コーヒーやめて紅茶にしようか

ドリップして入れたレギュラーコーヒーはカフェインが多い。
お茶はもともとその半分以下であり、かつタンニンがカフェインと結合するので、カフェインの作用はかなり弱まるようである。
実際、烏龍茶を多少飲んでも大丈夫だ。
お茶は、玉露などをたくさん飲まない限り(いったいどんなシチュエーションだろうか)、特に問題ないように思える。
ミルクコーヒーの代わりにミルクティーを飲めば良さそうだ。

安田善次郎

例によってウィキペディアを使って安直にいろいろ調べているのだが、
安田講堂は最初は寄付した安田善次郎を匿名にしていたようだが、1921年に彼が暗殺された後は、
おおっぴらに「安田講堂」と呼ばれたようだ。着工は彼が死んだ年、完成は1925年、つまり、『帝都春暦』の舞台となった年。
間に関東大震災が挟まっている。

良くひなびた居酒屋などに張り紙で「五十、六十は鼻たれ小僧」うんぬんとある文句はもとは安田善次郎によるという。
確かに、天保から大正まで生きたのだから長寿ではある。

安田善次郎と成島柳北は同じ年生まれで、安田は欧州視察で生命保険というものに着目した成島に勧められて今の安田生命を創始したという。
しかし安田はすでに明治政府御用達の商人として莫大な富を得ていたし、安田銀行は彼自身の力によって作ったものだろうから、
成島柳北の助言がどの程度彼に影響したかはわからない。

帝都春暦

[帝都春暦](http://p.booklog.jp/book/34939)をパブーに公開。
かなり趣味に走っているからと、全部読まないとたぶん意味不明な内容だから、全部公開して無料にしておいた。
こういうのを面白いと思う読者は(文章の善し悪しとかは別として、テーマ的に)はたして日本人の何パーセントなのだろうかね。

春暦というのはつまり為永春水『春色梅児(ご)与(よ)美(み)』にちなむ。

もちろん私が東大文学部の助手の生態など知るはずがない。
まして女子高等師範学校のことなど。
しかも大正末期の。
すべて想像で書いている。
大きく外してなければ良いのだが。

『帝都春暦』や『司書夢譚』などは、割と最近にさらっと書いた中編で、書くのにだいぶ慣れてきた頃のものだから、
あまり迷いがないのではなかろうか。
一方、『将軍放浪記』は事実上初めて書いた小説で、かなり書き直して、初期形態とはだいぶ変わってしまっている。

カフェイン

24時間ホルターをまたつけて、それを外したので、また体調も以前よりはずっと落ち着いてきたので、
久しぶりに烏龍茶やコーヒーを少量飲んでみたのだが、
またしても目眩や動悸がおこった。
だいたい、コーヒーを飲んだあと、1、2時間後。いきなりくる。
カフェイン入りガムを噛んだときと状況は良く似ている。
摂取した直後ではないのだ。それで原因が良くわからなかった。でも状況的にほぼ間違いないだろう。

困ったことだが、少なくとも心臓の数値が人並みまで改善し、今飲んでいる多量の薬をやめるまでは、カフェインの摂取をやめるべきだ。
でも、一つ原因不明の理由がほぼ確定したのはよかった。

こうなるとこれまでのいろんな不具合も、カフェインに対する、処方されている薬の副作用であるような気がしてならない。

アルコールについても同じことが言えるだろう。
アルコールを飲んで具合が悪くなっても、それは私の心臓のせいなのか、
薬の副作用なのかはわからない。
まあしかし、エタノールは低分子のアルコールに過ぎず、カフェインはアルカロイドの一種だから、
心臓への作用はまるで違うにちがいない。
エタノールは脳に直接作用する。
一方アルカロイドはホルモンの一種だから、交換神経などを狂わせるのだろうと思う。

アルコールやカフェインの摂取を再開するときには、やはりリスクを伴う。心臓というのは厄介だな。

24時間ホルターというのは、データを解析して結果が出るまで二週間くらいかかるようだ。
入院して心電図を取れば何時間でも何日でもリアルタイムでわかるわけだが。
しかし、通常の生活をしながら、病院食にはない食べ物を食べたり飲み物を飲んだり、
町中を歩き回ったりといういろんな出来事が起こりうる中で、心電図を24時間記録できるということは、すごいことである。
病院の中では決して得られないデータだ。
しかもそういうデータを入手できる人はごく限られている。
研究ネタにはすごく面白そうだ。

