雅葉和歌集

玉風和歌集というのをやっていたが、
[雅葉和歌集](/?page_id=4504)という名前に改めた。

玉風和歌集というのは玉葉和歌集と風雅和歌集を合わせた名前なのだが、あまりに露骨なので、
それから、できれば万葉集にちなんで「*葉和歌集」という名前にしたいと思い始めた。

それで「雅びな言の葉を集めた和歌集」という意味で「雅葉和歌集」という名前にしたのだが、
幸いまだこの名前は使われてないように思われる。
順序は逆になるがまたもや風雅集と玉葉集を合わせた名前になってしまったが、まあいいか。
なにしろ室町末期から江戸末期までの歌というのは、めちゃくちゃたくさんあって困るが、
とりあえず、いいやつは全部入れる勢いでやってみる。

古文漢文

現代日本では古文漢文は相当に衰えてしまっており、受験産業以外にこの分野を支える社会的需要がない、という状況だ。
しかし、あまりにも長い間注目されなかったせいかもしれないが、調べれば調べるほど、
最新の研究による定説の刷新が待たれている分野であると、考えざるをえない。

思うに、江戸時代の漢詩などを読むに、必ずしも、唐宋やそれ以前の古典の用例ではなくて、
むしろ、現代中国語で解釈した方がわかりよいものが、だいぶ含まれていることを感じる。
そりゃそうで、江戸時代といえど、清や朝鮮との交流は、それなりに活発に行われていたのだ。
漢学者や儒学者らは、訓詁学や古文辞学や詩文などばかりもてあそんでいたのではなく、
外交官として、「生の中国語」を駆使して海外事情を学んでいた、はずだ。

詩文がもてあそばれているように思われるのは単に詩文のほうが教材としておもしろみがあったからだろう。
わざわざつまらない勉強をするよりは面白く学んだ方が身につくに決まっている。
それは今の学問となんら変わらない。
詩文や古代の聖賢の話ばかりに没入してしまうのは、儒官としては本末転倒だっただろう。
民間の儒学者にしても、できるだけたくさん弟子は欲しいから、できるだけおもしろおかしい授業をしたのに違いない。
江戸時代は浮き世離れしてたから古文漢文などを学んでいた、はずがない。
実際旗本や与力らの仕事など調べてみると彼らの定員は少なく仕事は多い。
徴税や取締、警備、訴訟、その他さまざまな行政、江戸時代のお役人だからのんびりしてたなどという観念はまったく間違っている。

江戸時代を通じて関東の沼沢地のほとんどは干拓されてしまった。
これらの治水工事にも膨大な労力を要しただろう。
桑や茶などの換金作物が栽培されるようになり、これらが維新時の産業革命の立ち上げに大きく寄与した。
日本には多くはなかったが資本の原始蓄積があったし、高度に発達した職能組織や都市生活環境、貨幣経済もすでに用意されていた。
それを用意したのが徳川三百年の太平だ。
学問も大いに発展した。

現代日本だってもう七十年近く戦争をせず太平を謳歌しているのだ。
もし江戸時代を平和と停滞の期間とするなら戦後日本だって同じことだ。
たまたま学園紛争の真っ最中に書かれた文章を読むと、今は江戸時代と違って、
時代が極めて急速に変化していて、江戸時代の某らのようにゆったりとした時間の中で学問のできる時代ではない、
などと書いているが、それは大嘘だ。
学園紛争など社会変化全体の中でどれほどのものだというのだ。
江戸時代にだってそのくらいの変革は日常茶飯事的に起きていただろう。
浮き世離れしているのは戦後の学者のほうだろう。

江戸時代というのはとかく水戸黄門シリーズのようにおんなじことを飽きもせず三百年間繰り返してきたのだ、
永遠の過去だと思われがちだが、それは極めてよろしくない見方だ。
だが、古典文学の解釈というのはとかくそうなりがちで、
古典の用例によって古典を解釈しようとする。
聖賢を学ぶものもやはり聖賢であろうと思いたがる。
実際にはいつの時代にも聖賢などというものはいなかった。
酒は飲むし吉原で遊びもする。
金も権力もほしがる。
そういうふうにみなければ古文漢文などわかるはずがない。

