イラン人とラクダ

イラン人ないしアーリア人が出現した時代、その伝播に要した時間、地理的分布、及びその習俗を考えるに、彼らは、これは大胆な仮説であるが、
中央アジア原産のフタコブラクダを家畜化することによって、子孫を繁栄させ、広く伝播した種族ではなかろうか。
フタコブラクダは、シリアで家畜化されたヒトコブラクダとは違い、特に寒冷で乾燥した高山地帯に強い。
その原産地はおそらく、天山山脈からパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈にかけてだろう。

ある種族が膨張伝播する要因には、青銅器、鉄器などの技術革新と、馬や羊などの有用動物の家畜化、
麦や米などの有用植物の栽培、などがある。
必ず何かの要因があるはずだ。
イラン人にとってそれはラクダだったのではないか。

トルコ人やモンゴル人のような騎馬民族は、戦争と統治によって、ある時期に急速に膨張するという傾向がある。
しかしイラン人はラクダを移動・運搬手段として、隊商を組んで、交易によって、徐々に中央アジアから四方へと、広がって行ったのではないか。
ただし、暑熱湿潤なパンジャーブ地方に入ったアーリア人たちだけは、その地に適さないラクダを放棄したのだ。
この仮説が正しいとすれば、そのステレオタイプな戦闘的イメージとは違い、イラン人は本来、どちらかと言えば友好的で、穏和な種族なのに違いない。

イランもの

この際、初の長編に挑戦しようと思い、結局セルジュークトルコを題材にした歴史物を書く事にした。
きわめて順調。
できるだけ長くしたい。できれば400枚。
舞台の中心はメルヴ。世界遺産だ罠。
トルクメニスタンだよ。マイナーだよなあ。
敢えてベリーダンサーは出さない予定。

パルティア

パルティア (Parthia) は、ペルシャ (Persia) と同語源であり、現在のファールス (Fars) 州のことだと思っていたのだが、
どうも違うようだ。
ファールス州というのはアケメネス朝とサーサーン朝の故地であり、
Fars == Persia であり、
時間軸で言うと、セレウコス朝シリアとサーサーン朝ペルシャの間にパルティア、つまり、アルサケス(アルシャク)朝パルティアがある。
アルサケスはギリシャ語のアルタクセルクセスに相当するらしい。初めて知った。
インド国内のゾロアスター教徒 Parsi も Fars と同語源。

パルティアは、トルクメニスタン、というかホラサーン北西部を故地とするのであるが、イラン人の王朝にしては、あまりにも外れにある。
パルティアの語源はイラン語の地名 Parthava であると言う。
パルティア初代王は、イラン系の古代スキタイ人だと言うが、
はて、スキタイ人はトルコ系ではなかろうか。イラン人がそんなに北に居るだろうか。わからん。
アーリア人の故地は、そんな北ではなくて、アフガニスタン辺りではなかろうか。
そこから東へ行ったのがインドのアーリア人で、イランのファールスへ行ったのがイラン人。
アフガニスタンに残留したのが、パシュトーン人。そんな感じではなかろうかと思うのだが。
印欧祖語の故地がどこかまではまるでわからん。

ていうか、パルティアは、バクトリアの次に来る王朝だから、王族はギリシャ人だった可能性の方が高くなかろうか。
その方がすっきりする。
「アルサケス朝ペルシャ」と言う言い方は間違いなのだろう。実に紛らわしい。

ついでに現在のトルクメニスタン共和国の首都のアシガバードは「アルサケスの町」という意味らしい。ふーん。

暴力装置2

[続き](/?p=7066)。

[「暴力装置」の起源と系譜](http://d.hatena.ne.jp/catisgood/20101121/1290326392)。
なるほど。つまり、マックス・ウェーバーはマルキストではないが、レーニンやトロツキーに言及することで、
「暴力」という言葉を使ったのだから、
もとはといえば、共産主義用語なんだな、きっと。
いや、つまり、当時の状況として、共産主義思想にかぶれた学生たちに向けた演説なわけだから、
彼らにわかりやすいように、左翼用語に言及して、それとはまったく違う意味合いで、
「暴力」を再定義して見せているんだよね。

小室直樹も言及しているってところが面白いね。
小室直樹は、完全に、ウェーバーが「暴力」と言った意味で「暴力装置」という言葉を使っていて、
たまたま、左翼の用語(「訳語(?)」)を(意図して?あるいはわざと?)借りただけだと思うのだが。
というより、なぜ小室直樹が「暴力装置」という左翼用語に言及し、それをわざわざウェーバー風に解釈しなおしたのか。
それがわからん。他人の著書の解説だったからではないのか。