心臓は非常に特殊な臓器だし、その病気というのは多岐にわたるから、
ともかくいろんなことを用心しなくてはならないのだろうが、私の病気はその中のごく1例なのであり、
すべての可能性を疑っていたら、とにかく気が休まることがない。
まずは、主たる病因だけ治療してもらい、それが治ってから他のことにも手をつけてほしいのだが。
追加で精密検査をすればするほど別の異常が見つかるものだと思うが、とりあえずそれらは、当面の病気が治るまでほっといてもらいたいのだ。

で、まあ、思ったのだが、救急病院と町医者を比べれば、救急病院の方が料金は安いし、話も早いし、いちいち紹介状を書いてもらって町医者へ行ったり、
また救急病院に戻ったり、めんどうくさい。
町医者では処方箋書いてもらうだけで金をとられ、薬屋ではまた金をとられ、けっこう時間もかかるし、料金がいちいち割高なのだ。
薬局も二箇所ほど行ってみたが、やはり、救急病院の院内処方の方が安いようである。
また、ホルターの取り付けも救急病院の方が丁寧だし料金も安い。
これじゃあもう勝負はついた。

思うに救急病院というのは緊急性があるか重病の患者だけを扱い、少し病状がおちついたら町医者に紹介してそちらで治療させる。
或いは要介護老人などはその専用施設へ転院させる。
そうやって、常に、重症患者の緊急入院のキャパシティを確保しているのだろう。

救急病院には国からの補助金もたくさんでているし、その使命も重い。スタッフも場数をこなしているし、専門に分かれているから、
どうしても町の医者や薬局のサービスはたちうちできない。
金儲け主義とかそんな意味でなく、そういう小規模なところはどうしても人件費や諸経費がかかってそれらを治療費に上乗せせざるを得ないに違いない。
病気に罹ってみて初めて見えてきた世界だな。

だからずーっと救急病院に居座った方が得なのだろう。少なくとも今のように、町医者で手に負えないからまた救急病院に行ってね、
みたいなことを繰り返すようならずっと救急病院に通った方がよいと思う。
でも、そんな緊急性がなくなったら、救急病院の負荷を高めることはできるだけ遠慮した方が良いのだろう。

近頃の心臓

なんか、先週辺りから、心臓の鼓動が時々強くなりすぎる、という現象が続いていて、何がなにやらわからず困っている。しかし、だいたい落ち着いて来たように思えるので、それについて少し書く。

めまいがしたり立ちくらみがしたりというのはだいぶ減った。なくなったと言っても良い。これはたぶんおなかいっぱい食べるようにしたせいだろう。

鼓動が強くなるのは、ご飯を食べた後。走ったり上り階段を一気に上ったとき。安静なときに息を止めたとき。カフェインを大量に摂取したとき。

特に、安静にしているのに息を止めるとどんどん鼓動が強く打つようになる。困惑する。でも、そういうときは普通に呼吸するようにしている。
息を止めると血中酸素濃度が減るから、血をたくさん流そうとして、心臓の動きが活発になるのかもしれん。普通はその変化はごくささやかなのだが、私の場合それがオーバーリアクションになっているのではないか。その他の例も同じ。

思うに、心臓は治りつつあるのだろう。しかし、交感神経だか副交感神経の方は、私の心臓が非力だった頃と同じ調子で心臓をドライブしようとしているのではないか。ハードウェアが変わったのだからソフトウェアも書き替えないといけないのだが、それが間に合わない。一度リセットするくらい大幅にソフトウェアを書き替えなくてはならず、キャリブレーションに手間取っているのではないか。

薬で治療する、自宅で治すというのは、楽なようでそうでもない。入院していればいくらでも24時間ぶっ通しで心電図も取れる。薬を新しく増やしたり減らしたりできる。自宅療養だと、薬を増やすにも減らすにもリスクがある。医者と会うのもそんなに頻繁にはいかない。救急車に乗るくらいの緊急性があれば別だが、普通は原因わからんがなんか変だなという言う程度。

