ヨハンナ・シュピリ初期作品集

「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」だが、 相変わらずアマゾンではまったく売れていない。 だんだん中古が値崩れしてきているがそれでも売れない。 ところが紀伊國屋書店やツタヤのオンラインショップではときどき在庫切れしたり入荷したりしているから、 多少は売れているらしいのだ。 アマゾンで中古だけものすごく高値で売られていた時期があって、 その頃、わざわざアマゾンで高い中古を買うくらいなら、 普通の書店で新品を買った方がよい、などとツイートしたことがあって、 それを見た人がアマゾンを避けているのかもしれないと思い、 そのツイートは削除した。

それで、ツタヤに「あわせて買われている商品」というのが15冊あって、 ということは、 少なくとも「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」は現時点でツタヤオンラインで15冊売れた、ということになる(もしかすると書店売りのデータも含まれているかもしれない)。 多いような少ないような。よくわからない。 ともかくツタヤで本を買う人は思ったより多いのかもしれない。 中古は別として新品を買うならアマゾンでもツタヤでも同じはずだが、なぜかツタヤで買われている。 それで合わせて買われた本なのだが、 どちらかと言えば日本文学の本が多く、 洋書の翻訳物は2冊しかない。 いったいどんな人が買っているのだろう。実に不思議だ。 ツタヤで買う人というのはたぶんリピーターだろう。 私の本だけ買った人は考えにくい。

ところでカーリルのほうもときどき調べてるのだが、 すでに250館以上の公共図書館が「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」を入れている。 未だに入れてない県が四つある。 どことは敢えて言わないが。
当然東京が一番多いが、愛知、大阪、埼玉、兵庫などが割と多い。 神奈川は少なかったのだが、少し追いついてきた。 京都が意外にも少ないのだが、それでも少しずつ入ってきた。 ある程度県民性が見えてくる。 大学図書館がなかなか入れてくれないのは不満だ。 地方自治体の図書館に比べると圧倒的に少ない。 落ち着いてきたが図書館だけでもまだ伸びしろがある。 近いうちに300館に達するのに違いない。他の人気の本に比べれば、全然大したことはないのだけど、私にしてみれば大成功だ。 ビジネス新書などは図書館はなかなか入れないが、 逆に文芸書などは入れてもらえやすい傾向はあるようだ。 それで結局どのくらい売れているか、確かなことは出版社に聞けばわかるんだが、 怖くてできない。 私が書いたもののなかではダントツに売れていることは間違いない。 しかし増刷、重版がかかるにはまだ全然足りない。

ハイジのこどもたち

シャルル・トリッテン著「ハイジのこどもたち」を読んでいるのだが、

アルムおじさんの名はトビアス・ハイムというらしい。
なるほど、アルムおじさんの息子の名前はトビアスだから、その父の名もトビアスである可能性は高い。

トビアス・ハイムはオーストリアで傭兵をしていた。
そのときにマルタ・クルーゼという女性と知り合い、二人の男子を産んだ。
トビアス・ハイムとマルタ・クルーゼは二人して財産を使い果たして、離婚した。
そのときトビアス・ハイム、つまりアルムおじさんは長男のトビアスを、マルタは次男を引き取った。
このマルタが引き取ったほうの子はオーストリアの陸軍大佐となり、クルーゼ大佐と呼ばれる。
クルーゼ大佐の妻はマリーという名で、クルーゼ大佐はパリ駐在武官となってパリに住んでいる。
もしかするとマリーはフランス人かもしれない。
クルーゼ大佐とマリーの間には、ジャミー(ジャンヌ-マリー)、マルタという二人の娘がいる。
ジャンヌ-マリー(Jeanne-Marie)は明らかにフランス女性の名である。

一方で、ハイジはペーターと結婚して、トビアス、マルタリという男女の双子を産む。
トビアスの洗礼名はトビアス・ペーター・ナエゲリ、マルタリの洗礼名はマルタ・ブリギダ・ナエゲリ。
これによってペーターの名前は、ペーター・ナエゲリというのであろう、ということがわかる。

ちなみに名前に「リ」をつけるのは「ちゃん」づけするみたいなものらしい。
初期作品集にも出て来たが、マイエリ、ヨハネスリ、マルグリトリ、などなど。
男の子にも女の子にも付ける。
ベルリ、スヴェンリなど羊の名にも付ける。