ウェーバーがトロツキーの用語に言及したからといってウェーバーがマルキストなわけでないように、
小室直樹が左翼用語に言及したからといって、左翼思想に「影響」を受けたわけではなかろう。

はっきり覚えてはいないが、小室直樹が海賊ドレイクを例えに、近代以前には国家が暴力を独占していたわけではない、
ということを他の著書でも言っていたと思う。
たぶんカッパブックスのどれか。

川越城

昔から、なぜ川越のような、開けたところに、太田道灌が城をわざわざ築いたのか、
北条市と上杉氏の間で熾烈な攻城戦が行われたか、不思議だった。
そのような争奪戦の地となるにはここが何らかの要衝の地でなくてはなるまい。

今はただ、新河岸川という細流が川越市街を取り巻き、さらにそのずっと外側を入間川が流れているにすぎない。

いろいろ考えてみるに、これはかなり難しくも面白い問題だ。
まず、かつて、利根川は武蔵国と下総国の国境になっていたということ。
両国橋が武蔵国と下総国の国境に架けられたことでもわかるように、かつて、利根川の河口は隅田川にあった。
渡良瀬川はそのさらに東の、今の江戸川沿いにあった。

利根川は、隅田川河口から北東の方角へ、今の水元公園の西側をかすめるようにして、綾瀬川或いは中川沿いに北上する。
どんどん北上して今の栗橋、つまり渡瀬遊水池の南側で、現在の利根川の水路に達する。
これがかつての国境で、利根川の水路だったわけだ。
で、今も渡瀬遊水池は埼玉、栃木、群馬、茨城、千葉の県境になっているのだが、
ここをかつて利根川が通っていたのはまあ間違いなく、
おそらくは広大な低湿地帯だったと思われる。

それから問題は荒川と利根川の関係なのだが、
今の越谷・行田・羽生市辺りから、利根川の水が、荒川へも流れ込んでいたのを、
次第しだいに川道をせき止めて分流するようにした。
それ以前は荒川と利根川の川筋はこの辺でぐちゃぐちゃに合流し、分流していた。
その勢いで荒川が南流して川越辺りで入間川に合流する。
川越は、南側だけが比較的乾燥した武蔵野の台地であり、西北東側は、広大な湿地帯だったに違いない。
つまり、川越というのは、荒川氾濫原へ北側に突出した半島のようなところに作られた出城だったのだ。
少なくとも、太田道灌が築城(1457)し、北条氏綱が上杉連合軍を川越で破った(1546)時代はそんな地形だった。

もっとマクロに見るならば、武蔵野台地という乾燥した地帯と、利根川水系の低湿地帯との境界に、川越は位置していて、
川越は武蔵野の北端にあたる。
川越から南に狭山、入間、所沢、小平、国分寺、府中で多摩川に至るまでが、典型的な武蔵野である。
また、今の川越街道よりも南、つまり、練馬、杉並、世田谷なども武蔵野のうちに入る。
川越街道が、武蔵野と利根水系の境界になっているわけだ。

太田道灌がほぼ同時期に川越と江戸に城を築いた。
川越街道途中の赤塚にも築いた。つまり、川越街道というのは扇谷上杉氏が、山内上杉氏に対して作った防衛戦だった。
山内上杉氏は古河公方とともに下総国古河城に居て、扇谷上杉氏は鎌倉に居た。
古河城というのは前述の、武蔵・下総・上野・下野・常陸五国の国境になっていた、渡瀬遊水池付近であって、
おそらくは水郷の中に作られた梁山泊のような城だったのだろう。

渡瀬遊水池は、今の足尾銅山の鉱毒のために、あのように無駄に広いのではあるまい。
治水のために、つまり利根川があふれたときのバッファとして作られているのだ。
ということは中世にはそうとう広大な荒れ地であったろう。

江戸城と赤塚城も、川越城と同様に、荒川氾濫原に台地が突出したところにあるわけだ。
このように、太田道灌の築城には、共通性が見られる。

大いなる助走

久しぶりに読み直してみたのだが

> あなたも小説を一度書いて見られたらおわかりになろうかと思いますが、
小説を書いている間というものは小説の世界へのめりこんでしまって現実がどうなろうと知ったことじゃなくなるんです。
小説をよくする為には利用可能な現実の出来事をすべてぶちこんでしまって、
それが日常生活に及ぼす結果や我が身にはねかえってくる報いなど、
たとえ馘首になろうがどうなろうがどうでもよくなってしまうんです。

