跋文
これが名を「まくらの山」としもつけたることは、今年秋の半ばも過ぎぬるころ、やうやう夜長くなり行くままに、
老いのならひの明かし侘びたる寝覚めねざめには、そこはかとなく思ひつづけらるることの多かる中に、
春の桜の花のことをしも思ひ出でて、時にはあらねどこの花の歌を詠まむと、ふと思ひつきて、一つ二つ詠み出でたりしに、
こよなくものまぎるるやうなりしかば、良きこと思ひえたりとおぼえて、それより同じ筋を二つ三つ、あるは五つ四つなど、
夜ごとにものせしに、おなじくは百首になして見ばやと思ふ心なむつきそめて、詠むほどにほどなく数は満ちぬれど、
この何かしを思ふとて、のどかならぬ春ごとの心のくまくまはしも、尽きすべくもあらで、なほとさまかくさまに思ひよらるる、はかなしことどもを、
うちもおかで詠み出でよみいでするほどに、またしもあまたになりぬるを、かくては二百首になしてむとさへ思ひなりて、
なほ詠みもてゆくままに、またその数もたらひぬれば、今はかくて閉ぢめてむとするに、思ひかけざりしこのすさみわざに、
秋深き夜長さも忘られつつ、明かし来ぬる夜ごろのならひは、この言草のにはかに霜枯れていとどしく長き夜は、
さうざうしさの今さらにたへがたきにもよほされつつ、夜を重ねて思ひなれたる筋とて、もとすればありし同じ筋のみ心に浮かびきつつ、
歌のやうなることどもの、多く思ひ続けらるるが、おのづからみそ一文字になりては、またしも数多くつもりて、すずろにかくまでにはなりぬるなり。
さるは、初めより皆そのあしたあしたに思ひ出でつつ、ものには書き付けつれば、もの忘れがちにて漏れぬるも、これかれと多かるをは、
しひても思ひ尋ねず、ただその時々、心に残れる限りにぞありける。
ほけほけしき老いの寝覚めの心やりのしわざは、いとどしく、くたくたしく、なほなほしきことのみにて、さらに人に見すべき色ふしも混じらねば、
枕ばかりに知られてもやみぬべきを、さりとてかいやり捨てむこと、はたさすがにて、かくは書き集めたるなり。
もとより、深く心入れてものしたるにはあらず、皆ただ思ひ続けられしままなる中には、いたくそぞろきたはぶれたるやうなること、
はたをりをり混じれるを、教え子ども、めづらし、おかし、興ありと思ひて、ゆめかかるさまをまねばむとな思ひかけそ、
あなものぐるほし、これはただ、
> いねがての心の塵の積もりつつなれる枕の山と言の葉
の霜の下に朽ち残りたるのみぞよ
寛政十二年十月十八日 本居宣長
草稿
跋文草稿に
> 花はしも 夢にも見えて いたづらに しげき枕の 山ざくらかな
草稿に
> をりしもあれ 雲も嵐も をさまりて 花の盛りを のどかにぞ見る
> みな人の 惜しむさくらは 花のみか 枝さへ葉さへ 朽ちやすきかな
> さくら花 池のかがみの かげもよし 積もる頭の 雪は見ゆれど
> 花と言へば 桜と人の 知ることは ならふたぐひの なければぞかし
> 春ごとに 時もたがへず さくら花 あだなるものと たれか言ひけむ
> 雪とだに 見るほどもなく 消えにけり 雨の降る日に 散れるさくらは
> さりがたき さはりある日も さくら見に いざとさそへば 出で立たれけり
> 秋よりも 長しとぞ思ふ 春の夜も 花見るころは 明くる待たれて
> さくら花 明けなば見むと 待たるるに 春の夜はなほ みじかくもがな
> 今更に 春のさくらの 別れまで 秋の別れに 思ひ出でつつ
> 冬の来て 降れるを見ても 友待たで 消えし桜の 雪をしぞ思ふ
> 契りおきし 人は待つとも さくら花 今しばし見む 春の夕暮れ
> さくら花 折りかざさせて 見てしがな 春の夜渡る 月人をとこ