江戸時代には共通語がなかったからいきおい古文が共通語というか書き言葉代わりになった。
しかし、新しい思想は新しい単語で表されたのであって、それは、比較的保守的な詩文にも、
徐々に浸透していったはずだ。
古いものがいつまでも古いままでいるのではない。
たとえば明治天皇の御製など今読むと古めかしいが当時としては非常に斬新なものだったのだろう。

むろん、学問とは道徳教育のため、という側面もあっただろう。
しかし、人間道徳ばかりじゃない。それは今も昔も同じはずだ。

白石詩草

日本古典文学大系に新井白石の詩がのっている。もとは「白石詩草」に収められている。
[早稲田大学](http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko11/bunko11_a1191/bunko11_a1191.pdf)
でJPEGとPDFが公開されている。
楷書できちんと書いてあるので読むのは容易だが、意味はわかりにくい。

彼が吉原を詠んだらしい詩がある。吉原だろうと思うが確信できない。
「紀使君園中八首」の中の一つ、「芳草原」という詩で、

春入芳原上
青青襯歩鞋
佳人来闘草
応賭鳳凰釵

吉原に春が来る。素足に青々とした草履を履いた美しい女性がきて草合わせで遊ぶ。鳳凰のかんざしを賭けよう。
まあ、そんな意味であって、吉原だろうなと思う。
題の「芳草原」だが、これは、八首の題を三字にそろえるためであり、意味は「芳原」だろうと思う。
「春入芳原上」だが、「春が吉原の上に入る」というのはわかりにくい。「上」は「ほとり」というような意味かもしれん。
「學步鞋」とは「学童のスリッパ」のことらしい。
「歩鞋ヲ襯ス」と朱筆で訓点がついてたので、「歩鞋」という単語があるのだろうと思う。
「青青歩鞋」だが、新しい若草で編んだ草履、という意味だろうか。
だとするといかにも春らしいが。
「紀使君園」というのがよくわからん。朱筆が入っていて「紀」「使君」「園中」と切れる。紀州の使君の庭園か。
「紀使君」という人が詠んだ詩なのか。
あるいは、そういう名前の吉原の店があったのか。

新井白石が吉原で遊んだことがあるとすれば、また彼自身の用例からして「芳洲」が「吉原」を指すと判断できるだろう。
たとえば頼山陽は出島のことを「扇洲」と呼んでいる。「富士山」を「富嶽」と言い換えたり、
「隅田川」を「墨水」と表現したり、江戸時代の漢詩ではこのように、日本名を漢語風に言い換えるのが当たり前だった。

日本古典文学大系では「芳洲」を謝眺や李白などの中国の詩人の用例から「良い香りのする中洲」と訳している。
果たしてそうだろうか。

そもそもこんな楽しげな詩はまったく収められてない。
こむつかしい詩ばかりだ。

思うに江戸時代の文人にとって漢文・漢語というのは中国語そのものであり、
中国の歴史でもあり、実学だったと思う。
だから、学ぶだけの価値があった。
遊びではなかった。
漢文・漢語は、明治に入ってから語学や中国語会話という役目を失い、
戦後もずっとそうだった。
しかし、これから中国語を学ぶ必要性や機会が増えると、
漢文を学ぶ意味も変わってくる。
そして、いったん、たんなる古文古典となってしまった漢文教育を、
一から見直す必要に迫られるだろう。

鈴屋集巻三

宣長の「鈴屋集」を読む。宣長には「石上稿」というものが別にあった。
思うのだが、「鈴屋集」と「石上稿」はもともと重複のない別の歌集だったのではないか。
「石上稿」は日々の歌道の鍛錬の記録として、時系列に書かれている。
「鈴屋集」はもともと二十首とか五十とか百くらいの比較的短い歌集の集まりであって、
詞書きもなしに、ただ興の向いたときに一気に書いたものだったのではないか。
このようなものとしてはたとえば「吉野百首」などの例が残っている。

