イギリス王位継承順位。男系でも女系でも良く、継承順位の下位のほうには、よその国の王とかも含まれてしまう。だから、継承戦争で、王様がブルボンからハプスブルクになったりハプスブルクからブルボンになったりするわけだ。
その王位継承(領地などの財産相続)の法律の解釈で戦争がおきてそれが継承戦争。やれやれ。
イギリス王位継承順位。男系でも女系でも良く、継承順位の下位のほうには、よその国の王とかも含まれてしまう。だから、継承戦争で、王様がブルボンからハプスブルクになったりハプスブルクからブルボンになったりするわけだ。
その王位継承(領地などの財産相続)の法律の解釈で戦争がおきてそれが継承戦争。やれやれ。
現在のスウェーデン王の名前は、カール16世グスタフであり、その前はグスタフ6世アドルフだった。明らかにグスタフもアドルフも姓ではない。ベルナドッテ朝とのことだが、ベルナドッテも姓というわけではなさそうだ。北欧の王の名はこのように即位前は名A・名B・名C・・だったのが、即位すると名A・X世・名Bとなる例が多いようだ。
わけわからん。もしかすると、いや、たぶん確実に、西欧の人名には姓という概念が無いか、希薄なのだろう。姓がないから、親と同じ名前を子につけたがる。名が姓を兼ねる、もしくは名がどの親の子かを表している。ある意味、極めて原始的な名前の付け方だ。で、それでは紛らわしいから、息子の名前が父や祖父やご先祖様までずーっとくっつけて組み合わせたような長い名前になってしまうのだ。東ローマには姓(というか王朝名)というものが一応あったような気がするが、もしかすると過去にさかのぼって学術的に王朝名を決めたのかもしれん。
ああもう、わけわからん。
アラブ人の名前が、子の名 ビン(イブン、ベン等とも) 父親の名、となっている方がまだ整然としているわな。そういや、中国人には姓があるがそれは中国が典型的なエクソガミー(外婚)社会だからだ。というか、エクソガミーがないところには姓もないか、希薄なのかもしれんな。
そうかそうか、昔、中国には、姓だけがあり、姓は女系で、氏は官位だったと。姓をもってたのは貴族だけだったと。なるほど。しかし、トーテムとかエクソガミーは、その由来は宗教が発達する以前の禁忌(タブー)であり、未開社会に固有なものであるから、貴族か庶民かというのは関係ないはずだ。だから、最初、中国にトーテム(母系で継承され、同じトーテムに属する者どうしは性的に交われない byフロイト)の部族があって、それがなにかの理由で支配階級(貴族)となって、それがだんだんと一般化していったのかもしれんな。
日本のウジ・カバネも一種の官位だわな。官位が世襲されてウジとなり、ウジの下の階層がカバネ。後の世では、土地の領主となってその土地の名を姓にしたりとか。
たぶん、こういうことだ、最初のグスタフとかアドルフとかが王朝の中で何番目だったがで番号を付ける。しかし、たまには二番目の名前まで一致していることがある。たとえば、フランツ・ヨーゼフとかヴィットーリオ・エマヌエーレとか。そうすると、フランツ1世ヨーゼフとはせずにフランツ・ヨーゼフ1世となり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世となる。カール16世グスタフというのも、もし仮に、昔、カール・グスタフという王がいたら、カール・グスタフ2世とかになったのじゃないかと思うが、カール・グスタフ16世になるやもしれん。
あああ、わけわからん。
南北朝や室町時代が面白くて料理の仕方によればとても良いものができるのは間違いないが、
現代日本人がこの時代に興味を失って実に久しい。
室町音痴になってしまっている。
北条氏はせいぜい時宗までであり、足利氏は尊氏、義満、義政、あと関心が高いのは義昭くらいだろう。
一度そういう状態になってしまうと、人の関心を呼び覚ますまでの労力が半端ないことになる。
剣豪将軍として義輝を掘り起こした人がいてその努力は敬服するに値する。
で、北条氏末期の状態だけど、必ずしも、足利氏宗家支族が北条氏得宗家および支族よりも優勢になったからだとか、
足利氏の方が新田氏よりも優勢だったとか、両統分立がどうしたこうしたとか、
なんかいろいろ理屈は付けられるけど、
