ヨハンナ・シュピリ初期作品集

「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」だが、 相変わらずアマゾンではまったく売れていない。 だんだん中古が値崩れしてきているがそれでも売れない。 ところが紀伊國屋書店やツタヤのオンラインショップではときどき在庫切れしたり入荷したりしているから、 多少は売れているらしいのだ。 アマゾンで中古だけものすごく高値で売られていた時期があって、 その頃、わざわざアマゾンで高い中古を買うくらいなら、 普通の書店で新品を買った方がよい、などとツイートしたことがあって、 それを見た人がアマゾンを避けているのかもしれないと思い、 そのツイートは削除した。

それで、ツタヤに「あわせて買われている商品」というのが15冊あって、 ということは、 少なくとも「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」は現時点でツタヤオンラインで15冊売れた、ということになる(もしかすると書店売りのデータも含まれているかもしれない)。 多いような少ないような。よくわからない。 ともかくツタヤで本を買う人は思ったより多いのかもしれない。 中古は別として新品を買うならアマゾンでもツタヤでも同じはずだが、なぜかツタヤで買われている。 それで合わせて買われた本なのだが、 どちらかと言えば日本文学の本が多く、 洋書の翻訳物は2冊しかない。 いったいどんな人が買っているのだろう。実に不思議だ。 ツタヤで買う人というのはたぶんリピーターだろう。 私の本だけ買った人は考えにくい。

ところでカーリルのほうもときどき調べてるのだが、 すでに250館以上の公共図書館が「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」を入れている。 未だに入れてない県が四つある。 どことは敢えて言わないが。
当然東京が一番多いが、愛知、大阪、埼玉、兵庫などが割と多い。 神奈川は少なかったのだが、少し追いついてきた。 京都が意外にも少ないのだが、それでも少しずつ入ってきた。 ある程度県民性が見えてくる。 大学図書館がなかなか入れてくれないのは不満だ。 地方自治体の図書館に比べると圧倒的に少ない。 落ち着いてきたが図書館だけでもまだ伸びしろがある。 近いうちに300館に達するのに違いない。他の人気の本に比べれば、全然大したことはないのだけど、私にしてみれば大成功だ。 ビジネス新書などは図書館はなかなか入れないが、 逆に文芸書などは入れてもらえやすい傾向はあるようだ。 それで結局どのくらい売れているか、確かなことは出版社に聞けばわかるんだが、 怖くてできない。 私が書いたもののなかではダントツに売れていることは間違いない。 しかし増刷、重版がかかるにはまだ全然足りない。

ハイジのこどもたち

シャルル・トリッテン著「ハイジのこどもたち」を読んでいるのだが、

アルムおじさんの名はトビアス・ハイムというらしい。
なるほど、アルムおじさんの息子の名前はトビアスだから、その父の名もトビアスである可能性は高い。

トビアス・ハイムはオーストリアで傭兵をしていた。
そのときにマルタ・クルーゼという女性と知り合い、二人の男子を産んだ。
トビアス・ハイムとマルタ・クルーゼは二人して財産を使い果たして、離婚した。
そのときトビアス・ハイム、つまりアルムおじさんは長男のトビアスを、マルタは次男を引き取った。
このマルタが引き取ったほうの子はオーストリアの陸軍大佐となり、クルーゼ大佐と呼ばれる。
クルーゼ大佐の妻はマリーという名で、クルーゼ大佐はパリ駐在武官となってパリに住んでいる。
もしかするとマリーはフランス人かもしれない。
クルーゼ大佐とマリーの間には、ジャミー(ジャンヌ-マリー)、マルタという二人の娘がいる。
ジャンヌ-マリー(Jeanne-Marie)は明らかにフランス女性の名である。

一方で、ハイジはペーターと結婚して、トビアス、マルタリという男女の双子を産む。
トビアスの洗礼名はトビアス・ペーター・ナエゲリ、マルタリの洗礼名はマルタ・ブリギダ・ナエゲリ。
これによってペーターの名前は、ペーター・ナエゲリというのであろう、ということがわかる。

ちなみに名前に「リ」をつけるのは「ちゃん」づけするみたいなものらしい。
初期作品集にも出て来たが、マイエリ、ヨハネスリ、マルグリトリ、などなど。
男の子にも女の子にも付ける。
ベルリ、スヴェンリなど羊の名にも付ける。

「ハイジのこどもたち」の前編「それからのハイジ」によれば、
ハイジはローザンヌの北にあるロージアヌというところの学校でジャミーと知り合い、
ハイジはデルフリで学校の教師になるが、
ハイジがペーターと結婚するにあたって教師を辞め、
後任にジャミーを呼び寄せる、ということになっている。
その学友にして大親友のハイジとジャミーが、実はいとこどうしだった、
というのがこの物語のオチになっている。

一番気になるのは、アルムおじさんがオーストリアで傭兵になった、としていることである。
スイス傭兵がオーストリアで傭兵になることは皆無ではなかったらしい。

[Schweizer Truppen in fremden Diensten](https://de.wikipedia.org/wiki/Schweizer_Truppen_in_fremden_Diensten)

しかしこの時期、オーストリアで傭兵になった記録はない。
そもそもスイスはオーストリアから独立してできた国なので、オーストリアやハプスブルク家の傭兵になるというのは、あまり考えにくい。
本文中 p.176 に

> 当時、ナポリはフランス領だったでしょう

というのがあるが、これはおそらく誤訳だろう。
ナポリは当時ナポリ王国とシチリア王国の同君王国で両シチリア王国と言い、スペインのブルボン家の分家だった。
ブルボン家だからフランス領だと言うのならば、今のスペインもフランス領ということになってしまう。
シャルル・トリッテンが書いたフランス語の原文を読む気にはまったくなれないが、もしトリッテンがナポリをフランス領だと書いたとしたらとんでもない間違いだ(ただしナポリがフランス革命軍に占領され、ナポレオンの兄や妹婿がナポリ王になったことがあった。しかし当時まだアルムおじさんは幼すぎる。それにフランス人が国王になろうとナポリ王はナポリ王であって、必ずしもフランス領になるわけではない。同じ理屈で言えば、今のウィンザー朝のイギリスはドイツ領になってしまう)。

