amazon.co.jp ではなく、
amazon.com や
amazon.fr で読んでもらっている人が、
もちろんそんなに多くはないが、
いるらしく、
非常に光栄だ。

特にびっくりしたのは、海外の人で、
内親王遼子をリリースした直後にオーナーズライブラリーで読破した人がいるらしいということ。
と同時に非常に恐縮した。たいへん申し訳ない気持ちだ。
というのは、
6月4日にリリースして20日くらいまではけっこういじってたからだ。
その間に200枚が260枚くらいに増えたんじゃなかったかな。
挿絵も微妙に増やしたはずだ。
まだ誰も読んでないはずだと思って。

amazon.co.jp しか見てなくて気がつかなかった。
私自身あまり KDP 作家どうしつるむことがなく、一人で勝手に書いている。
どちらかと言えば、今の日本人ではなくて、外国人や未来の読者のために書いている気持ちだ。
NHKの大河ドラマみてツイッターでわーっとパズる感じ。馴れ合い。あれが嫌いなのだ。

たとえばだが、読者や、他の作家とキャッチボールをやるような感覚で、
定期的に作品を発表していく。
そういうやり方を私はしていない。
勝手に書き、勝手に書き換え、勝手に延期したりする。
申し訳ない。
でも少しだけ救われた気持ちになったことをここに書いておく。

今回分かったことは、

* 無料キャンペーンはやらなくて良い。
* とりあえず出版して、無料キャンペーンやるまではいじる、というやり方は良くない。
* 最初から完全版を出す気持ちできちんと書く。
* リリースできないなら延期する。
* amazon.co.jp 以外もちゃんと見る。

ということだろうか。

惨敗ですよ、惨敗。

5日間の無料キャンペーンの途中だが、もう打ち切っても良いんじゃないかってくらい、
ダウンロードが少ない。

やはり、当初の予定通り、特務内親王遼子3はマンガで出すべきだった。
マンガで出して多少話題性が出れば、そこで小説で完結編を書けばよかった。
しかしまあ自分の中では「原作」を「完結」させることの方に気持ちが傾いてしまった。

「原作」を書き、そこから「シナリオ」なり「ネーム」を書いて、
さらにマンガにしようとしても、ならんわな。
原作をそのままマンガにしようとすると、膨大な背景や小物や登場人物が発生してきて、
作業量的に絶望してしまう。
だから原作は原作として置いといて、マンガは「スピンオフ」とか「外伝」みたいにして作るしかない。
我々はそういう原作のことを世界観などと言うことがある(笑)。
世界観はしかし普通は作者の頭の中にだけあるものであったり、
現物はせいぜいイラストレーション程度しかなかったりするのよね。
というのはふつうの人は一本の小説という形で完成させることはないから。

ましかしもう五年以上小説書いてあちこちに発表しているのに、
私は読者を、固定客をほとんど獲得できてなかったのだからもうこれは仕方ない。

思うに、誰も鶏を飼ってないところで鶏を飼い始めると儲かるが、
みんなが真似して鶏を飼い始めると赤字になる。
同じことはラーメン店でも小説でも言える。
今は誰でも小説書いて発表できるようになった。
KDPの初めの頃は自分もアマゾンで小説売れるようになったってのは少し珍しかった。
しかしいずれ電子の海に埋もれる日が来るってことはわかってた。
もうすでにそれは来た。

誰も鶏を飼わないうちに鶏を飼い始めた人というのが漱石や鴎外なのだよね。
ただ、文芸の場合、いったん古典となってしまうと、
古典は良い悪いという以上の拘束力と影響力を持つから、
強いのよね。それは学術論文と同じ理屈で説明できると思う。
多くの読者を獲得することは力なのだよね。
それは歴史的な継続性を持つ力。

