柳沢吉保

wikipedia 柳沢吉保に

> 延宝3年(1675年)7月12日に家督を相続し小姓組番衆となり、同年12月18日には曽雌盛定の娘定子を室に迎える。

とある。当時17才。
小姓組番衆とは小姓集団の一番下っ端の役とでも言う意味だろう。
綱吉はこのときすでに29才。
うーん。まあそんなものかな。

wikipedia 小姓組などには、主君の身辺警護に当たる純然たる戦闘部隊、とある。

間部詮房

間部詮房は綱豊の小姓だったというが、wikipedia には

> 貞享元年(1684年)に甲府藩主・徳川綱豊の用人になり、甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。

とある。1684年だと間部は18、綱豊22。
しかし、小姓というのは普通もっと若くしてなるものであり、
用人となる前に小姓の時期があったと考えるのが自然ではなかろうか。
新井白石が綱豊に仕官したのは1693年だから、10年近く後だが、
実際にはもっと前から間部は綱豊の側にいたのではなかろうか。
用人というのは正式な役職名だろうから、役職をもらう前から、
プライベートな小姓、あるいは見習いとして近侍していたとか。

綱豊が17のとき(1678)父綱重が死んでいるがその前からいたか、その後だったのか、
でも意味合いがだいぶ変わってくるわな。

間部の寵愛のされ方は、おそらく間部が綱豊の竹馬の友だったからではなかろうか。
やはり一番可能姓が高いのは綱重が死んだ年に13才くらいで小姓になったのではないか。
だとすると、
1712年に家宣が死ぬから、白石は19年、間部は34年仕えたことになる。

正徳

新井白石「折り焚く柴の記」を再び読む。
最初読んだときはなんと退屈な本かと思ったが、コツをつかむとわりとさらさら読める。

非常に頻繁に引っ越ししている。
堀田家を致仕した後はまず浅草に住んでいるが、
もはや家臣ではないのだけど、堀田から本所に屋敷をもらっている。
綱豊(のちの将軍家宣)に仕えるようになると湯島天神下に屋敷をもらう。
甲府藩主ではあるが勤務は江戸の藩邸だったということだろう。
綱豊自身あまり甲府には居着かなかったのではなかろうか。
その後元禄の大地震というものがあり火事があると雉子橋門外に屋敷をもらう。
しかし、飯田村にも屋敷があったという。
おそらく武家屋敷町にはもともと正式名称がなくて、
飯田村に行くには江戸城を雉子橋門を出るのが一番近いからそう言ったのだと思われる。
そのあとこんどは一ツ橋門外に転居している。
神田小川町という記述もあるが、これまた城から神田小川町にいくには一ツ橋門を出るのが一番近いからだと思われる。
これが、もとは六百坪余りだったが家宣の死後は隣の敷地を加えて八百坪になったのだという。
だから、家宣が生きていた頃の話ではまだ六百坪でなくてはならない。危ない危ない。

正確には新井白石の日記を読むべきだと思うが、ちとめんどうだな。

ちなみに、御家人や旗本の屋敷は三百坪とか六百坪というのが多いような気がするが、これは、
一反が三百坪だからと思われる。
大阪町奉行与力は wikipedia によれば五百坪だという。
秋葉原の小学校の隣にあるなんとか公園というのが旗本屋敷跡らしいのだが、およそ三百坪。

綱吉が死んだ直後に中御門天皇が即位して元号が正徳に変わった。
wikipedia には

> 朝廷が提示した案から、幕府が新井白石に命じて選択させたのが「正徳」であったといわれている。

などと書かれているのだが、
「折り焚く柴の記」を読むとそういう風には読めない。
元号に「正」の字を使うのは宜しくないから早く変えろと言われてそれにくどくど反論している。
決めたのは自分ではないが変える必要はないので反論するというのだ。
だから、白石は決めてないのではないか。
白石は確かに上洛して中御門天皇の即位の儀式や元服の儀式には参列しているが、
殿上人ではないので見物席を与えられただけである。
その後で朝鮮通信使の接待をする都合で、殿上人となるために官位官職をもらったと思われる。
だから、正徳という元号を決める時点ではまだ関与してなかったと考える方があたってると思う。

たとえば日本でも正慶に北条氏が滅び、天正に足利将軍が絶えている。
だがおそらく一番の問題だったのは、これは大塩平八郎を調べていて気付いたのだが、
正徳というまったく同じ元号が明にもあって、
そのとき寧王の乱という皇族の叛乱があり、王陽明がそれを鎮圧するという事件があった。
王陽明の活躍を当時の儒学者が知らぬはずがない。
確かに不吉と言えば不吉だ。
ただまあそうやって不吉な事があった時代の元号に使われた文字を次々に使えなくすると、
そのうち使える字はなくなってしまうわな。
特に正とか文とかそんなよく使われる字から先に使えなくなってしまうだろう。
ちなみに明の正統年間には土木の変が起きている。

