小林秀雄問題

文科省が読解力を問う国語入試を導入しようとしていて、たとえばこれまでは、小林秀雄の悪文を一部切り取ってきて、そのどうしようもなく論理的に破綻した文章を読ませておいて、その設問に対して間違いから一番遠いものを選べとか、最もあり得なさそうなものを選べとか、そういう馬鹿げた問題だった。ただしこのような問題は官僚や弁護士の事務処理能力を問う問題としてはある程度有効だっただろう。法律の条文と照らして正しいのかただしくないのか。多くの場合正しいと一意には決まらないから、もっとも正しそうなものを選ぶ、より正しく無さそうなものをより分けるという作業が必要になる。実にくだらない。おかげでくだらない文系人間を大量生産することになった。

漢文の問題もひどかった。どれが正しい読み下しかを問う問題があって、明らかに間違っているものもあるが、間違いとは言えないものが複数あり、素直に考えれば正解と思われるものは間違いであり、間違いとは言い切れないものが正解であったりする。その根拠というのは、作問中の他の部分の読み下し方に統一するならば、そのように読み下さなければならないから、だというのだ。漢文の基礎をきっちり学んできた者がひっかかり、漢文についてろくに知らなくても、設問の全体の雰囲気で一番確からしそうなものを選ぶ猿知恵に長けた者が得をする。まさにセンター試験的悪問。これでは、整合性のある読み下しをすることが漢文教育にとって重要だということになってしまう。まったく馬鹿げている。

こんな問題をずっと作り続けて、よくこれまで訴訟にならなかったものだ。

新しい問題は、複数の異なる資料(図、パンフレット、討議など)の組み合わせを提示して、そこから何らかの意見を記述させるという手の込んだものであって、「小林秀雄問題」とは対極にある。いわば企画立案タイプの出題だ。

せいぜいラノベとかBLとか村上春樹くらいしか売れないこの嫌な時代を矯正してもらいたいものだ。

共謀罪

「……田舎の県警なら昭和の任侠映画さながらにやくざと警察の泥仕合みたいな捕り物やってるじゃん、でも、東京のど真ん中じゃあもうそんな刃傷沙汰は廃れちまった。都下じゃ町田辺りでまだやってるがね。ほとんどは水面下の情報戦。僕らが「マルサの女」や「名探偵コナン」なんか見て喜んでるうちに、日本の反社会勢力は外国勢力と混血しつつ進化した。犯罪統計みてりゃ一目瞭然さ。殺人などの凶悪犯罪は激減した。しかし知能犯罪は増え続け、国際化し、ステルス化した。

で、佐々井は、我々がその名も知らぬシンジケートから、我々の知らないルートをたどって、報酬を得てるんだろうって推測できるわけ。」

「でも、それがほんとだとしたら、佐々井が得ている利益は国税局では把握できない。」

「そうなんだよ。みんなでわーっと踏み込んで、マルサ手帳と捜査令状見せて、でかいハサミでドアのチェーン切って、あちこちで一斉に家宅捜査して裏帳簿を押さえ、段ボール箱に詰めてトラックで押収とか、そんな時代がかったやり方は通用しないんだ、今の時代。テレビ局はいまだに国税局の強制捜査っていうと、そんな絵を撮りたがるがね。

これは『マリナ』に書いたことなのだが、共謀罪に反対しているのは、かつて全共闘とか中核派とかで暴れていた連中だと思うのだが、そういう連中の頭の中は昔の学生運動の時代から何も変わっていないのだろう。そして週刊誌で広域暴力団のドンパチの話なんかを読み、飲み屋のテレビ見ながら政治談義しておもしろがっているのだ。

推理小説、探偵小説、ミステリー、サスペンスなんかも多くはそういう古典的時代設定にとどまっている。まったくいつまでも大岡裁きじゃあるまいし。

『マリナ』は推理小説という形をとった推理小説批判でもあるのだ。というか、最初に死体が出てこないこの小説を推理小説だと思う人はあるまい。死体は最後にちょっとだけ出るのだが、最後まで死人が出ない小説を世間では「推理小説」とは思わないだろう。

現代のマイナンバー時代、共謀罪時代に即して推理小説を書こうというのであれば、推理小説というもの自体がまるきり変わってくる。ステルス化した名も無い国際シンジケートと闘わなきゃならないんだから警察もたいへんだよ。

ベルツの日記

岩波文庫の菅沼竜太郎訳のベルツの日記は、ドイツ語原文の匂いがまったくしない。おそらくこれは1974年に出た英訳をもとに、和訳したものだろう。

Baelz, Erwin. Awakening Japan: The Diary of a German Doctor. Indiana University Press (1974). Translated by Eden and Cedar Paul. ISBN 0-253-31090-3.

1931年にシュトゥットガルトでドイツ語初版が出版されたらしいのだが、それはかなりの部分が省略されたものであったらしい。では欠落のない、ドイツ語の完全版はどこで手に入るのかというと、そんなものは実はどこにも存在しないのかもしれない。

追記。岩波文庫版は1951年と1979年に出ている。