最晩年になって子供たちに家集を残してくれと頼まれて、
「鈴屋集」という名前もつけて、
題の無いものについては改めて題をつけて、
題の種類で整理をして、「石上稿」の中でも比較的良いものもその中に含めた。
成立過程はそんなところではなかろうか。

なんでそう思うかと言えば、「鈴屋集」には、「石上稿」的なつまらぬ歌もだいぶ混じっている、
また、おもしろい歌とおもしろくない歌が混ざっている。
おもしろい歌は、だいたい、題の最初に来ていることが多い。
つまりこれは題詠という形で、整理した時に、
面白い歌と面白くない歌が混ざってしまったことを意味すると思う。
孝明天皇の「此花集」など見るに、やはり、
面白い歌というのはある一時期にまとまって詠まれるものであって、
私個人の体験も、それに近い。
それを題で序列して配置換えしてしまうと、わけがわからんようになってしまう。

「石上稿」をもって宣長の歌はつまらんと言ってしまうのはかわいそうだと思う。
「鈴屋集」の中で特に良いのは最初の三巻、つまり巻一は「春・夏」、巻二は「秋冬」、
巻三は「恋雑」となっていて、ここまででいったん自費出版されている。
巻七までが宣長の存命中に刊行されたが、その後巻九までがでている。
今改めて読んでみると、巻一から巻三までは非常に優れた歌がいくつか含まれている。
特に巻三には、宣長の青春時代に詠んだと思われる恋歌が見いだせる。
人は宣長の歌を陳腐で退屈で月並みだという。しかし、
これらを宣長の歌だと見破れる人がどのくらいいるだろうか。

> たをりても見せばやいかで忍ぶ山心の奥に染めしもみぢを

> 何をかくいとはれぬべき身のほども思ひはからで思ひそめけむ

> ふくるまで人にも人を待たせばや来ぬ夜の憂さを思ひ知るべく

> 見し夢よ誰に問はましうつつとも定めもやらぬ中の契りは

> 見せばやなちしほのもみぢたをり来て心の色は知るやいかにと

> 惜しまずよいとはるる身を変へてだに巡りあはむと思ふ命は

> この春は花をも知らで過ぐすかなうつろふ中のながめのみして

同じ巻三の雑歌には

> いたづらに年ぞ六十になりにけるなすべきわざは未だならずて

> 思ひ出づるみそぢの春もみそとせのかすみへだたる花の面影

などといった年寄り臭い歌も載っているのだが、
恋歌の方は、明らかに、全然違うときに詠んだものと思われる。
ちなみに「三十の春も三十年のかすみへだたる」とあるが、これは、
恩師の死去で一時松坂に帰ったけれども、再び、医者の婿養子になって京都に戻ろうと運動をしていた頃であろう。
翌年にはあきらめて地元の名士の娘と結婚している。
従って、宣長にとって何か忘れがたいことが三十の頃にあったのは、ほぼ間違いないだろう。
何があったのか、非常に気になる。

現実逃避

小説というのは、だいたいが現実逃避なんだなと思う。
現実逃避と言って悪ければ、非日常を描くのが小説。

漢詩や和歌などが、比較的、日常的な感情をそのまま形にするものであるのに対して、
小説の本質は非現実であることが多い。

短い詩形のもの、和歌や五言絶句、七言絶句、ルバイなどは、
表現をそぎ落として、感情をありのままに現したものなので、逃避や欺瞞、作為などの要素が入りにくい
(「白髪三千丈」などの誇張表現や技巧は使われるかもしれんが)。
ただし、俳句は短すぎて、感情の表現にはもはや用い得ない、と思う。

ファンタジーは現実逃避だ。
ただしごくまれに、SFなどには、現実よりもはるかに過酷な仮想世界を作り出して、
現実よりもはるかに過酷な仮想実験を行おうとする人もいる。
たとえばスタニスワフ・レムのような。
だが多くの場合、現実をそのまま受け入れられない人が自分の都合の良い世界、
都合の良い世界観の中に没入するためにある。
宗教のようなものかもしれない。
仏陀の教えは、もとは辛い現実に直接向き合うものだったが、次第に、
世の中に負けてもいいじゃん、仮想世界に逃げてもいいじゃん、みたいな方向へいった。
つまりはファンタジー化していった。
大乗仏教なんかまさにそうだ。

