ランゴバルド族

[この図](http://en.wikipedia.org/wiki/File:Lombard_Migration.jpg)のように、
ランゴバルド族はわざわざスカンジナビアからイタリアまで移動してきたのだという。
まあ、普通に考えると、ゲルマン民族の移動というのは、ノルマン人による南イタリア征服と同様に、
中央アジアの遊牧民族に圧迫されたローマ人とかフランク人が、
ヨーロッパ辺境の種族を傭兵として雇って連れてきたのが自立したのだろう。

[この地図](http://en.wikipedia.org/wiki/File:Italien_zur_Langobardenzeit.jpg)で、oströmische reich
とあるのは東ローマ帝国。
Reich des Franken はフランク王国。
Burgundia はブルグンド王国。
その他、Liguria、教皇領、Neapolis などが、ランゴバルド族の国からは除外されている。

ランゴバルド族の国としては、
Neustria、
Austria、
Tuscia、
Spoleto、
Benevento がある。
Neustria はフランク人の故地 Austrasia に対する新しい土地、という意味で、
[この地図](http://en.wikipedia.org/wiki/File:Frankish_Empire_481_to_814-en.svg)
ではパリの辺りをいうらしいが、
なぜかランゴバルド族が支配するミラノ、トリノ辺りの国の名になっている。

[複合弓](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E5%90%88%E5%BC%93)
は北宋の発明だと思っていたが、フン族も使い、トルコ弓とも言われるという。
北宋以前から素朴な複合弓は使われていたということだろうか。
東方から伝わった新しい弓や騎射の技術が、古代ローマ社会を変えた、と考えてよいか。

Regnum Italicum

カール大帝のフランク王国から遺産分割でイタリア王国というのができたが、
イタリア王の血統が絶え、東フランク王オットー1世がイタリア王を兼ねることとなり、
オットーが神聖ローマ皇帝を称することによって、
神聖ローマ帝国となった。

この時期、Kingdom of Lombardy と言う言い方は間違いであり、
Kingdom of Italy という言い方は正しいが、
神聖ローマ皇帝がイタリア王を兼ねているから、実質イタリア王国というものはないのに等しい。

ノルマンコンクエストが始まる直前の南イタリアやシチリアは一部がアラブ人、
一部がギリシャ人の領地であり、
残りのカプア、サレルモ、ベネヴェントは神聖ローマ帝国外のイタリア人(ランゴバルド族)の国だった。

南イタリアのノルマン人による征服は、おそらくは、神聖ローマ皇帝がノルマン人を雇って行わせたものだろう。
神聖ローマ皇帝はローマ帝国の後継を標榜しているから、イタリアに干渉するのが好きなのだ。
ノルマン人はノルマンディから神聖ローマ皇帝の保護の元、陸路でイタリアに向かったと考えるのが自然だろう。

オットー1世がイタリア王となっても、住民や領主はランゴバルド族だったのに違いない。
オットーは、フランク王国の騎士やらに、ランゴバルド族やギリシャ人やアラブ人が支配する土地を占領するように命じた。
そう考えるのが一番つじつまがあいそうだ。

マルセイユからローヌ川上流、スイスの西半分はブルグント(ブルゴーニュ)王国と言ったのだが、
ここがいかにしてサヴォイア辺境伯の国に変わっていったのか。
それがまたよくわからない。
とにかくもう複雑すぎてよくわからない。

kindle

紙の本と違い kindle では斜め読みや飛ばし読みがしにくい。
無意識的に昔私は紙の本をかなりざっと読んでいたらしい。
適当にとばして、一番最後の解説や後書きを先に読んだり、
真ん中辺りを拾い読みしたりしてたらしい。

それで一冊読んだ気になっていたらしいのである。

kindle ではそういう雑な読み方はできない。
1ページずつ読んでいくしかない。
そうすると私はすぐに眠くなるか読む気がなくなるらしい。

逆に文章を校正するにはkindleは向いている。
丁寧に読んでいくしかないからだ。
今まではワープロで打って紙に印刷して赤ペンとか緑ペンなんかで校正していたが、
その作業を完全にkindleでやるようになった。
少なくとも、紙とトナーの節約にはなる。
誤字脱字などものすごく気付く。

kindleはどんな長編でもかさばらず重くならないから、
長編小説を読むのには適した媒体ではあるんだろうが、
紙の本よりも長い文章を読むのが疲れる。

私のkindle本でも長いやつはレビューを書かれない傾向がある。
レビューというのは一気に読んだ勢いで書くものだろうと思う。
中編くらいの、さっと読みやすい分量の小説、
もしくはマンガのようなものが、
結局は kindle には向いているのかもしれんなあと、
少なくとも売れやすいのではないかと思う。