ともかく、スイス傭兵といえば、普通はフランスのブルボン家、ナポリのブルボン家、ヴァティカン、
この三つがメジャーであり、いずれも衛兵として常時雇われていた。
アルムおじさんの時代だと、衛兵としてのスイス傭兵は(上記の記事が完全ならば)ナポリかヴァティカンしかない。
さもなくば戦時に一時的に動員された。
第二次イタリア統一戦争(1859年)ではフランスとピエモンテの連合軍に雇われた。

マイエンフェルト駅が出来たのは1858年である。
鉄道が通ったことによって、それまでのプフェファース修道院に附属していた原始的な湯治場が開発されて、鉄道の近くの、ライン川の川岸まで源泉を引いてきて、ラガーツ温泉が出来たのはそんなに古いことではない (どうも 1868年以降のこと らしい)。
ヨハンナ・シュピリがラガーツ温泉に静養に来たのは1878年以降のはずだ。
で、仮に、最初にハイディが出版された1880年にハイディが5歳だとするとアルムおじさんは70歳。
アルムおじさんの生まれ年は1810年ということになる。
傭兵に行くとして1826年(16歳)から1845年(35歳)くらいまでだろう。
この時期ヨーロッパはウィーン体制で比較的平和だった。
だからバティカンかナポリで平時の衛兵として雇われた、と考えるのが一番無難だし、原作にも言及されているようにナポリであった可能性が極めて高い。そしてオーストリアであった可能性はほぼゼロだ(私はアルムおじさんが第二次イタリア戦争に参戦したとして「アルプスの少女デーテ」を書いた。当時50歳だったことになる。かなり無理がある。時代設定をあと20年ほど後ろにずらして、ヨハンナ・シュピリが未来小説を書いたことにしないといけない。逆に10年ほど前倒しにすることは、不可能ではないが、ナポレオン戦争当時、アルムおじさんは傭兵になるには若すぎる。ちなみに1848年にはウィーン体制が崩壊する欧州革命が起きている。多少時代設定を未来にずらせば、この戦争に動員されたと考えてみることもできる)。

マリア・テレジアの時代にオーストリアがスイス傭兵をウィーンで衛兵として雇ったことがあり、Schweizerhof(スイス広場)、Sweizertor (スイス門) などという地名が今も残るそうだ。
その後再びスイス傭兵を雇ったということは、絶対無いとは言い切れないが、かなり弱い。
或いは、この地名に引っ張られて、トリッテンはアルムおじさんがウィーンで傭兵になった、と考えたのではなかろうか。

ウィーンで子供が二人できて一人だけ連れてスイスに帰るというのも、ずいぶん無理がある設定ではなかろうか?

どうでも良い話かもしれないが、アルムおじさんをトビアス1世、アルムおじさんの子でハイディの父をトビアス2世、ハイディの子をトビアス3世、などと呼ぶのはおかしい。
というのは、アルムおじさんの家系をさかのぼって一人もトビアスという人がいないってことが明らかでなくてはならないからだ。
王侯貴族ならば一応家系が残っているから可能だろう。
或いは領主や国王となって以降、王朝成立後、1世、2世と数えるというのも良い。
ローマ教皇は世襲ではないが、まあ1世、2世と数えるのは自然だ。
しかし家系が定かでない民間人をそういうふうに呼ぶのはおかしい。

ところが歴史の浅いアメリカでは民間人でも平気で1世、2世などという。
彼らの祖先の誰かが、ヨーロッパかどこかで、同じ名前だったかもしれない、なんてことはどうでも良いのだろう。
たとえばマイクロソフト創業者のビル・ゲイツはビル・ゲイツ3世(William Henry Gates III)というらしい。
祖父の William Henry Gates I は 1891年から 1969年まで生きたらしい。
では彼の祖先はどこから来たのか?
彼のGates 家の祖先に William Henry という人はいないのか。
どうせ誰も知らないのだ。

堅信礼の贈り物

ヨハンナ・シュピリ処女作出版の経緯についてはこちらの記事に詳しく記されている。

> Johanna Spyri und Bremen: ein Beitrag zu den schweizerisch-hansestädtischen
Literaturbeziehungen und zu den schriftstellerischen Anfängen der “Heidi”-
Autorin

後書きに書いた通り。
ほんとはもっとたくさん書きたかったが、あまりに「後書き」が長すぎてもかっこわるいので、
必要最小限しか書かなかった。
中途半端に書いておくとあとで自分も忘れてしまって困るので整理しておく。
> Autor(en): Richter, Dieter

Dieter Richter はドイツ語学者。

> Zeitschrift: Librarium : Zeitschrift der Schweizerischen Bibliophilen-
Gesellschaft = revue de la Société Suisse des Bibliophiles
Band (Jahr): 31 (1988)
Heft 2

「Liberarium」という、スイス愛書学会(?)から出ている論文誌に載っているらしい。

> Die kleine Schrift kostete in Bremen sechs Grote (30 Pfennig) und wurde im Kolportagevertrieb auch von Pastor Vietor selber verkauft.

その小さな著作は、ブレーメンで6グローテ(30ペニヒ)で売られた。
また、フィエトル牧師は自ら販売した。
Kolportage は行商、Vertrieb は販売。

出典は

Titelblatt-Faksimile bei J.Winkler, a.a.O., 123. Ein Exemplar dieser Auflage befindet sich in der ZB Zürich.

Titleblatt は製本された本の中に挟まれる標題紙。
当時販売された書籍から採られたコピーということ。
ZB Zürich == Zentralbibliothek Zürich はチューリヒ市とチューリヒ大学共同の図書館。
おそらく記事に掲載されているこの画像のことだ。

vietor



> Das Büchlein ist für 6 Grote zu haben in Bremen bei C. Hilgerloh, am Brill No. 19, und bei Pastor C. R. Vietor, Domshof 27. Bestellungen von auswärts werden durch C.Hilgerloh ausgeführt.

