが、左手へ立つとそいつが利かない。

「ヘイ、手前」

「一寸外まで」

 と、云ったが蓆一枚撥ると外だ。四五人が御用提灯を一つ灯して立っているからはっとしたがままよと引かれる。何かのかかり合いだろう。真逆露見したのじゃあるまい。と思いながら役宅へつく。

 白洲――と云っても自い砂が敷いてあるとは限らない。赤土の庭へ茣蓙一枚、

「夜中ながら調べる。その方元佐々木九郎右衛門と申したであろうがな」

 さてはと気がついたが逃げはできない。白を切ってその上に又と、

「一向存じません」

 役人首を廻して、

「この男に相違ないか」

 と云うので、喜遊次ふと横を見ると、篝火の影から、

「確と相違御座りませぬ。九郎右衛門、よも見忘れまい。中川十内じや」

 と、中川十内。奉行又向直って、

「どうじゃ、その方にも見覚えがあろう」

「はっ」

 と云ったが、十内が「相違ない」と云ったのと、奉行が「どうじゃ、その方にも」と云ったのとは、間髪を容れない呼吸で畳み込まれた。それに応じて明快に、

「いいえ決して」

 とは中々云えない。誰でも「はッ」と出てしまう。その隙に又追かけて、

「縄打て」

 あざやかな手口、原町へ置いておくには惜しい役人と思ったが、敵討願と云うので、丁度来合せていた領主相馬弾正の御目附、石川甚太夫が自身で調べたのだ。

「原町」とはなんであろうか。よくわからんので冒頭から読み直すと「相馬の仇討」というのは戦前は有名な講談だったらしく、

> 「軍右衛門、廉直にして」、「九郎右衛門後に講釈師となる」
 廉直などと云う形容詞で書かれる男は大抵堅すぎて女にすかれない。武士であって後に講釈師にでも成ろうという心掛けの男、こんなのは浮気な女に時々すかれる。
 そこで、軍右衛門の女房は浮気者であったらしく、別腹の弟九郎右衛門といい仲に成ってしまった。寛延二年の暮の話である。

寛延というから吉宗の子家重が将軍の時代。
佐々木九郎右衛門は磐城国相馬郡中村藩の武士で軍右衛門の異母弟、軍右衛門の妻と密通した上に、その妻と逃げ軍右衛門の寝込みを襲って殺害する。
金も取ろうとしたが見つからないのでまごまごしていると、家臣の中川十内に見つかってしまい、逃げるが雨戸に刺さったままにした刀で身元がばれる。
十内は九州の佐柄(?)から博多、広島、大阪、京、江戸と探し回り、とうとう仙台で喜遊次の名で講釈師になっていたのを見つける。
九郎右衛門対軍右衛門の息子清十郎、加勢に中川十内、十内の弟弥五郎と一対三の試合となり、清十郎はめでたく仇を討つ、という話。
「原町」とは相馬郡原町村(現南相馬市)によるのだろう。
御用提灯を持っていたから町奉行か何かというわけではなく、相馬藩士というわけだ。
邸宅というのも、相馬中村藩邸か何か(仙台にまで藩邸があるか?)なのだろう。

で思うに、わざわざ御用提灯を振り回して御用御用と叫びながら岡っ引が捕り物をするはずもないと思う。
しないことはなかったかもしれないが、実際の捕り物というのはもっと地味だったのに違いない。
ルパン三世と銭形警部じゃあるまいし。
だが岡っ引が提灯振り回して御用御用と言っているほうが時代劇的にはわかりやすい。
しかし直木三十五はそうしない。そこが偉い。
さすがに直木賞の元になった人だ罠。
時代劇、時代小説だからと型にはまったものは書かなかった、ということではなかろうか。
直木賞というのはやはり彼のような時代小説をメインとするものなのだろうか。

菊池寛『[恩讐の彼方に](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html)』も主君の妾と不義密通して逆に主君を斬って逃げ、息子が日本中を探して仇討ちする、
というプロットであり、割と似ている。こういうのが戦前は流行っていたのだろうか。