やはりどれが決定的というのではない。
そうやって疑い出すと承久の乱で北条氏が圧勝したのもわからんような気になってくる。
やはり、北条氏の治世が長くなって、北条氏や足利氏などが大きく育ちすぎて、人間関係が複雑になりすぎて、
宗家と分家の関係がぎくしゃくしはじめて、
宗家による独裁体制がうまく機能しなくなってきた。
そこへ皇統分立というのが口実になって内乱に発展した、ということだろう。
承久の乱にしても、固定化した身分や社会というものがうざくなったから起こったことではあるまいか。
後鳥羽院と北条氏の力関係というよりも。
権威と権力が未分化な社会から、軍事行政統治機構というものだけで存続しえるようになった画期的な事件だわな。
社会が少し進歩した証拠だ。
たとえば、鎌倉攻めでは最初に新田義貞が稲村ヶ崎の切り通しを破ったことになっている。
龍神が助けたはずがない。
たまたま新田に内通した北条方の武将がいて、切り通しを通してやったか、由比ヶ浜を守備するはずの艦船が無抵抗だったか、
とか、そんな事情だったのではなかろうか。
鎌倉と福原は良く似ていたが、それは、比較的狭小な天然の要害になっていたからだと思う。
それ以前に日本には城らしき城はなかった。
福原遷都は日宋貿易の都合というよりは、保元・平治の乱の反省に基づくものだ。
鎌倉に幕府を開いた理由もまた同じだろう。
中国式に町全体を城壁で囲うような労働力もなければ技術もないので、
比較的それに近い地形の場所を城塞都市にしようと思ったのではなかろうか。
鎌倉と福原はしかし同じような弱点があった。
町全体を守備するのは広すぎて、たとえ守りが堅くても「内通者が出たとき」「政治的に弱みがあるとき」対処できないのだ。
ある程度、守備側の人間関係が良好でないと守り切れない。
しかし、戦争中に人間関係に頼るのは不確定要素が大きすぎる。
基本的には中国の春秋戦国時代の城塞の攻防戦に近いものであろう。
城が落ちるのは、単に城の土木建築上の問題ではない。
だから、次第に山城や、もっと労働集約的で機能的な平城などになっていったのではなかろうか。
一ノ谷の合戦や鎌倉攻めで防御が破られたのはおそらくそんな理由だと思うのだ。
足利氏内部でのまとまりもなかったし足利氏がとびぬけて優勢だったわけでもなく、新田もすごく大したことあるわけではなく、
北条氏の残党も全然力を持っていた、義満による南北朝統一とか日明貿易というのも、
なんかすごいことのように言われているが多少調整能力があった程度だったようにも思われる。
たとえて言えば、室町時代というのは、主従関係がどろどろに解けてしまって、古代天皇制の中央集権から、
地方分権に完全に移行した時代だと言える。
天皇がいなければ国家のていをなさなかっただろう。
政治が乱れたようにみえるのはそのせいで、実は単なる無政府状態だった。特に関東など地方では。
天皇(と公家)が居たから国とか都というものが、政治的な実体は伴わないが、存在したのではないか。
そうしてみると、室町幕府を手本に作られた徳川幕府というものも、実質的には、どろどろにとけた地方分権状態だった、
と言った方がより実体を言い得ているかもしれん。
国とか都などといった中央政府が存在しなくてもすんだ幸せな時代だったとも言える。
それから、皇国史観というものが消滅したあとで、天皇家をまともに主役として描ける作家や脚本家が絶滅してしまったと思う。
まして親王を主役で描ける人はいるまい。
以仁王や護良親王などはけっこう良いキャラなのに。
他にもサブキャラで内親王などに面白い人はいるが、では内親王をヒロインにドラマ作るかということはしない(せいぜい和宮くらいか)。
武士や民間人しか主人公で描けない体質になってしまった。
だもんだから、その反動で、韓国の疑似歴史ドラマが流行るのではなかろうか、とすらかんぐられる。
さらに、世の中は歴史蘊蓄ばかりが発達して、ますますフィクション仕立ての歴史というものが描きにくくなっているように思う。
川越素描で、
> だいたい日本人の好きな日本史というのは戦国か幕末維新である ・・・ それから、神話時代から平安鎌倉まではロマンもあって好きな人も多い。江戸時代は時代劇に使われる機会が多くて親しみやすい。比較的人気がないのは南北朝、室町である。特に建武の新政から応仁の乱までのぐちゃぐちゃした辺りが好きだというのはよっぽどの物好きである。
