月別アーカイブ: 2012年1月

うひ山踏み

以前[一番うまいところをよけて食えと](http://tanaka0903.net/?p=5323)などと言うものを書いたが、 またしても『うひ山踏み』を読んでみることにした。 『うひ山踏み』はおそらく宣長を学ぼうと思う人が最初に読むものではなかろうか。 以前は岩波文庫にもあって、絶版になってしまったようだが、割と入手しやすかった。 宣長の印象というのはこの『うひ山踏み』から来るものが大きいと思う。 宣長全集でも第一巻の一番最初に掲載されている。 だが、これはいかにも誤解を与えかねないものだ。 『うひ山踏み』は宣長が『古事記伝』を書き終えて、七十になろうとして弟子も大勢いて、 彼らに請われてしぶしぶ書いたものであり、 宣長が自分から書きたくて書いたことではない。 たぶんいちいち問われて答えるのが煩わしいので文書化したのだろう。 ただひたすら弟子に読み聞かせてわかりよいように書いてあるだけである。 中には筆が走って言いたいこと言いまくってる箇所(後半の歌論など)もあるが、 全体としては、宣長にしては分別くさい退屈な内容だ。 まず、賀茂真淵を恩師として敬う形に書かれているのだが、あまり本質的ではないことだ。 古事記・日本書紀・万葉集を学べなどということも、宣長の学問が体系化してから言い出したことであり、 いわば老学者の教訓的なものにすぎない。 この辺を最初に読んでしまうと、宣長はまず第… 続きを読む »

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後白河の后

後白河の后はけっこう複雑だ。 親王時代に源懿子を后とするが、 懿子が死んだのが1143年、生年は1116年とされている。 西行が1118年生まれなのでそれより年上であり、 親王は1143年に16歳。 懿子は27歳。 ちょっと信じられない。何かの間違いではなかろうか。 親王の側からの必然性とか政略結婚の必要もあまり考えられないし。 初婚だとすると25歳くらいまで独身だったのか。 なんかおかしいなあ。 再婚というのならまだわかる。 後白河の皇子の二条天皇も二代后を入内させているし、そういう傾向があったとしても不思議はない。 にしても女性の方があまりにも年上過ぎないだろうか。 姉さん女房というのなら光源氏の本妻もそうだが。 皇子と后の婚姻はどちらも十代前半というのが普通だ。 当時25歳まで独身ならば明らかに婚期を逃しており、一生独身でもおかしくない。 当時の観念では初老というに近く、婚活すらしないだろう(いや、初老で結婚する人もいるだろうが)。 タイミングが変だ。まあいいや。 二条天皇を産んですぐに死んでしまう。 で、藤原忻子は1155年入内なので、懿子が死んでから12年も後だ。 子供もいない。 後白河即位と同時に入内している。 俊成はこの忻子の付き人だった。 あまり重要なポストではなかっただろう。 忻子の妹にいわゆる二代后こと藤原多子がいる。 後白河の弟・近衛天皇と、子の二条天皇の二人… 続きを読む »

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千載集

千載集を読んでいるのだが、なかなか面白いなあ、歌がというよりも、時代背景が。 藤原道長、赤染衛門、紫式部、和泉式部、清少納言、藤原公任などが多い、というか、目立つのは、先の勅撰集の流れというのもあるかもしれんが、 俊成の文学趣味を反映しているのかも。 後白河院の歌が多い。 千載集は後白河院の院宣によるものであるから、当たり前といえばいえるが、 彼は歌人とはみなされておらず、そもそも歌をそれほどたくさんは詠んでないはずだから、特別待遇といえる。 選者俊成自身の歌を三十も四十も入れるように命じたのは、案外自分の歌が多いのを恥じたからかもしれぬ。 式子内親王は後白河の皇女。 上西門院は後白河と崇徳と覚性法親王の実の姉。 待賢門院は後白河と崇徳と覚性法親王の実の母。 上西門院も、待賢門院も、自ら歌は残してないが、その二代続いたサロンには、 待賢門院堀河や上西門院兵衛と言った女流歌人が多い。 俊成の活躍の場はこのサロンが中心だったのではなかろうか。 千載集には崇徳の歌もたくさん採られているが、後白河と崇徳は保元の乱で戦争までした仲である。 しかし、千載集編纂のころにはすでに崇徳は崩御しており、後白河は崇徳に個人的に恨みもなく、 したがって千載集に採るのに不都合がなかったのだろう。 後白河の性格もあるかもしれない。 崇徳も覚性も歌人として名高いのになぜ後白河だけ歌が下手だったのだろうか。 不思… 続きを読む »