時代小説は、現代社会の愚痴みたいなもんを、江戸時代みたいな、割と現代に似た社会に投影して、
しかしそれはやはり仮想世界であって、現代社会をそのまま描くとぎすぎすするから、
つまり現代社会を江戸時代に置き換えることで仮想化している。
そうすることで精神の安らぎを得ている。
戦国時代や幕末維新なども、比較的現代社会や近代社会を投影しやすいから用いられるが、
たとえば南北朝時代などは投影のしようがない。
いや、巧めば投影できるが、ほとんどの人にはわけのわからんものになってしまう。
それでは時代小説にはならない。

歴史小説もまたそうだ。
ほとんどすべての歴史小説は平家物語や太平記などの軍記物のたぐいで、
受け入れがたい現実・そしてその現実をもたらした歴史を自分の都合の良いように解釈して、
精神的ななぐさめとするものだ。
司馬遼太郎の歴史小説の構造はほぼそれだ。
ドキュメンタリー番組の多くがやらせというフィクションであるのと同じ程度に、
司馬遼太郎の歴史小説は嘘だし、
彼が小説を書かなくなってからいろいろと書いていたことはもはや小説でないというだけで、
やはりフィクションだった。
歴史をありのままに掘り返してもそれを歴史小説として読んでくれるような読者は存在しない。

恋愛小説というのも、単なる体験記・私小説みたいなのはともかくとして、
恋愛というものはこうあると良いなという願望が書かれたものであり、明らかにフィクションだ。
現実逃避の最たるものと言って良い。

こうしてみていくと、小説というのは、現実逃避でなければ世の中に受け入れられない、もしくは、
現実逃避であるほうが受け入れられやすい。
世の中の大半の人は、現実から逃避したい。そういう需要がある。

論文や論説が世の中に受け入れられにくいのは、内容が難しいからというよりは、
事実をありのまま記述しようとするからではなかろうか。
内容を簡単にしよう面白くしようといくら努力しても、
それが現実をそのまま描写したものであれば、
結局は現実から積極的に逃避しようとする文学に勝てないのではなかろうか。
そんな気がしてきた。
少なくともオタク文学(?)はそうだ。
そして世の中はオタク文学の方へは容易に変容しやすい。

戦隊物とかロボット物などがそうだ。
どんどんパターン化ステレオタイプ化していく。
最初は多少現実世界を反映したものが、
そのリアリティを薄めて、紋切り型のフィクションの方向へ変わっていく。
ようするに漫画化・幼稚化である。
脳に余計な負担がかからずに誰でも楽しめるようなものになっていく。
時代劇も長寿番組となってマンネリ化すると自然とそうなる。

「過」には平仄で言うと「箇」と「歌」の二種類があり、
「箇」の方は過ぎる、の他に誤りとか罪の意味がある。
「歌」の方は過ぎる、の他に立ち寄る、訪れるの意味がある。
「百代の過客」などと言うが、この「過客」は、通り過ぎるとも訪れるとも解される。
ややこしい。
しかしいずれにしても「旅人」という意味になる。

レジ袋

最近、レジ袋ってなんて便利なんだろうと思い、バッグには欠かさず入れて携帯する。

レジ袋を大事に使うと、レジ袋を消費したい人たち(レジ袋生産者)にも、
レジ袋を撲滅したい人(マイバッグ生産者、ゴミ袋生産者)にも、
環境保護団体(環境保護を飯の種にしている人たち)にも嫌がられるから、
ほとんどマスコミで報道されない。
普通の人には便利この上なくてもマスコミにとって報道価値がなければ報道されない。
積極的に認知されることも称賛されることもない。

しかし、レジ袋ほど薄くて軽くてかさばらなくて金のかからないものはない。
マイバッグを千円も二千円も出して買うなど何かの陰謀だろうと思う。
第一、マイバッグを持ち歩こうなんて思わないけれど、レジ袋なら自らすすんでバッグに常備したくなる。

