ブルボン家とハプスブルク家

今のスペインの君主もスペイン・ブルボン家。
フランス革命でブルボン家は滅んだのではなかった。
では、ハプスブルク家はどうなかったかというと、現在のオーストリア・ハプスブルク家の当主は、
カール・ハプスブルク=ロートリンゲンという人で、1961年生まれ、50歳、
「元オーストリア皇太子の長男」「オーストリア皇帝、ハンガリー国王などの君主位の請求者」「欧州議会議員」「金羊毛騎士団長」「オーストリア国民党所属」「ザルツブルク在住」だそうだ。
ふーん。

イタリア統一戦争

調べれば調べるほど、ナポレオン戦争からイタリア統一戦争までのイタリアの歴史は面白いのだが、
なぜ塩野七生は小説に書かないのか。十字軍書くよりずっと良いと思うが。
いや、つまり、古代ローマの話はイタリア視点で書いてもいいかもしれん、
ヴェネツィアとオスマントルコの戦いも。
しかし、十字軍は、それよりずっとでかい話で、
イタリア史観に無理やり押し込めて書くことは不可能だと思うのよね。

それはそうと、ガリバルディはなぜあんな短期間に両シチリア王国を滅ぼせたのか。
英語版の wikipedia を読むと、
シチリア島の首府パレルモに進軍するときに、イギリス軍が休戦を調停したとある。
また、シチリア島からメッシーナ海峡をイタリア本土に渡るときに、イギリス海軍が助けた、
とも書いてある。
つまり、ガリバルディは、たった千人のイタリア人の義勇軍で両シチリア王国を倒したのではなく、
当時の超大国であるイギリスの支援を受けたから成功したのである。
なんだ普通のパワーポリティクスじゃんか。
日本語版を読んでいるだけではその辺の事情がよくわからない。

ところで英語版では、イタリア統一戦争を Italian War of Independence
と表記している。
イタリア独立戦争。
いったい何が何から独立するというのだろうか。
どうもアメリカ人は、ひとつの国家ができる戦争を独立戦争と呼びたがるようだ。
実に funny だ。
そんなら、プロイセンが主導したドイツ統一はなんというかと調べると今度は
Unification of Germany
とある。意味わからん。

ふむ。イタリアはオーストリアから独立したことになっているのか。
違うだろ、それは。
それは北イタリアの一部の話であり、全体としてみるとイタリア統一戦争と言うしかないだろ。
そんなこと言うのならドイツ統一だってオーストリアからの独立戦争じゃんか。

両シチリア王国

『アルプスの少女デーテ』を手直ししているのだが、『ハイジ』は1880年に書かれていて、この年にハイジが10歳くらいだとすると、トビアスが生まれたのは1850年くらいとなる。
アルムじいさんはナポリで傭兵になったというが、このときナポリは両シチリア王国の首都。君主はブルボン家。このブルボン家はスペイン・ブルボン家だが、もとはフランスのブルボン家の分家。フランスとスイスは深い関係があり、スイスから直接ナポリに傭兵になりに行ってもおかしくはない。

しかし、両シチリア王国ではこの時期何も戦争が起きてない。近いのは1816年、ナポレオンの没落とウィーン体制確立のとき。次は1860年、ナポリがガリバルディ軍によって陥落してイタリア統一がなった時。

ナポリはそんな大きな国ではない。平時からうじゃうじゃ常備軍や傭兵が居たとは思えない。ガリバルディが攻めてきたときの負けっぷりからして、よほど油断していたか、そもそも軍備らしきものがなかった、とさえ思える。

それで、仮にボナパルト失脚時にアルムじいさんが従軍したとすると、ハイジがフランクフルトに行って帰ってきたのは1850年くらいのことになる。ちと時代設定が古すぎる。また、1860年に従軍したとすると、ハイジのフランクフルト行きは1890年くらいのことになり、時期的に遅すぎる。

それで、ハイジの作者は、執筆時の20年くらい前に起きた、比較的記憶に新しいイタリア統一戦争を漠然とイメージして書いたのではないか、時期的に合わないけど、という仮説が成り立ち得ると思う。そうすると、アルムおじさんの祖先がナポレオンのアルプス越え(1799年)に参加して傭兵で成り上がった、という話につながりやすい。先祖が1848年のウィーン体制崩壊のとき、ルイ・ナポレオンに従ったとすると、アルムじいさんのお父さんの時代になってしまう。まあ、それでも話は作れるのだが、ちとせわしすぎる。

アルムおじさんが1860年に両シチリア王国の傭兵だったとすると、ガリバルディによって征服される敗軍の中にいたことになる。それも話としてはおもしろい。今は、最初フランス・サルディーニャ連合軍に居て、それからサルディーニャ軍に編成された、という設定になっているのだが。さて、どうしたものか。

そもそも、アルムおじさんとハイジは1830年に書かれた別の話から借用したものであり、おじさんが傭兵にいこうがいくまいが、時代が合わないのは当たり前であるといえる。

私は『ハイジ』の中でデーテだけが実在のモデルに基づいて書かれている、と思っている。つまり、『ハイジ』は1880年当時のデーテ系のソースと1830年当時のアルムおじさん系のソースをミックスして作ったものなのだ。そうすると、1860年代にナポリで生まれた傭兵の子供というのが実はハイジなのではないか。傭兵に行ったのはトビアスなのではないか。デーテは何かの理由で、トビアスからハイジを預かることになり(トビアスが死んだので遠縁ということで引き取ることになったのかもしれない)、10歳くらいのその子をフランクフルトに連れていったけど、都会生活にうまくなじめなかった、その話を聞いたのがだいたい1875年頃、とすればうまく辻褄があう。