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類題集

宣長に『安波礼弁』というものがあるが、これは宣長が京都から松坂に帰ってすぐに寄稿されたものだという。 だから、「或人、予に問て曰く」と冒頭にあるのは、 松坂に帰ってから誰かに聞かれたというよりは、帰郷直前くらいに、 同輩らと議論していてそのように問答があった、と解釈すべきだろうと思う。 その頃のことを、落ち着いてノートにまとめてみたくなったのだ。 『排蘆小船』の方も同じような成立に違いない。 『安波礼弁』を宣長全集で見ると非常に短くて欄外の書き込みなどがあって、 『排蘆小船』よりも未完成なメモ書き程度に見える。 著述という意識は少なかっただろう。 しかし、宣長のいわゆる「もののあはれ」論の嚆矢にあたるものであり、極めて重要だ。 上の書き出しに続いて、 俊成卿の歌に 恋せずは 人は心も無らまし 物のあはれも 是よりぞしる と申す此のアハレと云は、如何なる義に侍るやらん、 とある。この歌は『長秋詠藻』という俊成の私家集にだけ採られているもので、 自薦の歌であるから、俊成のお気に入りではあったが、しかし、勅撰集に採るにははばかられる何かの理由があったのかもしれない。 何しろ彼は『千載集』の選者だったのだから、入れようと思えば入れられたはず。 『長秋詠藻』は『千載集』とほぼ並行して編纂された。 上の俊成の歌に、西行の 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮 は非常に似てい… 続きを読む »

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異風に落ちる

宣長の歌論というのは、複雑で壮大だが、どうもすっきりと納得できないところがある。 宣長は新古今の頃の和歌が一番良い、と言っている。 そういう評価をする人は多い。 しかし、では、新古今的な歌を詠めばよいと言っているかというと、必ずしもそうではない。 宣長の場合は、新古今の歌人たちは古今後選拾遺を学んだので新古今的な歌が詠めたのだから、 学ぶのは古今後選拾遺であるべきだ、新古今を学んで新古今的な歌を詠もうとすると異風に落ちる、 などといっている。 古今支持派の意見、例えば香川景樹や高崎正風なども、根っこで言っていることはだいたい同じだろう。 新古今は面白いが奇矯過ぎる。 真似しようと思っても真似できるものではない。 だから基本に戻って古今を学ぼう、と。 正岡子規が言っていることも根本では同じだ。 古今や新古今は良いとして、その後が糞すぎる、と。 事実新古今を学ぶのは容易ではない。 定家、後鳥羽院、西行などはそれぞれ個性が強い。どれが新古今と言う定形がない。 二条派だって、定家の真似をしろとは誰も言ってない。 ただ、定家を本歌として二次創作しろと言っているにすぎない。 新古今の後、和歌は自然と二条派に収束していった。 僧侶階級に理論家が現れ、 歌論が発達し、類題集が編纂され、題詠や歌合などのルールが確立されていった。 二条派への反発も、京極派などであったが、やがて多様性は失われていった。… 続きを読む »

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秋の夕暮

題しらず さびしさは その色としも なかりけり 槇立つ山の 秋の夕暮 (寂蓮 1139-1202) 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮 (西行 1118-1190) 西行法師すすめて、百首詠ませ侍りけるに 見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮 (定家 1162-1241) この『新古今』に並んで収められた三つの歌の成立をどうとらえるのか。 詞書によれば、西行の歌があって、それに対して定家が返歌を求められた形になっている。 従って、西行より定家が後なのはわかる。 では西行は寂蓮の歌を本歌として詠んだのだろうか。 さて、そうだろうか。 年の順で言えば、寂蓮は西行の21歳の年下、定家はさらに23歳年下。 定家は西行よりも44歳も年下である。 西行の歌は1187年に成立した『御裳濯河歌合』に入っており、 定家の歌は1186年にできた『二見浦百首』に、 寂蓮の歌は1191年成立『左大臣(良経)家十題百首』入っているという。 『御裳濯河歌合』は西行の自選集だから、詠んだのはもっと昔かもしれない。 定家は西行を本歌として、寂蓮は定家と西行を本歌として詠んだのだが、それがわかるとすっきり理解できる。 寂蓮はしかも定家という実子が生まれるまで俊成の養子であった。 やや複雑だが、いずれも歌道の家の人間であるのに、その間に挟むように、西行の歌があるのはなにやら… 続きを読む »

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字余り

以前書いたことの繰り返しになるが、 「なぜ宣長は『源氏物語』が読めるようになったのか」という問いに対して、 「人妻への片思いがあったからだ」「熱烈な恋愛を経験したからだ」などという答えを用意することには、反対だ。 そういう論法に従えば「なぜ宣長は和歌を理解できたのか」「なぜ宣長は古事記を読めたのか」という問いに対しても、 「若き日の大恋愛と失恋があったからだ」などというへんてこりんな答えを導き出さねばならぬ。 やはり、宣長は天才であったから、和歌の本質を理解し、『古事記』も『源氏物語』も読めた、といった方がすんなりくる。 字余りについて最初に明確に指摘をしたのは、やはり宣長であった。 彼は千載・新古今から破格の字余りが用いられるようになり、特に西行に顕著であるとみているが、非常に鋭い観察だ。 千載和歌集の選者は藤原俊成、新古今は後鳥羽院である。 特に後鳥羽院は西行の天才を愛しており、そのため西行の歌を積極的に採り、かつ自分も「まねてみた」のであろう。 たとえば千載集では、西行の歌で露骨に字余りなのは もの思へども かからぬ人も あるものを あはれなりける 身のちぎりかな くらいしか見当たらないのが、これはまた変な歌だ。「もの思へども」でなく「もの思へど」でも同じだし、 その方が字余りにならない(「ものおもへど」でも六字のようだが、母音が連続する部分は一音とみなすから、五字相当である… 続きを読む »

