鳥刺し2

藤沢周平の原作を読んだ。

やはりなと思った。
帯屋は、あんなふうに、城内にどやどやと押し入ったのではない。
藩主の近習部屋の者たちが、みな帯屋に内通していて、
あるいは帯屋に内通しているものが近習部屋の者たちをどこかほかの場所に連れ出していたのだ。

そして帯屋は誰にも見とがめられることなく、藩主のいる部屋までやってきて、そこで兼見にいきなり遭遇して、斬り合いが始まる。

こうでなきゃおかしい。
帯屋は、ちゃんと段取りを組んで、藩主一人と対峙するつもりだった。

あるいはだ。帯屋に内通していると見せかけて、帯屋を油断させて、実は中老の指示で、
近習部屋のものたちは隠れていて、わざと帯屋と兼見を一対一で斬り合わせた。
そういう設定でもよい。

帯屋がわあわあわめきながらたった一人で屋敷の中に闖入してくるはずがない。

兼見だが、醜男で剛直な、鋼鉄のような、愚直な男として描かれている。
自らの信念で、側妾をあっさり殺してしまった。
まあ、これならまだわかる。

最後の立ち回りもあっさりしている。

やはり原作には無理はなかった。
脚色が悪い。

藤沢周平のほかの作品もいろいろ読んでみたが彼はまともな作家だと思う。
彼の話では、本来、主人公もヒロインもそんな美男美女ではない。
しかし美男美女でなくては映画にならない。
派手な殺陣がなければ時代劇にならない。
だから脚色と原作の関係に無理が生じる。

plato’s 7th letter

[323δ]

> Πλάτων τοῖς Δίωνος οἰκείοις τε καὶ ἑταίροις εὖ πράττειν.

Plato to Dion’s associates and friends wishes well-doing.

Πλάτων プラトン、主格。
τοῖς 定冠詞、複数男性与格。
Δίωνος ディオン、与格?
οἰκείος 親しい。
τε καὶ かつまた。
ἑταίρος 親しい。
εὖ 良く。

> ἐπεστείλατέ μοι νομίζειν δεῖν τὴν διάνοιαν ὑμῶν εἶναι τὴν αὐτὴν ἣν εἶχεν καὶ δίων, καὶ δὴ καὶ κοινωνεῖν διεκελεύεσθέ

You wrote to me that I ought to consider that your policy was the same as that which Dion had; and moreover you charged me to support it, so far as I can,

[324α]

> μοι, καθ᾽ ὅσον οἷός τέ εἰμι ἔργῳ καὶ λόγῳ. ἐγὼ δέ, εἰ μὲν δόξαν καὶ ἐπιθυμίαν τὴν αὐτὴν ἔχετε ἐκείνῳ, σύμφημι κοινωνήσειν, εἰ δὲ μή, βουλεύσεσθαι πολλάκις. τίς δ᾽ ἦν ἡ ἐκείνου διάνοια καὶ ἐπιθυμία, σχεδὸν οὐκ εἰκάζων ἀλλ᾽ ὡς εἰδὼς σαφῶς εἴποιμ᾽ ἄν. ὅτε γὰρ κατ᾽ ἀρχὰς εἰς Συρακούσας ἐγὼ ἀφικόμην, σχεδὸν ἔτη τετταράκοντα γεγονώς, δίων εἶχε τὴν ἡλικίαν ἣν τὰ νῦν Ἱππαρῖνος γέγονεν, καὶ ἣν ἔσχεν

both by deed and word. Now if you really hold the same views and aims as he, I consent to support them, but if not, I will ponder the matter many times over. And what was his policy and his aim I will tell you, and that, as I may say, not from mere conjecture but from certain knowledge. For when I originally arrived at Syracuse, being about forty years old, Dion was of the age which Hipparinus has now reached,1 and the views which he had then come to hold

### 冠詞(男性, 女性, 中性)
        
#### 単数

* 主 ὁ, ἡ, το
* 属 του, της, του
* 与 τω, τη, τω
* 対 τον, την, το
* 呼 ω, ω, ω

#### 双数

* 主・対 τω, τω, τω
* 属・与 τοιν, τοιν, τοιν

#### 複数

* 主 ὁι, αι, τα
* 属 των, των, των
* 与 τοις, ταις, τοις
* 対 τους, τας, τα
* 呼 ω, ω, ω

### 人称代名詞(I, II, III)

#### 単数

* 主 εγω, συ, –
* 属 εμου/μου, σου, οὑ
* 与 εμοι/μοι, σοι, οἱ
* 対 εμε/με, σε, ἑ

#### 双数

* 主・対 νω, σφω, –
* 属・与 νων, σφων

#### 複数

* 主 ἡμεις, ὑ-μεις, σφεις
* 属 ἡμων, ὑ-μων, σφων
* 与 ἡμῖν, ὑ-μῖν, σφισιν
* 対 ἡμᾶς, ὑ-μᾶς, σφᾶς

必死剣鳥刺し

『必死剣鳥刺し』を見たのだが、美しい映画だが、おそらくは脚色に問題がある。
原作がこんなに間抜けなはずはない、と思うのだ。

まず、お家騒動というものはこのように起こるものではない。
家老の帯屋が主君を隠居させて世嗣を立てようとしたとして、
いくら帯屋が剣客であろうが、一人で城に日本刀をひっさげて乗り込むはずがない。
死ぬ気で諫めるというのならともかく、本気で主君を斬ろうとしているようにしか見えない。
あり得ないことだ。