ファーティマ公開

まだ執筆中だが、[ファーティマ](http://p.booklog.jp/book/24023)を公開した。
これは、[トゥエンティ・トゥエンティ](http://p.booklog.jp/book/23991)の続編として書きかけたものをほったらかしていたのだが、
橋下市長の当選を祝って、前倒しで公開する。
ついでにトゥエンティ・トゥエンティも、すべて試し読みできるようにしておいた。

ファーティマはトゥエンティ・トゥエンティの裏設定のネタばらしを含む。
主人公は武央市市長の島谷、ヒロイン役は、ヤスミーンの姉のファーティマ。

もともとトゥエンティ・トゥエンティは、
[セルジューク戦記](http://p.booklog.jp/book/32947)に出てくるアリー、ヤスミーン親娘を切り出して、短編近未来小説にしたてたもの。
おひまなかたは読み比べてみてください。

京極派

引き続き、丸谷才一『新々百人一首』。

> 庭の虫はなきとまりぬる雨の夜の壁に音するきりぎりすかな (京極為兼)

為兼を選ぶのはよい。なぜこの歌なのか。
他にいくらでも為兼には良い歌があるのに。
しかも、「庭の虫は」が字余りで、しかも字余りの例外まで丁寧に解説している。
だが、それ以外の説明がまるでない。

京極派の歌には字余りが多い。というより、字余りということを始めたのは京極派なのだ。
なぜそのことを言わぬ。
丸谷才一は定家が好きで、二条派が好きなのである。
京極派は嫌い。だからわざと沈黙しているように思える。

「なきとまりぬる」もおかしい。連体形になっている。
「なきとまりぬる雨」か「なきとまりぬる雨の夜」か。
そうかもしれぬ。
そうとも解釈できなくはない。
だとするとそうとう変な歌だ。
普通に考えて終止形にしないとおかしい。
普通なら、素直に「なきやみにけり」「なきとまりけり」などとするだろう。
「なきとまりぬる」という言い方は、異様だ。「なきとまる」などという言い方は普通和歌ではしない。
現代語でも「なきやむ」としか言わない。もしかすると当時の口語的な表現かもしれん。
それもまた京極派の特徴だが、それもなぜか指摘しない。

それをしないでおいて、王朝和歌では、秋の虫の鳴き声というのは、恋が成就しなかった悲しみの声だ、
などということを延々と主張している。
京極派は、そういう定型や通念を無視し、感情のままに、印象派のように、歌を詠むものだ。
京極派の歌は、新古今や二条派の歌論では説明できないはずなのだ。
それをむりやり宮廷文学の尺度にあわせて解釈しようとしている。
これでは、京極派とは何か、ということが、読者にはまったくわからないはずだ。

> 咲きそむる梅ひとえだの匂ひより心によもの春ぞみちぬる (伏見院)

説明わずか四行。「まさしく国王の歌である。おっとりとしていて、しかも美しい。」などと言っているが、なぜこれを選んだのか、理解に苦しむ。
なるほど、そういうものか、とただわけもわからず読まされる読者が気の毒だ。
ちなみに伏見院は、為兼に勅撰集を編纂させた京極派の歌人。

> うれしとも一かたにやはながめらるる待つ夜にむかふ夕ぐれの空 (永福門院)

この歌は、確かに優れている。「ながめらるる」は字余り。明らかに京極派特有の、破調の妙をねらったものであろう。
しかし、丸谷才一は、これが新古今集より時代が下ったために規則が崩れてきた、と解釈している。それは違う。
京極派以外で字余りするのは少なくとも江戸時代までは、ただのへたくそだけだ。
「当代随一の女流歌人」が「歌道の約束事を乱したことはすこぶる興味深い」などと言っているのは、
ほんとうに京極派というものを、丸谷才一が知らなかったのか、と怪しまれる。
宣長ですら京極派が異様で異端であることは知っていたのになぜ丸谷才一がそれを知らないのか。
仕方なく余ったのではなく、わざと余らせたのだ。それを勅撰集に採ることで、為兼はオーソライズしようとした。
永福門院は、京極派で一番有名な女流歌人であり、伏見院の中宮。歌の師は為兼その人だ。

意味は、従って、古今集や新古今集などの通念から離れて、印象派的に解釈しなくてはダメだ。
ざっくり意訳すると、今日は来るとあらかじめ知らせがあって、うれしいとは思うが、ほんとうに来るのかどうか、
いつごろ来るかと待ちながら、夕暮れの空に向かってながめている気持ちは、ただうれしいというばかりではない、となる。
丸谷才一の解釈でだいたいあっているのだが、
彼は、当時の通い婚における女性の立場、歌に現れるその形態など、懇切に、王朝の女流和歌とはこういうものだ、
こうあるべきだ、という理論で押し通そうとする。
それでは、京極派の歌はわからない。パターンに当てはめようとしては楽しめない、それが、京極派の歌なのに。
京極派だからこそ、「うれしとも一かたにやはながめらるる」などという屈折した心理を詠めたのだし、
「(私が)待つ夜に(私が)むかふ」などというトリッキーな言い回しをしているのだ。