Manfred del Vasto

Manfred del Vasto は Adelaide del Vasto の父、というしかほとんど知られてないのであるが、

Manfred という名は Man + Fried (平和な男)という意味であるから、
ラテン系ではなくゲルマン系の名前であることは確かである。

del Vasto の Vasto は南イタリアの地名であり、
ノルマンコンクエストの結果、ノルマン人が獲得した土地の領主になったということであり、
それまで彼は
marquess of Western Liguria
であったはずだ。
当時のリグリア(今のジェノヴァ地方)は、
Obertenga (東)、Arduinica (西)、Aleramica (真ん中)の三つの辺境伯国に分かれていたとあるから、
マンフレッドはおそらく
Manfred del Arduinica
などと呼ばれていたはずだ。

彼は
[Aleramici](http://en.wikipedia.org/wiki/Aleramici)
というフランク王国に由来する、リグリアやピエモンテを治めていた一族に属するらしい。
生粋のイタリア人、というわけではない。
当然 Aleramica という地名と同源だろう。

ジェノヴァは、リグリアのほぼ中央だから、
Aleramica に生まれた自治都市国家、のようなものだったと思われる。
リグリアが三つの辺境伯国になる以前はアラブ人(の海賊)に支配されていたという。
彼らを駆逐するためにノルマン人(の海賊)が傭兵としてイタリアまですでに大勢来ていたと思われる。

ジェノヴァはやがてノルマン人による南イタリア征服の拠点となり、
十字軍の騎士を送り出す港となり、
繁栄していくのだが、それ以前は、おそらく、
いろんな海賊たちが入れ替わり立ち替わりする「辺境」そのものであったと思われる。

ていうか、
[Manfred I of Turin](http://en.wikipedia.org/wiki/Manfred_I_of_Turin)
によれば、
Arduinica というのはトリノ辺りのことを言うらしく、

> the marca extended from the Alps to the Ligurian Sea and the Po Valley. Under him, Pavia became a mercantile city.He also controlled the road between Genoa and Marseilles.

つまりアルプス(Susa Valleyとあるから、フランス国境付近のことか)からトリノ、
地中海地方のマルセイユやジェノヴァまで領有していたという。
この Manfred I of Turin が Manfred del Vasto の直系の祖先かどうかまではわからんが、
一族であるのは間違いなかろうと思う。

[Arduinici](http://en.wikipedia.org/wiki/Arduinici)
というのもAleramiciとほぼ同様らしい。
ここにも Manfred や Adelaide という名前の人がいる。
サヴォイア公の祖先にあたる、という。
ふむ。300年くらい間が空くようだが。

Adelaide は英語名で実際には Adalheidis などと言っていただろう。
スイスや南ドイツ由来の女性名。

坑夫

『坑夫』を何年かぶりに再読したのだが、
やはりこれはずいぶんへんてこな小説だ。
坑道に入ってから出てくるところまでが一番面白いところだが、それまでが異様に長い。
で、坑から出てくるとあっという間に終わってしまう。
どうでもよさそうなことがくどくどと書いてある。
漱石はつまり、わざと小説らしくない小説を書くためにこんな仕掛けにしたのだろうが、
どうも迷惑だ。
もう少し書きようがあるんじゃなかろうか。

も少し推理してみると、前半の異様に長い前振りはこれは漱石自身の体験を脚色したものだから、異様に詳しい。
で、銅山の話は誰かから取材したもので漱石本人は銅山に登ったことさえない。
だからさらっと書いてしまっている。

そういういくつかのネタを適当につなげた結果こんな具合になったのではなかろうか。
これはまあ自分の体験にも基づくわけだが、自分が実際に経験したこととか実際に取材したことというのは、
つい詳しくなるが、
そうではない箇所も補完して書かなくちゃならない。
そういうところはまあ、つい短くはしょってしまいがちだ。
明らかにそんなふうな小説というのは世の中にざらにある。
自分の小説も、だいたいそうだといえばそうだ。
想像で書いたところ。wikipedia や google earth で適当にすませたところなんかは、
正直自信がない。
出版社がついてて編集とか担当もいれば、そこちょっと話薄いですね、とかいって、
適当に話をもってくれたりカモフラージュしてくれるのだろう。
あいにくそんなスタッフのようなものはない。
全部自分で考えて自分で書いている。
そのかわり儲けを折半する必要も無い。