> どうしても室町の時代背景を書かねばならぬ。特に応仁の乱の頃のひどく人間関係が複雑で、スターもヒーローもアイドルも居ない泥仕合の時代を書かねばならぬ。
> 菜摘自身は、足利将軍家や室町時代がさほど嫌いでもないのだが、一般人はそうではない。嫌いである以前に無知無関心である。そういう連中にくどくどと説明しなくてはならないのが億劫なのだ。先日も清水の「特論」の講義で菜摘がかちんときたことがあった。清水が言うには、「南北朝や室町時代は中世の暗黒時代」である。特に応仁の乱の頃は「政治が廃れた」一方で、逆に能や書院作りなどの日本特有の「文化が栄えた」時代であって、「今の平成の時代とよく似ている」のだそうだ。《だめだよそれじゃあ。財界人や、司馬遼太郎にかぶれた連中がそういうわかったようなことを言うことはあるかもしれないが、歴史の専門家が、室町時代を「政治が悪く文化が栄えた戦後日本に似た時代」などと乱暴に決めつけてしまっては、日本の歴史というものは、永久に理解できないだろう。できるはずがない。まるきり違うものなのだから。室町時代は典型的な地方分権の封建時代。分権しすぎて政治が乱れた。今の日本は東京一極集中の議会制民主主義の時代だ。どこをどう比べれば似ているのか。》
などと書いていたのだが、最近思うに、南北朝や室町が嫌いとか、平安から南北朝への連絡、また、
室町から戦国への連絡がよくわからん、というのは、実は戦後の傾向であって、戦前の日本人はそうは思ってなかったのだろう。
というか、戦前と、その60年後の今では、歴史認識にも相当な進歩があるから、現代人の方がより深く日本史というものを理解しているのには違いない。
しかし、戦前の日本人は日本史というものを比較的連続な現象として把握しており、
どこの時代は理解できるがどこの時代はわからん、などということは少なかったように思う。
平家物語や太平記は発禁になったわけじゃない。原典は読めるし、
戦後も吉川英治の「新・平家物語」とか「私本太平記」などのような形で普及している。
だが、平家物語も太平記も、ありのままの形で鑑賞されているとはいいがたい。
間に入っている教育業界や出版放送業界によっていかようにもその印象は操作できてしまうのだ。
南北朝は変な時代だとか南北朝はダメな時代だとかそういう教育、そういう空気が世に満ちると、
みんな自分で確かめもせず、よみもせず、だいたいそんなものなのだろうと思ってしまう。
しかし、虚心に原典を順番に読んでいくと、特に太平記が特別難しいわけではなく、平家物語が非常に簡単なわけでもない。
戦国時代などは資料が少なくてわからんことの方が多いし、
江戸時代とても、そんなにふんだんに文献が得られるわけでもない。
原典を読むのはだいたいどの時代でも難しい。
それを、わかりやすいよう、理解しやすいようにする連中が、ある種の意図でもって、
太平記は難しくて偏向してる、平家物語は面白くてわかりやすい、などと言っているにすぎない。
日本史を一つの連続体として解説した割とまともな著書としては新井白石の「読史余論」と頼山陽の「日本外史」がある。
戦後の日本ではそういう教え方はしない。
まず、「日本外史」と「太平記」は教えなくなった。「読史余論」をじかに読むやつなどいない。
そうするとどうしても南北朝や室町というのは、ぼんやりとぼけてしまってわからんようになる。
で、なんで山名と細川が内戦始めたの、なんで義政は将軍のくせにあんな無気力なの、わけわからん、
尊氏も後醍醐天皇もどっちもどっちだな、戦争なんかやるのが悪い、
とまあこのくらいの認識になってしまう。
新井白石は実に頭が良くて、なぜ天皇の時代が武士の時代に移り変わったかということを、おそらく日本で初めて、
理知的に解説してみせている(白石の他の著書なども合わせ読むと、彼がごく普通の常識人であり、現代人とほとんど違わない感覚をもっていることがわかる)。
頼山陽はそういう武家の通史的な発想を全面的に受け入れつつ、北畠親房的水戸学的方向、
つまり天皇家中心の方向へ修正し、かつ、読み物として面白くなるよう軍記物的エピソードをちりばめている。