「この小さな本はブレーメンのAm Brill 19番地の C. Hilgerloh で、また、Domshof 27番地の C. R. Vietor牧師から、6グローテで手に入る。国外販売は C. Hilgerloh が行う」と書かれている。
つまり、フィエトルは自ら売り歩いたわけではなく、セールスして回ったわけでもなく、出版社の C. Hilgerloh から分けてもらった本を、自分の教会に置いて頒布していた、ということであろう。
Domshof(教会広場) 27番地はまさにその教会(Die Kirche Unser Lieben Frauen)やらブレーメン市庁舎が建ち並ぶ、市の中心地である。
Am Brill 19 というのはその北西へ1kmほど行ったところ。
ブレーメン中心部はかつて川を挟んで[星形要塞](https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bremen_Old_Map.jpg)
の中にあったようだ。

1280px-Bremen-1641-Merian



> Das «Bremer Kirchenblatt» empfiehlt das Büchlein als Konfirmationsgeschenk: «Manche Eltern werden gern in dieser Zeit mit ihren Kindern etwas Geeignetes lesen’.»

Konfirmation 堅信礼 Geschenk プレゼント。

Konfirmation はルター派の用語らしく、英語では Confirmation。
英訳すると、affirmation of baptism、すなわち、
生まれたばかりのときに受けた洗礼を、成年に達してから自らの意志で肯定する儀式。
「堅信礼」より「洗礼肯定」のほうがいくらかはわかりやすいのではなかろうか。
この儀式は通常16歳に行われた。
それまでにゲマインデにおける初等教育は終了する。
上流階級の子らはその後で海外に留学したり、さらなる高等教育を受ける。
そうでない普通の子らは社会に出て働き始める。

「ブレーメン教会新聞」は、この小冊子を堅信礼の贈り物として推薦した。この当時の相当の父母たちが、子供たちと読むのに適したこの本を読むのを好んだ。

出典は

Meta Heusser-Schweizer, Hauschronik, hg. von K. Fehr, Kilchberg 1980, 58.

メタ・ホイッサー・シュヴァイツァー(ヨハンナ・シュピリの母で詩人)の家の歴史、という本らしい。

新撰和歌2

「新撰和歌」みてるとけっこうわけのわからない歌とか、あまり面白くない歌も含まれている。
わけのわからない歌を「古今集」などで確かめてみると、
貫之本人のせいか途中で写した人のせいかは知らないが、間違っているものも多い。

「古今集」に比べれば「新撰和歌」のほうが雑な印象だが、
そりゃまあ、「古今集」はいろんな人がきちんと校正した結果が今日に残っているわけだから、
それにくらべて貫之の私撰集のほうにあらがあるのは仕方がないのかもしれない。

で、「本朝文粋」が藤原明衡によって後冷泉天皇の時代に成立していたのは間違いないことだし、
その中に紀淑望による「古今和歌序」が当初から収められていたのもうたがいようがない。
でおそらくこれはもともと「序」として書かれたのではなくて、後で「本朝文粋」の「序」の章にまとめられたのであろうということがうかがえる。
そして「序」は「詩序」と「和歌序」に分かれており、
「詩序」には一から四がある。
和歌序は

* 古今
* 新撰
* 奉賀村上天皇四十御筭
* 中宮御產百日
* 女一宮御著袴翌日宴
* 左丞相花亭遊宴
* 賀玄宗法師八十之齡
* 讚法華經廿八品
* 春日野遊
* 泛大井河各言所懷
* 泛大井河詠紅葉芦花

となっており、みな漢文である。
歌合の序はもともと仮名で書かれたものもあって、仮名序というものがもともとなかったわけではない。

古今仮名序の初出は「元永本古今和歌集」であり、白河院の頃に源俊頼が作ったと考えてよい。
そしてこの仮名序も、おそらくは俊頼が真名序を適当に和訳したものだ。
俊頼は確かに和歌は優れているが「俊頼髄脳」などみると歌論はさんざんであって、「古今仮名序」の支離滅裂な文章と良く似ている。

それにくらべて古今の真名序は内容はともかくとして、簡潔で理路整然としている。
おかしなことをくどくど書いたり、脱線したりしてない。
貫之の新撰和歌序にしても、まあ内容や簡潔さというものはともかくとして、まっとうな文章であって、俊頼髄脳や古今仮名序のような悪文ではない。
そもそも貫之は「土佐日記」のような見事な名文を書けるひとなわけだから、
それほどの人が「古今仮名序」のような頭のおかしい文章を書くはずがない。

それで私としてはますます古今集仮名序は源俊頼がでっちあげたものであろうという確信を深めた。
古今集仮名序を、貫之が書いた、仮名文の歌論の先駆などとして持ち上げるのは大問題だ。

私としてはさらにすすめて、「竹取物語」や「伊勢物語」も貫之が書いたことを立証したいが、こちらはまだ手つかずだ。
だが文体を「土佐日記」と比較すれば良いだけだから、
貫之著かどうかを突き止めること自体は(要する手間ひまはともかくとして)それほど難しくはないだろう。

それでまあ、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、

> 内侍のかみの右大将ふぢはらの朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた
> 素性
> かすが野に わかなつみつつ よろづ代を いはふ心を 神ぞしるらむ

内侍のかみ、つまり内侍の長官の尚侍は、ここでは藤原満子のこと、その兄の藤原定国が右大将でその四十の賀、という意味。
つまり、新春に若菜を摘んで献上するというのは主君の長寿を祈念する祝賀行事であった。
ここでは素性が藤原定国を祝っている。
単に春の七草を食べれば寿命が延びると信じられていただけではない。
ということは、

> 仁和のみかど、みこにおはしましける時に、人にわかなたまひける御うた
> 君がため 春の野に出でて わかなつむ わが衣手に 雪はふりつつ

これは、光孝天皇が即位する前、時康親王であったときに、父の仁明天皇か兄の文徳天皇に奉った歌ではなかったか。
年下の清和天皇、陽成天皇にささげた歌である可能性は低いだろう。

また、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、『後撰集』読み人知らず

> ふる雪は 消えてもしばし とまらなむ 花ももみぢも 枝になきころ

定家はこれを本歌取りして

> みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

を詠んだのは間違いなかろう。
もちろん「秋の夕暮れ」は清少納言「枕草子」の影響だし、
『源氏物語』第十三帖「明石」

> いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものなるを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに、

の影響も受けているのである。
ただ単に禅的ダダイズムの歌ではなくて、どちらかといえば平安王朝の雰囲気をコラージュした作品であったと言うことができよう。

新撰和歌 巻第四 恋・雑 荓百六十首 (2/2)

