イギリス王位継承順位

イギリス王位継承順位。男系でも女系でも良く、継承順位の下位のほうには、よその国の王とかも含まれてしまう。だから、継承戦争で、王様がブルボンからハプスブルクになったりハプスブルクからブルボンになったりするわけだ。

その王位継承(領地などの財産相続)の法律の解釈で戦争がおきてそれが継承戦争。やれやれ。

王の姓名

現在のスウェーデン王の名前は、カール16世グスタフであり、その前はグスタフ6世アドルフだった。明らかにグスタフもアドルフも姓ではない。ベルナドッテ朝とのことだが、ベルナドッテも姓というわけではなさそうだ。北欧の王の名はこのように即位前は名A・名B・名C・・だったのが、即位すると名A・X世・名Bとなる例が多いようだ。

わけわからん。もしかすると、いや、たぶん確実に、西欧の人名には姓という概念が無いか、希薄なのだろう。姓がないから、親と同じ名前を子につけたがる。名が姓を兼ねる、もしくは名がどの親の子かを表している。ある意味、極めて原始的な名前の付け方だ。で、それでは紛らわしいから、息子の名前が父や祖父やご先祖様までずーっとくっつけて組み合わせたような長い名前になってしまうのだ。東ローマには姓(というか王朝名)というものが一応あったような気がするが、もしかすると過去にさかのぼって学術的に王朝名を決めたのかもしれん。

ああもう、わけわからん。

アラブ人の名前が、子の名 ビン(イブン、ベン等とも) 父親の名、となっている方がまだ整然としているわな。そういや、中国人には姓があるがそれは中国が典型的なエクソガミー(外婚)社会だからだ。というか、エクソガミーがないところには姓もないか、希薄なのかもしれんな。

そうかそうか、昔、中国には、姓だけがあり、姓は女系で、氏は官位だったと。姓をもってたのは貴族だけだったと。なるほど。しかし、トーテムとかエクソガミーは、その由来は宗教が発達する以前の禁忌(タブー)であり、未開社会に固有なものであるから、貴族か庶民かというのは関係ないはずだ。だから、最初、中国にトーテム(母系で継承され、同じトーテムに属する者どうしは性的に交われない byフロイト)の部族があって、それがなにかの理由で支配階級(貴族)となって、それがだんだんと一般化していったのかもしれんな。

日本のウジ・カバネも一種の官位だわな。官位が世襲されてウジとなり、ウジの下の階層がカバネ。後の世では、土地の領主となってその土地の名を姓にしたりとか。

たぶん、こういうことだ、最初のグスタフとかアドルフとかが王朝の中で何番目だったがで番号を付ける。しかし、たまには二番目の名前まで一致していることがある。たとえば、フランツ・ヨーゼフとかヴィットーリオ・エマヌエーレとか。そうすると、フランツ1世ヨーゼフとはせずにフランツ・ヨーゼフ1世となり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世となる。カール16世グスタフというのも、もし仮に、昔、カール・グスタフという王がいたら、カール・グスタフ2世とかになったのじゃないかと思うが、カール・グスタフ16世になるやもしれん。

あああ、わけわからん。

関心の無い時代

南北朝や室町時代が面白くて料理の仕方によればとても良いものができるのは間違いないが、
現代日本人がこの時代に興味を失って実に久しい。
室町音痴になってしまっている。
北条氏はせいぜい時宗までであり、足利氏は尊氏、義満、義政、あと関心が高いのは義昭くらいだろう。
一度そういう状態になってしまうと、人の関心を呼び覚ますまでの労力が半端ないことになる。
剣豪将軍として義輝を掘り起こした人がいてその努力は敬服するに値する。

で、北条氏末期の状態だけど、必ずしも、足利氏宗家支族が北条氏得宗家および支族よりも優勢になったからだとか、
足利氏の方が新田氏よりも優勢だったとか、両統分立がどうしたこうしたとか、
なんかいろいろ理屈は付けられるけど、
やはりどれが決定的というのではない。
そうやって疑い出すと承久の乱で北条氏が圧勝したのもわからんような気になってくる。