たぶん銅山の話がなければあまりにつまらない話で、漱石としても、小説として発表するのが憚られたので、
当時のキャッチーな話をとってつけたのではないか。
だもんだから

> 自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

などというおかしな言い訳がついている。
漱石らしくない、へんな嘘の付き方だ。

BNP上昇

ええっと、そんで、心室細動でICUに入れられたのが2011年10月27日なんだが、11月29日には退院して、それからずっと順調に回復していて、実はもう完全に良くなってたんじゃないかと思って、薬を飲むのもサボりがちだったのだが、いきなりBNPが250台になってしまった。たぶんアンカロンという薬を飲み忘れることが多かったせいだと思う。

アンカロンは強力な不整脈を抑える薬なので、この薬が効いているとBNPは5くらいまで下がるらしい。正常値は20以下。100を超えると心不全の確率が高い。

非常に強力な抗不整脈作用がある反面、新たな不整脈や、肺線維症など重篤な副作用が多いのが欠点です。日本では、専門医により、他の薬が無効な致死的な不整脈に限り用いることになっています。

なんかまあ恐ろしい薬だな。私の場合不整脈が出たら死ぬしかないから、つまり致死的な不整脈ってやつだから、しかたなくアンカロンを飲んでいるわけだ。幸い副作用は出てない。

よくわからんのだが、私はもともとBNPが高い体質だったのではなかろうか。BNPは普通の血液検査では調べないから、昔どのくらいだったかってことはわからんのだが。これからもずっとアンカロンは飲み続けなくてはならなさそうだ。次回の検査でBNPが下がっていればいいのだが。

コレステロール値も相変わらず高い。まあ死ぬまで節制しなさいってことだな。

まあ、鐘というものは、銅鐸かなんかみたいにして、美術館に展示してあっても、絵的にはほとんど意味がないのであり、
鐘楼に吊してあって、鐘撞き棒が吊してあって、実際に普段鳴らしている状態で設置されていなくてはならんのである。
写真とは現実ありのままではない。
説明であり記号なのである。

130402_0627~01

これは京都南禅寺の鐘楼であるが、藪の中にあって、鐘楼の中に鐘がほとんど隠れてしまっている。
これでは、絵的に鐘楼だということがわからないので、困る。
雰囲気は悪くないのだが、残念だ。


IMGP0913

鎌倉建長寺。
悪くない。
絵的にはこのように手前に鐘撞き棒があってその奥に鐘があって、その奥に鐘楼の柱があって、
理想的にはその背景は江戸時代の町並みが欲しい。
或いは、江戸時代には存在しなかったオブジェが映り込まなければそれでもよいのだが、
この写真の場合には観光客が入ってしまっているのが、まずい。
早朝などに撮ればよかったのかもしれない。


IMGP0907

またこの鐘楼は、屋根が藁葺きなのもなかなか良い。柱も古風だ。

鐘楼全体を写真に収めようとするとどうしても鐘が小さく見えてしまう。
なので、鐘に対して鐘楼があまり大きすぎない方が絵的には良いのである。
鐘楼がでかすぎるとどうしても鐘だけを撮影しなくてはならなくなる。
また、鐘楼がでかければでかいほど、背景に余計なものが映り込んでしまう。


IMGP0897

鎌倉円覚寺。
悪くない。
非常に荘重な感じ。
しかし、普段は使われてないのか、
厳重に鐘撞き棒が固定されているのが残念である。
これでは鐘を撞くまでにかなり手間がかかってしまうだろう。


IMGP1132

京都建仁寺。
あまりよろしくない。
まず、鐘が鐘楼の中に隠れてしまっている。
棒だけが外に突き出ていて、これでは鐘を叩くのには便利かも知れないが、
ビジュアル的にはいまいち。
しかも周りに車が止まっていては絵的に使い物にならない。


IMGP1120

京都知恩院。
悪くない。
江戸時代のものとしては最大級だろう。
しかし、鉄柵がいかにも邪魔。
あと、あまり大きすぎるのはビジュアル的に圧迫感がありまくる。


IMGP1183

京都東山高台寺。
悪くないんだけど。
立ち入り禁止の立て札が邪魔。
背景にビルが入る。
隣に車やクレーン車などかあっていろいろ邪魔。
あと、鐘に金で印字してあって、けばすぎる。