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エルトゥールル

始祖オスマンの父はエルトゥールルというが、彼はすでにアナトリアに進出していたらしい。 エルトゥールルで検索かけると「エルトゥールル事件」ばかりがひっかかる。 英語版wikipediaによれば、エルトゥールルは1230年にメルヴからアナトリアまで400の騎馬とともに移動した。 そこでルームセルジュークの王によって武将に取り立てられて、東ローマ帝国との国境を任地として与えられたという。 1230年ということは、フビライが死んでオゴデイがモンゴルのハーンになったばかり。 バトゥによる西征が始まるよりも前である。 あるいは、1230年というのは概数であって、 エルトゥールルはバトゥのヨーロッパ遠征軍の中にいたのかもしれない。 なんか面白いなあ。 だいたいこんな具合ではないか。 エルトゥールルはバトゥとともに西へ向かった。 1241年にオゴデイが死ぬと、エルトゥールルも故郷のメルヴに帰ろうと思った。 しかし、バトゥがカスピ海沿岸のサライを都としてキプチャクハン国を建てると、 エルトゥールルも帰国を諦めてアナトリアで同族のルームセルジュークに仕えることにした。 まあ、曖昧な伝承しかないそうだから、このくらい脚色してもよかろう。 1157年にサンジャルは死去する。 彼には女子しかいなかったことになっているが、 その娘の中の一人がエルトゥールルを産んだ、とかいう話にすると面白そうだな。 『セルジュ… 続きを読む »

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セルジュークの系譜

セルジューク朝の高祖SeljukにはMikhail、Yunus、Musa、Israelという四人の息子が居た、ということになっている。 このうちオスマントルコの始祖OsmanはIsraelの末裔であり、 Israelの家系はルーム・セルジューク、つまり、アナトリアに定住したセルジュークの子孫といわれている。 アナトリア定住はセルジューク朝のスルターンであるアルプ・アルスラーンが東ローマ帝国をマラズギルトで破って以来進んだということになっている。 しかし、ほんとだろうか。 一番気になるのは、Israel、Yunus、Musa、Mikailなどの名前が、 セルジュークの家系の中で浮いているということだ。 Yunus はアラブ語で、日本語訳聖書的に言えば「ヨナ」のこと。 英語では Jonas など。 Musa はモーセのこと。 スレイマーンはソロモンのことだが、スレイマーンという名前は、 おそらくは中東のキリスト教からイスラム教に入ってアラブ語化したものであり、 ユダヤ人に限らず、アラブ人にも多く見られる名前である。 ユヌスもそうだろう。 セルジューク王族の名前が、トルコ語由来ではなく、 アラブ語由来のユダヤ系の名前であってもおかしくはない。 他にはダーヴード (David、ダビデのこと)などがある。 しかし、それはアラブ世界に侵入して、 首長がスルターンと呼ばれるようになった後のことの… 続きを読む »

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ユニバーサルスクロールではまった。

左手でトラックボールを操作して上下左右にスクロールして、右手でペンタブのペンを持って、 あと、intuos4のホイールでズームしようと思ったのだが、なかなかうまくいかない。 まず、ロジテックの setpoint 6.32 というのが、何度やってもインストールに失敗する。 仕方ないので、4.80という古いやつを拾ってきたのだが、新しいのがすでにインストールされているから、 インストールを終了しますと言って、インストーラーが動いてくれない。 windows の普通の方法でアンインストールしてもダメ。 で、ネットで検索してみると、同じことで悩んでいる人は割といるようで、 regedit で logitech で検索かけて全部消せとか言ってるのでやってみたら、 なんとか4.80をインストールできた。 6.xx というのは要するにオンラインインストールができるというだけで、 4.xx と大して違わないらしい、と思われる。 で、いろんなアプリケーションでためしてみたのだが、 ブラウザや表計算ソフトなどでは割とまともにこのユニバーサルスクロールってやつが機能するのだけど、 肝心のグラフィックソフトでは、スクロールして欲しいときに領域を移動してしまったり、 マウスホイールではズームしてくれるのにintuosのホイールではしてくれなかったり、 と、なかなかうまくいかない。 こういう操作の複雑なやつの… 続きを読む »

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