やはり、北条氏の治世が長くなって、北条氏や足利氏などが大きく育ちすぎて、人間関係が複雑になりすぎて、
宗家と分家の関係がぎくしゃくしはじめて、
宗家による独裁体制がうまく機能しなくなってきた。
そこへ皇統分立というのが口実になって内乱に発展した、ということだろう。
承久の乱にしても、固定化した身分や社会というものがうざくなったから起こったことではあるまいか。
後鳥羽院と北条氏の力関係というよりも。
権威と権力が未分化な社会から、軍事行政統治機構というものだけで存続しえるようになった画期的な事件だわな。
社会が少し進歩した証拠だ。

たとえば、鎌倉攻めでは最初に新田義貞が稲村ヶ崎の切り通しを破ったことになっている。
龍神が助けたはずがない。
たまたま新田に内通した北条方の武将がいて、切り通しを通してやったか、由比ヶ浜を守備するはずの艦船が無抵抗だったか、
とか、そんな事情だったのではなかろうか。

鎌倉と福原は良く似ていたが、それは、比較的狭小な天然の要害になっていたからだと思う。
それ以前に日本には城らしき城はなかった。
福原遷都は日宋貿易の都合というよりは、保元・平治の乱の反省に基づくものだ。
鎌倉に幕府を開いた理由もまた同じだろう。
中国式に町全体を城壁で囲うような労働力もなければ技術もないので、
比較的それに近い地形の場所を城塞都市にしようと思ったのではなかろうか。

鎌倉と福原はしかし同じような弱点があった。
町全体を守備するのは広すぎて、たとえ守りが堅くても「内通者が出たとき」「政治的に弱みがあるとき」対処できないのだ。
ある程度、守備側の人間関係が良好でないと守り切れない。
しかし、戦争中に人間関係に頼るのは不確定要素が大きすぎる。
基本的には中国の春秋戦国時代の城塞の攻防戦に近いものであろう。
城が落ちるのは、単に城の土木建築上の問題ではない。

だから、次第に山城や、もっと労働集約的で機能的な平城などになっていったのではなかろうか。
一ノ谷の合戦や鎌倉攻めで防御が破られたのはおそらくそんな理由だと思うのだ。

足利氏内部でのまとまりもなかったし足利氏がとびぬけて優勢だったわけでもなく、新田もすごく大したことあるわけではなく、
北条氏の残党も全然力を持っていた、義満による南北朝統一とか日明貿易というのも、
なんかすごいことのように言われているが多少調整能力があった程度だったようにも思われる。

たとえて言えば、室町時代というのは、主従関係がどろどろに解けてしまって、古代天皇制の中央集権から、
地方分権に完全に移行した時代だと言える。
天皇がいなければ国家のていをなさなかっただろう。
政治が乱れたようにみえるのはそのせいで、実は単なる無政府状態だった。特に関東など地方では。
天皇(と公家)が居たから国とか都というものが、政治的な実体は伴わないが、存在したのではないか。
そうしてみると、室町幕府を手本に作られた徳川幕府というものも、実質的には、どろどろにとけた地方分権状態だった、
と言った方がより実体を言い得ているかもしれん。
国とか都などといった中央政府が存在しなくてもすんだ幸せな時代だったとも言える。

それから、皇国史観というものが消滅したあとで、天皇家をまともに主役として描ける作家や脚本家が絶滅してしまったと思う。
まして親王を主役で描ける人はいるまい。
以仁王や護良親王などはけっこう良いキャラなのに。
他にもサブキャラで内親王などに面白い人はいるが、では内親王をヒロインにドラマ作るかということはしない(せいぜい和宮くらいか)。
武士や民間人しか主人公で描けない体質になってしまった。
だもんだから、その反動で、韓国の疑似歴史ドラマが流行るのではなかろうか、とすらかんぐられる。
さらに、世の中は歴史蘊蓄ばかりが発達して、ますますフィクション仕立ての歴史というものが描きにくくなっているように思う。