いやー。無理無理(笑)。絶対無理だからそれ。書けないものは書けないよ。
同人誌書いてる学生じゃあるまいし。
ビデオ公開しちゃった海上保安官じゃあるまいし。

はっ。まんまと釣られた。

しかし、今でも、20代の、しかも女性作家に、私小説というか暴露小説まがいのものを書かせて、
それを持ち上げる傾向はあるよねえ。いかがなものかと思うが。
つまり、それ以外に話題性というか、インパクトのある小説が無いのがいけないんでしょうけど。

小谷野敦『私小説のすすめ』も、

> 多くの有名作家が私小説からスタートしたのだ。しかも、文学的才能がなくても書け、誰もが一生のうち一冊は書きうる小説

などと言っているということは、
作家は一生に一度しか書けないような私小説を(まだろくに人生経験もない若い頃に)書いてデビューして良い、
と言っているわけだから、『大いなる助走』に出てくる主人公の市谷みたいな暴露小説を書いてよいと、
そそのかしているようなものだ。
うーん。
どうなのかねそれは。

暴力装置

国家というものが、「暴力」を独占する唯一の存在だと言ったのはたぶんマックス・ウェーバーで、
『職業としての政治』だと思う。

と思ったら、それをすでに記事に書いている人がいた。
ウェーバーは、
「近代主権国家を合法的な暴力行使を独占する組織と位置付けた」
のである。
どういう場で言ったかはわからないが、文脈的には失言だったのかもしれない。
しかし、ここまで話がでかくなったら仕方ない。
堂々と、反論すれば良いのに。

いちいち、補足する必要もないと思うが、マックス・ウェーバーと共産主義、もしくは共産党とは何の関係もない。
というか、『職業としての政治』のもとになった演説は、第一次世界大戦でドイツが敗北して、
共産主義にかぶれた学生たちに向けて警句として放たれたものだ。
ウェーバーはばりばりの反マルキスト、右翼、帝国主義者、国粋主義者、大ドイツ主義者だった。
ビスマルクの信奉者だったと思う。たぶん。
共産党の議員たちは、純粋に、政治学を専攻した人間として、擁護してくれたのだと思う。
でも多くの代議士には、そのくらいの常識もない。
そういう意味では、一番まともな政治家は共産党員なのかもしれん。

ていうか、国会議員やジャーナリストは『職業としての政治』くらい読まんのか。
岩波文庫で、簡単に手に入るのだぞ。

暴力を飼い慣らすために国家というものができて、国家よりも上位の政治システムはまだ出来てないのだから、
国家が暴力を行使する権利を独占するのは当たり前であり、
そのために、文民統制というシステムがある。
その最高司令官が内閣総理大臣だ。
良くできたシステムだ。
それを、否定したいのか、なんなのだろうか。
たとえば頼朝は暴力を独占した。幕府というものだ。なんの正統性もない。しかしうまく機能したのは、
頼朝が、政治の本質を把握してたからだろう。違うかな。

まあしかし、菅直人が、自衛隊の最高司令官だという自覚がなかったのには、苦笑した。

与党

菅内閣の支持率が、自民党並に落ちてきたことで、やっと民主党も与党になれたなと、
私は思うよ。
マスコミにぼろくそにけなされてこその与党ですよ。
あなたは今、ほんとうの首相ですよ。
民主党初のほんとうの首相ですよ。
菅さん、まあもうしばらくがんばってください。

今批判されていることはほとんど感情論であって、政治の本質ではない。
太陽の牙ダグラムで、歴史は理性ではなく感情で動くものだ、と言った。それは良い。
しかし、それは逆説だ。本来、歴史や政治は、打算尽くの、理性で動くものだ。そうだろう。
感情を理性でコントロールできなければ獣と同じだ。

ジャンル

現代の小説は極めて細分化されている。
それぞれの分野にそれぞれのファンが居て、それを専門とする作家がいる。
さらにそこからファンが二次創作を作っていく。
そうするとさらに細分化が進む。
こういう現状だ。

しかし、そんな小説は書きたくもない。
たとえば前半部分は政治小説だが後半から恋愛小説になるとか、
現代小説の中に歴史小説がいくつも埋め込まれているとか、
とにかくジャンルをかるがると超えてわたりあるくようなそんな小説が書きたいわな。
人にも書けるような小説を自分がわざわざ書く必然性があろうか。

たぶん自分の中にそういう「ジャンル」というものに対する嫌悪感、
否定したい衝動があるのだな。
これはどうしようもない。