レジ袋をもらわなくて代わりに2円もらうよりは、2円でレジ袋を買うと考えた方がずっとお得だ。
タダでくれるならなお良い。

レジ袋を10円で売るところもあるが、そういうところでは、持参したレジ袋を使えばよい。

使い捨て傘も最近は安くてものすごく品質がよくなっている。

思うに、使い捨て傘やレジ袋の存在を社会が積極的に認知すれば世の中もっと良くなるはず。
レジ袋をなくそうという運動こそ現代社会における最大の陰謀の一つだ。

同じ意味で wordpress ってとても便利だと思うが、マスコミでそんな話が出たためしがない。
wordpress をほめたって誰ももうからないからだ。

病気のために酒を飲まなくなってから、酒以外に趣味がなかったもんで、
ほとんど支出しなくなった。
今こそ日本経済に貢献したいとは思うが、無趣味なのでしかたない。
金はたまるし健康にはなるし、余暇に使える時間も増えた。
しかし、金を使わないから世の中のためにはなってないだろうなと思う。
だが申し訳ない気持ちにはなれない。
レジ袋をやめて高価な買い物袋を買うとかそんなことにわざわざ金を使いたくない。
こういう方がまっとうな暮らし方のはずだと思うようになったから。

大塩平八郎と王陽明

大塩平八郎の詩に

春暁城中春睡衆
遶檐燕雀声虚哢
非上高楼撞巨鐘
桑楡日暮猶昏夢

というのがあるが、これは王陽明の「睡起偶成」という詩

四十餘年睡夢中
而今醒眼始朦朧
不知日已過卓午
起向高樓撞曉鐘

にちなむのであろうと今気付いた。
大塩平八郎は「小陽明」と自称していた。

甲陽

洛陽とか漢陽などと言う。
洛陽は洛水という川の北にあるからである。
武漢の漢陽は漢水の北にあるからだし、ソウルを漢陽とも言うのは、漢江が南に流れている都市だからだ。
「陽」とは本来は、北が高く南が低い土地のことで、南に川が流れていて北に山があれば自然とそういう地形になる。
日当たりが良い土地のことを「陽」と言う。
中国では昔からそのような地形の場所に王城を築くことが多かった。

で、甲陽だが、この地名は神戸にある。
要するに、六甲山の南麓にあるという意味だろう。

「甲陽軍鑑」の「甲陽」も、おそらく同じような理屈で名付けたのではないか、
甲府盆地の北側の辺りを言うのではなかろうかと思うが、そのような説を見かけない。

実際、武田信玄の居城である「躑躅ヶ崎館」というのは、甲府盆地の北側、県庁舎や山梨大学よりもさらに北のあたりにあった。

荻生徂徠の詩に「還館口号」というのがあり、

甲陽美酒緑葡萄
霜露三更湿客袍
須識良宵天下少
芙蓉峰上一輪高

やはり、葡萄畑というのは、日当たりのよい「甲陽」にあるのではなかろうか。
緑色の葡萄酒というのは、おそらくは白ワインのことではなかろうか。
白ワインはやや黄色味を帯びているので、緑と表現しても良いかもしれん。
「芙蓉峰」は富士山のこと。

新井白石の「春日作」という詩でも、

楊柳花飛江水流
王孫草色遍芳洲
金罍美酒葡萄緑
不酔青春不解愁

とある。「金罍」は黄金の酒壺という意味。
「楊柳花」は柳の花で、「王孫草」はツクバネソウのこと。
「江水」はおそらくは隅田川だと思うが自信がない。
「芳洲」はおそらくは吉原、もしくは芳町(元吉原)ではなかろうか。「洲」には島とか中州の意味がある。
吉原の地形はお歯黒どぶに囲まれていてまさに「洲」である。「芳」と「吉」は通じる。
となると、おそらく吉原の情景を詠んだのではなかろうか、と思われてくるのである。
でまあ、この「春日作」は詩吟で有名らしいのだが、
私の解釈で訳してみると、
「山谷堀を通って川船で吉原へ向かうと、岸の柳並木の花が飛んで隅田川に流れていく。日本堤はツクバネソウで緑一色だ。郭に登って黄金の酒壺に入った緑色の葡萄酒を飲む。春に酔わねば、憂さを晴らせない。」となってずいぶん違う。

