そばもおせちもない年の瀬。

michael jackson live in buchrest をのんびりみる。

animaxで北斗の拳を見る。

やばい食い過ぎ。

北斗の拳、最新CGでリメイクして欲しい。まじで。

> ももしきの大宮人もむれゐつつこぞとやけふをあすはかたらむ 藤原師氏

> もののふのやそうぢ河をゆく水の流れてはやき年の暮れかな 源実朝

返歌 大晦日、友とショットバーに行きて、蕎麦を振る舞はれしが、年の内には間に合はず、
カウントダウンの後に食べたりしに詠める:

> 年越しの蕎麦をこぞには間にあはで年の初めに食べにけるかな

実朝は鎌倉右大臣。
なかなか良い歌を詠む。

天暦御製は村上天皇。
延喜御製は醍醐天皇。

> やはらかき薄皮のごとき生ハムをおせち代わりに食べにけるかな

> はつ春ののどけき朝におもしろきテレビもあらで書を読むかな

楠公銅像

自臣祖先友信開伊
豫別子山銅坑子
孫継業二百年亡
兄友忠深感國恩
欲用其銅鋳造楠公
正成像献之闕下
蒙允未果臣継其志
薫工事及功竣謹献
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識

※「臣」は小字。

読み下し

臣の祖先・友信、伊豫・別子山銅坑を開きてより、
子孫、業を継ぎ二百年、
亡兄・友忠、深く国恩を感じ、其の銅を用いて楠公正成の像を鋳造し、
之を闕下に献ぜんと欲するも、
允(ゆる)しを蒙むりて未だ果たさず。
臣、其の志を継ぎ、工事を薫し、功竣に及び、謹しみて献ず。

明治三十年一月

従五位 臣住友吉左衛門、謹みて識す

現代語訳

私の祖先・友信(住友友信 (1647 – 1706) 住友家3代当主)が伊予国・[別子銅山](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%AD%90%E9%8A%85%E5%B1%B1)を開いて以来、
子孫は代々二百年の間その業を継ぎました。
私の亡くなった兄・友忠(住友友忠 (? – 1890) 住友家13代当主)は、深くその国恩を感じ、
その銅を用いて楠木正成公の像を鋳造し、
朝廷の城下に献上しようと思い、その許可はいただきましたが未だ果たさずにいました。
私はその亡き兄の志を継ぎ、工事を監督し、竣功に及んだので、ここに謹んで献上します。

明治三十年一月

従五位 私、住友吉左衛門([住友吉左衛門](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E5%90%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80) (1865 – 1926) 住友家15代当主[住友友純](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E5%8F%8B%E7%B4%94)が、謹んで記します。

参考

[幕末維新懐古談 楠公銅像の事 高村光雲](http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/47006_26577.html)

上野大震災視察碑文

大正十二年九月十五日
攝政殿下大震災ノ惨状御
視察ニ際シ畏クモ此地ヨ
リ御展望遊サレ被害ノ情
況ヲ聞召サル越エテ七歳
昭和五年三月二十四日
天皇陛下此二臨御アラセ
ラレ親シク街衢ノ復興ヲ
矕ハセ給フ乃チ石ヲ此處
ニ樹テ以テ 聖恩ヲ不朽
ニ傳ヘントス



大正十二年九月十五日摂政殿下(昭和天皇)大震災ノ惨状御視察に際して畏くも
この地よりご展望遊ばされ、被害の情況を聞こし召さる。
越えて七歳、昭和五年三月二十四日、天皇陛下此こに臨御あらせられ、
親しく街衢(がいく。町のちまた)の復興をみそなわせたまう。
乃ち石をここに建てて、聖恩を不朽に伝えむとす。

「攝政殿下」「天皇陛下」に[闕字](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8#.E9.97.95.E5.AD.97)が使われている。

上野西郷隆盛像碑文

西郷隆盛君之偉功在
人耳目不須復賛述前
年 勅特追贈正三位
 天恩優渥衆莫不感
激故吉井友實輿同志
謀鑄銅像以表追慕之
情 朝旨賜金佽費捐
資賛此擧者二萬五千
餘人明治二十六年起
工至三十年而竣乃建
之上野山王臺記事由
以傅後


西郷隆盛君の偉功については皆さんご存じでしょうから、
改めて讃え述べることもないでしょう。
前年、勅によって特別に正三位を追贈され、
天恩が手厚いことに皆感激しないことはありませんでした。
故に、[吉井友実](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E4%BA%95%E5%8F%8B%E5%AE%9F)は同志とともに銅像を鋳造し、追慕の情を表すことを計画しました。
朝廷から金銭を賜り費用に充てよとのご意向があって、
この挙に賛同し義捐金を拠出した者が二万五千人余りあり、
明治二十六年に起工し、明治三十年に至って竣工し、
これを上野山王台に建てて事由を記し、以て後世に伝えます。

「勅」「天恩」「朝旨」などに[闕字](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8#.E9.97.95.E5.AD.97)が使われている。