大塩平八郎

パブーで[大塩平八郎](http://p.booklog.jp/book/50924)
というのを公開した。
これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、
私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。
というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。

ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。
それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。
新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、
ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。
そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。
「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。

「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。

「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。
たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。
歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、
やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。

それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。
こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。
ネットでより目立つためだ。
たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。
効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。

「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、
やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。
そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。
たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。
女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。

それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、
wordからコピペするだけで良いことがわかった。
そのほうが楽でよいと思う。

さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。

源氏長者

源氏長者というのは虚構なわけだが、
日本外史には家康が征夷大将軍宣下と同時に源氏長者に補されたとあるから、
なんらかの形でこの頃には源氏長者という名称が権威付けに利用されていた、制度化されていたと考えられる。

で、Wikipedia など読んでいると、つまるところ、
源氏の長者とは、もともと奨学院という貴族のための学校の校長(別当)のことを言うらしい。
それは、奨学院別当が源氏全体の祭祀を司ったからだという。

しかし、すべての源氏の祭祀を司る人間、源氏全体の長者などいるはずもない。
たとえば嵯峨源氏の長者とか村上源氏の長者とか清和源氏の長者ならばいただろう。
そういう一族の長老という意味での長者はいたに違いない。
しかしそれぞれの源氏は単に天皇家から分かれたというだけで全然違う一族だから、
共同で祭祀を行っていたはずがない。
いつかの時代に誰かがそういうことを行ったことがあったとしてもそれが「源氏全体」というものの実体をさしているはずがない。
というか「源氏全体」という実体があるはずがない以上、「源氏長者」に実体があるはずがない。

たとえば、ある時期には嵯峨源氏の長者が奨学院別当をやり、別の時期には村上源氏の長者が別当をやる、ということはあっただろう。
そりゃそうだ。単に仕事としてやっただけのことだろう。
それだけのことだ。
なぜ、学校の校長が源氏の長者だと言い張れるのか。
タイムマシンがあったら校長先生に是非聞いてみたいものだ。

奨学院というものの実体が存在しなくなり、従って別当というものが単なる名誉職となり、
従って「別当に補される」ということが完全なアイコンとなってしまっても、
その名誉職に就きたがるひとはいたのだろう。
欲しがる人がいる以上は天皇もそれを叙任し続ける。
その方が収入が増えて都合が良いからだが。典型的な官職売買のための官職。
いや、令外官だから正式には官職とは言わないのかもしれない。
どうでも良いことだが、公務員でもないのに面接官とか退官とか教官とかいうのはおかしい。いつも違和感おぼえまくる。

別当職に固執したのが村上源氏の長者だったと言われる(たぶん、村上源氏の中で他に俺が長者だと手を挙げる人がいなかったせいだと思うが)
北畠親房であろう。彼が、俺は奨学院別当職に補されたから俺が源氏の長者だ、
などと主張した、ということは大いにあり得る。
その職に就くために大いに活動しただろうことは想像できる。
そして神皇正統記の影響から、後に「俺は源氏の長者だ」と名乗りたいものが、
奨学院別当という名誉職に価値を見いだしたということだろうと思われる。

律令制そのものが完全に名誉職化しても権威付けに利用されたのと同じで奨学院別当というのが征夷大将軍と同義、
もしくは征夷大将軍が源氏固有のものであるという虚構を補強するための口実として用いられた。
更に言えば、頼朝由来の征夷大将軍の権威と、北畠親房由来の奨学院別当の権威を一つに統合したのが足利義満なのであろう。
もしかすると南北朝統一と関係するのかもしれん。

北畠親房は謎の多い人だ。どんな思想信条を持っていたのか、ちんぷんかんぷんだ。
かなり屈折した精神の持ち主だったのではなかろうか。
頼朝とか尊氏とか義満ならまだわかる気がするのだが。

征夷大将軍も別当も令外官であるのには変わりない。
だが一応天皇の勅令もしくは上皇の院宣によって就任する職ではある。
もちろん律令的な官位官職ももらって権威付けをより強固にしているわけだ。
こういうことを千年近く続けてきたわけだから、
法律とか官位とか官職とかは権威付けに使われる実体の無い虚構であるという観念が日本人に深くしみこんでいるのだろうなと思う。
現実に即して法律は作り変えていくという発想が出てきにくい。
その発想を妨げている。
日本国憲法が改正されないのも同じだろう。

