アレクサンドロスがクレイトスを殺害する場面、簡単に描けるかと思っていたが、なかなか難しい。 一番の難所かもしれない。
アレクサンドロスのザグロス山脈越えは、まあわりとどうでも良い。 森谷公俊著『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』を読んだのだが、 結構高齢になってから、科研費もらってザグロス山脈の現地調査したというのはすごいが、 実際どのルートを通ったかというのは大した問題とは思えない。 別にどのルートでも結果に大差ないように思える。 アリオバルザネスというペルシャの将軍との戦い、いわゆるパールサ門の戦いだが、これも大したものだったとは思えない。
だが、アレクサンドロスがクレイトスを殺す。 簡単なようでこれがなかなか書けない。 ただ酒に酔って勢いで殺したのではない。 アレクサンドロスという人がどんな人だったのかを正確に把握してないと書きようがない。
森谷公俊氏はアレクサンドロス研究に関しては日本の第一人者と言える人だろう。 だが私は彼といくつかの点で見解が異なる。 アレクサンドロスのバビュロン入城や、パールサプラ略奪に関しては、私はギリシャ人がペルシャ人に報復したのではなく、 バビュロニア人がペルシャ人に報復したのであり、アレクサンドロスはバビュロニア人に加担、あるいは譲歩したのだ。 パールサ侵攻はバビュロン入城の交換条件のようなものであったろうと思う。 バビュロニア人だけでなく、アッシリア人も、スーサのエラム人も、ペルシャに恨みを抱いていた。 パールサを焼かねばならぬと考えたのはマケドニア人というよりは、それらの諸民族であったはずだ。 パールサ侵攻はそれゆえにアレクサンドロスが自ら望んで行ったものではないと思う。 パールサはアレクサンドロスにとって寄り道にすぎない。 パールサに長居したのも、ペルシャ高原を冬に移動するのは困難だったというだけのことだろう。
マケドニアやトラキアやオレスティス、エペイロスには山が多く、山羊や羊を飼う遊牧民が多く住んでいたはずだ。 ディオドロスの逸話は面白い。ザグロス山脈を越えたときに現地の羊飼いに道案内を頼んだ。 身軽な羊飼いにしか通れない山道を通ったというのは、つまり、マケドニア兵はもともとそういう山岳地帯に慣れていたということだろう。 だからイリュリアやゲタイなどトラキアの奥地に住む原住民とも互角に戦えたのだ。 アレクサンドロスにとって、ペルシャ王と戦うよりも、ザグロス山脈に住む山賊と戦うほうが面白かったかもしれない。
スーサも書こうと思ってなかなか書けない。スーサはいかなる町であったのか。 スーサについてはドイツ語のウィキペディアの記述がやや詳しい。スーサには城壁がなかった。 ダレイオス大王の王宮があり、城下町(Künstlerviertel)があっただけだ。 ペルシャに征服される前には当然スーサにも城壁はあったのだろう。
あと書かなきゃならないことは、 パールサ侵攻、ダレイオス三世の死、ベッソス捕獲、バクトリア征服。 このあたりでクレイトスは殺害される。 バクトリアでラオクシュナ、アマストリー、アパマなどのペルシャ王女らを確保する。 それから第一巻に書いたガンダーラ、インダス川、ゲドロシアへ続き、スーサに帰ってきて、ハルパロスらと一悶着あって、結婚式を挙げる。 スーサの合同結婚式より後のことを書く気は今のところない。
アレクサンドロスはなぜバビュロンを王都に定めたのだろう? 当たり前のようだが全然当たり前じゃない。 別にバビュロンにいたかったわけではあるまい。 たまたまバビュロンでアレクサンドロスが死んだので、バビュロンが王都であることになったのではないのか。
ともかく、第五巻までで書くのをやめてしまっても別に大して支障はない。 とはいえ、完結させた方が読者にとっては便利かもしれない。