αλέξανδρος φιλίππου μακεδονων

Alexandros Philippou Makedonon、
フィリッポスの子アレクサンドロス、マケドニア王の。

Alexandros は単数主格。

Philippou は複数属格。

Makedonon は複数属格。

「エウメネス1」でアマストリナという名で出てくる女性の名は英語表記では
Amastrine、Amastris。
貨幣には
AMAζTPIEΩN (Amastrieon)、
AMAζTREΩζ (Amastreos)、
AMACTPANΩN (Amastrianon)、
AMACTPIC (Amastris)、
AMACTPIANШN (Amastrianun)、
AMACTPIAлOI (Amastrinoi)
などと刻印されている。

たとえばビュザンティオンはビュザントスという王様が作ったからビュザンティオンと言う。
これも複数属格である。
王や神が複数形をとることはあるのだろう。
そしてその複数属格が名詞化して国名になる。

アマストリエオンは、従って「アマストリエ」の複数属格であって、国の名前であったと考えられる。
最も原音に近い名は「アマストリエ」或いは「アマストリー」であったかもしれない。
ただし今もトルコには「アマスラ」という地名があるので、もともとは「アマストラ」という名であったかもしれない。

Amastris と Amastrine の語尾は何語なのかよく分からない。
-ine はラテン語の女性形を表すのかもしれない。

ギリシャ語良くわからない。
ペルシャ語はもっとよくわからない。

ところで「ヒストリエ」とは何語だろうか。フランス語か。
ギリシャ語ならば「ヒストリア」で格変化しても「ヒストリエ」にはならん気がするのだが。

小説の体裁

twitter の自己紹介に「小説のようなもの」をKDPで出版してます、
などと書いてたのだが、
こんど出す「エウメネス2」と「エウメネス3」に関しては、
自分の作品ながら「小説のようなもの」呼ばわりするのは変な気がした。
失礼な気もする。
それで若干自己紹介を書き換えたのだが、
なんでそう思ったかと自己分析してみた。

「エウメネス1」はもともとは私が勝手に書いた「小説のようなもの」なのだが、
これはけっこう売れたので、
お金を払ってくれた人に対して失礼な気がする。
お金を払って買ってくれた人はこれを「小説のようなもの」ではなくて
「小説」という商品として買ってくれたわけである。

つまり、ものを売るということはそういうことなわけで、
自分のものだからといってむやみに卑下してはならない気がする。

「エウメネス2」と「エウメネス3」は初めて予約注文でやったが、
予約者も(そんな多くはないが)いて、
書いている最中から、読者、というより、買ってくれる人、を意識して書いた気がする。
「エウメネス1」を買ってくれた人にまた買って貰いたいという気持ちで書いた。
もっと言えば、夏目書房新社で紙の本を出版してもらい著者紹介にも少し書いてもらった(その紹介文は非常に恥ずかしいものだったが。CiNii にまで載ってしまった。なおさら恥ずかしい)。
ちょこっとだが編集会議のようなこともしたので、私が独断で出版して良いものではない
(だが、続編をちょっと書き足すというつもりで、独断で書かせてもらった。完結させたのではない。
完結させるとしたら全部で1000枚では済まないだろう。
もし今回の続編が売れたらも一度、改めて相談してみるつもりだ)。
いろんな人の意見も聞いた。
だからもうこれは「小説のようなもの」ではあり得ないのである。
「プロ意識」と言えばそうなのだろう。

で、私の場合昔からそうだったのだが、100枚のつもりで書いて、
最初の書き終わりは80枚くらいだが、手直ししていくうちに100枚になる。
しかしその後いろいろ書き足したり肉付けしたりする。
歴史小説の場合特にそうなりやすい。
文章そもそもの磨いていく。
そういう書き方を5年くらい続けてきたので、
私はそういう書き方をする人間なんだなってことがわかってきた。

最初にプロットなりノートなりを書いて書くときは一気に書く人もいるが、
私はそうではなく、ひな形みたいな作品をまず書き上げて、それから肉付けしていく人なんだな、
ってことを書きながら気付いた。