「緑ワイン」で検索すると、Vihno Verde というポルトガルのワインがあるそうだ。
英語版の wikipedia によれば、熟成させたワインに対して新酒のワイン。
樽に詰めて一年以内、赤、白、ロゼもあり得て、若干発泡性であるようだ。

科挙に関する誤解

[八股文と五言排律](/?p=9880)の続きだが、

[明代初期の八股文について](http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E6%98%8E%E4%BB%A3%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E5%85%AB%E8%82%A1%E6%96%87%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6&range=0&count=&sortorder=&type=0)
に非常に詳しく述べてあるが、ごく概略を言えば、明末清初の学者・顧炎武は、

> 経義の文、流俗、之を八股と言う。蓋し成化以後に始まる。天順以前は経義の文、伝注を敷衍するに過ぎず。或いは対にし、或いは散にし、初めは定式無し。

と明確に記している。
つまり、明初には、そもそも八股文などというものはなかった。
しかし、
wikipedia 「八股文」には、

> 洪武帝は軍師の劉基とはかって、科挙には朱子の解説による四書を主眼とした。これは洪武帝や劉基が朱子学を奉じており、この学派が四書を重視していたためである。こうして宋題と代わって難解な教典である五経は二の次とされた。そして明朝期の受験生は答案の書き方として、八股文が指定された。

などと書かれている。
これでは、明の高祖朱元璋が軍師劉基と計って朱子学に基づいて四書を八股文で課したと読める。
まったく意味が違ってくる。

四書を科挙に用いたのは、朱元璋も劉基も、おそらく朱子も、初等テクストとしてであり、出題範囲を限定するためである。それを韻文で書こうと対句で書こうと散文で書こうと明初では自由であった。つまり当初の意図としては、何か形式張った文章題を出したわけではない。ごく妥当な、まっとうな問題が出されたのに過ぎない。

日本でも試験問題というものは、だんだん受験テクニックを駆使しないと解けないような難解なものになりやすく、その弊害をのぞくために「ゆとり教育」というものが生まれ、「ゆとり教育」ではダメだというのでまた難しくなる。同じようなことが王朝交替のたびに科挙でも起きたのは当然だ。

劉基という人の漢詩も少し読んでみたが、どちらかと言えば学者というより、自由な文人という感じを受ける。八股文というものを考案して受験生に課したというのは、まずあり得ないだろう。

またwikipedia「科挙」には

> 「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。科挙官僚は、詩作や作文の知識を持つ事を最大の条件として、経済や治山治水など実務や国民生活には無能・無関心である事を自慢する始末であった。こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となって来た。

> 中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、直接は役に立たない古典の暗記と解釈に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。

などと書いてある。
しかし、「儒林外史」などを読んだだけで明らかなように、
「詩作や作文」にばかりうつつを抜かすような官僚がそんなにいただろうか。
むしろそれは、科挙に合格できなかった遁世文人たちの戯画に近いのではないか。
普通に科挙に合格して、普通に国政に腐心した政治家たちもたくさんいた。
それは清朝の歴史を調べれば、明らかだ。

科挙が有害であったことは間違いないが、あまりにも多くの責任を科挙に負わせるのも、
やはり責任逃れに過ぎない。
おそらく多くは清朝を不当におとしめようとした近代中国や、
日本の左翼学者たちの決めつけなのではなかろうか。
そのようなステレオタイプが wikipedia にも溢れているとすれば、非常に憂うことである。

受験テクニックの加熱は、往々にして、受験産業や受験生や教師や父母らによって助長されるものだ。
必ずしも大学教員や国の官僚がのぞんでそうなっているのではない。
日本の現状を観察しただけでもわかるだろう。
五言排律という格式張った中世の形式が、清朝末期に、
本来は自由な作文題だった四書題にいつの間にか潜り込んで、
定型化していき、それが八股文となったのだ。
つまり責任の多くは民衆の側にあるに違いない。