「ハイジのこどもたち」の前編「それからのハイジ」によれば、
ハイジはローザンヌの北にあるロージアヌというところの学校でジャミーと知り合い、
ハイジはデルフリで学校の教師になるが、
ハイジがペーターと結婚するにあたって教師を辞め、
後任にジャミーを呼び寄せる、ということになっている。
その学友にして大親友のハイジとジャミーが、実はいとこどうしだった、
というのがこの物語のオチになっている。

一番気になるのは、アルムおじさんがオーストリアで傭兵になった、としていることである。
スイス傭兵がオーストリアで傭兵になることは皆無ではなかったらしい。

[Schweizer Truppen in fremden Diensten](https://de.wikipedia.org/wiki/Schweizer_Truppen_in_fremden_Diensten)

しかしこの時期、オーストリアで傭兵になった記録はない。
そもそもスイスはオーストリアから独立してできた国なので、オーストリアやハプスブルク家の傭兵になるというのは、あまり考えにくい。
本文中 p.176 に

> 当時、ナポリはフランス領だったでしょう

というのがあるが、これはおそらく誤訳だろう。
ナポリは当時ナポリ王国とシチリア王国の同君王国で両シチリア王国と言い、スペインのブルボン家の分家だった。
ブルボン家だからフランス領だと言うのならば、今のスペインもフランス領ということになってしまう。
シャルル・トリッテンが書いたフランス語の原文を読む気にはまったくなれないが、もしトリッテンがナポリをフランス領だと書いたとしたらとんでもない間違いだ(ただしナポリがフランス革命軍に占領され、ナポレオンの兄や妹婿がナポリ王になったことがあった。しかし当時まだアルムおじさんは幼すぎる。それにフランス人が国王になろうとナポリ王はナポリ王であって、必ずしもフランス領になるわけではない。同じ理屈で言えば、今のウィンザー朝のイギリスはドイツ領になってしまう)。

ともかく、スイス傭兵といえば、普通はフランスのブルボン家、ナポリのブルボン家、ヴァティカン、
この三つがメジャーであり、いずれも衛兵として常時雇われていた。
アルムおじさんの時代だと、衛兵としてのスイス傭兵は(上記の記事が完全ならば)ナポリかヴァティカンしかない。
さもなくば戦時に一時的に動員された。
第二次イタリア統一戦争(1859年)ではフランスとピエモンテの連合軍に雇われた。

マイエンフェルト駅が出来たのは1858年である。
鉄道が通ったことによって、それまでのプフェファース修道院に附属していた原始的な湯治場が開発されて、鉄道の近くの、ライン川の川岸まで源泉を引いてきて、ラガーツ温泉が出来たのはそんなに古いことではない (どうも 1868年以降のこと らしい)。
ヨハンナ・シュピリがラガーツ温泉に静養に来たのは1878年以降のはずだ。
で、仮に、最初にハイディが出版された1880年にハイディが5歳だとするとアルムおじさんは70歳。
アルムおじさんの生まれ年は1810年ということになる。
傭兵に行くとして1826年(16歳)から1845年(35歳)くらいまでだろう。
この時期ヨーロッパはウィーン体制で比較的平和だった。
だからバティカンかナポリで平時の衛兵として雇われた、と考えるのが一番無難だし、原作にも言及されているようにナポリであった可能性が極めて高い。そしてオーストリアであった可能性はほぼゼロだ(私はアルムおじさんが第二次イタリア戦争に参戦したとして「アルプスの少女デーテ」を書いた。当時50歳だったことになる。かなり無理がある。時代設定をあと20年ほど後ろにずらして、ヨハンナ・シュピリが未来小説を書いたことにしないといけない。逆に10年ほど前倒しにすることは、不可能ではないが、ナポレオン戦争当時、アルムおじさんは傭兵になるには若すぎる。ちなみに1848年にはウィーン体制が崩壊する欧州革命が起きている。多少時代設定を未来にずらせば、この戦争に動員されたと考えてみることもできる)。

マリア・テレジアの時代にオーストリアがスイス傭兵をウィーンで衛兵として雇ったことがあり、Schweizerhof(スイス広場)、Sweizertor (スイス門) などという地名が今も残るそうだ。
その後再びスイス傭兵を雇ったということは、絶対無いとは言い切れないが、かなり弱い。
或いは、この地名に引っ張られて、トリッテンはアルムおじさんがウィーンで傭兵になった、と考えたのではなかろうか。

ウィーンで子供が二人できて一人だけ連れてスイスに帰るというのも、ずいぶん無理がある設定ではなかろうか?