昔は「太平記読み」などと言ったように「太平記」はかなりメジャーな読み物だったが、戦後は皇国史観の源泉とみなされ排斥された。
歴史を擁護しているようでその封殺曲解に一番貢献しているのは司馬遼太郎だ。
彼は室町・南北朝を描かないし、平安時代は義経しか書いてない。
戦前の史観を戦後民主主義史観で置き換えるためにいろんな無理をしているせいだと思う。
それはしかし戦前の軍国主義者がやったことと何ら変わりない。自分の主義主張のために演出を加えているだけだからだ。
そのため時代間の接続がぶつぶつにされて、良い時代と悪い時代があるとされた。
連続に変化してきたその、なんちうか、一連の変動としてとらえる目が失われた。
ああやって、自分の好みの時代だけを切り取って、自分の都合の良い解釈をすれば、
歴史全体の流れはまったくわからんようになる。白石が苦心したのはそこだ。日本史全体の整合性はどうなっているのか、と。
私は、新井白石「読史余論」、頼山陽「日本外史」的な史観をもう少し丁寧に修復すれば良いだけだと思う。
これらの史観に偏向がないとは言わないが、今よりはまだまともだろう。
江戸時代の著作だから今から見れば誤謬もあろうがしかし、もともと戦前はおおまかにどのような歴史観があり、
戦後の歴史観のよろしくないところに気付くには良いものだ。
日本外史の愛読者の一人だからそう思うだけかもしれんが。
日本歌学大系第七巻、まだ読んでる。なかなか面白い。
佐佐木信綱の解題もじっくり読んだ。
戸田茂睡「梨本集」面白い。いままで知らんかった。
「梨本集」に[天徳歌合](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%BE%B3%E5%86%85%E8%A3%8F%E6%AD%8C%E5%90%88)
とか高陽院歌合とか出てくるのだが、
この時代の歌は勝っても負けてもほぼすべてが勅撰集に採られていて、その勝負のレベルも極めて高くて驚く。
こういうものがあったから、明治時代まで歌合という遊びが残ったのだろう。
田安宗武は歌合をひどく嫌っている。
万葉時代には歌合などなかったという理屈。
わからんでもない。
しかし近世では、もはや、歌合とか歌道などという人工的な仕掛けがなければ和歌というものは延命できない状態にあった。
人工呼吸器、生命維持装置のたぐいだ。
それをいきなり外せというのは酷だ。
生命維持装置が無くても生きていける方法を先にみつけてから言うべきだろうと思う。
おそらく日本人がみな自然と和歌を詠めたのは人麻呂の頃から上の天徳歌合のあった村上天皇くらいまでのことだろう。
民衆の関心は静かに和歌から離れていった。
昔の良い歌は一般人がたまたま良く詠んだ歌が後世に残ったもの。
今の良い歌は絵師がうまく巧んでかいたもの。
確かにそういう違いはある。
だが、「やまと歌」は、いにしえから伝わる大和言葉だけで歌われる日本固有の文芸だったために、
それを惜しんで延命措置が続けられてきたのだ。
1月から酒を飲み始めて4月にはけっこう花見などで飲んだりしたのだが、病院の検査はすべてOK。
飲酒の影響はまったくなかった。
まあ、こんくらい飲んでも大丈夫なわけだな。
きちりんで検索すると二番目に吉林省が来るのは笑えるが、
それはそうと、
[医療を基幹産業に](http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120420)
等と言っているのだが、
思うに、日本だけで考えると、医療や介護や年金などは大きな負担なのだが、
日本が世界に先駆けて老人大国になり、以後よその国も多かれ少なかれ、日本と同じ路をたどる。
そのとき日本の最先端の医療技術や介護実績の蓄積が海外に売れるだろう。
だから、案外、たとえば私が老年となったときは日本産業は安泰かもしれん。
公務員がーとか地方自治体がーとか公共事業がーとか国の赤字がーー、などと言っているが、
結局日本の国家財政を蝕んでいるのは医療費である。
それは、患者になった私が身に染みて知るところだし、
また若くしてその恩恵を多大に受けることとなった。
医療と介護の境目は曖昧だ。
救済すべき患者とただの年寄りの境界も曖昧だ。
