コロナ

コロナだけど、社会生活に制約かけられたりとか、社内アナウンスがうるさいとか、仕事増やされたりとか、そういうのがなけりゃ別に好きなやつは好きなだけ騒げばいいし、好きなだけワクチン打てば良い。私に関係なきゃ知ったこっちゃない。

SNSやメディアで騒いでるの、はまた以前のような状態に戻らないかなと不安になるだけで、無視することにしてる。でも天下の公共放送がいつまでも不安を煽ってるのはいつかきっちり責任取らせたいと強く願う。騒げば騒ぐほど墓穴を掘ってるだけだが、あとでどうせ知らん顔するに違いない。

風邪引いたら家で寝てろよ。

いまだに風邪引いてるだけなのにコロナだとか騒いで、まあ風邪なんだから自宅療養したきゃすりゃいいけどさ。無症状なのにコロナ陽性とか濃厚接触者とかいまさらなんなんだよ。そうやって騒ぐやつがいるから医療逼迫するんだよ。おまえらが大騒ぎするから外来受付の電話全然つながらないじゃん。迷惑なんだよ。学級閉鎖とかなんなんだよそれ必要なの?老人ホームもいまだに親族なのに会えないとかアホじゃないの。家族が面会しようとしまいと肺炎にかかるひとはかかるし肺炎で死ぬときには死ぬんだよ。それまで家族に会えないほうがおかしいだろ。

現代短歌

今、現代短歌と言っているものは、現代口語で五七五七七になっているだけで、別に都々逸でも良いわけだ。七七七五で作っても五七五七七で作っても大差あるまい。

今様みたいに七五七五七五・・・で作っても同じだろう。

現代口語だけどたまたま五七五七七にあてはまっているものを短歌と言ってありがたがっているわけだが、そんなものにいったいどんな意味があるんだろうか。

都々逸は別に口語でも文語でも古語でも現代語でも好きなように混ぜて詠めば良いだけだから、わざわざ現代短歌なんか詠む必要ないじゃないか、みんな都々逸詠めばいいじゃないかと思う。

私はときどき都々逸も詠むが、まあふつうで、別に面白くもなんともない。ただの短い定型詩だ。

だれか、都々逸ではなくあえて短歌で詠まなきゃならない理由を説明できる人なんているんだろうか。あきらかに都々逸のほうが短歌より詠みやすいし、現代語にあっているし、便利だと思う。

今書いている本

今書いているものなのだけど、良いものを書いている手応えはあるのだが、まったく売れる気がしない。

私が若い頃書かせてもらった本は、共著で、しかもほとんど全部私が一人で書いたにもかかわらず私が主たる著者ではなかった。いわゆる搾取だ。今懲罰委員会にかければ絶対処罰される案件だが、大昔のことだし、昭和だし、いまさらどうにもならんし、見る人が見ればわかることだからどうでも良いといえば良い。

その後にも手伝いで共著で書いた本があるが、くだらないどうでも良い本だったのでどうでもよい。

単著で書いたのは「田中紀峰」名義で書いたのが最初だ。「定家」と「シュピリ」。書きたいものを書かせてもらったので感謝している。どちらもだいたいどんな人が読んでどんな反応があるかは予測が付いたし、実際そうだったし、どちらもそこそこ売れて、でも初版絶版で、死んだ後も一応著書が残せたのは良かった。

だが今度書く本はちと違う。

もう死んだ後に残すための本は書いたのである。それにkindleでもたくさん書いているからこれらも死んだ後まで残るだろうから、それはそれで良い。できればkindle本も紙の本で出して国会図書館に献本したほうが後世に残りやすいとは思うがそこまでしなくても残るだろう。

今度書く本ももちろん死んだ後に残したいから書いているのだが、そうした本はすでに2冊書いたから今度は売れる本を書こうと思った。売れるというより、世の中に認知される本を書こうと思った。