司書夢譚

[司書夢譚](http://p.booklog.jp/book/34682)を公開した。
これも蘊蓄が長くて読みにくいけど、それは試し読みから除外したので、
試し読みするだけならさくっと読めるだろう(笑)。
なんとなく試し読みの本来の趣旨からは逸脱しているようにも思えるが。

押韻に絶望する

十載夢飛巴里城
城中今日試閑行
画楼涵影淪綺水
士女如花簇晩晴

これは、成島柳北がパリを訪れたときに作った漢詩だが、行と晴が、一見押韻してないように見えるが、
いずれも韻字は庚であり、`ing と発音する。
まったく見当もつかない。
しかし、調べてみると柳北の漢詩で押韻がいい加減なものは、滅多にないようだ。

韻はしかも、現代中国語の発音とは違っていることもあるようだ。
従って、機械的に、ともかく一字一字韻を暗記しなくてはならないということになる。

[日本語と日本文化 成島柳北](http://japanese.hix05.com/Literature/Ryuhoku/ryuhoku.index.html)。
少し詳しい。

成島柳北

岩波書店、新日本古典文学大系『漢詩文集』の中の、『新編成島柳北詩文集』を読んでいる。柳北が書いた漢詩と、朝野新聞に主筆として書いた社説(抜粋?)からなる。
他に、入手しやすいものとしては、同じく新日本古典文学大系の『柳橋新誌』『航西日乗』。
柳北、47歳で胸の病気で早死にしている。嫌な死に方をしやがる。死んだ年にしても病気にしても、今の自分に近い。

朝野新聞は日本ジャーナリズムの黎明期に、柳北を主筆として流行り、柳北の死去によって衰退した。その社説は、なかなか面白い。
主筆自ら社説を書いておかげで牢屋に入れられたり、その話をまた茶化して書いたりしている。実に軽い。
今とは時代が違ったといえばそれまでだが。

柳北の文章で手に入るものは、とりあえず全部読んでみることにする。

[ここ](http://home.b-star.jp/~foresta/1/narushima/)にもややまとまった文章が置いてある。
『硯北日録』の一部、柳北が18歳の時の日記があるが、はてこれはどうだろう。

十八歳の時の漢詩を見るに、ちゃんと偶数句の終わりは押韻していて、感心だ(まあ、それが当たり前なのだろうが)。

古詩とかは、字数も韻も好い加減で、だいたい陶淵明くらいの漢詩。
楽府にいたっては民謡なので、ルールがほとんどない。
頼山陽も最初は韻や字数にこだわった詩を作っていたようだが、だんだん楽府とか古詩とか言い出して適当になっていたったように思われる。
というか、江戸時代の漢詩人の中では頼山陽はかなりいい加減な方に入るようだ。

しかし、この人の名が今日まで残って、新日本古典文学大系に採られているのは、明治初期に大新聞の主筆となったからだろう。
或いは永井荷風の影響か。
『柳橋新誌』や漢詩は面白いが、このくらいの人は当時いくらでもいたに違いない。

カフェイン絶ち

ここ三日ほどカフェインを完全に摂らずにいてわかったことは、
確かに、
カフェインのきついガムを一度に十個とか、まとめて食うと、急激にカフェインが回って、めまいがしたり、心拍が強くなったりする。
しかし、カフェインを摂らなくても、同様の症状、特に心拍がときどき強くなるという症状は出る。

目眩は、おそらく、内臓脂肪が少なくなったせいもあるだろうと思う。
朝起きたときに、もう少し食べないと行けないのだと思う。
しかし寝起きが一番、食欲がない。
一時的に血糖値が下がりすぎないように気をつけねばならない。
或いはこれも、薬によって、血圧が下がり気味なせいかもしれない。
心臓が治って薬をやめてから、ダイエットは再開せねばならないだろう。

心拍が強いというのは、たとえば食事をした後にもそうなる。
腹一杯食って胃で消化が始まると、血流を増やそうとするかのようだ。
たぶん心臓の力が回復して来ているのにいまだに強心剤(ジゴキシンとか)を飲み続けているせいだと思うのだけど。
私としては早く強心剤を飲むのをやめてしまいたいのだが、医者がなんというか。
一日中ずっと心拍が強いわけではないようなので、たぶん、それほど心臓に負担になってはいないのではないか。
医者に言って、やめてもらうまでもう少し辛抱しよう。