古今伝授にしてもそうだが、どうしてこういう奇怪な論理が通用していたのか現代人には理解に苦しむものがあるが、
日本国憲法改正に反対している人たちを見ていると、
そういう精神というか血がいまだに日本人に受け継がれていて、
どういう連中がそういうものを信じたがるのかがわかるよな。

おそらく、家康は、源氏長者などというものが虚構であることを承知の上で、それをも利用したかったのに過ぎないだろう。
彼は現実主義者だったはずだ。
こういうプロセスで虚構の上に築かれた権威も、
とりあえず、徳川政権を支えていく上である程度役にたったわけで、
「徳川の中の人」たちはそれをわかった上で利用していたはずだ。
わかった上でしらを切っている人たちはそれで良いが、
中には本物の権威だと思い始める人たちもいて、それが実に厄介だ。
自分を自分でだませるのは精神的に楽で良いわな。
やはり虚構に基づく権威というものは、後世の人間にとっては負の遺産以外の何物でも無い。

アプリ

思うにかつて新風営法でアーケードゲームが殺されて、
かたやパチンコは換金とかより悪質なのに未だに野放しなのは、
要するにパチンコが好きなおじさんおばさんたちの方が、
アーケードゲーム好きなにいちゃんねえちゃんよりも政治力を持っていた、という、
ただそれだけのような気がする。
つまり偉い政治家や財界人にパチンコ愛好家が大勢いるということだ。
ただそれだけだ。

コンテンツ的にパチンコが面白いはずがない。
もし、換金できればビデオゲームの方が数億倍面白いに違いない。
ただ、博打というのは丁半とかちんちろりんと同じで別にルールが複雑である必要はない。

今のソーシャルゲームの課金にしても、まあ、
あれは携帯の通話料金にいつの間にか加算されてしまうのがいけないのであり、
それを経済力のないこどもでも安易に、無意識のうちにできてしまうのがいけないのであり、
あれをダメだといえばゲームセンターもダメということになろう。
良質のゲームに金を払うのは当たり前だし。

ソーシャルゲームは世界中に開発者や顧客がいるわけだから、無料でも結構クオリティが高い。
それは広く薄く、アップグレード課金とかアイテム課金で金を払いたい人から徴収しているからだ。
開発費が集まれば集まるほど良いコンテンツができる。
良いコンテンツが生き残る。
このシステムは決して間違っていない。
それを、ソーシャルゲームの課金は何でもダメみたいな風にするのは、
かつての新風営法と同じだ。
無限(?)の発展姓を秘めていたアーケードゲームを殺し、
総量規制でバブルを殺したのと同じで政治的誤りだと思う。

たぶん、雰囲気的に言えば、
昔のインベーダーハウス的な扱われ方だよな、ソーシャルゲームは。

忠臣二君に事へず

ドコモがシニア向けスマホを出したというのを、NHK などが報道しているのだが、
相変わらずのガラパゴスっぷりであきれる。
というか、docomo 的に iphone はやだから何か独自路線はないかと苦肉の策でこうなったのだろう。

もしシニア向けスマホに需要があるのならば、
nokia といわず apple といわず、すでにどこか海外の企業が手を付けているのではなかろうか。
docomo が世界に先駆けて新機軸を出してくるとは、誰も期待してないと思う。
老人がスマホを好むだろうか。それがどのくらい需要があるのか。
重役会議の面々の顔が思い浮かぶよな。そしてそれを報道しようというマスコミの重役。
そしてそれらの重役どうしはつながってる。
コネだよなコネ。

ていうか、あきらかに、スマホって老人層を切り捨てて若者に特化したから出てきた発想だよね。
古い物をぶっちぎって新しいことをやろうという姿勢なんじゃないのか。
古い物も新しい物もよく、老若男女だれからも受け入れられる、そういう発想から生まれたものではないよね。
水と油な気がする。
いや水と油を混ぜようという努力はあっても良いと思うが。

個人的には水は水油は油路線の方が気持ちいいんだが。

ていうか、そうやって、docomo が新製品だしたからってマスコミがいちいち取り上げるから、
いつまでも docomo は docomo なんじゃないの。
docomo ほど知名度があれば、そしてほんとに世界が必要としているのであれば、
マスコミがほっといても世界がほっとかないんじゃないの。