むろん、小説自体のできもこれまでよりは良いつもりだ。
良い、というより「小説」としての体裁を具えている、という感じかな。
良いものを書いた自信、というのとも少し違う。
小説としての体裁を考えずにがーっと書いてたころの作品のほうが良いかもしれない。
でも今はもうそんな純粋な気持ちでは書けない。
長編だと特にそうだ。
どうやって読者に読み続けさせようかみたいなことを考えながら書く。
自分が何を書きたいかということよりもそちらのほうが書いてて気になる。
たとえて言えばピタゴラ装置を作っている気分。
あーここで玉が止まっちゃうとか、ここで読者読むのやめちゃうよなとか、
いつの間にかそんなことばっかり気にしてる。
まあしかし、それが小説の体裁というものなのではないか。
最初は自分しか読者がいなかった。
世の中に自分が読みたい本がなくなったので自分で書くことにした。
自分のために書いたから自分で読めば面白いに決まっているのだが、
他人が読んでも面白いほうがよいに決まっている。
ただ他人が読んで面白いものというのは、私が飽きてしまって読まなくなったようなものなので、
そこの折り合いをどうつけるか。
自分にとっては面白くもなんともないが、
他人には喜んでもらえるピタゴラ装置を延々と作ってもむなしいだけだ。

エウメネス2 ― イッソスの戦い ―

最初は「エウメネス2」か「イッソスの戦い」かどちらにしようか迷ったが、結局間をとって「エウメネス2 ― イッソスの戦い ―」とした。

図版無し90枚くらいのはずが、図版あり225枚くらいになった。かなりの大作だ。最終的には250枚くらいになるだろうと思う。

「イッソスの戦い」がメインなのだが、だんだん書いていて「テュロスの戦い」もけっこういけるんじゃないかなと思えてきた。この「テュロスの戦い」だが、あまり深く掘り下げて書いたものはなさそうだ。むろん、イッソスにしろ、テュロスにしろ、アッリアノスの「アレクサンドロス東征記」を下敷きにしているわけで、こちらのほうが細かいといえば細かい。しかしほかの文献で補完したりしてかつ私なりの脚色と考察を加えているわけだから、私のほうが詳しいといえば詳しい。割と良い出来だと思う。

先に書いた『エウメネス』だがだいぶ整合性がなくなってきたので、少し書き換えた。少しだけだけど。最新版ダウンロードはアマゾンに個別にリクエストしてください。すみませんが、よろしくお願いします。変えたところというのは、まず、カルディアというポリスのことを誤解していた。カルディア == トラキアのケルソネソス半島だと思っていた。実際にはケルソネソス半島のごく一部。また、エウメネスの母をトラキア人としていたのだが、フリュギア人に統一。

しかし、『ヒストリエ』ではなぜエウメネスをスキュタイ人としたのだろうか。たぶんプルタルコスの『対比列伝(英雄伝)』の記述に引っ張られたんだと思うが、『対比列伝』は、ローマ人についてはともかくとして、ギリシャ人の記述は民間伝承レベルで、決してよろしくない。と思う。ヨーロッパからみたスキュティアは今のウクライナ辺りになるのだが、北方のトラキア人を広い意味でスキュタイ人と言ったのだろうか。そうかもしれんね。

もうほとんど完成したと思うんだが、出版予定日は繰り上げずに予定どおりやると思う。
こまごましたところはゆっくり直していけば良いと思うんだけどねえ。KDPなんだし。

ちょっとだけネタばらしすると、テュロスの戦いですごいのは、おそらくアレクサンドロスが世界で初めて「投石器を搭載した軍艦」を建造し、実戦に投入し、これによって勝利した、ということだと思う。誰か前例を知ってたら教えてください。無いと思うけど。
それまでの海戦はだいたい軍船どうしの戦いだったはずだ。一日で決着がついた。しかしテュロスの戦いは軍船による島の上に建てられた城の包囲戦だった。こんな戦いがテュロス以前にあったはずがない。これがゆくゆくは米海軍による黒船襲来、マニラ艦砲射撃へとつながっていくわけですよね。もちろん軍船の上で弩を使って撃ち合った、というようなことはあったかもしれんが。

でまあ、私としては、テュロスの戦いはもっと注目されて良いと思った。と言っても、イッソスの戦いですら、日本ではあまり話題になることがないのだよね。

あと一気に読むのは長さもあって辛いと思います。私も校正してて気絶しました。地名や人名がたくさん出てくるのは勘弁してください。そういうところは流し読みしていただけると助かります。

これを当てて、ゆくゆくは総集編を出したいよねえ(笑)

あ、あと、アマゾンが 50pt 付けてくれてるのはありがたい。