以前[一番うまいところをよけて食えと](http://tanaka0903.net/?p=5323)などと言うものを書いたが、
またしても『うひ山踏み』を読んでみることにした。
『うひ山踏み』はおそらく宣長を学ぼうと思う人が最初に読むものではなかろうか。
以前は岩波文庫にもあって、絶版になってしまったようだが、割と入手しやすかった。
宣長の印象というのはこの『うひ山踏み』から来るものが大きいと思う。
宣長全集でも第一巻の一番最初に掲載されている。
だが、これはいかにも誤解を与えかねないものだ。
『うひ山踏み』は宣長が『古事記伝』を書き終えて、七十になろうとして弟子も大勢いて、
彼らに請われてしぶしぶ書いたものであり、
宣長が自分から書きたくて書いたことではない。
たぶんいちいち問われて答えるのが煩わしいので文書化したのだろう。
ただひたすら弟子に読み聞かせてわかりよいように書いてあるだけである。
中には筆が走って言いたいこと言いまくってる箇所(後半の歌論など)もあるが、
全体としては、宣長にしては分別くさい退屈な内容だ。
まず、賀茂真淵を恩師として敬う形に書かれているのだが、あまり本質的ではないことだ。
古事記・日本書紀・万葉集を学べなどということも、宣長の学問が体系化してから言い出したことであり、
いわば老学者の教訓的なものにすぎない。
この辺を最初に読んでしまうと、宣長はまず第一に、
賀茂真淵に多くを負う門人の一人であって、古事記・日本書紀・万葉集をことさら大事にする、
と感じてしまう。
で、だいたいこの最初の部分だけ読んでわかったような気になって、ああつまり宣長とはそんな人なのだなと合点して、あと読むのをやめてしまうだろう。
宣長の膨大な著述に目を通すなど無駄だと思って。
宣長は七十間近になって耄碌していたわけではないが、老人の繰り言的な言い方になってはいる。
何度も言うようだが、宣長は、室町時代に確立した(書道や華道や茶道や能狂言などの室町時代が生んだ古典芸能と同じ意味での)歌道の中に居た。
そうした場合、自分がどうにかこうにか歌を詠めるようになること、人前で恥をかかない程度に歌が詠めるようになること、できれば気の利いた歌を歌会で読んだり、著作に掲げたり。後世に歌人として名を残すような良いできばえの歌を読詠めれば詠みたいと、
つまり、日常生活の中での創作活動やサロンにおける詠歌が一番肝要であって、
歌をどれだけ「鑑賞」「論評」できるかということはさほど重要ではない。
であればこそ、『古今集』や『新古今』などはよけて、
『千載集』や『新勅撰和歌集』や、その後応仁の乱まで淡々と続いた勅撰集に学べと言っているのだ。
江戸時代における和歌は室町文化の精華であって、
生の『古今』『新古今』ではないし、まして自由に感情を述べるためのメディアでもない。
それを前提に読まねばわけがわからない。
思うに、『万葉集』『古今』は真似ようとしても時代が古すぎて近世人がやるとおかしな具合になる。
『新古今』には西行や後鳥羽院、定家など癖の強い歌人の歌がまじっているので教育上問題がある。
それ以外の勅撰集に採られた西行や定家の歌などは割と平淡でつまらないがしかし真似てもさほど害がない。
しかし『玉葉』『風雅』は為兼のせいで『新古今』をさらに奇抜にしたような歌がたくさん採られている。
これらは「異風」であるから真似てはならない。
室町初期の頓阿の『草庵集』や、やはり室町期の類題集の『類林愚抄』は歌道の手本としてそつなくまとまっているので、
自分で歌を詠むための参考書として使うとよい。
とまあ、こんな具合に言いたいのだろう。
ま、そういう宣長のもろもろがよくわかった上で読むぶんにはよくまとまった彼の思想をよく表した書だとは言えるかもしれん。
今の短歌は、五七五七七に思ったことをそのままいえば良い、というような、室町時代の裏返しのようなことを言っているが、
どちらも両極端なだけで、どちらが良いということも言えない。
宣長のところへ学問を習いにくる、門人になろうと来る若者たちは様々だったろうが、志望動機が宣長と同じだった人はほとんどなかったろうと思う。これまた宣長が誤読される理由の一つかもしれない。人々は宣長を歌人だと思ってくるわけではない。歌を習いにくるのではない。国学の大家だと思ってくる。賀茂真淵の第一の弟子だと。当代一の国学者だと。だんだんと尊皇攘夷思想が盛んになってくるから、最初からそういうつもりで、国学者になろうと思って、たとえば平田篤胤なのが近づいてきたのに違いない。
宣長は、だから『うひやまぶみ』で、学ぶ分野も志望動機も人それぞれだと、自分の嗜好を押しつけるのは控えた。明らかに弟子たちの期待していることと、自分が少年の時の気持ちが違っているからだ。宣長はまず和歌に興味をもった。なぜ和歌を好きになったかはよくわかわないが、おそらく王朝文化、京都文化に対するあこがれのようなものだろう。生け花や茶道を好きになるのと何も違わない。
本人の好みという以上に特に理由はいらないだろう。
少年の頃からその嗜好は変わらない。
和歌は古語で書かれているから古語を学ぼうと思った。宣長は古文辞学の才能があった。おそらくは歌人としてよりも。結果的に彼は国学者となったのだ。最初から国学者になろうとしていたはずがない。でも我々は彼が子供のころから国学に興味があったと思いがちだし、子供の頃はともかく学者となってからは国学に一番関心があったと思いがちだが、しかしそれは違う。和歌を詠むのに必要だから国学を学んだのだ。それがたぶん真相だ。