本来介護の範疇に入るものでも、ゴネれば医療として認められるかもしれん。
救済すべき患者と、単なる過剰診療の患者の境界も、実際曖昧だ。
そういうカテゴリーのあやうさがある。
病院だけでなく地方行政においても、そのカテゴリー分けを緩くするか厳しくするかで金のかかり方が全然違ってくるだろう。
本物の病人以外にも、医療利権というものに群がってくる連中が大勢居るのはまちがいない。
製薬会社や医療機器開発会社、介護施設や老人ホーム。
特保食品会社、などなど。
ともかく今の日本で確実に食いっぱぐれないのは医療に介護。
ま、そんだけ金が回った方が、医療産業や介護産業が育つ、雇用確保にもなる、と言えなくもない。
日本の財政を立て直すには公務員を減らしたりとか公務員の給料を減らしたりとか、そんなことではどうにもならん。
医療費を減らすしかない。明らかに無駄はそうとうある。減らしどころはいくらでもある。
しかし、どういうわけかみんな医療費は聖域だと思ってる。ピンと来ない。
低所得者ほど嫌がる。
ともかく誰も彼も医療費は減らしたくないらしい。
しかし国の赤字を減らす根本的な方法は医療費を減らすしかない。
医療費を減らさないんなら消費税みたいな間接税を導入するしかない。
しかしそれにも反対する。
どうせいっちゅうねん。
労働しない人口がめちゃくちゃ増えて、それを少ない労働人口で支えねばならん。
社会保障費が国家財政にめちゃめちゃ効いてきているのである。
しかし、そんな本質論が語られることがほとんどない。
じゃ、医療費にじゃんじゃん金かけて将来の輸出産業に育てて後で元とるしかない罠。
そこいくと家電なんかはやはりもうだめかもしれんね。
私が大学卒業するころは花形産業だった。
昔は、良い大学行って良い企業に入れば一生安泰なんて気分があったが、
二十年あまりでそれが幻想だとわかった。
何と短い。
1945年から1960年代くらいまでに新卒で就職して、2010年代までに退職する人にしか、
終身雇用という制度の恩恵はなかったわけだ。
けっこう笑える話だわな。
そういえば、川崎市は賭博と工場で財政が豊かだから毎日ゴミ収集車が来ると言ってたな。
府中市もそうかと思うのだが、そうでもないらしい。
工場も賭博もない地方自治体は赤字にきまっているが、それでも医療負担が安かったり、低所得者にやさしいところもある。
どういう基準でそうなってるんだろ。
高福祉国家でもないアメリカが医療大国になれたのは、
別に国民皆保険制度でないからではない。
あの国はばんばん戦争をするので怪我人が多い。
退役軍人の政治力も強い。
軍事費と医療費の区別がない。
で、国家予算の回ってくる産業はアメリカは強いからな。
どんどん成長したというわけだ。
だから、アメリカのように、国民皆保険やめろと言うのは少し違う。
国民皆保険はしかし問題の多すぎる制度だとは思うがね。
所得が多い人にはだいたい損だし。
自分で勝手に生命保険に入りたい人だけ入ればよい。
そうすると、自分の健康もまじめに管理するようになるし。
所得の少ない人はかじれるすねがなくなって困るが。
そりゃそうと、日本はアメリカやヨーロッパから遠いから観光産業的には不利だと言われてきたが、
中国には北アメリカとヨーロッパ合わせたより多くの人が住んでいる。
今後は中国が日本観光の追い風になるだろうな。
何でも、先に日本でやっておいて後で中国に売ればいいんだよ。
それだけで日本は商売が成り立つと思うが。あんだけでかい市場を利用しない手はない。どうかな。
歳出で、国債をのぞけば、多いのは社会保障費。だんとつだ。
その次が地方交付。
これもでかい。
地方交付をやめて道州制にして独立採算制にすりゃいいんだよ。
ともかく公務員の人件費を減らせとか言っても焼け石に水だ。制度自体をいじらないと。
> 山桜散りに光を和らげてこの世に咲ける花にやあるらむ
いいねえ。「この世に咲ける花にやあるらむ」。しびれる。
> つくづくと濡れそふ袖におどろけば降るとも見えで春雨ぞ降る
いいねいいね。「降るとも見えで春雨ぞ降る」。すごく良い。
同語反復がうまく効いている。
これも初句不要。七五七七のほうがしまりがあるだろう。
> 花の散る山川堰ける苗代に賤が心も満つべかりけり
普通?