また、お家騒動というものは頻繁に起きたことで、家老レベルならともかく、
徒党も組まずに、主人公の兼見三左エ門が義憤で側室を殺害するなどというのはかなり苦しい筋書きだと思う。
たとえ妻を亡くして死に所を探していたとしてもだ。
側室連子の横暴ぶりが殺害動機のように演出しているのはどうかと思う。
いずれにしても、兼美はごくまじめな目立たない武士だという設定では違和感がある。
かなり奇矯な性格だった、とするならばまだわかる。

それから、やくざの出入りであっても槍や長刀は使う。
まともな考証をしたやくざ映画ならそうする。
武士だからといって全員が日本刀で斬り合うということはあり得ないし、
大名ならば鉄砲ぐらいもっているだろう。
乱心者が出るとわかっているのであれば、鉄砲と槍を用意しておけば足りる話であり、
これもまた、日本刀どうしで斬り合いを演出するための間違いだ。

藤沢周平の原作を読んだわけではないので推測するしかないのだが、原作はこんなではなかっただろう。
ああいう派手な殺陣のシーンで盛り上げるためにこんなふうになったのに違いない。
里尾という亡き妻の姪との交情というのも、たぶん後付けのものだろう(まあ別に入れたけりゃ入れてもいいが)。

たとえば吉良邸討ち入りだって、ほんとに討ちとろうとするならばああいうふうに用意周到にやるものだ。

テレビドラマならともかく、キルビルじゃあるまいし、
まっとうな映画なら、日本刀だけの殺陣のシーンなんてものは作らないものだ。

私ならば、帯屋は、少数の手勢をつれて深夜に屋敷に侵入しようとすることにするだろう。
帯屋は家老なのだから、一部の内通者が手引きして、主君の寝所まで帯剣のまま入り込めるかもしれない。
それを察した兼美と帯屋の間で斬り合いが起きる、という筋立てなら無理がない。

そういう、映画にするため付け足したと思われる部分が気になってしかたない作品だ。
たぶん、売れる映画を作るためにそうしたのではない。
どうみても売れる映画を作ったようには見えない。
おそらく役者と、役者のファンのためにこのようなことをしたのだろう。
どうも今の日本映画は、どれもこれもそんなふうに、
芸能プロダクションと一部のファンが牛耳っているようなな気がしてならない。

兼美が帯屋を殺すとわかっていて、兼美をいかしておいたという設定も、かなり苦しい。
都合がよすぎる。
兼美を用心棒として飼っておいて、たまたま帯屋が乗り込んできて、彼を討ち取らせたあと、
兼美の乱心だと見せかけるために、兼美を殺した、
という手を思いついたというならまだ良い。
お家騒動はかならず幕府の処分を受けるので、隠そうとするのはわかる。

思うに、プラトンやクセノフォン(が書いたとされる著作)は論語とかせいぜい史記くらいのものであり(論語だって孔子が自分で書いたわけじゃない)、
古典ギリシャ語がやっかいだということは置いておいて、書いてあることはシンプルであり、
書いてあるとおりに理解すればよいのだと思う。

ところがプラトンの後、アリストテレスの時代から、ヘレニズムの時代が始まり、ギリシャはペルシャ世界まで膨張する。その西半分はローマに飲み込まれる。
最初はギリシャからローマに一方的に文化が流れ、
ギリシャ語がラテン語に影響を与えたが、次第に融合していき、
ラテン語からギリシャ語にも影響するようになり、
東ローマ時代にはたとえば Eudokia のようにギリシャ語とラテン語の複合語などが使われるようになる。

ローマではラテン語が公用語であり、東ローマではバシレウス2世あたりからギリシャ語が復活した、
などと言われているが、そうではなく、東ローマ、つまりかつてのヘレニズム世界では、
少なくとも民衆の間では、ずっとギリシャ語が使われていたと考えるのが自然ではないか。

それで、東洋では論語の後に孟子が出て、朱子学ができたわけだが、
これは西洋ではギリシャ文芸、特に新約聖書の、ラテン語世界における再解釈に相当する。
宗教改革以降ではこれがさらにドイツ語や英語にとってかわられるのだが、
さらに独自解釈が加えられ、古典ギリシャ文芸のシンプルさが失われ、特に哲学といわれる部分の解釈が、
どうしようもなくゆがんできた。

どうゆがんだかといえばこれも朱子学とだいたい同じであって、
春秋時代の孔子から発祥したいわばボトムアップな儒学の上に道というものを作り、道の上に天というものを作った。
逆に天から道ができ道から儒教ができた、というようにトップダウンに作りかえてしまった。
頭でっかちに抽象的になってしまった。

西欧でも、まずキリスト教神学があって、その下に哲学があって、その下にアリストテレスの百科事典があって、
その下にプラトンらの初期の著作がある、という構図にしてしまった。
だからプラトンがわけのわからないことになってしまったし、
イソクラテスなんてもっとわけがわからない。
西欧は神学が学問の最上位に君臨して支配していた時代があまりにも長いのでどうしてもそうなる。
現代でもだ。

日本の、或いは中国の、近世における古文辞学的手法と、
西洋で起きた聖書から「史的イエス」を文献学的に復元する作業というものは、同時並行して起きた動きだ。
「史的イエス」研究はものすごく発達している。
当然「史的イエス」に対して「キリスト教的イエス」「イスラム教的イエス」「形而上学的イエス」などが副産物として分離され明らかになっている。
本居宣長や契沖の国学、荻生徂徠の古文辞学も相当に高度なものだ。
しかし「史的プラトン」や「史的クセノフォン」「史的アリストテレス」を復元しようという試みはまだまったく不十分としかいいようがない。
一部の研究者はそれに気づいているが、一般にはまったく知られていないようだ。