> 281 おもふどち まとゐせるよの からにしき たたまくをしき ものにざりける

> 282 人はいさ 我はなき名の をしければ むかしもいまも しらずとをいはむ

> 283 わが身から うき名のかはと ながれつつ 人のためさへ かなしかるらむ

> 284 あまぐもの よそにも人の なりゆくか さすがにめには 見ゆるものから

異本歌、いづくにか世をばいとはむ世中に老をいとはぬ人しなければ

> 285 いづくにか 世をばいとはむ 心こそ 野にも山にも まどふべらなれ

> 286 月夜には こぬ人またる かきくもり あめもふらなむ わびつつもねむ

> 287 おそくいづる 月にもあるかな 足引の 山のあなたも をしむべらなり

> 288 露だにも なからましかば 秋の夜を たれとおきゐて 人をまたまし

> 289 ながれても なほ世の中を みよしのの 滝の白玉 いかでひろはむ

> 290 いまはとて かれなむ人を いかがせむ あかずちりぬる 花とこそ見め

> 291 ひかりなき たにには春も よそなれば さきてとくちる もの思ひもなし

> 292 色見えで うつろふ物は 世のなかの 人の心の 花にぞ有りける

> 293 あまのすむ さとのしるべに あらなくに うら見むとのみ 人のいふらむ

> 294 いろもなき 心を人に そめしかば うつろはむとは おもはざりしを

> 295 ふる里は みしごともあらず をののえの くちしところぞ こひしかりける

> 296 ありそ海の はまのまさごと たのめしは わするることの かずにぞ有りける

> 297 すみよしの きしのひめ松 ひとならば いく代かへしと とはましものを

> 298 ゆきかへり ちどりなくなり はまゆふの 心へだてて おもふものかは

> 299 すみよしと あまはいふとも ながゐすな 人わすれぐさ おふといふなり

> 300 おもひつつ ぬればや人の 見えつらむ 夢としりせば さめざらましを

> 301 もののふの やそうぢ川の あじろぎに ただよふなみの ゆくへしらずも

> 302 わすらるる 身を宇治ばしの 中たえて こなたかなたに 人もかよはず

> 303 いまぞしる くるしきものと 人またむ さとをばかれず とふべかりけり

> 304 わすれ草 なにをかたねと おもひしを つれなき人の 心なりけり

> 305 おほあらきの もりのしたくさ おいぬれば こまもすさめず かる人もなし

> 306 あきの田の いねといふとも かけなくに ををしとなどか 人のいふらむ

> 307 うつせみの よにしもすまじ 霞たつ みやまのかげに 夜はつくしてむ

> 308 いそのかみ ふる野の道も こひしきを しみづくみには まづもかへらむ

> 309 神無月 しぐれふりおける ならのはの なにおふみやの ふることぞこれ

> 310 またばなほ よりつかねども 玉のをの たえてたえては くるしかりけり

> 311 ながれくる たきのしら玉 よわからし ぬけどみだれて おつる白玉

> 312 世の中に たえていつはり なかりせば たのみぬべくも 見ゆるたまづさ

> 313 たがために ひきてさらせる いとなれば 夜をへてみれど しる人もなき

> 314 いまさらに とふべき人も おもほえず やへむぐらして かどさせりいはむ

> 315 わくらばに とふ人あらば すまのうらに もしほたれつつ わぶとこたへよ

> 316 我が宿は みわのやまもと 恋しくは とぶらひきませ すぎたてるかど

> 317 うれしきを なににつつまむ から衣 たもとゆたかに たたましものを

> 318 秋くれば 野にも山にも ひとくだつ たつとぬるとや 人の恋しき

> 319 わがせこめ きませりけりな うくやどの 草もなびけり 露もおちたり

> 320 おくしもに ねさへかれにし 玉かづら いつくらむとか われはたのまむ

> 321 山のはに いさよふ月を とどめおきて いくよみばかは あく時のあらむ

> 322 我がやどの 一むらすすき かりかはむ きみがてなれの こまもこぬかな

> 323 あさなけに 世のうきことを しのぶとて ながめしままに としをへにける

> 324 あはれてふ ことにしるしは なけれども いはではえこそ あらぬものなれ

> 325 世の中は うけくにあきの おく山の この葉にふれる 雪やけなまし

> 326 あさぢふの をののしのはら しのぶとも 人しるらめや いふひとなしに

> 327 やまびこの おとづれじとぞ 今は思ふ われかひとかと たどらるる世に

> 328 わびはつる ときさへものの かなしきは いづれをしのぶ 心なるらむ

> 329 みはすてつ こころをだにも はふらさじ つひにはいかが なるとしるべく

> 330 伊勢のうみの あまのたくなは うちはへて くるしとのみや おもひわたらむ

> 331 かくしつつ よをやつくさむ 高砂の をのへにたてる まつならなくに

> 332 おもふとも こふともあはむ ものなれや ゆふてもたゆく とくるしたひも

> 333 あはれてふ ことのはごとに おく露は むかしをこふる なみだなりけり

> 334 思ひやる こころやゆきて 人しれず きみがしたひも ときわたるらむ

> 335 ありはてぬ いのちまつまの ほどばかり うきことしげく おもはずもがな

> 336 あひ見ぬも うきもわが身の から衣 思ひしらずも とくるひもかな

> 337 われしなば なげけまつ虫 うつ蝉の 世にへしときの ともとしのばむ

> 338 おもひいづる ときはの山の いはつつじ いはねばこそあれ こひしきものを

> 339 わすられむ ときしのべとぞ 浜ち鳥 ゆくへもしらぬ あとをとどむる

> 340 みちしらば つみにもゆかむ すみの江の きしにおふといふ 恋わすれ草

> 341 ほのぼのと あかしのうらの 朝ぎりに 島がくれゆく 船をしぞ思ふ