いまも「エウメネス」だけはときどき売れる。
しかし「エウメネス」を買って読んでくれているのは「私の読者」ではない。
エウメネスが出てくる某マンガを読んでいる人たちというのに過ぎない。
エウメネスは私が書いたものの中では割と初期で、
その後何度も書き換えたから、まあそんなに悪いものではないが、
私が書いたものの中でベストだとは思ってない。
で、エウメネスなりなんなりを読んで私の読者になってくれた人。
ほとんどいない。
それはもう結論が出ている
(同じくシュピリの読者は私の読者ではない)。

売れるか売れないかということで言えば需要と供給の関係でしかない。
チラシの裏か裏でないかということも同じだ。
KDPとかpixivとかが出てくる前は、私たち素人にも、
いや出版業界の玄人でも、本だけは違う、良いものを書けば売れるはずだ、
という幻想があったのかもしれない。
しかし電子出版の現実を直視すれば、本もラーメンも鶏も同じだってことは明らかだ。
都議選ですらそうだ。

例えばスタンダールの長編小説だってああいうのがかつては需要に対して、
供給が追いつかなかったから売れたわけだ。
今も多少は需要があるだろう。しかし供給が多すぎる。
供給が多すぎる状態で有効なのはマーケティングだろう。
KDPもまたすでにマーケティングが成熟してきている。
じゃああなたもちゃんと投資してマーケティングやりますかと言われて、
やるはずがない。それは私の仕事じゃない。

昔ダウンロードしてくれてた人も実際には読んでさえいなかっただろう。
今回ダウンロードした人は一応読む気でダウンロードしたのだと思う。
その実数が見えた気がする。

まあ、この五年間で経験値だけは少しあがった。
今まで書いてきたものは遺言代わりくらいにはなるだろう。

文芸は映像や音楽とは違う。
しかし必ずしも棲み分けているわけではない。
セリフの無い手描きアニメーション作品とかPVみたいな小説を書く人がいる。
例えば村上春樹なんかはそうかもしれない。
それもまた文芸である。
そして音楽やアニメーションが好きな人は、
くどくどした台詞や説明がないそういう「空虚」な小説を好むだろう。

台詞や説明が多いアニメーションを揶揄してセツメーションというらしい。
台詞が無いアニメーションの方が高級だと考えているアニメーターは
(非商業アート系には特に)多い。
私は今までそういうものに鈍感だったかもしれない。
今まで文芸作品は文字や台詞だと思ってた、
映像や音楽とは別のメディアで表現手段だと思ってたが違うかもしれない。
ある程度書いて書き込んでみて読者の反応をみたからわかったことだ。
でまあ、20歳くらいで作家デビューするような人は(もともとそういう環境にいて)、
そんなことは最初からわかっているはずなのだ。

もちろん説明や台詞のないアニメーション作品にはある種の限界がある。
私はそういう限界を好まない。
二人か三人しか登場人物がいなければ台詞は無くとも作品は成立する。
メッセージを伝えることはできる。
私が書きたいものはどちらかといえばそういうものではない。

そういう意味では和歌のほうが、私はもっとずっと前から詠んでいたので、
少し実感しやすい気がする。
もう30年間、途中長いブランクがあるが、和歌は詠んでいた。

特務内親王遼子

特務内親王(完結編)は無事出版されました。
まだ多少手直しするかもしれませんが、読もうと思えばもう読めます。

400字原稿用紙(一太郎計算)で言うと200枚、Kindle換算で118ページなので、
「エウメネス」や「巨鐘を撞く者」「将軍家の仲人」などよりは(少なくとも文章量と挿絵に関していえば)お得感があると思います。
「安藤レイ」より長いので、私にしてみればけっこうな長編ですね。
ただまあ kindle 換算はあまりあてにはならないんだけど。
三章に分かれてて、第三章が半分くらいある。
第二章はかなり加筆した。
第一章はほとんどそのまんまだと思う。

無料キャンペーンをやるのはよりたくさんの人に読んでもらい、新しい読者を獲得し、
できれば良いレビューを書いてもらうためなんだろうけど、
もう4年ほどKDPで出してきて、今更効果もなさそうな気もするんで、
基本放置しとくことにします。
たぶん読む人は読むし、レビューを書きたい人は書くし、あまりキャンペーンは関係ないんじゃないかと思う。
昔はともかく今は。

