藤原氏の勉強

藤原氏と天皇家の関係は、
不比等の娘・宮子が文武天皇に入内するまでは見られない。
文武の皇子・聖武天皇にふたたび不比等の娘・光明が入内して皇后になった。
つまりこの二代にわたる入内と、人臣で初めての皇后の位についたのが事実上の藤原氏の歴史の初めである。
不比等の息子の四兄弟がこの藤原政権確立に活躍したが、
藤原氏は天然痘でほとんど絶えてしまう。
この段階ではそのまま歴史から消えてしまうことも十分にあり得たわけである。

蘇我氏を滅亡させたクーデターに天智天皇や中臣鎌足が関与していた可能性はかなり低い。
しかも天皇不在で、天智天皇は皇太子のまま白村江を戦ったというが信じがたい。
天智天皇はほぼ間違いなく白村江の敗北よりは後の人だ。
天智天皇陵が山科にあり、中臣氏の本貫が山科であるのは何かの因縁かもしれないが、
よくわからん。
天智・持統・草壁のラインに藤原氏が何かの関与をしたのだろうがよくわからん。
そもそも天智・天武が蘇我氏を滅ぼさなくてはならない動機がない。
持統も元明も蘇我氏の娘だし、
天武も蘇我氏に擁立されている形である。
そして天武が天智の娘をことごとく妻としているのは異様だ。
天武を擁立していた勢力が天智の血を必要としたからだが、
蘇我氏くらいしか思い当たらない。藤原氏ではないはずだ。

ソーヴィニヨン・ブラン

ソービニヨン・ブランは飲みやすいのが多いが、
最初ちょっと変な匂いがするなと思っていた。
飲んでいるうちにだんだん気にならなくなるのだが、最初の開けたての一口目が気になる。
ぎんなんみたいな、うんこみたいな匂いだなと思っていたのだが、
ある人がうんこと言うよりはネコのおしっこのようだというので、
確かに言いえて妙だなと思ったのだが、
ウィキペディアに

> ブラック・ユーモアの好きなフランス人にいわせると、ソーヴィニョン・ブランは「ねこのおしっこ」、シャルドネは、「犬のおしっこ」のにおいがするという。

などと書いてあって驚いた。
シャルドネが犬のおしっこだと思ったことはないが、
ソービニヨン・ブランは確かにくせのあるにおいがあるのだ。
白ワインというのはおしっこに見えなくもない。
ウィキペディアに書いてなければ営業妨害になるかもしれないので書かないところだった。
cat’s pee、pipi de chat
などで検索しても出てくるので間違いあるまい。
ブラック・ユーモアというより実際育て方や醸造方法によってはそういう匂いがつくのだ。

しかしまあワインの味とか香りなんてのは、
案外素人が先入観なしに飲んだほうがぴたりと当てるものかもしれない。
そういう傾向はいろんな分野にもあてはまる。

ふりかえると。

昔の日記など読むに、
和歌を詠んでいたのは学部生だった頃、つまり1986から1989年くらいなのである。
そのあとずっとブランクがあって2009年に再び詠み始めた。
つまりは田中久三という名前にしてからだ。44歳。
式子内親王の

> 忘れめや あふひを草に ひき結び かりねの野辺の 露のあけぼの

> 忘れめや 賀茂の社の 御薗橋 渡り初めにし 春雨の頃

と返してから、だんだんに詠み始めた。
2010年にはかなり盛んに詠んでいた。
2011年から小説を書き始めて、その歴史小説の中に和歌を使うようになっていた。
この頃から完全に古典文法に則った歌を詠むことにする。
それまでは割といい加減なやつもまじっていた。
昔の人の歌と並べて違和感のないようなのを詠むようになった。

今回定家の話を書いたのだが、
ずいぶん和歌に対する見方が変わった。
「民葉和歌集」にかき集めた歌の多くがつまらなく感じるようになったので、
選び直さなくてはならぬかもしれぬ。

歌が詠めるようになるには時間がかかる。
2009年頃のツイッターを見ると私は俳句(のようなもの)を詠んでいた。
しばらく和歌を詠んでなくて俳句みたいなものしか詠めなくなっていたのだ。
そういうものに体(というか脳)がなっていて、それは詠めても歌が詠めない。
適当な文法で歌を詠んでいるとそういう歌しか詠めないし、
そういうときに詠んだ歌の文法を直そうとしてもなおらない。
つまりそういうふうに微妙に文法が間違っているのが味になってしまっていて、文法を直すと味まで失ってしまうからだ。