> 342 いはのうへに たてる小松の 名ををしみ ことにはいはず こひこそわたれ

> 343 あふさかの あらしのかぜの さむければ ゆくへもしらず わびつつぞゆく

> 344 あはれてふ ことこそうけれ 世の中に おもひはなれぬ ほだしなりけり

> 345 足引の 山のあなたに いへもがな 世のうきときの かくれがにせむ

> 346 こひこひて まくらさだめむ かたもなし いかにねし夜か 夢にみえけむ

> 347 みやこ人 いかがととはば やまたかみ はれぬ思ひに わぶとこたへよ

> 348 つつめども 袖にたまらぬ 白玉は 人を見ぬ目の なみだなりけり

> 349 ぬしやたれ とへどしら玉 いはなくに さらばなべてや あはれとおもはむ

> 350 こひしきも こころよりある ことなれば われよりほかに つらき人なし

> 351 あまのかる もにすむ虫の われからと ねをこそなかめ よをばうらみじ

> 352 ちはやぶる かものやしろの ゆふだすき ととひもきみを かけぬひぞなき

> 353 いまこそあれ われもむかしは をとこ山 さかゆくときも ありこしものを

> 354 ひさしくも なりにけるかな 住の江の 松はちとせの ものにぞ有りける

> 355 かぜのうへに ありかさだめぬ ちりのみは ゆくへもしらず なりぬべらなり

> 356 こひせじと みたらし川に せしみそぎ 神はうけずも なりにけるかな

> 357 若菜つむ かすがの野べは なになれや 吉のの山に まだゆきのふる

> 358 みわの山 いかにまちみむ としふとも たづぬる人も あらじと思へば

> 359 いく代へし いそべの松ぞ むかしより 立ちよるなみや かずをしるらむ

> 360 しら玉か なにぞと人の とひしより 露とこたへて きえなましものを

> 361 ながれては いもせのやまの なかにおつる よし野の滝の よしや世の中

紀淑望

古今251 「秋の歌合しける時によめる」または新撰和歌12。

> 紅葉せぬ ときはの山は ふくかぜの おとにや秋を ききわたるらむ

和漢朗詠集巻頭。

> 逐吹潛開、不待芳菲之候。
> 迎春乍変、将希雨露之恩。
> 内宴進花賦

五言でも七言でもない。なんだこれは。

> 吹(かぜ)を逐(お)ひて潛かに開く、芳菲の候を待たず。
> 春を迎へて乍(たちまち)に変ず、まさに雨露の恩を希はむとす。

芳菲は草花の香り。

新古今1866「猿田彦」

> ひさかたの あめのやへぐも ふりわけて くだりし君を われぞむかへし

これも謎の歌だな。

これで紀淑望の知られている歌や詩は全部かな?

古今集真名序

> 夫和歌者、託其根於心地、發其華於詞林者也。
人之在世、不能無為、思慮易遷、哀樂相變。感生於志、詠形於言。是以逸者其聲樂、怨者其吟悲。可以述懷、可以發憤。
動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌。
和歌有六義。一曰「風」、二曰「賦」、三曰「比」、四曰「興」、五曰「雅」、六曰「頌」。
若夫春鶯之囀花中、秋蟬之吟樹上、雖無曲折、各發歌謠。物皆有之、自然之理也。
然而神世七代、時質人淳、情欲無分、和歌未作。
逮于素戔烏尊、到出雲國、始有三十一字之詠。今反歌之作也。其後雖天神之孫、海童之女、莫不以和歌通情者。
爰及人代、此風大興、長歌短歌旋頭混本之類、雜體非一、源流漸繁。譬猶擴雲之樹、生自寸苗之煙、浮天之波、起於一滴之露。
至如難波津之什獻天皇、富緒川之篇報太子、或事關神異、或興入幽玄。但見上古歌、多存古質之語、未為耳目之翫、徒為教戒之端。
古天子、每良辰美景、詔侍臣預宴莚者獻和歌。君臣之情、由斯可見、賢愚之性、於是相分。所以隨民之欲、擇士之才也。
自大津皇子之初作詩賦、詞人才子慕風繼塵、移彼漢家之字、化我日域之俗。民業一改、和歌漸衰。
然猶有先師柿本大夫者、高振神妙之思、獨步古今之間。有山部赤人者、並和歌仙也。其餘業和歌者、綿綿不絕。
及彼時變澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艷流泉涌、其實皆落、其華孤榮、
至有好色之家、以此為花鳥之使、乞食之客、以此為活計之謀。故半為婦人之右、難進大夫之前。
近代、在古風者、纔二三人。然長短不同、論以可辨。
華山僧正、尤得歌體。然其詞華而少實。如圖畫好女、徒動人情。
在原中將之歌、其情有餘、其詞不足。如萎花雖少彩色、而有薰香。
文琳巧詠物。然其體近俗。如賈人之著鮮衣。
宇治山僧喜撰、其詞華麗、而首尾停滯。如望秋月遇曉雲。
小野小町之歌、古衣通姬之流也。然艷而無氣力。如病婦之著花粉。
大友黑主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而體甚鄙。如田夫之息花前也。
此外、氏姓流聞者、不可勝數。其大底皆以艷為基、不知和歌之趣者也。
俗人爭事榮利、不用詠和歌。悲哉悲哉。雖貴兼相將、富餘金錢、而骨未腐於土中、名先滅世上。
適為後世被知者、唯和歌之人而已。何者、語近人耳、義慣神明也。
昔平城天子、詔侍臣令撰万葉集。自爾來、時歷十代、數過百年。
其後、和歌棄不被採。雖風流如野宰相、輕情如在納言、而皆以他才聞、不以斯道顯。
陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、惠茂筑波山之陰。淵變為瀨之聲、寂寂閉口、砂長為巖之頌、洋洋滿耳。思繼既絕之風、欲興久廢之道。
爰詔大內記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河內躬恒、右衛門府生壬生忠岑等、
各獻家集并古來舊歌、曰「續万葉集」。於是重有詔、部類所奉之歌、敕為二十卷、名曰「古今和歌集」。
臣等、詞少春花之艷、名竊秋夜之長。況哉、進恐時俗之嘲、退慚才藝之拙。適遇和歌之中興、以樂吾道之再昌。
嗟乎、人丸既沒、和歌不在斯哉。
于時、延喜五年歲次乙丑 四月十五日、臣貫之等 謹序。

新撰和歌 巻第四 恋・雑 荓百六十首 (1/2)