特務内親王遼子完結編

もう文章はほぼ書き終えた。
あとはどのくらい文章に厚みをつけるか、挿絵を増やすかだが、
結局、どんなに頑張っても、小説なんてものは読んでもらえないんだってふうに近頃は思えてきた。
ヨハンナ・シュピリに関して言えば、彼女のハイジ以外の作品を読んでみたいという人は多く、それに対して翻訳する人が少なかったので多少売れたのに過ぎない。
普通の小説にしても、書く人が少なくて読む人が相対的に多ければ本は売れるはずだが、
書く人が多すぎるから売れない。
小説の需要自体、大して増えも減りもしないが、書きたい人が大勢いるから一人一人の作家のもうけは少なくなる。
アニメ・マンガ業界と同じ。

がんばってCGで挿絵を増やしてできればマンガにして出したかったが、
たぶん無駄な努力だと思うからこのくらいで出そうと思う。
特務内親王遼子1はPDFで無料で公開していたが、これも公開をやめる。
2はKDPで出していたが、これも出版停止する。
1から3まであわせたものを近日中にKDPで出版する。
我ながらうまい具合に完結させた、400字原稿用紙換算で200枚ほどで、良いできだと思うのだが、期待してもしかたない。
まあ、期待しないでしばらくお待ちください。

思えば私はこういう「プリンセス」ものを今までいくつも書いてきた。
「エウメネス」のアマストリナはそうだし、「エウドキア」はそのまんまだし、「将軍家の仲人」の喜世もそうだし、
「西行秘伝」の源懿子もそうだ。
だが根っこにあるのはディズニーのプリンセスものみたいなアメリカナイズされたステレオタイプに対する反発であり
(と同時にNHK大河ドラマ的ステレオタイプに対する反発でもある)、
そこからひねって和風の皇女にしてみたり、
ペルシャ王女にしてみたり、東ローマの女帝にしたりしている。
少しだけ主流から外す。
しかし主流から外れているというのは今のテレビドラマ的ハリウッド的価値観から外れているだけのことで、
いずれもそれぞれ主流たり得る、つまり小説となり得る価値がある、そういうものを「発掘」している気持ちで書いている。
「エウメネス」は外したつもりだったのに同じ主人公のマンガがあって少し売れてしまった。
なんか不本意だ。

竹取物語や源氏物語に限らずお姫様は昔からたくさん話に出てくる。
しかし「内親王」と呼ばれることはない。「内親王」という呼び名は奈良時代にはすでにあったのにも関わらず、だ。
そういうところもこだわりなのだが、一般読者には通じないかもしれない。

あちこちきどって加筆してみた。出だしはこんなふうになるはずだ。

> 何の恨みがあるかはしらないが、こんな風向きの日にはきっと馬賊が出る。
悪天候は彼らの宴の合図だ。
猛禽が山から舞い降りてきて、地上の獲物を掠め取っていくように、山に棲む馬賊どもが、農家の子羊を略奪し、酒盛りの肴にしてしまうのだ。
砂漠に隣り合わせの痩せた土地で、そのうえ匪賊まで出る。誰の記憶にも残ってない遠い昔、ここに住んでいた原始人が、あるいはもっと太古に、この平原を闊歩していた獣たちが犯したとんでもない罪のために、この土地は罰せられているのに違いない。こんな日に哨戒に出る稗島は、そんなふうに思わずにはいられない。
砂埃にまみれた霜が強風で舞い上がり、厚くよろった防寒具の上から肌にたたきつけてくる。

あるいは

> こんなにも王族にふさわしくない私がか。こんなにいいかげんでおっちょこちょいで自分勝手で移り気で。男にだらしなくて、男にすぐ騙される私が、よりによって、民の君にならねばならないのか。

というような台詞もある。