どうでも良い話かもしれないが、アルムおじさんをトビアス1世、アルムおじさんの子でハイディの父をトビアス2世、ハイディの子をトビアス3世、などと呼ぶのはおかしい。
というのは、アルムおじさんの家系をさかのぼって一人もトビアスという人がいないってことが明らかでなくてはならないからだ。
王侯貴族ならば一応家系が残っているから可能だろう。
或いは領主や国王となって以降、王朝成立後、1世、2世と数えるというのも良い。
ローマ教皇は世襲ではないが、まあ1世、2世と数えるのは自然だ。
しかし家系が定かでない民間人をそういうふうに呼ぶのはおかしい。

ところが歴史の浅いアメリカでは民間人でも平気で1世、2世などという。
彼らの祖先の誰かが、ヨーロッパかどこかで、同じ名前だったかもしれない、なんてことはどうでも良いのだろう。
たとえばマイクロソフト創業者のビル・ゲイツはビル・ゲイツ3世(William Henry Gates III)というらしい。
祖父の William Henry Gates I は 1891年から 1969年まで生きたらしい。
では彼の祖先はどこから来たのか?
彼のGates 家の祖先に William Henry という人はいないのか。
どうせ誰も知らないのだ。

堅信礼の贈り物

ヨハンナ・シュピリ処女作出版の経緯についてはこちらの記事に詳しく記されている。

> Johanna Spyri und Bremen: ein Beitrag zu den schweizerisch-hansestädtischen
Literaturbeziehungen und zu den schriftstellerischen Anfängen der “Heidi”-
Autorin

後書きに書いた通り。
ほんとはもっとたくさん書きたかったが、あまりに「後書き」が長すぎてもかっこわるいので、
必要最小限しか書かなかった。
中途半端に書いておくとあとで自分も忘れてしまって困るので整理しておく。
> Autor(en): Richter, Dieter

Dieter Richter はドイツ語学者。

> Zeitschrift: Librarium : Zeitschrift der Schweizerischen Bibliophilen-
Gesellschaft = revue de la Société Suisse des Bibliophiles
Band (Jahr): 31 (1988)
Heft 2

「Liberarium」という、スイス愛書学会(?)から出ている論文誌に載っているらしい。

> Die kleine Schrift kostete in Bremen sechs Grote (30 Pfennig) und wurde im Kolportagevertrieb auch von Pastor Vietor selber verkauft.

その小さな著作は、ブレーメンで6グローテ(30ペニヒ)で売られた。
また、フィエトル牧師は自ら販売した。
Kolportage は行商、Vertrieb は販売。

出典は

Titelblatt-Faksimile bei J.Winkler, a.a.O., 123. Ein Exemplar dieser Auflage befindet sich in der ZB Zürich.

Titleblatt は製本された本の中に挟まれる標題紙。
当時販売された書籍から採られたコピーということ。
ZB Zürich == Zentralbibliothek Zürich はチューリヒ市とチューリヒ大学共同の図書館。
おそらく記事に掲載されているこの画像のことだ。

vietor



> Das Büchlein ist für 6 Grote zu haben in Bremen bei C. Hilgerloh, am Brill No. 19, und bei Pastor C. R. Vietor, Domshof 27. Bestellungen von auswärts werden durch C.Hilgerloh ausgeführt.

「この小さな本はブレーメンのAm Brill 19番地の C. Hilgerloh で、また、Domshof 27番地の C. R. Vietor牧師から、6グローテで手に入る。国外販売は C. Hilgerloh が行う」と書かれている。
つまり、フィエトルは自ら売り歩いたわけではなく、セールスして回ったわけでもなく、出版社の C. Hilgerloh から分けてもらった本を、自分の教会に置いて頒布していた、ということであろう。
Domshof(教会広場) 27番地はまさにその教会(Die Kirche Unser Lieben Frauen)やらブレーメン市庁舎が建ち並ぶ、市の中心地である。
Am Brill 19 というのはその北西へ1kmほど行ったところ。
ブレーメン中心部はかつて川を挟んで[星形要塞](https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bremen_Old_Map.jpg)
の中にあったようだ。

1280px-Bremen-1641-Merian



> Das «Bremer Kirchenblatt» empfiehlt das Büchlein als Konfirmationsgeschenk: «Manche Eltern werden gern in dieser Zeit mit ihren Kindern etwas Geeignetes lesen’.»