> すみれ咲く浅茅が原は踏み分けて問ふ人無きもさもあらばあれ
「問ふ人無きもさもあらばあれ」。いいなあ、こういうすっとぽけた言い方する人だったのだなあ。
> 志賀の山松にかかれる藤の花浦のさざ波越すかとぞ見る
叙景のようだが、しかしあり得ん誇張された光景だわな。
> 藤の花雲にまがひて散る下に雨そぼ降れる夕暮れの空
> いにしへをしのぶ心をそふるかな御祖の杜ににほふたちばな
> 我が魂もあくがれぬべし夏虫の御手洗川にすだく夕暮れ
> あはれさを人見よとても立てざらむけぶり寂しき賤が蚊遣り火
> 野辺に置く同じ露とも見えぬかなはすの浮き葉に宿る白玉
> 思ふこと今はみな尽き果てぬらむ御手洗川にみそぎしつれば
> 眺むれば心さへこそあくがるれしぐるる頃のむらくもの空
> なぞやかく眺むる方も霧こむる深山の里に心澄むらむ
> ふもとにはまた時雨とや思ふらむ深山の里はあられふるなり
> 奥山の岩根の苔ぞあはれなるつひには人の衣と思へば
> 夢とのみ過ぎにし方は思ほえて覚めてもさめぬここちこそすれ
普通?
ましかし、レベルが一様に高い。
兼明親王
> 小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける
> 七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき
「道灌」(落語)では「あやしき」が「かなしき」になっている。
あやし、とはこの場合見苦しい、みっともない、お恥ずかしい、心苦しい、申し訳ない、と言った意味ではなかろうか。
山吹の枝を出したというのは、謎かけのようなものだっただろう。
太田道灌のほうの話では、和歌の教養がない、ということになっているようだが、
三代集ならともかくとして、こんなマイナーな後拾遺集の歌まで覚えるのが室町時代の関東で要求される教養だったとは思えない。
普通の歌人ですらしらなかっただろうと思う。できの悪い作り話としか言いようがない。
太田道灌について江戸時代に捏造された伝説は所詮この程度のものだが、江戸っ子たちには受けがよかったのだろう。
修身の教科書には「松坂の一夜」というのがあって、戦前は、賀茂真淵と本居宣長は理想的な師弟関係ということにされていた。
賀茂真淵は、本居宣長の師だというので、やはり権威付けされた。
田安宗武もまた賀茂真淵を師としたので、戦前の権威付けの中で批判しにくいされにくい位置に居たわけだ。
本居宣長と田安宗武は、共通点を探す方が難しいくらいなのだが。
それで、田安宗武の死後、「天降言」が遺臣等によって編まれ、さらにそれが「悠然院様御詠草」にまとめられた。
ちらと読ませてもらったが、そんなに分量のあるものではない。
最初の辺りに秀歌らしきものがまとめてあり、後は時系列の詠草のようだが、まさに「詠草」と言うのにふさわしいレベルだと思う。
窪田空穂は田安宗武を西行にたとえたというが、窪田空穂はほんとうに西行がわかっていたのか。
> 山里はまだ消えやらぬ雪のうちにうぐひすのみぞ春を知らする
> 山里に春や遅くもたちにけむむらむら残る去年のしら雪
> 五月雨の空なつかしくたちばなの匂ひをさそふ軒の夕かぜ
> 千代ふべき君がかざしのためとてやさかり久しきにはの白菊
> うすくこく色づくにはのもみぢばはしぐれもことに心あるらし
> こと草はうつろひかはる庭のおもに秋をぞ残すしらぎくの花
などはまあまあだ。
ただ、少しオリジナリティがあるようにも見えるが、よく見ると典型の範疇に収まっていて、すごくすごいわけではない。