で、カフェインを無理して飲まない必要はない気がする。
がしかし、24日にまた24時間ホルターをつけて心電図取るので、それまでは万全の体勢で臨もうと思う。
また、カフェインを好んで摂取する必要もない気がする。
以前はコーヒー中毒のように飲んでいたが、今はなくても平気だ。

メディアとビジネスモデル

二、三年前から、死に物狂いでビジネスモデルを考えて、ついに収益が出るようになったメディアと、
二、三十年前からの収益モデルで今日までやってきたが、技術革新についていけず、手詰まりになりつつあるメディアの差が、
顕著になりつつあるよなあ。
地デジ化というのは大いなる目眩ましだった。あれは技術革新でもなんでもなかった。
地デジ化しさえすれば、NHK も民放も技術革新についていけるんだと思い込もうとしただけ罪が深かった。

NHK はネット同時配信を望み、民放は嫌がっているというが、
まず民放は、番組の合間にむりやり広告を見せることによって収益を得ているが、
ネットの VOD なぞが主流になれば広告をすっとばせることになるから、
要するに、インタラクティブなものはすべて収益の敵であって、
切れ目なく(ユーザにとっては不便を強いられる)ブロードキャストできるメディアでなくてはならない。
NHK は受信料もらうタイプだから、ブロードキャストでもインタラクティブでもどちらでもよい。
ついでに、PCや携帯端末もってるだけでも受信料をとろう、というように、放送法を改正しようとしてくるだろう。

となると、我々としては、NHK も民放もどちらも迷惑なだけであり、Youtube やニコ動でなぜいけない、
という話になろう。
うちの場合はケーブルテレビも契約しているが多チャンネルの専門チャンネルにしてくれればそれで十分だ。
放送局がネットに進出しようとすれば、結局は、既存のビジネスモデルを何らかの形で参考にし、取り入れざるを得ず、
そんなら Youtube やニコ動とどこが違うのか、後追い参入してきているだけじゃないか、などという話になる。

というか、テレビ放送だけでなく、だいたい、昭和の頃からあるメディアのビジネスモデルの多くは破綻しつつあるのだ。
我々はでは今どちらのメディアに乗っかるのか、古いメディアはどうせ沈みゆく泥船だから見捨てるとして、
新しいメディアに乗っかるとして、どこに乗っかるのか、
いや古いメディアにもまだ底力が残っているのか。

無論電波利権とネットを組み合わせ得る、既存のテレビ局の方がまだ有利だと思うが、
新しいビジネスモデルを必死で思いつこうという切羽詰まった雰囲気が見られないよなあ。
そういうことに頭を働かす常駐スタッフなどいないのだろう。
経営者の考えは旧態依然だろうし、
プロデューサーやディレクターなどは既存のビジネスモデルに自らを最適化してしまっているのだから。

今のビジネスモデルを変更するということは、やはり多かれ少なかれ現在の利権の一部を手放すこと、
他人の参入を許すこと、市場を自由化すること、
自分の仕事を増やすこと、になるのだろうなあ。

よく聞く話に、映像作品は、インタラクティブであってはならない、というものがある。
つまり、映像を鑑賞するには、映画館のような大画面大音量の施設で、最初から最後まで、
途切れなく見続けなくてはならないというものだ。
しかし私は、仮にそれが、感動を最大化する方法だったとしても、できるだけ拒否したい。
自分が途中で見るのをやめる、もしくは続きを後から見たり、最初からもう一度みたり、
BGV としてだらだら何度もみたりする権利の方がはるかに重要だと思う。

映像作品は最初から最後まで黙ってみろというのは、ヒトラーのプロパガンダの理論であり、
小中高の一斉授業の論理であり、
放送業者の理論であり、作り手、送り手の理論に過ぎない。
そんなものに拘束されるいわれはない。

念のために言っておくと、映像作品が、Flashアニメやゲームのようなインタラクティブコンテンツであるべきだ、
と言っているのではない。
必要もないインタラクティブ要素を入れられるのは迷惑なだけだ。