昔から、なぜ川越のような、開けたところに、太田道灌が城をわざわざ築いたのか、
北条市と上杉氏の間で熾烈な攻城戦が行われたか、不思議だった。
そのような争奪戦の地となるにはここが何らかの要衝の地でなくてはなるまい。
今はただ、新河岸川という細流が川越市街を取り巻き、さらにそのずっと外側を入間川が流れているにすぎない。
いろいろ考えてみるに、これはかなり難しくも面白い問題だ。
まず、かつて、利根川は武蔵国と下総国の国境になっていたということ。
両国橋が武蔵国と下総国の国境に架けられたことでもわかるように、かつて、利根川の河口は隅田川にあった。
渡良瀬川はそのさらに東の、今の江戸川沿いにあった。
利根川は、隅田川河口から北東の方角へ、今の水元公園の西側をかすめるようにして、綾瀬川或いは中川沿いに北上する。
どんどん北上して今の栗橋、つまり渡瀬遊水池の南側で、現在の利根川の水路に達する。
これがかつての国境で、利根川の水路だったわけだ。
で、今も渡瀬遊水池は埼玉、栃木、群馬、茨城、千葉の県境になっているのだが、
ここをかつて利根川が通っていたのはまあ間違いなく、
おそらくは広大な低湿地帯だったと思われる。
それから問題は荒川と利根川の関係なのだが、
今の越谷・行田・羽生市辺りから、利根川の水が、荒川へも流れ込んでいたのを、
次第しだいに川道をせき止めて分流するようにした。
それ以前は荒川と利根川の川筋はこの辺でぐちゃぐちゃに合流し、分流していた。
その勢いで荒川が南流して川越辺りで入間川に合流する。
川越は、南側だけが比較的乾燥した武蔵野の台地であり、西北東側は、広大な湿地帯だったに違いない。
つまり、川越というのは、荒川氾濫原へ北側に突出した半島のようなところに作られた出城だったのだ。
少なくとも、太田道灌が築城(1457)し、北条氏綱が上杉連合軍を川越で破った(1546)時代はそんな地形だった。
もっとマクロに見るならば、武蔵野台地という乾燥した地帯と、利根川水系の低湿地帯との境界に、川越は位置していて、
川越は武蔵野の北端にあたる。
川越から南に狭山、入間、所沢、小平、国分寺、府中で多摩川に至るまでが、典型的な武蔵野である。
また、今の川越街道よりも南、つまり、練馬、杉並、世田谷なども武蔵野のうちに入る。
川越街道が、武蔵野と利根水系の境界になっているわけだ。
太田道灌がほぼ同時期に川越と江戸に城を築いた。
川越街道途中の赤塚にも築いた。つまり、川越街道というのは扇谷上杉氏が、山内上杉氏に対して作った防衛戦だった。
山内上杉氏は古河公方とともに下総国古河城に居て、扇谷上杉氏は鎌倉に居た。
古河城というのは前述の、武蔵・下総・上野・下野・常陸五国の国境になっていた、渡瀬遊水池付近であって、
おそらくは水郷の中に作られた梁山泊のような城だったのだろう。
渡瀬遊水池は、今の足尾銅山の鉱毒のために、あのように無駄に広いのではあるまい。
治水のために、つまり利根川があふれたときのバッファとして作られているのだ。
ということは中世にはそうとう広大な荒れ地であったろう。
江戸城と赤塚城も、川越城と同様に、荒川氾濫原に台地が突出したところにあるわけだ。
このように、太田道灌の築城には、共通性が見られる。