気に入らないときは直すのではなくてまったく新しい歌を一から詠むしかない。
もう最初から古典文法に則った歌しか詠まないと決めて、体をならしていくと、
自然と正しい歌が詠める。それ以外の歌は最初から思いつかないのだ。
これはもう普通の武芸とかの芸能と同じだろうと思う。
体を馴らしていって自然に詞とか動作が出てくるようなものしかものにならないのである。
別の形に体を馴らせばそのようなものしかでてこない。
毎日毎日詠んでいればそのうち良い歌が出てくるようになる。
もう漢語は使わないとかカタカナ語も使わないとかへんな文法とか字余りは使わないと決めてしまって、
体がなじんでしまえば、案外からだのほうがその環境に適応して、
そういうものが自然に詠めるようになる。
これはもう人間の脳がそのような仕組みになっているからとしか言いようがない。

もちろん新しい概念は新しい詞を使わなくては直接的には表現できない。
しかし心の動きというものは昔から変わらないのであり、
人間(ホモ・サピエンス)というものも何万年も同じ種なのだから、
古い詞を使った新しい表現をみつければよい。
それは最初は比喩のようなものかもしれないが、一般化すれば慣用句になるのである。
時間はかかるがそうして古典語を新しい時代に適合させていかなくてはならない。
造語で一足飛びに概念を輸入しようとしてもいずれは反動がくる。

昔の人の歌を眺めていると突然自分からも歌が出てくることがあるのは、
その人の歌の詞や表現、そのもととなった心を借りることで今まで詠めなかったことが詠めるようになるからだ。
歌が詠めない理由の多くは古典語の制約というよりは、表現を知らないだけのことが多い。
昔にも似たような表現があり、代替可能であることにふと気がつくのである。
外国語を日本語に訳するのも似たようなものだろう。

朝吠える犬

いつも早朝隣の家の犬が鳴く。
一定間隔で鳴き続けるので犬が飼い主を起こそうとしているが、飼い主がなかなか起きぬのかと思って、
窓を開けてよく聞いてみると、
もっと複雑な鳴き方をしているようであり、
要するに犬と飼い主がじゃれているのである。
朝起きて犬とじゃれあっていて隣人が怒り心頭なのには気づかないのか。

路上喫煙者も、犬を飼う者も、法律が裁いてくれないのだから、
腹を立てるだけこっちの負けだ。
他人に協調する意志のない連中は世の中に一定数いて、法律で取り締まる以外ない。
無念無想の境地を会得するしかない。
はらだたしいと思わないことだ。

戦闘機は最近あまりいらいらしなくなった。
犬を嫌いすぎたせいかもしれない。

墨汁一滴

正岡子規『墨汁一滴』とは、墨汁一滴分の短い日記という意味だろう。
そういう条件で引き受けた随筆という意味かもしれん。実際かなり短い日もある。
万葉調の優れた歌人として、
源実朝、賀茂真淵、田安宗武、橘曙覧、平賀元義らが挙げられているのだが、
実朝は万葉調と言えなくもないが他の四人とは比べようもない。
実朝の歌はあまりにも特殊なのでとりあえず別格にしたほうがよい。

賀茂真淵には確かに良い歌もある。
あると言えばあるが、せいぜい

> 藤沢や 野沢にごりて 水上の あふりの山に 雲かかるなり

程度である。

田安宗武は良い歌もあるがひどく悪い歌もある。
歌論もあまりぱっとしない。
全体的に大した歌人ではない。吉宗の息子なので過大評価されている。
宗武の歌は後世に非常に悪い影響を与えた。
彼の模倣者は例外なくダメだ。

橘曙覧、悪くはないが、彼も子規によって過大評価されている。

平賀元義は橘曙覧とだいたい同じ。
彼の歌を見ても大したことはない。
つまりは万葉調の叙景歌というだけである。

> うしかひの 子らにくはせと 天地の 神の盛りおける 麦飯の山

悪くはない。しかしすごく良いかというとどうか。
室町・安土桃山の幽玄とか枯淡とかわびさびというものが西洋の自然主義と結びついてできた、
近代特有の和洋折衷な価値観が万葉調と呼ばれているだけに見えるのだ。

実朝の

> 大海の 磯もとどろに 寄する波 われて砕けて さけて散るかも

とか、斎藤茂吉の

> 最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも

などのようなものを秀歌とする感覚であって、
ハリウッド映画のようなばかばかしさしか感じない。
いや、実朝のはばかばかしすぎて面白いが、茂吉のはただまじめくさってきどっているだけであり、
しかも〆の「なりにけるかも」が陳腐すぎる。
一方実朝の「さけて散るかも」は「かも」で終わる意外性がある。
なんだまた万葉調だったのかと。

