選挙

比例代表というのは、まあこれは、大選挙区制だわな。 昔は中選挙区制で、そのために、自民党が第一党となって、その他の野党がたくさんできるという状態ができた。 そんで、小選挙区制にすれば野党が結集して二大政党制になりやすいからってんで、 小選挙区制にしたわけだが、 小選挙区制では死に票が多いから比例代表と合わせ技にすることにした。

その結果として、自民党に対抗する野党として民主党ができた。 コンサバティブとリベラルの二大政党制になりかけていた。 実際、民主党が政権を取ったことがあった。 そのこと自体はまあ悪いことじゃないと思う。 民主党は護憲、労働者寄りであって、 自民党は改憲、資本家寄りである、という対立があって、政権交代があって、政策の調整が行われるのは、まあ全然悪いことじゃない。

ところがまあどうしたことでしょう。 今回の選挙結果は中選挙区制だった頃のような野党構成ではないか。

小選挙区制が自民にだけ利益を与え、 結集できなかった野党が互いにつぶしあった。 しかしリベラルが一つにまとまれないってことは民主党をみればわかりきっている。 なぜまとまれないかってことはやはりマスコミが口出しするのが悪い。

政策でまとまれないから、安倍政治を許さないとか、そういう個人攻撃でしか共闘できないのだ。 バカではないか。

今の選挙制度で勝負する前提でみんなやってるわけで、 負けたから選挙制度のせいにするのはゴールを動かそうとしているのと同じ。 そのゴールは民主党政権の時代からそこにあったものだ。 自民党から民主党へ、そしてまたもとの自民党へ。政権交代が起きやすい、振れ幅が大きいのは小選挙区制だからだ。 すべては想定の範囲内のことだ。 政治的安定を求めるのであれば大選挙区にすりゃよかろう。 しかしその場合与党が弱体になりやすいという不安定要因は生まれるのだが。

小池百合子はマスコミに持ち上げられて落とされた。 ある意味かわいそうな人だ。 彼女は本来、自民党には良くいるタイプの普通の保守、普通の右翼だった。 ところが都知事に担がれた頃からおかしな具合になって、さらに希望の党なんてものを立ち上げてますますおかしくなった。 小池百合子を持ち上げたマスコミは、彼女が調子に乗ってまったくマスコミのいうことを聞かなくなったので叩き落とすことにした。 結局彼女は踊らされただけだったのだ。 石原慎太郎ほどの個性も自我もなかったのだろう。 サッチャーやメルケルとは比べようもない。

こんな具合にマスコミが政治家をいじくりまわすのは主にリベラルで、 保守の連中はわりと身内で固まっていて、 マスコミに操られることが少ないと言える。

もしマスコミがまったく口を出さなかったらリベラルの中からまっとうなリーダーが現れてきちんと意見調整するのかもしれない。 ともかく日本のリベラルは大同団結できない。 マスコミはただ引っかき回すだけ。

みやねやが「偏向報道というの、やめよう」などと言ったらしい。 みやねやがどういう人かは知らない。あまりみてないので。 しかしマスコミの中では比較的まともな人かもしれない。 リベラルの意見だけを尊重して番組作りをすることはあろう。 それは必ずしも偏向報道とは言い切れない。まあその程度は許容範囲だからだ。 マスコミにそれ以上のことを求めても無駄だ。 多くのマスコミがポジショントークしかしないってことで、 ポジショントークをポジショントークと見抜けないで公平中立な報道だと思うのは見てるほうが悪い。 むしろなんでこいつらはこんな極端な報道をするのだろうかとその裏を読まなくてはならないのだ。 そういうこともまた我々インテリの仕事だ。

年を取ったせいで怒りっぽくなっているのは間違いない。

酒を飲んだときに特に感情が振れすぎる気がする。 記憶の無いときに何をしでかすか怖くてしかたない。

それと関連してなのだが、どこに何があるか完全に把握してないと不安で仕方なくなって、 ささいなもの(折りたたみ傘や筆入れなど)でもなくすことが恐ろしい。 一つなくすときには他のものもなくしている可能性があるからだ。