IMGP1192

これも東山。頼山陽の墓がある長楽寺。
まったく期待してなかったが、いまのところこれがベスト。
鎖がぴかぴかしすぎていること以外特に文句がない。


IMGP1228

金閣寺。
消化器がいかにも邪魔。
あとなんか立て看も邪魔。
鐘楼自体はそんな悪くないんだけど。
こんなところ写真撮るひといないと思われてるよな。


IMGP1292

仁和寺。
朱塗りで超かっこいい。
でも普通の人はこれが鐘楼とは言われなくちゃわかるまい。
私はたぶん形からして鐘楼だとは思ったが、鐘が完全に中に隠れてしまっている。


IMGP0966

長崎興福寺鐘鼓楼。
鐘を撞いて太鼓も叩いたらしい。
鐘は戦時中拠出してもう存在しない。


日本鐘巡りの旅はまだまだこれからだ。
普通の町中にある鐘楼は周りに余計なものが映り込むので使い物にならない。

山ノ内と扇ガ谷

たまたま梅雨の晴れ間で日差しが強くて良い写真が撮れそうなんで、
世界遺産に相手にされなかった鎌倉に行ってみた。
JR横須賀線北鎌倉駅辺りが山ノ内であり、
その南隣、北鎌倉駅と鎌倉駅の間くらいが扇ガ谷。
地名表記は「山ノ内」と「扇ガ谷」であって、「山内」でも「山之内」でも「扇谷」でも「扇ヶ谷」でもない。

だいたいにおいて上杉氏は「山ノ内」上杉氏と「扇ガ谷」上杉氏が有名なのであって、
それぞれ鎌倉にいたときは山ノ内、扇ガ谷をもともとの本拠地としたのである。
その地名が未だに現役で使われているというのはやや驚きもある。
まあ、歴史的に有名だから今もその地名が使われているということもあろう。
山ノ内と扇ガ谷の間は小高い山であり、亀ヶ谷坂切通しという狭い山道が通っている。

山ノ内というところはつまりは関東管領上杉氏の本拠地であるから、
でかい寺がある。
つまり、円覚寺と建長寺。
どちらにも国宝の鐘がある。
建長寺の鐘は五代執権北条時頼が、
円覚寺の鐘は九代執権北条貞時が作らせたものだ。
鐘というものは案外古いものはなくてかつ国宝で現在も使われているものが、
こんなに近くに二つもあるというのは珍しい。
珍しいんですよ、これは実はね。
京都にも三つ国宝の鐘があるらしいのだが、
どうも今は使われてないらしい。
飛鳥の法隆寺や薬師寺も昔ながらの鐘が使われているとはとても思えない。
奈良の興福寺や東大寺なんかも。

たとえば知恩院の鐘がでかいといってもあの寺は徳川家が天下とってから大を成したものであるから、そんなに古くはない。
金閣寺や銀閣寺が室町時代のものであるように、
実は京都の建造物の多くは室町や江戸に出来たもので、
さらにそれを明治になってから復興したものであって、
鎌倉のように北条氏の時代の鐘が残っているというのはやはり珍しいのである。

にしても、鎌倉は人が多い。東京から近くて気やすいのもあるし、
観光客以外に高校生もいるし、
あじさいの季節だというので大勢くりだしてくるし、
週末だったのでもう地獄だった。
京都と違って鎌倉は山だしな。
道は狭いわ人混みはひどいわ車は多いわでもうこれで世界遺産なんかになった日には目も当てられんだろうね。

扇ガ谷には大した寺はない、山ノ内に比べると。

鎌倉時代には御家人たちは鎌倉にみしっと集中して住んでたんだろうね。
それが鎌倉の防衛力ともなった。
しかし室町時代になると鎌倉以外の関東各地へみんな散っていってしまった。
鎌倉の相対的な価値が低下した。
鎌倉だけをきちんとまもるというやり方が廃れてしまったんだろうと思う。

円覚寺と建長寺は鐘が国宝なだけでなくて鐘楼がなかなかよろしい。
たぶん古いものなのだろう。
京都の鐘楼でがっかりするのは完全に鐘を囲ってしまって外から見えなかったり、
消化器がおいてあったり、現代風の柵が巡らしてあったり、変な立て札があったりして、
美的景観が台無しだったりすることだ。
円覚寺と建長寺の鐘楼は良い。
カメラを向けるときちんと北条氏の時代の姿で写ってくれる。
そこがまた珍しい。

上杉氏は、北条執権時代には宮将軍の世話係としての性格が強いから、
京都から来た将軍のために山ノ内にせっせと寺や鐘を作ってあげたのであろうか。

恋と女の日本文学

丸谷才一『恋と女の日本文学』は、
簡単に言えば本居宣長を攻撃するのが大好きな丸谷才一が宣長を攻撃するために書いた本である。
丸谷才一という人は、戦後民主主義のホルマリン漬けみたいな人であって、
思想的には大江健三郎や井上ひさしなんかに近い。
國學院大學にいて国文学にものすごい影響を受けているくせに左翼だからものすごく屈折している。