田安宗武という人がほんとにまっとうな歌人であったならば、万葉調の歌以外にも、
これらの比較的典雅な歌も、生涯にもう少し残っていてもよかろう。
というか、残ってないとおかしい。
まっとうな歌人ならばそのくらいは詠みわけられるし、
理屈として詠みわけできるくらい理解しているはずだからだ。
宗武は吉宗の次男で家重の弟、宗武、家重ともに側室の子であるから、
どちらというのでもなかったが、家光の時に家督相続でもめたから、文武に秀でた宗武でなく、
長男の家重を将軍にしたのだろう。
家重の名は家康の一字を採っているが宗武、宗尹は、吉宗の一字を採っている。
吉宗が宗武をどのくらい気に入っていたか、宗武がどのくらい文芸の才能があったのか、
わかりにくいが、しかし、上に挙げた歌にしても、数がごく少ないということは、
いくらでも疑うことができる。
つまり何かのはずみで将軍にもなる人であるから、周りの学者たちが徹底的に、
少なくとも初心の頃は、添削するだろう。もともと大した歌ではなくとも、うまく添削すれば良い歌になるかもしれん。
で、一見、天衣無縫だが、割と整っているというのは、実はそうした事情ではなかろうかと、つまり師との合作の疑いもあるかと、
思ってしまうのである。
宗武が二十代後半になると万葉調の歌をどんどん詠み始めるのだが、
なぜいきなりそんな歌を詠み始めたか。
わけがわからない。
師の荷田在満は当時としてはごく普通の芸術至上主義者で新古今的な人、つまり、二条派の人だった。
しかし宗武がだんだん自分のやりたいようにやり始め、
在満とは違う方向へ突っ走りたくなったのかもしれない。
もしかするとその時期からすでに賀茂真淵の影響下にあったのかもしれない。
賀茂真淵は京都で荷田春満(在満の叔父にあたり、在満は春満の養子になる)に学び、
春満が死去すると江戸に移って歌を教え始める。1736年くらいだ。
宗武が万葉調の歌を読み始めたのは、在満との論争が起きた1742年くらいからだ。
宗武は在満の養父春満の門人である馬淵とは何らかの形で接触があったに違いない。
春満は父吉宗の臣下でもあった。
宗武は在満的耽美的世界に閉塞感を感じていたのだろう。
武士による武士の歌が詠んでみたい。そこで、馬淵から学んで、万葉調の歌を詠み始めたのではなかろうか。
そもそも万葉調の歌というのは実朝の頃からあり、後鳥羽院や定家も、初心者は真似るべきではないが、
だんだんわかってきたら万葉集も学ぶべきだ、などと言っている。
万葉調の歌を詠んだから特段珍しいわけではない。
が、しだいに、武士も和歌を詠むようになり、尊氏のころはそれほど顕著ではなかったが、
やがて公家とはまったく違う武士らしい歌というものがだんだん芽生えてきて、
宗武において一気に開花した。
というのは、宗武は、誰に憚ることもなく歌を詠めたはずであり、
それが多少珍妙でも、誰も批判できなかった。
馬淵はむしろそれを褒めたのにちがいない。
そうするとそういうふうな歌が東国にはあってもいいじゃないかとか、
いや、新しくて良いではないかなどという話になり、
幕末維新、明治以降になるとますます影響力を持つようになったのではなかろうか。
で、実朝や尊氏などはまったく公家文化に浸りきったところで和歌を詠んでいる。
実朝は万葉、尊氏は新古今という違いはあるが。
それはそれで、あやうく体裁を保っている。
が、宗武の歌というのは、はなはだしく常軌を逸している。
