世襲の効用

社会システムというものが何もなかった中世においては、
政治にしても社会保障にしても芸事にしても、
何か世襲という形にしなくては持続性を持たなかった。
世襲でない、皆に機会が与えられて競争ができる状態のほうが優れているというのは、
社会システムが完備している現代だから言えることなのだ。
天皇家にしても将軍家にしても歌道の家にしても、みな家というものを作って「実体化」
しなくてはならなかった。
「血統」というもので相伝を守って行かねばならなかった。
一旦、「家」「血統」というものが確立したら、それをさらにいろんな伝説で理論武装し、
身内で結束しなくてはならなかった。
個人崇拝が、秘伝の教義がそこに生まれる。

それが、勅撰選者を世襲した定家の運命だったのだ。
定家個人の業績というものももちろんあるのだが、定家がなした一番大きな業績は選者を世襲したということだ。

世襲は今の時代にも案外効用がある。社会システムがいまだに不完全だから、古き良き「血」というものが補うのである。

三種の神器の呪術性

『虚構の歌人』では承久の乱のことを日本最大の黒歴史と書いた。
後堀河天皇が三種の神器の権威だけで即位したのは律令制が否定されて古代の呪術が復活したからだと。
歴史を巻き戻したからだと。

ましかし、改めて思うに、三種の神器はそれまでも政争の具に使われてきた(花山天皇退位の時、安徳天皇入水など)、
のだが、承久の乱で三種の神器が単なる皇位継承の手段として使われたことで、
完全に呪術的価値を失った、とも解釈できる。
また律令制も崩壊した。
承久の乱はまさに、呪術性も律令制も破壊して、武家政権と封建社会をもたらした。
その危うい転換点を北条泰時という天才がうまく連結した。
不連続になったはずの日本の歴史を、完全に溶接してみせたのだ。
泰時があまりにも天才なので私たちは承久の乱も泰時も、長い日本の歴史の中で見落としてしまうくらいだ。
皇位継承というものが北条執権により純化され後世不朽に伝えられた、といえる。
このことによって承久の乱は黒歴史を転じて白歴史にした、と言えなくもない。

泰時に比べて、世の中をぐちゃぐちゃにしてしまった清盛や足利氏やその後の戦国武将のほうが目立っているのは、
歴史の皮肉というものであろう。

雲居に紛ふ沖つ白波

藤原忠通

> わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、
検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。
「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。
「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、
「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

> かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

> 左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

> おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

> 新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

> わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、
在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。
この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。
ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、
保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。
帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、
まあ時期的にあり得んだろそれは。
崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。
頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。
左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。
藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。
順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。
そうやって、
なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。
室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。
まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)
であるという説。
これもどうでも良い話。
ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。

新続古今集

21代勅撰集の最後、『新続古今集』の仮名序に

> しかるに前中納言定家卿はじめてたらちねのあとをつぎて、新勅撰集をしるしたてまつり、前大納言為家卿また三代につたへて続後撰をえらびつこうまつりしよりこのかた、あしがきのまぢかき世にいたるまで、ふぢ河のひとつながれにあひうけて家の風こゑ絶えず、

とあり、これは『虚構の歌人』でも指摘したのだが、
勅撰選者が三代世襲したのは承久の乱という非常事態があったためで、
定家はもっとも幕府寄りの歌人であったから、俊成を継いで独撰したのである。
また為家ももっとも幕府寄りの歌人であったから、定家を継いで独撰した。
このことが歌道を硬直させたのは極めてなげかわしい事態であったが、
むしろこのことによって、
歌道の家の世襲というものが初めておこり、
それこそが定家の最大の功績なのである。
定家の偶像は「血統」「家」というものを何よりも重視する中世人に必要とされたものだったのだ。
それは「天皇家」「摂関家」「将軍家」に続いて日本人が発明した「歌道の家」というものなのだった。
為家は歌はうまいが何か独創的な歌人というわけではなかった。それもまた世襲ということに都合がよかった。

これに反発した(というより分岐しようとした)のが為家の息子の京極為兼だったが、
彼は後継者を残すことに失敗した。そして血筋を残すことに成功した二条為世から二条派が残ったのだ。