> 202 しのぶれば くるしきものを 人しれず 思ふてふこと たれにかたらむ

古今519。題知らず、読み人知らず。

> 203 人しれず おもふこころは 春がすみ たちいでてきみが めにも見えなむ

古今999 「寛平御時歌たてまつりけるついてにたてまつりける」
藤原勝臣

> 204 久かたの あまつそらにも あらなくに 人はよそにぞ おもふべらなる

古今751。題しらず、在原元方。「あらなくに」→「すまなくに」

> 205 たれをかも しるひとにせむ たかさごの まつもむかしの ともならなくに

古今909。題しらず、藤原興風

> 206 おとにのみ きくのしらつゆ 夜はおきて ひるはおもひに けぬべきものを

古今470。題しらず、素性、「けぬべきものを」→「あへずけぬべし」

> 207 わがうへに つゆぞおくなる あまのがは とわたるふねの かいのしづくに

古今863。題しらず、読み人しらず。「かいのしづくに」→「かいのしづくか」

> 208 よし野がは いはなみたかく 行くみづの はやくぞ人を おもひそめてし

古今471。題知らず、貫之。

> 209 世のなかに ふりぬるものは 津のくにの ながらのはしと 我となりけり

古今890。題知らず、読み人知らず。

> 210 足引の 山したみづの うづもれて たぎつこころを せきぞかねつる

古今491。題知らず、読み人知らず。

> 211 ぬきみだす 人こそあるらし したひもの またくもあるか そでのせばきに

古今923。「布引の滝の本にて人人あつまりて歌よみける時によめる」業平。
「ぬきみだす」→「ぬきみだる」、「したひもの」→「しらたまの」、「またくもあるか」→「まなくもちるか」。
古今和歌六帖1711、「またくもあるか」→「まなくもふるか」、または3192「ぬきみだす」→「ぬきとむる」。
業平集59、古今と同じ。
伊勢物語87、「・・・そこなる人にみな滝の歌よます。かの衛府の督まづよむ。わが世をばけふかあすかと待つかひのなみだの滝といづれ高けむ。あるじ次によむ。ぬき乱る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに、とよめりければ、かたへの人笑ふことにやありけむ、この歌にめでてやみにけり。」

> 212 ほととぎす なくやさ月の あやめぐさ あやめもしらぬ こひもするかな

古今469。題知らず、読み人知らず。

> 213 たがみそぎ ゆふつけ鳥か から衣 たつたのやまに おりはへてなく

古今995。題知らず、読み人知らず。

> 214 津の国の むろのはやわせ ひてずとも つなをばやはく ものとしるべく

古今和歌六帖2606「きのくにの むろのはやわせ いでずとも しめをばはへよ もるとしるがね」

わかりにくい。「ひでず」は「ひいでず(秀で、穂出の転)」、早稲田に穂が出る前にしめ縄を張ってしまおう、見張っているとわかるように、の意味か。

> 215 なにはがた しほみちくれば あまごろも たみののしまに たづなきわたる

古今913。題知らず、読み人知らず。「しほみちくれば」→「しほみちくらし」。

「雨衣」は「田蓑」にかかる。田蓑の島は淀川河口付近にあった島。

赤人「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして たづ鳴き渡る」の変形か?