一番あり得るのは今度出す本も前に出した本と同じで読む人は読むが一般人は読まないか、読んでも理解できないかだろう。

だがもしかすると売れるかもしれない。最低1万部くらい、2版が出るとなると話が違ってくる。売れるのなら次の本も出すかという話になってくるからだ。書けばいくらでも出してくれるというのであればもちろん私はうれしい。少なくとも定年後のひまつぶしにはなる。

ものすごく売れてくれれば今の仕事を早期退職して執筆活動に専念したいくらいだ。とにかく今の仕事には何の興味もなけりゃやりがいもない。というよりとっくの昔にやりたいことはやり尽くしてしまい今は飽きた。人生は短いんだから、いろんなことを試して死にたい。同じ仕事に縛られたくない。

いや、そんなことが書きたかったわけじゃなかった。今書いている本がもし売れたらそれなりに物議を醸すだろうと思う。批判されたり、悪目立ちする可能性もある。それは、売れる本を書いたら多かれ少なかれ起きる現象なんだろうけど、ちょっと怖い気がする。

創作活動

夜寝ている間に、部屋の中にちらばった小銭を集める夢を見て、とてもたのしいのだが途中で夢であることに気づいて急につまらなくなる。ビデオゲームをやることも似たようなもので、別にゲームの中でコインを集めたからと言ってどうということは無いわけだ。

夢の中で小説を書いたり作曲をしたりそういう創作活動をすることは不可能だ。ついこないだも夢の中で自分がいる場所の地図を書いたのだが、書いた地図がどんどん変わっていき、周りの間取りもどんどん変わっていくから、地図を書く意味がない。登場人物も変わる。意味がない。

創作活動に一番良いのは目が覚めた後の数時間、あるいは風呂に入っている間など、頭が冴えているときだ。

酒を飲んでいて良いものができるのは歌を詠むときくらいだ。歌もしかししらふできちんと詠むほうが良い歌はできる。酒を飲んで酔っ払ってあとで勝手に歌ができあがっているのは少し面白いがそれだけのことだ。夢も同じなのかもしれない。夢を見ている途中で書き記したことが起きた後に残っていると面白いものもあるのかもしれない。今の科学ではそんなことは不可能だが。

やる必要の無いことをやっている。

そろそろ60才になり、65才の定年まであともう少しとなった。

この年になって今更あくせくとし、新しいことを覚えなくても良いのではないかと思う。むしろ今やっていることで、どうせ後に残らないものは順番にやめていくくらいでちょうど良いと思う。

20代の頃にやった仕事、20代の頃に詠んだ歌でも、良いものはある。最近始めたことでも意味の無いことは、人生の無駄だからできるだけ早くやめたほうがよい。

昔読んで面白かった本も今読むとあまりにひどいもの、中身がまったく無いと思われるものがある。もちろんそれらの本は私の肥やしになっており、それらの本を読んだ結果今の私の考えがある。役には立ったわけだが、実に悲しい気持ちになる。

今私が本業でやっている仕事、つまり給料をもらってやっている仕事だが、世の中の役に立ってなくはないとは思うけれど、私が定年で辞め、私が死んだ後には何の価値もない仕事だ。要するに、給料をもらえるからやっている仕事、職場で必要とされているから役目としてこなしている仕事だ。私の後継者など不要だし、何も残すことはない。定年がくれば仕事場から私がいなくなるだけのことだ。仮に私の仕事を誰かが引き継ぐとしても私の代わりはいくらでもいる。代わりのいる仕事をわざわざ私がやる必要はない。

すでに私がやったほうがやらないよりは良い仕事というのはやり終えているので、死ぬまで何もやらなくても良いのだけど、収入はないよりあったほうがよく、生きていられるなら長く生きたほうが良いから働いている。ただそれだけだ。そして、生きているうちに自分の理解者を増やして、それらの人たちから何かフィードバックをもらって、自分の仕事の完成度をもう少しだけ高めたいなという、あんまりプライオリティの高くない仕事に関心がいってしまうのが困る。

文章は練れば練るほど良くなるから、ちまちまいじっているが、しかしこれとてやらなきゃやらなくても済むことだ。