むしろ日本固有のガラパゴス現象の事例としてドキュメンタリー仕立てにすると、
マスコミ的におもしろいんじゃねーのか。
そういうことはできないんだよなー。

それはそうと忠臣二君にまみえず、は間違いなんだな。まみえるのは貞女で、
忠臣は事えずというらしい。

まみえるは、大和言葉的には男女どちらでも使えるが、漢籍由来しばりがあるということだな。

最近のCMではホンダの「負けるもんか」が好感度高かった。
さすがホンダだなと思った。

霊元院御製集

霊元院御製集を読んだのだが、
時代の順序がばらばらで、肝心の正徳年間の歌は七夕の歌が七つしかない。
歌の分量は多いけれども、おそらくは公式の場とか、あるいはたまたま書記がいて、
死後に残ったものをとりあえず一つにまとめたという感じだ。
ひとつの私家集を作ろうとした形跡は皆無だな。

歌はまあなんというか無難。
面白いものもある。

参考までに後水尾院御製集もちらっと見たが、こちらも似たり寄ったりで、しかもさらに量が多い。
思うに天皇とか院などは公式の場で和歌を詠む機会が多かっただろうから、自然とこのように蓄積したのではないか。
そう、特によくできた歌をえり抜いたとかそのような意図が感じられない。

鐘の音寒き浅草寺

今書いている小説はほぼできあがった。
主役は新井白石。
ヒロインは将軍家継の生母・お喜世の方。
たぶんこのパターンの話は今まで無いはず。
しばらく一人称の話ばかり書いてきたので、リハビリを兼ねて、今回は三人称で書いてみた。

どちらかと言えば短編。応募〆切が直近の新人賞に応募する予定。
余りこてこての歴史小説にしたくなかったのだが、加筆しているうちにやっぱり蘊蓄君がてんこ盛りになってしまった。
ていうかピュアな歴史小説書いたのは久しぶりではなかろうか。
現代小説ばかり書いていて疲れた。
やはり一番書きたい歴史小説でリベンジする。

清元節(?)を使おうと思うのだが、著作権的に問題があると困る(時代的には問題ないのだが、適当にネット検索で拾うと何が混じっているかわからん)のと、
ストーリーにぴったり歌詞をあわせるため、
一つでっちあげることにした。

浮かぶ釣り船 帆掛け船
行き交ふ人や 誰ならむ
むすべば消ゆる うたかたの
一夜うたげの 江戸湊
かなたこなたに 寄る波の
枕さだめぬ ちぎりもや

冴ゆる月夜の 浦風に
さやぐ岸辺の 芳原は
秋のなごりの あともなく
川面に落つる むら時雨
鐘の音寒き 浅草寺
いつしか雪に 降り変はる

ていうか、演歌だな。演歌の源流は浄瑠璃か歌舞伎だわな。
和歌が詠めれば苦も無く作れる。
ていうか、漢詩に比べれば全然楽。

似たような言い回しがあると嫌だなと思ってネットで検索しながらやってるが、
こういうのは案外無いのかもしれん。
一部孝明天皇御製など使わせてもらってる。

白石と家宣

白石は家宣将軍就任当時五百石の旗本だったそうだ。
町奉行の遠山金四郎とちょうど同じ知行だ。
低くもないが高くもない。
旗本だから将軍お目見えはできるが、老中らが執務するご用部屋には入ることができない。
つまり将軍の家臣として直接執務することはできない。
側用人間部詮房は一万石だから大名だ。
後に五万石。譜代で五万石ということは老中クラスということになる。
家宣から間部を通して白石に下命があった、ということだろう。
家宣と白石は、甲府時代はもちろん直接面会をしていたはずであり、
また、綱吉の養子となって江戸城に入った五年間も、白石とじかに会えたのだろうが、
綱吉が死んで家宣が将軍になってしまうと、そう簡単には、少なくとも形式的には会えなくなった、ということだろう。
いやいや、たぶん、白石が職務上正規の手続きを経るにはそのような形式を踏む必要があったが、
白石は家宣が将軍になった後も、直接相談に乗っていた、と考えるべきだろう。

白石はしかし、官位は筑後守従五位下であるから、殿上人であり、御所に昇殿が許されている。
決して低くない。藩主か大名クラスだろう。
浅野内匠頭と同じくらいだ。
つまりは、天皇や朝鮮通信使などの接待の仕事の都合そうなっているのだと思われる。
贈正四位というのは明治に入ってからのことらしい。

元猿楽師の間部ですら五万石の大名になったのに白石は千石の旗本止まり。
何かおかしい。おそらくは白石の希望だったのだろう。

家宣就任時に48才、白石は53才、当時としては、十分に高齢だったと言える。
わざわざ将軍になった後に読史余論などの講釈をしたはずがない。
甲府時代、家宣三十代頃におこなった講義を、家宣が将軍になったあとに清書したということであろう。