それでまあ、 社会を変えようとか自分が所属している組織を変えようなんてことはこれからもう一切考えずに、 なにごともたにんごとで受け流して生きていこうと思う。 何か腹が立ったり反論したくなってもやらない。 正義感とか使命感などというものは怒りっぽくなった年寄りには害悪でしかないのだ。

最近、スーツを着てネクタイを締めていると精神的に楽なことに気付いた。 体を締め付け拘束していること、 また、世間一般から見て真面目なかっこうをしていることによって、 自制心が働きやすくなるからではないかと思う。

外へ出るとき、仕事へでるとき、スーツを着てネクタイを締め、何事にも心を動かさず、 後に残さず、内に溜めず。 そうやって何事も穏便に、無難に、無気力に生きていけば良いのではないか。 そしてネクタイピンや腕時計や靴に凝ろうと思う。 紳士のかっこうをして紳士になりきるのだ。

憲法

トイレにビックカメラの日本地図を貼っていて、律令国の境界や名前などを書き込んだりして重宝しているのだが、 世界遺産とか旧暦の月名の蘊蓄なども書き込まれていて、自然とそれが目に入って憂鬱になる。 おおかたの日本人にとってはこれが日本の伝統なのだ。 実に馬鹿げている。 ほとんどの伝統はまずいったん疑わねばならない。 そしてほんとに確かなものだけを後世に伝えるようにしなくては。

学生時代は都心に四畳半風呂無しトイレ共同アパートに住んでいた。 今もそういうアパートが中央線沿線当たりにわりと残っていて、 ネットの不動産屋で見て、 google マップかなんかでたぶんこれだろうみたいなのを探し出したりなどして、 職場から近くにこういうところを借りてみようかな、少なくとも、物置代わりにはなるだろうし、 住んでみれば地理に詳しくなるだろうと思うのだが、 朝風呂に入っているといろいろと着想が沸くたちなので、 風呂無しアパートで銭湯通いするとその機会が失われてしまう。 やっぱり不便な気がしてくる。

今の憲法が宗教なのはよろしくないことだ。 「人類普遍の原理」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」「政治道徳の法則は、普遍的」「永久にこれを放棄」「侵すことのできない永久の権利」などと言った文言はすべて不要だし不愉快だ。 明治憲法が「天皇は神聖にして侵すべからず」といったのを別の言葉に置き換えただけじゃないか。 そういう文言は明治の法典にいくらでも見られるものであり、 同様に不要だ。 かつて西洋で王権神授説が信じられていたときにそんな文言が使われたのは仕方ないかもしれない。 社会主義国家の憲法が大言壮語に飾られているのも勝手にすればよい。 しかし日本の憲法までがそんな狂言を弄しているのは許しがたい。 憲法は法律体系の頂点に位置する基本法というに過ぎず、他の法律同様に、永久とか普遍などという概念になじまない。 日本人は藤原不比等が作った養老律令を1200年も廃止しなかった、かなり頭がおかしい民族で、しかもその自覚が無い。 日本国憲法だって養老律令みたいにしてしまいたいのだろうし、明治憲法を作ったときにも1000年保つ恒久法のつもりで作ったのに違いない。実に馬鹿げているではないか。 日本人は建物を建てるときはちゃんと耐用年数を計算して建てているのだ。 日本人に合理精神が欠けているというわけではなさそうなのに不思議だ。

世の中の景気が良くなってもクリエイターの待遇が良くならないのはやはり電波利権のせいなのではないかという気がしてきた。 電波利権こそは諸悪の根源なのだ。 東京テレビ局の特権的地位をなくせばクリエイターの労働市場は改善されるだろう。

東京一局集中も利権だ。政府は首都機能移転しようとしているのに、東京都などが利権を守るために阻止している。

政府にできることはいくらでもあるのに利権に縛られてできない。 公共事業を抑制しているのも、結局は、東京に利権をもっている連中が地方の発展を妨げたいだけなのだ。

年寄りが少なかったころは年金とか高福祉でよかったが、高齢化の時代にはベーシックインカムのほうが適している。 社会保障はすべてベーシックインカムに集約してあとは自己責任にすれば良いではないか。 多少不便になることもあろうが、制度は簡素化し、政府の財政は安定する。