> 216 夕されば くものはたてに 物ぞ思ふ あまつそらなる 人をこふとて

古今484。題知らず、読み人知らず。

> 217 あまつ風 雲のかよひぢ ふきとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ

> 218 たちかへり あはれとぞ思ふ よそにても 人にこころを おきつ白波

> 219 こきちらし たきのしら玉 ひろひおきて 世のうきときの なみだにぞかる

> 220 川の瀬に なびくたまもの みがくれて 人にしられぬ こひもするかな

> 221 いくばくも あらじうき身を なぞもかく あまのかるもに おもひみだるる

> 222 すみの江の なみにはあらねど よとともに こころをきみが よせわたるかな

> 223 わたのはら よせくるなみの たちかへり 見まくもほしき たまつしまかな

> 224 あさきせぞ なみはたつらむ よしの河 ふかきこころを 君はしらずや

> 225 わたつうみの かざしにさせる しろたへの なみもてゆへる あはぢしまかな

> 226 こころがへ するものにもが かたこひは くるしきものと 人にしらせむ

> 227 みな人は こころごころに あるものを おしひたすらに ぬるるそでかな

> 228 みちのくの あさかのぬまの はなかつみ かつ見る人を こひやわたらむ

> 229 かつ見れど うとましきかな 月かげの いたらぬさとの あらじと思へば

> 230 我が恋は むなしきとこに みちぬらし おもひやれども ゆくかたもなし

> 231 ふたつなき ものとおもひしを みなそこに やまのはならで いづる月かげ

> 232 なぬかゆく はまのまさごと わが恋と いづれまされり おきつしら波

> 233 われ見ても ひさしくなりぬ すみよしの きしの姫松 いくよへぬらむ

> 234 わたつうみの そこのこころは しらねども 人を見るめは からむとぞ思ふ

> 235 おもひきや ひなのわかれに おとろへて あまのはまゆふ いさりせむとは

> 236 つれなきを いまはこひじと おもへども こころよわくも おつるなみだか

> 237 世の中の うきもつらきも つげなくに まづしるものは なみだなりけり

> 238 わがこひを しのびかねては あしひきの 山たちばなの いろに出でぬべし

> 239 いろなしと 人や見るらむ むかしより ふかきこころに そめてしものを

> 240 おきもせず ねもせで夜を あかしては はるのものとて ながめくらしつ

> 241 なよたけの よのうきうへに 初しもの おきゐてものを おもふころかな

> 242 あはれてふ ことだになくは なにをかも こひのみだれの つかねをにせむ

> 243 世の中は むかしよりやは うかりけむ わが身ひとつの ためになれるか

> 244 わがこひは 人しるらめや しきたへの まくらばかりぞ しらばしるらむ

> 245 たまぼこの みちにはつねに まどはなむ 人をとふとも われとおもはむ

> 246 こひしきに いのちをかふる ものならば しにはやすくぞ あるべかりける

> 247 わびぬれば 身をうきくさの ねをたえて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ

> 248 こむ夜にも はやなりぬらむ めのまへに つれなき人を むかしとおもはむ

> 249 しかりとて そむかれなくに 今年あれば まづなげかるる あはれ世の中

> 250 あしがもの さわぐいりえの しらなみの しらずや人を かくこひむとは

> 251 わたつうみの おきつしほあひに うかぶあわの きえぬものから よるかたもなし

> 252 そこひなき ふちやはさわぐ 山川の あさきせにこそ うはなみはたて

> 253 山ざとは ものさびしかる ことこそあれ 世のうきよりは すみよかりけり

『和漢朗詠集』にも出る。古今944 山里は物の憀慄(わびし)き事こそあれ世のうきよりはすみよかりけり。

> 254 木のまより かげのみ見ゆる 月くさの うつし心は そめてしものを

> 255 かりのくる みねのあさ霧 はれずのみ 思ひつきせぬ 世のなかのうさ

> 256 ゆふされば やどにふすぶる かやり火の いつまでわが身 したもえにせむ

> 257 わがこころ なぐさめかねつ さらしなや をばすて山に てる月を見て

> 258 君といへば 見まれまずまれ ふじのねの めづらしげなく もゆる我がこひ

> 259 風ふけば おきつしら波 たつた山 夜半にや君が ひとりゆくらむ

> 260 あやなくて またなきなみの たつた川 わたらでやまむ ものならなくに

> 261 あまの川 雲のみをにて はやければ ひかりとどめず 月ぞながるる

> 262 つなでひく ひびきのなだの なのりその なのりそめても あはでやまめや

> 263 みやこにて ひびききこゆる からことは なみのをすげて かぜぞひきける

> 264 逢ふことの なぎさにしきる なみなれば うらみてのみぞ 立ちかへりける

> 265 あかずして 月のかくるる やま里は あなたおもてぞ こひしかりける

> 266 人しれぬ おもひのみこそ わびしけれ わがなげきをば われのみぞしる

> 267 あかなくに まだきも月の かくるるか 山のはにげて いれずもあらなむ

> 268 いそのかみ ふるともあめに さはらめや あはむといもに いひてしものを

> 269 おもふより いかにせよとか あきかぜに なびくあさぢの いろことになる

> 270 あなこひし いまも見てしか 山がつの かきほにおふる やまとなでしこ

> 271 あれにけり あはれいくよの やどなれや すみけむ人の おとづれもせず

> 272 むらどりの たちにしわが名 今さらに ことなしぶとも しるしあらめや

> 273 あしたづの たてる河辺を ふくかぜに よせてかへらぬ なみかとぞ見る

> 274 人しれず やみなましかば わびつつも なき名ぞとだに いはましものを

> 275 いにしへの 野なかのしみづ ぬるければ もとのこころを しる人ぞくむ

> 276 人しれず ものをおもへば 秋の田の いなばのそよと いふ人もなし

> 277 なにはがた おのがたもとを かりそめの あまとぞわれは なりぬべらなる

> 278 それをだに おもふこととて 我が宿を 見きとないひそ 人のきかくに

> 279 ここにして わがよはへなむ すがはらや ふしみの里の あれまくもをし

> 280 しほみてば いりぬるいその くさなれや 見る日すくなく こふらくおほし

新撰和歌 巻第三 別・旅 荓二十首

> 181 たちかへり 稲葉の山の みねにおふる まつとしきかば 今かへりこむ

古今365、題知らず、行平

> 182 あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさの山に いでし月かも

古今406、「もろこしにて月を見てよみける」「この歌は、むかしなかまろをもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへてえかへりまうてこさりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたくひてまうてきなむとていてたちけるに、めいしうといふ所のうみへにてかのくにの人むまのはなむけしけり、よるになりて月のいとおもしろくさしいてたりけるを見てよめるとなむかたりつたふる」安倍仲麿

> 183 おとは山 こだかくなきて 郭公 きみがよはひを をしむべらなり

古今384「おとはの山のほとりにて人をわかるとてよめる」貫之

> 184 ゆふづくよ おぼつかなきを たまくしげ ふたみのうらは あけてこそ見め

古今419「たじまのくにのゆへまかりける時に、ふたみのうらといふ所にとまりてゆふさりのかれいひたうべけるに、ともにありける人人のうたよみけるついてによめる」藤原兼輔

> 185 人やりの みちならなくに おほかたは いきうしといひて いざとまりなむ

古今388「山さきより神なひのもりまておくりに人人まかりて、かへりかてにしてわかれをしみけるによめる」源さね

> 186 わたのはら やそしまかけて こぎ出でぬと 人にはつげよ あまのつり舟

古今407「おきのくにになかされける時に舟にのりていてたつとて、京なる人のもとにつかはしける」小野篁

> 187 かつこえて わかれもゆくか あふ坂は 人だのめなる 名にこそ有りけれ

古今390「藤原のこれをかがむさしのすけにまかりける時に、おくりにあふさかをこゆとてよみける」貫之

> 188 都いでて けふみかのはら いづみがは 川かぜさむし ころもかせやま

古今408、題知らず、読み人知らず。

> 189 ゆふぐれの まがきはやまと みえななむ 夜はこえじと やどりとるべく

古今392「人の花山にまうてきて、ゆふさりつかたかへりなむとしける時によめる」遍昭。

> 190 かりくらし たなばたつめに やどからむ あまのかはせに 我はきにけり

古今418「これたかのみこのともにかりにまかりける時に、あまの河といふ所の河のほとりにおりゐてさけなどのみけるついでに、みこのいひけらく、かりしてあまのかはらにいたるといふ心をよみてさかづきはさせといひければよめる」業平

> 191 わかれをば やまのさくらに まかせてむ とめむとめじは 花のまにまに

古今393「山にのぼりてかへりまうできて、人人わかれけるついでによめる」幽仙法師

> 192 このたびは ぬさもとりあへず たむけ山 紅葉のにしき かみのまにまに

古今420「朱雀院のならにおはしましたりける時にたむけ山にてよみける」菅原道真

> 193 あかずして わかるるなみだ たきつせに いろまさるやと しもぞふるらむ

古今396「仁和のみかどみこにおはしましける時に、ふるのたき御覧じにおはしましてかへりたまひけるによめる」兼芸法師

> 194 名にしおはば いざこととはむ みやこ鳥 我が思ふ人は ありやなしやと

古今411「むさしのくにとしもつふさのくにとの中にあるすみだ河のほとりにいたりてみやこのいとこひしうおぼえければ、しばし河のほとりにおりゐて、思ひやればかぎりなくとほくもきにけるかなと思ひわびてながめをるに、わたしもりはや舟にのれ日くれぬといひければ舟にのりてわたらむとするに、みな人ものわびしくて京におもふ人なくしもあらず、さるをりにしろきとりのはしとあしとあかき河のほとりにあそびけり、京には見えぬとりなりければみな人見しらず、わたしもりにこれはなにどりぞととひければ、これなむみやこどりといひけるをききてよめる」業平

> 195 わかるれど うれしくもあるかな 今夜より あひ見ぬさきに なにを恋ひまし

古今399「かねみのおほきみにはしめて物かたりして、わかれける時によめる」躬恒

> 196 夜をさむみ おくはつしもを はらひつつ くさの枕に あまたたびねぬ

古今416「かひのくにへまかりける時みちにてよめる」躬恒

> 197 むすぶ手の しづくににごる やまの井の あかでも人に わかれぬるかな

古今404「しがの山ごえにて、いしゐのもとにてものいひける人のわかれけるをりによめる」貫之。
拾遺1228「しがの山ごえにて、女の山の井にてあらひむすびてのむを見て」

「あかでも」は閼伽?