歴史の連鎖

川越素描で、

> だいたい日本人の好きな日本史というのは戦国か幕末維新である ・・・ それから、神話時代から平安鎌倉まではロマンもあって好きな人も多い。江戸時代は時代劇に使われる機会が多くて親しみやすい。比較的人気がないのは南北朝、室町である。特に建武の新政から応仁の乱までのぐちゃぐちゃした辺りが好きだというのはよっぽどの物好きである。

> どうしても室町の時代背景を書かねばならぬ。特に応仁の乱の頃のひどく人間関係が複雑で、スターもヒーローもアイドルも居ない泥仕合の時代を書かねばならぬ。

> 菜摘自身は、足利将軍家や室町時代がさほど嫌いでもないのだが、一般人はそうではない。嫌いである以前に無知無関心である。そういう連中にくどくどと説明しなくてはならないのが億劫なのだ。先日も清水の「特論」の講義で菜摘がかちんときたことがあった。清水が言うには、「南北朝や室町時代は中世の暗黒時代」である。特に応仁の乱の頃は「政治が廃れた」一方で、逆に能や書院作りなどの日本特有の「文化が栄えた」時代であって、「今の平成の時代とよく似ている」のだそうだ。《だめだよそれじゃあ。財界人や、司馬遼太郎にかぶれた連中がそういうわかったようなことを言うことはあるかもしれないが、歴史の専門家が、室町時代を「政治が悪く文化が栄えた戦後日本に似た時代」などと乱暴に決めつけてしまっては、日本の歴史というものは、永久に理解できないだろう。できるはずがない。まるきり違うものなのだから。室町時代は典型的な地方分権の封建時代。分権しすぎて政治が乱れた。今の日本は東京一極集中の議会制民主主義の時代だ。どこをどう比べれば似ているのか。》

などと書いていたのだが、最近思うに、南北朝や室町が嫌いとか、平安から南北朝への連絡、また、
室町から戦国への連絡がよくわからん、というのは、実は戦後の傾向であって、戦前の日本人はそうは思ってなかったのだろう。
というか、戦前と、その60年後の今では、歴史認識にも相当な進歩があるから、現代人の方がより深く日本史というものを理解しているのには違いない。
しかし、戦前の日本人は日本史というものを比較的連続な現象として把握しており、
どこの時代は理解できるがどこの時代はわからん、などということは少なかったように思う。

平家物語や太平記は発禁になったわけじゃない。原典は読めるし、
戦後も吉川英治の「新・平家物語」とか「私本太平記」などのような形で普及している。
だが、平家物語も太平記も、ありのままの形で鑑賞されているとはいいがたい。
間に入っている教育業界や出版放送業界によっていかようにもその印象は操作できてしまうのだ。
南北朝は変な時代だとか南北朝はダメな時代だとかそういう教育、そういう空気が世に満ちると、
みんな自分で確かめもせず、よみもせず、だいたいそんなものなのだろうと思ってしまう。

しかし、虚心に原典を順番に読んでいくと、特に太平記が特別難しいわけではなく、平家物語が非常に簡単なわけでもない。
戦国時代などは資料が少なくてわからんことの方が多いし、
江戸時代とても、そんなにふんだんに文献が得られるわけでもない。
原典を読むのはだいたいどの時代でも難しい。
それを、わかりやすいよう、理解しやすいようにする連中が、ある種の意図でもって、
太平記は難しくて偏向してる、平家物語は面白くてわかりやすい、などと言っているにすぎない。