朝鮮

アメリカは好戦的な国だとみなされているのだが、 実際、アメリカほど戦争している国はないわけだが、 しかし、アメリカほど、ほかの国が戦争に巻き込みたい、ほかの国が利用したい国もないわけである。 第一次世界大戦も第二次世界大戦もそうだった。

そういう意味では日本もアメリカに似ている。 日本はかつて挑発されるとすぐカッとなって戦争してしまう国であった。 おっちょこちょいな国と言ってもよい。 必ずしも戦争が好きな国とは言えないが、すぐに戦争に巻き込まれてしまう。 そこがアメリカと似ているといえなくもない。

ほとんどすべての国がアメリカに北朝鮮を懲らしめてほしいと思っている。 つまりアメリカに北朝鮮と戦争してほしいと思っている。 トランプはブッシュほど馬鹿じゃないので自分から手を出さない。 相手から手を出させようとしている。そこがフランクリン・ルーズベルトに似ている。

今から思えば、日中戦争や大東亜戦争に日本を引きずり込んだのは毛沢東だった。 日本が蒋介石と戦い、アメリカと戦えば、共産党に割り込む隙ができるからだ。 日本を戦争に駆り立てたものは日本自身であっただろうか。 中国とソビエトではなかったか。 日本が朝鮮半島に進出し、満州に進出して、中国とロシアは迷惑だった。 イギリスは東アジアに直接かまってられないから、やはりアメリカを参戦させたかった。

つまり、アメリカに日本を懲らしめてほしいと思った。世界中の国が。

朝鮮半島は昔も今も政治的に破綻している。 そんなやっかいなところへ日本はのこのこ出て行って痛い目にあった。 伊藤博文は愚鈍に見えて賢く、陸奥宗光は頭の切れるバカだったと言わざるを得ない。 今日本は朝鮮半島から完全に軍事的に手を引いて代わりにアメリカが出てきて、 アメリカが北朝鮮を懲らしめなくてはならない形になってきている。

アメリカも日本もマスコミが政府の足を引っ張り、あるいは政府に戦争させようとする。 あるいは外国勢力がマスコミを操って政府を弱らせようとする。 これ、日中戦争や大東亜戦争時代の国際情勢と同じじゃないのか。

私は自分が右翼なつもりでいるが、「神在月には出雲大社に参拝しよう」とか言ってる連中にはまったくシンパシーを感じない。

銃犯罪の本質

アメリカから銃がなぜなくならないか、結論はマイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』に明確に示されている。

アメリカもカナダもいずれも銃規制は緩い。 隣り合う国どうしで、しかも、アメリカは重犯罪が非常に多く、一方、カナダにはほとんどない。 カナダのスーパーマーケットでも、銃や弾は比較的容易に買える。

銃のせいではなく、国民性の問題なのである。 おそらく人は、銃を乱射したいと思えば、カナダにいてもアメリカに来て乱射するだろう。 そうするとメディア受けが良いからだ。 インスタ映えというが、同じことで、カナダよりはアメリカでみんなに見せびらかせたほうがより受けるのだ。 同じことはマスコミにもいえる。

マスコミが憎悪を煽るから銃乱射事件が起き、事件はマスコミによって煽られ、再びさらに過激な事件が起きる。その連鎖を断ち切る必要があるのだが、問題の本質は、市民が銃を自由に所有できるかどうか、ということではないのだ。

日本も戦後、銃乱射事件が多発して、規制が強化された。 その結果銃乱射なんてことはめったにおきなくなった。 だからアメリカでも規制はある程度の意味があるだろうと思う。 しかし隣国のカナダが銃規制を行わないのに、原野が広がるアメリカで、銃規制しましょうといっても誰も従うまい。 アメリカはその国土のほとんどが北海道みたいなものだ。 原野に繰り出し野生動物と混じって暮らすにはどうしても銃が要る。