Konfirmation 堅信礼 Geschenk プレゼント。

Konfirmation はルター派の用語らしく、英語では Confirmation。
英訳すると、affirmation of baptism、すなわち、
生まれたばかりのときに受けた洗礼を、成年に達してから自らの意志で肯定する儀式。
「堅信礼」より「洗礼肯定」のほうがいくらかはわかりやすいのではなかろうか。
この儀式は通常16歳に行われた。
それまでにゲマインデにおける初等教育は終了する。
上流階級の子らはその後で海外に留学したり、さらなる高等教育を受ける。
そうでない普通の子らは社会に出て働き始める。

「ブレーメン教会新聞」は、この小冊子を堅信礼の贈り物として推薦した。この当時の相当の父母たちが、子供たちと読むのに適したこの本を読むのを好んだ。

出典は

Meta Heusser-Schweizer, Hauschronik, hg. von K. Fehr, Kilchberg 1980, 58.

メタ・ホイッサー・シュヴァイツァー(ヨハンナ・シュピリの母で詩人)の家の歴史、という本らしい。

新撰和歌2

「新撰和歌」みてるとけっこうわけのわからない歌とか、あまり面白くない歌も含まれている。
わけのわからない歌を「古今集」などで確かめてみると、
貫之本人のせいか途中で写した人のせいかは知らないが、間違っているものも多い。

「古今集」に比べれば「新撰和歌」のほうが雑な印象だが、
そりゃまあ、「古今集」はいろんな人がきちんと校正した結果が今日に残っているわけだから、
それにくらべて貫之の私撰集のほうにあらがあるのは仕方がないのかもしれない。

で、「本朝文粋」が藤原明衡によって後冷泉天皇の時代に成立していたのは間違いないことだし、
その中に紀淑望による「古今和歌序」が当初から収められていたのもうたがいようがない。
でおそらくこれはもともと「序」として書かれたのではなくて、後で「本朝文粋」の「序」の章にまとめられたのであろうということがうかがえる。
そして「序」は「詩序」と「和歌序」に分かれており、
「詩序」には一から四がある。
和歌序は

* 古今
* 新撰
* 奉賀村上天皇四十御筭
* 中宮御產百日
* 女一宮御著袴翌日宴
* 左丞相花亭遊宴
* 賀玄宗法師八十之齡
* 讚法華經廿八品
* 春日野遊
* 泛大井河各言所懷
* 泛大井河詠紅葉芦花

となっており、みな漢文である。
歌合の序はもともと仮名で書かれたものもあって、仮名序というものがもともとなかったわけではない。

古今仮名序の初出は「元永本古今和歌集」であり、白河院の頃に源俊頼が作ったと考えてよい。
そしてこの仮名序も、おそらくは俊頼が真名序を適当に和訳したものだ。
俊頼は確かに和歌は優れているが「俊頼髄脳」などみると歌論はさんざんであって、「古今仮名序」の支離滅裂な文章と良く似ている。

それにくらべて古今の真名序は内容はともかくとして、簡潔で理路整然としている。
おかしなことをくどくど書いたり、脱線したりしてない。
貫之の新撰和歌序にしても、まあ内容や簡潔さというものはともかくとして、まっとうな文章であって、俊頼髄脳や古今仮名序のような悪文ではない。
そもそも貫之は「土佐日記」のような見事な名文を書けるひとなわけだから、
それほどの人が「古今仮名序」のような頭のおかしい文章を書くはずがない。

それで私としてはますます古今集仮名序は源俊頼がでっちあげたものであろうという確信を深めた。
古今集仮名序を、貫之が書いた、仮名文の歌論の先駆などとして持ち上げるのは大問題だ。

私としてはさらにすすめて、「竹取物語」や「伊勢物語」も貫之が書いたことを立証したいが、こちらはまだ手つかずだ。
だが文体を「土佐日記」と比較すれば良いだけだから、
貫之著かどうかを突き止めること自体は(要する手間ひまはともかくとして)それほど難しくはないだろう。

それでまあ、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、

> 内侍のかみの右大将ふぢはらの朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた
> 素性
> かすが野に わかなつみつつ よろづ代を いはふ心を 神ぞしるらむ

内侍のかみ、つまり内侍の長官の尚侍は、ここでは藤原満子のこと、その兄の藤原定国が右大将でその四十の賀、という意味。
つまり、新春に若菜を摘んで献上するというのは主君の長寿を祈念する祝賀行事であった。
ここでは素性が藤原定国を祝っている。
単に春の七草を食べれば寿命が延びると信じられていただけではない。
ということは、