宮将軍擁立説

徳川四代将軍家綱が嗣子なくして死去したときに、後継者としては、弟の綱吉、家綱より早く死んだ綱吉の兄で家綱の弟の綱重の子の綱豊、その他に、有栖川宮幸仁親王を宮将軍として迎えようという案もあったという。徳川実記に書かれているという。

有栖川宮幸仁親王は家康の血を引いているというので、調べてみると、家康の次男・秀康は結城家に養子に出たが後に松平家に復帰、その息子・忠直は越前松平家(福井藩松平家)当主でかつその妻は二代将軍秀忠の娘・勝姫。忠直と勝姫の娘で秀忠の養女となった亀姫(寧子)は高松宮好仁親王の妃。好仁親王と亀姫の子・明子は後西天皇の妃で、有栖川宮幸仁親王はその皇子である。たしかに、男系・男系・女系・女系・男系と来て家康の五代後の子孫なのである。

ここで一番問題になると思われるのは徳川宗主である家綱の遺志なのだが、これがまったくはっきりしない。血筋で言えば家光に一番近い綱吉であると徳川光圀や堀田正俊が主張したという。長子相続の原則にのっとれば綱豊(後の家宣)であるが、綱豊の父綱重(家綱の弟、綱吉の兄)はすでに死去していた。有栖川宮幸仁親王を推したのは大老酒井忠清。酒井家は三河時代からの譜代であるが、その主張に根拠なしとは言えない。

鎌倉幕府が宮将軍を迎えたのは、頼朝の子孫が皆絶えてしまったからであるが、家康の子孫は、親王・内親王を含めてけっこういたようである。ただし家康の血を引いた天皇はいまだいなかったはずで、いたらもっと大問題になっていただろう。いずれにせよ、頼家の子や実朝の兄弟らが死んだときほど必然性はなかったと思う。だって御三家だっているわけだし。血統が絶える心配がまるでないのに、わざわざ宮家から将軍を呼ぶか。吉宗に決まるときにもそんな議論があったのだろうか。

ただ、天下国家のためには宮将軍の方が都合が良いという考え方もあり得る。戦国の世であればともかく、血の近い遠いよりも、いっそのこと皇族を将軍に迎えた方が良い、外様大名や浪人者などから文句の出ようも無い、一気に天下は静謐になる。たぶん遅かれ早かれ公武合体は成るのだから、今一気にやってしまえ、という考えはあったかもしれない。豊臣秀吉だってわざわざ摂家になったのだから、ゆくゆくはそうしたかったのに違いない。

堀田正俊が稲葉正休に刺殺されたのは、稲葉の個人的遺恨という説が有力だが、堀田と対立した綱吉(もしくはその側近の柳沢など)の陰謀であるという説もある。また、綱吉を擁立した堀田を恨んだ有栖川宮幸仁親王派か綱豊派、大老の酒井らなどということもあり得よう。事件の現場に居合わせた大久保忠朝・戸田忠昌・阿部正武などの老中らが、口封じのために稲葉と堀田を一度に始末したと考えられなくも無い。よくわからんねえ。

しかし puboo が重くて困る。最近はときどきつながらないし。

従甥

メモ。

稲葉正休は政吉の子。政吉は正勝の弟。
正則は正勝の子。正則の娘が堀田正俊の妻。
つまり、正則と正休はいとこである。
正休にとって正俊はいとこの義理の息子となる。
いとこの息子のことをいとこ甥というらしい。
ややこしい。

迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、
江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、
桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、
品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。
品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、
ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。
ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。
直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。
ちょうど慶応大学の辺りである。
ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。
この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。
おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。
大名行列とか。
しかし、農工商は右の道を通る。
東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。
ここから中原街道に分岐する。
しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。
そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。
第二京浜とはなんぞや。
戦前の昭和に開発された国道らしい。
第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。
これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。
よくみんな迷わず道を走れるものである。