平安・鎌倉の武士の歌はもっと情趣があった。
叙景と叙情をうまく結び付けたものだ。
遠景から近景へ、そこから内面描写へ転換するのが見事である。
例えば実朝

> かもめゐる 荒磯の州崎 潮満ちて 隠ろひゆけば まさる我が恋

実朝は叙景歌も叙情歌も、その合わせ技も自在に詠める。
江戸時代の人間は抒情歌が詠めなくなった。
とくに俳句に引っ張られて恋歌というものがまったく詠めなくなった。
だから叙景と叙情を合わせることもできない。

「叙景から叙情への転換」あるいは、
「叙景から叙情への誘導」といってもよいが、
これは和歌の最も得意とする表現だと最近思い始めた。
というかそれが和歌の奥義だと思う。
同じような概念が日本以外の詩にもあるはずだ
(例えば李白「牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷」)。
不思議なもんで、叙情から叙景へはなかなか行きにくい。

和歌というものは、心を種として芽が出て葉となり花が咲くものだとすれば、
外界と心がつながっていなくてはならない。
外から内に入ってきたものがふたたび外へと逆流していくのが歌なのである。
古くは

> 安積山 かげさへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

この古歌もやはり遠景から近景へ、そこから心理描写へと転換している。

> 花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり

西園寺公経。叙景がイントロとなってふいに自分自身のことを述べている。
それが、唐突ではあるがうまく連結しているのだ。
公経は見ればみるほど優れた歌人である。
業平の

> 世の中に 絶えてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし

紀友則の

> ひさかたの 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ

などもある意味では同様である。
そこには叙景だけがあるのではない。

子規の

> 藤波の 花をし見れば 奈良のみかど 京のみかどの 昔かなしも

など見るとほんとにがっかりする。
こんなものが秀歌なのか。

> いたつきの 癒ゆる日知らに さ庭べに 秋草花の 種を蒔かしむ

万葉調が鼻につくのがいけない。
「知らに」は「知らず」と同じだが、扱いが難しく使わないのにこしたことはない。
おそらく「知らざるに」という意味に使いたいのだろうが、文法的に少し違う。
「さ庭べ」もこなれない。
「さには」はただの「狭い庭」ではない。
「しむ」も漢文調で歌には似合わないのだが。
万葉調のよろしくないのは古今調以後と比べて文法的に不完全になる危険性が極めて高いところだ。
古今に学べば大けがすることはない。
退屈だが、初心者はまず「春の花」「秋のもみぢ」で練習しなくてはならない。
子規もそうしたはずだが挫折して道を踏み外した。

またこれは「叙情から叙景へ」向かう悪い例だ。
この順番で何がいけないかと言われてうまく答えられないがダメな気がする。
たとえば大伴黒主

> 咲く花に 思ひつくみの あぢきなさ 身にいたつきの 入るも知らずて

子規の歌でも

> いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす

こちらは「叙景から叙情へ」向かっている。
セオリー通りの歌ばかり詠むのは味気ないが、
セオリーを外した歌を詠むのはそれなりに理屈がなければならない。

> 雑誌『日本人』に「春」を論じて「我国は旧もと太陰暦を用ゐ正月を以て春の初めと為ししが」云々とあり。語簡かんに過ぎて解しかぬる点もあれど昔は歳の初はじめ即正月元旦を以て春の初となしたりとの意ならん。陰暦時代には便宜上一、二、三の三箇月を以て春とし四、五、六の三箇月を以て夏となし乃至ないし秋冬も同例に三箇月宛を取りしこといふまでもなし。されど陰暦にては一年十二箇月に限らず、十三箇月なる事も多ければその場合には四季の内いづれか四箇月を取らざるべからず。これがために気候と月日と一致せず、去年の正月初と今年の正月初といたく気候の相異を来すに至るを以て陰暦時代にても厳格にいへば歳の初を春の初とはなさず、立春(冬至後約四十五日)を以て春の初と定めたるなり。その証は古くより年内立春などいふ歌の題あり、『古今集』開巻第一に

> 年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ

> とあるもこの事なり。この歌の意は歳の初と春の初とは異なり、さればいづれを計算の初となすべきかと疑へる者なればこれを裏面より見ればこの頃にても普通には便宜上歳の初を春の初となしたる事なるべし。

これはつまり「再び歌よみに与ふる書」に

> 先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直に「去年こぞとやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にてしやれにもならぬつまらぬ歌に候。

とあることの焼き直しなのだが、「しゃれにもならぬつまらぬ」話と言いながら、
再びうだうだと考察し直しているのが笑える。
やはり年初と立春の違いが気になるのではないか。
気になるからこそ「古今集」では「年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」
を巻頭に掲げているのだ。
子規も若い頃に「歌よみに与ふる書」を書いたせいで、その重要性に気づいたのだろう。
だが「歌よみに与ふる書」しか見ない人は、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」
としか考えないのだ。