> 仁和のみかど、みこにおはしましける時に、人にわかなたまひける御うた
> 君がため 春の野に出でて わかなつむ わが衣手に 雪はふりつつ

これは、光孝天皇が即位する前、時康親王であったときに、父の仁明天皇か兄の文徳天皇に奉った歌ではなかったか。
年下の清和天皇、陽成天皇にささげた歌である可能性は低いだろう。

また、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、『後撰集』読み人知らず

> ふる雪は 消えてもしばし とまらなむ 花ももみぢも 枝になきころ

定家はこれを本歌取りして

> みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

を詠んだのは間違いなかろう。
もちろん「秋の夕暮れ」は清少納言「枕草子」の影響だし、
『源氏物語』第十三帖「明石」

> いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものなるを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに、

の影響も受けているのである。
ただ単に禅的ダダイズムの歌ではなくて、どちらかといえば平安王朝の雰囲気をコラージュした作品であったと言うことができよう。

新撰和歌 巻第四 恋・雑 荓百六十首 (2/2)

> 281 おもふどち まとゐせるよの からにしき たたまくをしき ものにざりける

> 282 人はいさ 我はなき名の をしければ むかしもいまも しらずとをいはむ

> 283 わが身から うき名のかはと ながれつつ 人のためさへ かなしかるらむ

> 284 あまぐもの よそにも人の なりゆくか さすがにめには 見ゆるものから

異本歌、いづくにか世をばいとはむ世中に老をいとはぬ人しなければ

> 285 いづくにか 世をばいとはむ 心こそ 野にも山にも まどふべらなれ

> 286 月夜には こぬ人またる かきくもり あめもふらなむ わびつつもねむ

> 287 おそくいづる 月にもあるかな 足引の 山のあなたも をしむべらなり

> 288 露だにも なからましかば 秋の夜を たれとおきゐて 人をまたまし

> 289 ながれても なほ世の中を みよしのの 滝の白玉 いかでひろはむ

> 290 いまはとて かれなむ人を いかがせむ あかずちりぬる 花とこそ見め

> 291 ひかりなき たにには春も よそなれば さきてとくちる もの思ひもなし

> 292 色見えで うつろふ物は 世のなかの 人の心の 花にぞ有りける

> 293 あまのすむ さとのしるべに あらなくに うら見むとのみ 人のいふらむ

> 294 いろもなき 心を人に そめしかば うつろはむとは おもはざりしを

> 295 ふる里は みしごともあらず をののえの くちしところぞ こひしかりける

> 296 ありそ海の はまのまさごと たのめしは わするることの かずにぞ有りける

> 297 すみよしの きしのひめ松 ひとならば いく代かへしと とはましものを

> 298 ゆきかへり ちどりなくなり はまゆふの 心へだてて おもふものかは

> 299 すみよしと あまはいふとも ながゐすな 人わすれぐさ おふといふなり

> 300 おもひつつ ぬればや人の 見えつらむ 夢としりせば さめざらましを

> 301 もののふの やそうぢ川の あじろぎに ただよふなみの ゆくへしらずも

> 302 わすらるる 身を宇治ばしの 中たえて こなたかなたに 人もかよはず

> 303 いまぞしる くるしきものと 人またむ さとをばかれず とふべかりけり

> 304 わすれ草 なにをかたねと おもひしを つれなき人の 心なりけり

> 305 おほあらきの もりのしたくさ おいぬれば こまもすさめず かる人もなし

> 306 あきの田の いねといふとも かけなくに ををしとなどか 人のいふらむ

> 307 うつせみの よにしもすまじ 霞たつ みやまのかげに 夜はつくしてむ

> 308 いそのかみ ふる野の道も こひしきを しみづくみには まづもかへらむ

> 309 神無月 しぐれふりおける ならのはの なにおふみやの ふることぞこれ

> 310 またばなほ よりつかねども 玉のをの たえてたえては くるしかりけり

> 311 ながれくる たきのしら玉 よわからし ぬけどみだれて おつる白玉

> 312 世の中に たえていつはり なかりせば たのみぬべくも 見ゆるたまづさ

> 313 たがために ひきてさらせる いとなれば 夜をへてみれど しる人もなき