> 198 から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

古今410「あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはのくにやつはしといふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふいつもじをくのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる」業平

> 199 いのちだに こころにかなふ 物ならば なにかわかれの かなしからまし

古今387「源のさねかつくしへゆあみむとてまかりけるに、山さきにてわかれをしみける所にてよめる」しろめ

> 200 したおびの みちはかたがた わかるとも ゆきめぐりても あはむとぞ思ふ

古今405「みちにあへりける人のくるまにものをいひつきて、わかれける所にてよめる」友則

> 201 きたへゆく かりぞなくなる むれてこし かずはたらでぞ かへりつらなる

古今412「ある人、をとこ女もろともに人のくにへまかりけり、をとこまかりいたりてすなはち身まかりにければ、女ひとり京へかへりけるみちにかへるかりのなきけるをききてよめる」読み人知らず

「かへりつらなる」→「かへるべらなる」

新撰和歌 巻第三 賀・哀 荓二十首

> 161 わが君は 千代にましませ さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで

> 162 なくなみだ 雨とふらなむ わたり川 みづまさりなば かへりくるがに

> 163 わたつ海の はまのまさごを かぞへつつ 君がいのちの ありかずにせむ

> 164 ちのなみだ おちてぞたぎつ しら川は 君が代までの 名にこそありけれ

> 165 しほのやま さしでのいそに すむ千鳥 君が御代をば や千代とぞなく

> 166 うつせみの からを見つつも なぐさめつ ふかくさのやま けぶりだにたて

古今831 僧都勝延(ほりかはのおほきおほいまうち君身まかりにける時に、深草の山にをさめてけるのちによみける、空蝉はからを見つつもなぐさめつ深草の山煙だにたて)。

> 167 かめのをの 山のいはねを とめておつる たきのしらたま 世世のかずかも

> 168 ねても見ゆ ねでもみえけり おほかたは うつせみのよぞ ゆめにはありける

> 169 いにしへに ありきあらずは しらねども ちとせのためし きみにはじめむ

> 170 あすしらぬ わが身なれども くれぬまも けふは人こそ こひしかりけれ

> 171 ふしておもひ おきてかぞふる よろづ代を 神ぞしるらむ 我が君のため

> 172 花よりも 人こそあだに なりにけれ いづれをさきに こひむとか見し

> 173 わすれがたき よはひをのぶと きくの花 けさこそ露の おきてをりつれ

> 174 なき人の やどにかよはば 郭公 かくてねにのみ なくとつげなむ

> 175 かすが野に わかなつみつつ よろづ代を いはふ心を 神ぞしるらむ

> 176 かずかずに われをわすれぬ ものならば 山のかすみを あはれとは見よ

> 177 君がため おもふ心の 色にいでて 松のみどりを をりてけるかな

> 178 露をなど はかなきものとおもひけむ 我が身もくさに おかぬばかりを

> 179 見えわたる はるのまさごや あしたづの ちとせをのぶる かずとなるらむ

> 180 さきだたぬ くいのやちたび かなしきは ながるるみづの かへりこぬなり

新撰和歌 巻第一 荓序

> 玄番頭従五位上 紀朝臣貫之上

> 昔延喜御宇、属世之無為、因人之有慶、令撰萬葉集外、古今和歌一千篇。
更降勅命、抽其勝矣。
伝勅者執金吾藤納言、奉詔者草莽臣紀貫之 云云。
未及抽撰、分憂赴任、政務餘景、漸以撰定。
抑夫上代之篇、義尤幽而文猶質、下流之作、文偏巧而義漸疎。
故抽下始自弘仁、至于延長、詞人之作、花實相兼而已、今之所撰、玄之又玄也。
非唯春霞秋月、潤艷流於言泉、花色鳥聲、鮮浮藻於詞露、皆是以動天地感神祇、厚人倫成孝敬、上以風化下、下以諷刺上、雖誠假名於綺靡之下、然復取義於教戒之中者也。
爰以春篇配秋篇、以夏什敵冬什。
各各相鬪文、両両雙書焉、慶賀哀傷、離別羈旅、戀歌雜歌之流、各又對偶、惣三百六十首、分爲四軸、蓋取三百六十日、關於四時耳。
貫之秩罷歸日、將以上獻之、橋山晚松、秋雲之影已結、湘濱秋竹、悲風之聲忽幽。
傳勅納言亦已薨去。
空貯妙辭於箱中、獨屑落淚于襟上。
若貫之逝去、歌亦散逸、恨使絶艷之草、復混鄙野之篇。
故聊記本源、以傳来代云爾。

「始自弘仁、至于延長」

弘仁(810 – 824)、嵯峨・淳和天皇の時代。
延長(923 – 931)、醍醐・朱雀天皇の時代。

以下は他人による註釈か?

> 中納言兼右衛門督藤兼輔 承平三二十八薨五十七

中納言兼右衛門督 藤原兼輔 承平三(933)年二月十八日薨去、五十七歳。

> 醍醐帝 延長八九十九崩四十六

醍醐天皇、延長八(930)年九月十九日崩御、四十六歳。

紀貫之、承平五(935)年、土佐より帰洛。
天慶三(940)年、玄蕃頭。
天慶六(943)年、従五位上。
天慶八(945)年、木工権頭。
ということはこの序は943年から945年までの間に書かれたことになる。

> 黄帝崩葬橋山

黄帝、崩じて、橋山に葬る。『史記』「五帝本紀 黄帝」に見える。
「序」中に出る「橋山」の解説か?

> 舜崩蒼橋之野於江南九疑是為零陵

これも『史記』「五帝本紀 舜帝」に見える。
正確には「崩於蒼梧之野。葬於江南九疑。是為零陵。」