日本史を一つの連続体として解説した割とまともな著書としては新井白石の「読史余論」と頼山陽の「日本外史」がある。
戦後の日本ではそういう教え方はしない。
まず、「日本外史」と「太平記」は教えなくなった。「読史余論」をじかに読むやつなどいない。
そうするとどうしても南北朝や室町というのは、ぼんやりとぼけてしまってわからんようになる。
で、なんで山名と細川が内戦始めたの、なんで義政は将軍のくせにあんな無気力なの、わけわからん、
尊氏も後醍醐天皇もどっちもどっちだな、戦争なんかやるのが悪い、
とまあこのくらいの認識になってしまう。

新井白石は実に頭が良くて、なぜ天皇の時代が武士の時代に移り変わったかということを、おそらく日本で初めて、
理知的に解説してみせている(白石の他の著書なども合わせ読むと、彼がごく普通の常識人であり、現代人とほとんど違わない感覚をもっていることがわかる)。
頼山陽はそういう武家の通史的な発想を全面的に受け入れつつ、北畠親房的水戸学的方向、
つまり天皇家中心の方向へ修正し、かつ、読み物として面白くなるよう軍記物的エピソードをちりばめている。

昔は「太平記読み」などと言ったように「太平記」はかなりメジャーな読み物だったが、戦後は皇国史観の源泉とみなされ排斥された。
歴史を擁護しているようでその封殺曲解に一番貢献しているのは司馬遼太郎だ。
彼は室町・南北朝を描かないし、平安時代は義経しか書いてない。
戦前の史観を戦後民主主義史観で置き換えるためにいろんな無理をしているせいだと思う。
それはしかし戦前の軍国主義者がやったことと何ら変わりない。自分の主義主張のために演出を加えているだけだからだ。
そのため時代間の接続がぶつぶつにされて、良い時代と悪い時代があるとされた。
連続に変化してきたその、なんちうか、一連の変動としてとらえる目が失われた。
ああやって、自分の好みの時代だけを切り取って、自分の都合の良い解釈をすれば、
歴史全体の流れはまったくわからんようになる。白石が苦心したのはそこだ。日本史全体の整合性はどうなっているのか、と。

私は、新井白石「読史余論」、頼山陽「日本外史」的な史観をもう少し丁寧に修復すれば良いだけだと思う。
これらの史観に偏向がないとは言わないが、今よりはまだまともだろう。
江戸時代の著作だから今から見れば誤謬もあろうがしかし、もともと戦前はおおまかにどのような歴史観があり、
戦後の歴史観のよろしくないところに気付くには良いものだ。

日本外史の愛読者の一人だからそう思うだけかもしれんが。

歌合

日本歌学大系第七巻、まだ読んでる。なかなか面白い。
佐佐木信綱の解題もじっくり読んだ。
戸田茂睡「梨本集」面白い。いままで知らんかった。

「梨本集」に[天徳歌合](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%BE%B3%E5%86%85%E8%A3%8F%E6%AD%8C%E5%90%88)
とか高陽院歌合とか出てくるのだが、
この時代の歌は勝っても負けてもほぼすべてが勅撰集に採られていて、その勝負のレベルも極めて高くて驚く。
こういうものがあったから、明治時代まで歌合という遊びが残ったのだろう。

田安宗武は歌合をひどく嫌っている。
万葉時代には歌合などなかったという理屈。
わからんでもない。
しかし近世では、もはや、歌合とか歌道などという人工的な仕掛けがなければ和歌というものは延命できない状態にあった。
人工呼吸器、生命維持装置のたぐいだ。
それをいきなり外せというのは酷だ。
生命維持装置が無くても生きていける方法を先にみつけてから言うべきだろうと思う。

おそらく日本人がみな自然と和歌を詠めたのは人麻呂の頃から上の天徳歌合のあった村上天皇くらいまでのことだろう。
民衆の関心は静かに和歌から離れていった。
昔の良い歌は一般人がたまたま良く詠んだ歌が後世に残ったもの。
今の良い歌は絵師がうまく巧んでかいたもの。
確かにそういう違いはある。
だが、「やまと歌」は、いにしえから伝わる大和言葉だけで歌われる日本固有の文芸だったために、
それを惜しんで延命措置が続けられてきたのだ。