> 洲崎辺に漕ぎ出でて見れば安房の山の雲居なしつつ遥けく見ゆも
> 真帆ひきて寄せ来る船に月照れり楽しくぞあらむその舟人は
なんというか、人麻呂とか赤人とか素戔嗚尊などの歌がごちゃまぜになっていて、
まるで神話時代のコスプレか何かを見ているようだ。
或いは万葉時代のテーマパークというか。
テーマパークやコスプレがなぜいかんかという人もいるかもしれんが。
現代人にとって神話時代や万葉時代というのは所詮ファンタジーとしてしか体験できないものだから、
積極的にファンタジー化してしまえばよい、という発想。
しかし、それは私は好かん。
後鳥羽院が
> まだしきほどに万葉集みたるおりは、百首の歌なかば万葉集の詞よまれ、源氏等のものがたり見たる頃は、またそのようになるを、
よくよく心得て詠むべきなり。
などと言っているが、まさに宗武はその通りだと思う。
そして誰も諫めるものとてなく、死後、詠草まで一切合切が出版されてしまった。
そういうことではないかと思うのだが。
なんというか、万葉調の勉強をしましたと言って、それをそのまま出すのではなく、長い和歌の時間軸の上で、
違和感のないように、自分なりにアレンジして出さなくてはならんのではないかと思うのよね。
定家や俊成や西行や後鳥羽院は、巧まずに(いや、もちろん巧んだとは思うが)できたかしれんが、
そうでなければ手の内が丸見えの手品みたいに面白くないんじゃないのか。
まあなんというか、俊成というのは、
[五社百首](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i046.html)とか、
実にわかりやすい、平明な歌を詠むよね、定家と違って実にわかりやすい。
しかし文章がどうしてあんなに長くてわかりにくいのかなあ。
家隆もそうだな。この二人は近いとみて良いのかもしれん。
たとえば、
> 手弱女の夜戸出の姿思ほえて眉より青き玉柳かな
「眉より青き柳」というのがすごいね。
柳眉という言葉がこの当時からあった証拠なのだろうが、用例がよくわからん。
> 一木だににほひは遠しもろこしの梅咲く嶺を思ひこそやれ
遠く唐の嶺に咲く梅を思いやるという、陳腐だがなかなか詠めない歌だな。
> さらねども難波の春はあやしきを我知り顔に鴬の鳴く
俊成は、初句が軽いのが多いね。七五七七だけで十分意味が通るのが多いと思う。
文脈的にこの「あやし」は、
自分には理解できず「あや」と思う気持ち、
知りがたいがなんとなく心牽かれる気持ち、という意味だろうな。
夫木抄には、
> さらねども難波の春はあやしきに我告げ顔に鴬の鳴く
となっている。
> いざや子ら若菜摘みてむねせり生ふる朝沢小野は里遠くとも
「あささはをの」がよくわからんが、たぶん朝沢小野だろうと思う。
なんか良い歌が多すぎて調べきれんね。
てか、定家の歌がどれもひねりすぎて理屈っぽいのに比べると、
軽くさらっと詠んだのが多い。家隆もそう。
その辺が好感もてるのだけど。
俊成はあまりに有名な歌人で勅撰集に幾つも取り上げられているから、
それがかえってつまみ食いみたいになって俊成の歌の全体的な傾向がつかめないのだな。
そういう意味ではこの五社百首はなかなか良いよ。
西行の歌も山家集をいっき読みした方がわかりやすい。
有名な、というか他人に取り上げられた歌ばかり見ていても本人の姿は見えてこない。
あとね、定家は勅撰集にほとんど取り尽くされているけど、俊成にはまだまだとりこぼしがあるんだなと、
少し嬉しくなった。西行もかな。