ハイディの舞台となったマイエンフェルトやラガーツ温泉などの町はヨハンナ・シュピリにとってほとんど土地勘の無いところだったはずだ。ヨハンナは生まれ育った Hirzel(Zurich郊外。『フローニの墓』などに出てくる)と、14才から住んだ Zurich、16才から寄宿舎暮らしをした Yverdon-les-Bains 以外はあまり知らなかったと思う。
Wikipediaなど見るとまっさきに、ヨハンナが子供の頃、何度か夏休みに Chur で過ごし、それがハイディを書くときの素材になったなどと書かれていて、アルムおじさんの故郷が Chur であるとされているからにはヨハンナは実際 Chur にかなり長い間滞在したことがあるのだと思われる。ただ、ヨハンナの父母や祖父母などを調べてみるに、彼らもみな Zurich の周辺に住んでいるので、Chur に親戚がいたというわけではなさそうで、おそらく彼の父は、スイスの医師として、グラウビュンデン州の州都クールへ、ときどき出張する必要があったのではないか。それで父についてヨハンナも Chur を訪れたことがあったのだと思う。
フランクフルトから Chur まで鉄道が開通したのが 1858年で、そのときにマイエンフェルト駅もできた。さらにチューリヒからマイエンフェルトまで鉄道が作られた。こうして1990年代にはラガーツ温泉が開発されて、保養所などができた。そうなって初めてシュピリ一家はラガーツ温泉に保養にくるようになった。ヨハンナの作家活動がすでに軌道に乗ったあとのことだ。彼女の処女作『フローニ』が発表されたのが 1871年、『ハイディ』の発表が1880年、彼女の夫と息子が死んだのが1885年。
ヨハンナがマイエンフェルト周辺の地理に詳しいのは彼女が小説を書くためラガーツ温泉に滞在している間に取材したからに違いなく、その取材相手はラガーツ温泉にいて、彼女の世話係になった、住み込み女中でお針子の女だったはずで、その女というのがデーテに他ならないと思っている。
ヨハンナはおそらく出版社から、ロッテンマイヤーさんがデーテに依頼したように、「地面に足も触れないような清らかなスイス娘」の話を書いてくれ、などと所望されていたと思う。ヨハンナはおそらくそういうニーズに応えて児童向けのおとぎ話のような小説もすでに2、3書いていた。だがヨハンナは、そういうリクエストに応えつつ、彼女自身がリアルなスイス娘だったから、敢えてどろんこまみれになって遊ぶような、あるいは困窮してぎりぎりの生活をしているようなスイス娘も描いてみたかったのだと思う。ヨハンナの根っこにあるのは明らかにそういったリアリズムであって、ファンタジーではない。ファンタジーを期待したのは出版社と読者だと思う。
『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』の解説にも書いたが『ハイディ』は同時に『フローニ』の続編として書かれたのだと思う。つまりフローニはハイディの母で、アルムおじさんの妻なのだ。その子がトビアスで、トビアスとアーデルハイトが結婚して産んだ子がハイディ。ハイディを引き取ったアーデルハイトの妹がデーテ。そういう設定にしたのだと思う。なんでそんなややこしいことをしたかといえばやはりヨハンナは『フローニ』に愛着があったためではないか。