で、本人は本居宣長を攻撃しているつもりなんだが、
誰も怒ってくれない、放置プレイ状態だからますます彼の論説は過激になっていく。

宣長はただ一般論として儒学を攻撃しているのではない。
彼は実際に講義を受けた堀景山を批判しているのだと思う。
彼は凡百の儒者に過ぎなかった。
その講義があまりにもつまらなかった。
堀景山は反面教師としてそうとう宣長に影響を与えたのだろうなと思う。

> 中国人は偽善者で嘘つきだ。それが中国文学の原理である。

(p.72)

ここで「中国人」を「堀景山」に読み替えると意味がすんなり通ると思う。
当時の儒学者、武家というものは、多かれ少なかれ偽善者で嘘つきだった。
「蘆わけ小舟」は景山に学んだ宣長の卒業論文のようなものだった。
普通は恩師のことを褒めなくてはならないのだが、
宣長は景山の人柄はともかくとして学問や思想に決して共感できないところがあり、
それを批判したのだろうと思う。
もちろん、宣長は景山なくして契沖に出会うことはなかった。
ただそれだけでも、宣長が景山を尊敬していたことは間違いない。

丸谷才一は、儒教文化と日本文化を対比させて話をしたがるのだが、
日本はインドからも大量の説話を輸入していて、そこには男女の愛憎や肉欲なんてものは、
いやというほど描写されている。
日本文学は中国と比べれば退廃的かもしれんがインドと比べれば全然清楚なほうだ。
日本はただその両極端を知識として知っていただけだろう。

> 宣長の歌がからつ下手で

(p.63)

> 宣長の生涯には不思議なことが一杯あるが、とりわけすごいのは、どうしてあんなに和歌が下手だつたのかといふことである。
『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたいと念じながら生き、学び続けた人なのに、本当に才がなかつた。
才のなさが凡庸ではなかつた。しかもさういふ人の歌のなかでもとりわけひどいのが人口に膾炙することになつた。
言ふまでもなく山桜の歌だが、

(p.86)

などと書いているのだが、
思うに、
定家全集なんか読んでいると定家もそうとう大量の退屈な歌を詠んでいる。
実際定家の歌で面白い歌なんてのはめったになく、
たまたまあっても奇をてらった嫌みなやつか、
本歌取りのきどったやつ。
見えてくるイメージは学者の家に生まれ育った秀才、というのみ。
父親の俊成のほうがずっと歌はうまいと思うのだが。

で、

> 『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたい

などとは宣長は思ってない。京極黄門藤原定家のような歌が詠みたい、と思っていただけであり、
後鳥羽院や西行みたいなぶっとんだ歌が詠みたいと思っていたわけではない。
これらの天才肌の感覚派の歌は後世の京極派に通じるところがあって、むしろ宣長は嫌っていた。
霊感によって自由自在に詠む歌というものを宣長は否定している。

定家の地名百首みたいなつまらん屏風歌みたいのを大量生産するのが宣長の好みであった。
宣長はかなり忠実な定家の追随者だと思う。

俊成や後鳥羽院や西行の歌を、普通の歌人は真似ることはできない。
方法論がない。
天才の歌を凡人が真似ることは不可能だ。
しかし、定家の歌を真似ることはできる。
ピアノで言えばバイエルみたいなもん。
だから定家は家元になり得たし、信者を大量に獲得できたのである。
その一人が宣長だったのにすぎない。
それは宣長自身が言っている。
京極派を毛嫌いするのもそこだろう。
京極派を学んでも凡人は京極派の歌を詠むことはできない。
しかし二条派の歌なら詠める。

改暦

『明治天皇記』明治4年正月には、寅の刻四方拝、などと書いてあるが、
明治5年正月には午前4時四方拝、とある。
グレゴリオ暦への改暦は明治5年12月3日の翌日を明治6年1月1日とすることで行ったとされるが、
すると時刻の方が先に西洋風に改められた、ということか。

寅の刻というのは天皇が江戸にいるときは江戸の、京都にいるときは京都の日の出・日の入りを基準にしたのだろうか。
電信や無線で一瞬で情報が伝わるようになると、地域で時刻が異なるのははなはだ都合悪かっただろうし、そもそも精度が悪かっただろうな。