> 314 いまさらに とふべき人も おもほえず やへむぐらして かどさせりいはむ

> 315 わくらばに とふ人あらば すまのうらに もしほたれつつ わぶとこたへよ

> 316 我が宿は みわのやまもと 恋しくは とぶらひきませ すぎたてるかど

> 317 うれしきを なににつつまむ から衣 たもとゆたかに たたましものを

> 318 秋くれば 野にも山にも ひとくだつ たつとぬるとや 人の恋しき

> 319 わがせこめ きませりけりな うくやどの 草もなびけり 露もおちたり

> 320 おくしもに ねさへかれにし 玉かづら いつくらむとか われはたのまむ

> 321 山のはに いさよふ月を とどめおきて いくよみばかは あく時のあらむ

> 322 我がやどの 一むらすすき かりかはむ きみがてなれの こまもこぬかな

> 323 あさなけに 世のうきことを しのぶとて ながめしままに としをへにける

> 324 あはれてふ ことにしるしは なけれども いはではえこそ あらぬものなれ

> 325 世の中は うけくにあきの おく山の この葉にふれる 雪やけなまし

> 326 あさぢふの をののしのはら しのぶとも 人しるらめや いふひとなしに

> 327 やまびこの おとづれじとぞ 今は思ふ われかひとかと たどらるる世に

> 328 わびはつる ときさへものの かなしきは いづれをしのぶ 心なるらむ

> 329 みはすてつ こころをだにも はふらさじ つひにはいかが なるとしるべく

> 330 伊勢のうみの あまのたくなは うちはへて くるしとのみや おもひわたらむ

> 331 かくしつつ よをやつくさむ 高砂の をのへにたてる まつならなくに

> 332 おもふとも こふともあはむ ものなれや ゆふてもたゆく とくるしたひも

> 333 あはれてふ ことのはごとに おく露は むかしをこふる なみだなりけり

> 334 思ひやる こころやゆきて 人しれず きみがしたひも ときわたるらむ

> 335 ありはてぬ いのちまつまの ほどばかり うきことしげく おもはずもがな

> 336 あひ見ぬも うきもわが身の から衣 思ひしらずも とくるひもかな

> 337 われしなば なげけまつ虫 うつ蝉の 世にへしときの ともとしのばむ

> 338 おもひいづる ときはの山の いはつつじ いはねばこそあれ こひしきものを

> 339 わすられむ ときしのべとぞ 浜ち鳥 ゆくへもしらぬ あとをとどむる

> 340 みちしらば つみにもゆかむ すみの江の きしにおふといふ 恋わすれ草

> 341 ほのぼのと あかしのうらの 朝ぎりに 島がくれゆく 船をしぞ思ふ

> 342 いはのうへに たてる小松の 名ををしみ ことにはいはず こひこそわたれ

> 343 あふさかの あらしのかぜの さむければ ゆくへもしらず わびつつぞゆく

> 344 あはれてふ ことこそうけれ 世の中に おもひはなれぬ ほだしなりけり

> 345 足引の 山のあなたに いへもがな 世のうきときの かくれがにせむ

> 346 こひこひて まくらさだめむ かたもなし いかにねし夜か 夢にみえけむ

> 347 みやこ人 いかがととはば やまたかみ はれぬ思ひに わぶとこたへよ

> 348 つつめども 袖にたまらぬ 白玉は 人を見ぬ目の なみだなりけり

> 349 ぬしやたれ とへどしら玉 いはなくに さらばなべてや あはれとおもはむ

> 350 こひしきも こころよりある ことなれば われよりほかに つらき人なし

> 351 あまのかる もにすむ虫の われからと ねをこそなかめ よをばうらみじ

> 352 ちはやぶる かものやしろの ゆふだすき ととひもきみを かけぬひぞなき

> 353 いまこそあれ われもむかしは をとこ山 さかゆくときも ありこしものを

> 354 ひさしくも なりにけるかな 住の江の 松はちとせの ものにぞ有りける

> 355 かぜのうへに ありかさだめぬ ちりのみは ゆくへもしらず なりぬべらなり

> 356 こひせじと みたらし川に せしみそぎ 神はうけずも なりにけるかな

> 357 若菜つむ かすがの野べは なになれや 吉のの山に まだゆきのふる

> 358 みわの山 いかにまちみむ としふとも たづぬる人も あらじと思へば

> 359 いく代へし いそべの松ぞ むかしより 立ちよるなみや かずをしるらむ

> 360 しら玉か なにぞと人の とひしより 露とこたへて きえなましものを

> 361 ながれては いもせのやまの なかにおつる よし野の滝の よしや世の中