今日の私たちから見れば馬鹿げてみえるが、
しかし現代人ですら定家崇拝者はたくさんいて、彼らは無意識のうちに血統というものをありがたがっている。

> そもそも参議雅経卿は新古今五人のえらびにくははれるうへ、この道にたづさひてもすでに七代にすぎ、その心をさとれる事もまた一筋ならざるにより、ことさらに御みことのりするむねは、まことに時いたりことわりかなへる事なるべし

これは新続古今集選者の飛鳥井雅世が雅経から七代目だと言いたいのだ。
飛鳥井家は為家と縁組みして二条家を創始した。
すなわち新勅撰集から新続古今集までは、二条家が勅撰ということを独占していたのであり、
そうでない場合にも為兼などの為家の子孫が選者となったのである。

応仁の乱によって勅撰が途絶したのはまさにこの二条家、二条派の責任だ。
彼らの歌道が完全に行き詰まってしまったからだ。
足利氏も疲弊しきっていた。
足利将軍家は和歌が大好きだったがこの頃にはもうお金が続かなくなっていた。
しかし足利氏がパトロンとなることもなく、二条家がいなくとも、
日本には元気な武家が生まれつつあった。
武士も良い歌を詠むということは『虚構の歌人』で泰時などの例を見てもらった通りだ。
しかし細川幽斎など(彼も足利氏だが)歌の才能があるにも関わらず、
いつまでも二条派に追随して古今伝授などにこだわったのはおろかとしか言いようがない。
太田道灌は良い歌人だった。
明智光秀や織田信長などは連歌をやっていたのだから、勅撰集くらい作っておかしくない。
後水尾天皇の時代になっても勅撰集が復活しなかった理由は、今もよくわからない。

ところで「ふぢ河」というのは関ヶ原を流れる川のことらしいのだが、なんで「ふぢ河」なのだろう。

> 美濃国 関のふち河 絶えずして 君につかへむ 万世までに

『古今集』あそび歌。まあ、単なる歌枕だわな。

> 行く水の あはれと思へ つかへこし 一つ流れの 関のふぢ河

『続後拾遺集』1125 入道前太政大臣。誰だよ(西園寺公経か?)。
意味は、歌道の家を一筋に守って仕えてきました、と言いたいわけだ。

『虚構の歌人』を改めて読み直してみたが、これはもうね、書いては削り、書いては削りで、
最初は百人一首の謎みたいな話だったのが藤原定家伝みたいなものになり、
それから定家と禅みたいな話になりそうになり、
さらに承久の乱とか北条泰時の話が書きたくなり、
それじゃまとまらないからとざっくり消して「小さくまとめた」結果なのだが、
組み版がInDesignではなくてIllustratorだったので死ぬほど苦しんだし。
ルビとかどんどん勝手に変えられてしまうので困った。

そう、藤原定家伝+歌論を書こうということに企画会議ではまとまっているのに、
私がそれ以外のものもあれこれ書きたがり、まとめきれなかったのが最大の問題。

『虚構の歌人』は、まあ紙の本で初産だったから仕方ないと思って読んでもらうしかない。
いたるところで破綻し分断しててしかも直しようがない。
「ユニーク」な本ではあるよな。
「奇書」のたぐい。
部分的にはよくまとまっているところもあるが、全体としてきわめて記述不足で、
分かる人にはわかるかもしれないが、
普通の人には何を言ってるんだろうこの人みたいな文章になっちゃってると思う。
まあ、書き直す機会を与えてもらえるのならば一生かけて書き直したい。
『定家の禅』と『承久の乱』は書きたいネタだ。
重源、栄西、泰時、面白いネタだ。

それに比べると今度出るシュピリ初期作品集なんかは、うまい具合の長さにまとまってるし、
解説がかなり長めだが、
それもまあ必要だからその長さになっているともいえる。
完成度は高いと思う。
シュピリの他の作品を読んでいくうちに書き直したくなる箇所が出てくるかもしれないが、
まあこれはこれでおしまいにして良い気がする。
精神衛生的には良くできた本だ。
ただまあこれを一般読者が読んで面白いかというとどうだろう。
定家に比べれば簡単だから読めるが内容が暗すぎて宗教的すぎて読むのがかなり辛いと思う。
そこを我慢して読める人には面白いだろうと思う。