「とある」と「かかる」

「或る」を「と或る」と書く表現がはやっていて、特に、
ラノベのタイトルに唐突に用いられるのがよく見受けられる。
なぜ「ある」と書けばよいところをわざわざ「とある」と書くのかという疑問がわいてくるのだが、
文法的に間違っているとも言い難い。
この違和感をどう説明すればよいか。

調べてみると、太平記に
「とある辻堂に宮を隠し置いて」というのが初出らしい。

も少し調べてみると、「とあれかくあれ」「とまれかくまれ」のような形はもっと古くて、
それが「ともかく」「とかく」のような形で定着する。
「ともかく」の「と」と「とある」の「と」は同じ由来なのだ。
そしてこのような「と」の使い方は万葉集の時代までさかのぼる。
つまりは由緒正しい古語なのである。

「とある日」は不確定の日であろう。
「かくある日」「かかる日」は特定の日であろう。
「とあれかくあれ」ならばそれら全部をひっくるめてすべての場合という意味になる。

「或る」はもともと漢文訓読に由来するという。
この「或る」が「とある」と混同されて広く使われるようになったのかもしれない。
そもそも「或」は「とある」と訓読すべきであったかもしれぬ。

「とある科学」とか「とある魔術」のような言い方が重宝されているのはなぜか。
新しいニュアンスが追加されているのは間違いない。

会話記号

[『山月記』の会話記号](http://ameblo.jp/muridai80/entry-11901836130.html)。

確かに中島敦は句読点やカギ括弧の使い方にかなりのゆらぎがある人で、
私としてはそれに好感を持っている。
言語として意味が通るかぎり作家は出版社や新聞社の慣習や、文部省の指導要領などから自由に、
文章を書くべきである。
作家は型にはめられるべきではなく、また自ら型にはまるべきではない。

> 「おはよう」と言った。

> 「おはよう。」と言った。

には若干のニュアンスの違いがある。
それを誤記だと決めつけられるのは困る。
この例ではわかりにくいかもしれないが、私はカギ括弧の終わりの「。」は原則省かない主義であり、
しかし、「。」を意図的にはぶく場合もあるのだ。
記法が統一してないとか誤記だとか言われても困る(もちろんうっかり間違うこともある)。

間接話法だからカギ括弧はいらず、直接話法だからつけなくてはならない、とかそんなことはどうでもよろしい。

> 次の朝いまだ暗いうちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人食い虎が出るゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたがよろしいでしょうと。

カギ括弧を付けたほうが落ち着きがよいのはわかる。
特に「通れない。」で一旦切れているから、全体をカギ括弧でくくったほうが会話の切れ目がわかって親切だ、
という理屈がわからぬでもない。
せめて「通れない、」にしてくれというのも、理屈はわかる。
しかしだ。もし私がいちいちそういうことまで編集者に口出しされたら、そのうちぶち切れるかもしれん。
中には有用な、傾聴に値する、自分では気付かなかった、ありがたく従わせてもらうような指摘もあるだろう。
しかし最終的に、自分の書きたいように書いて発表できなければ意味はない。

小説というものは、往々にしてわざとわからぬように書くものである。
わかるように書くのであればシナリオのト書きのように書くのがよい。
だれが話したかわかるからだが、
しかし、
よく読めば誰の発言かがわかるのが小説というものだ。
よく読んでも誰の発言だかわからないこともあるが、それはその他大勢の脇役が不規則発言をしたと考えてもらいたい。
わからないのにはそれぞれそれなりの意味がある。

たとえば私の書いたものの例でいうと、「エウドキア」の冒頭、

> ある穏やかに晴れた朝、エウドキアは庭先の丸石に腰を下ろし、目の前に広がる故郷の海の砂浜でブルトゥスが波にじゃれているのをぼんやりとながめていた。

としたが、これは何度も何度も書き換えてこの形に落ち着いたのであり、
私としてはこう書かざるを得なかった。
ここではエウドキアが何者かはわからぬ。
もちろん「エウドキア」というタイトルの話だから主人公だということはわかる。
副題やあらすじもつけているからエウドキアが将来ローマの皇帝になることも読者は知っていよう。
だが、ブルトゥスが何者かはわからぬ。
波にじゃれているのだから子供か飼い犬か何かだろうとは予測がつくが、
実際ブルトゥスが何かというのは、ずっと後になってみないとわからない「仕掛け」になっているのだ。
多くのものはこの段階ではぼんやりと、ラフに描かれていて、
次第に細密に描きこまれていくのだ。
それが小説というものだろう。

私の場合は特に、歴史小説の冒頭は、
現代小説のように書くようにしている。
しばらく読んでいくうちに歴史的な小道具を出してきて、
現代ではありえない、過去の、ある場所の出来事であることがわかるようにしている。
なぜかというにあたまっから過去の歴史の話であると思って読んでほしくないからだ。
今自分の身の上におこったことのように感じてほしい。
つまり当時の空気の中に読者を連れ込み没入させたいからだ。
また作者自らも当時の空気の中に浸ってみたいのだ。

源氏物語のように句読点もカギ括弧もなかった時代の文章に、
適当に句読点やカギ括弧やふりがなを付けるのは良いだろう。
しかし近代の小説をいちいちいじくり回すのはやめたほうが良いのじゃないか。
我々が普段目にしている夏目漱石の小説も、おそらく、
新聞に連載されるときに新聞社の都合で手直しされ、
教科書に掲載されるときに出版社の都合で手直しされたものであって、
夏目漱石そのままの文章では無い。
そうやってだれかの不作為の意図によって文章は改編され均質化されていく。
決して良いことではない。
昔の人が書いた油絵を俺ならこう描くと手直ししているようなものであって、
絵画では決して許されないことだ。
文章だから心理的にも技術的にも割と簡単にできてしまう。

労働からの解放

H・G・ウェルズのタイムマシンというSFでは未来の人は働く必要がなくて、
ずっと子供のまま成長せず、遊んで生殖活動だけしていると描かれている。

人類は文明が発展して労働から解放されつつあるのは確かだが、
同時に労働を奪われつつもある。
みなが労働しなくて遊んで暮らせれば良いが、
実際には労働しなければ貧困におちいり遊び暮らすどころではない。
同じ事は産業革命の頃にもあった。

人類が労働から解放されて貴族のように遊んで暮らせるようになるのはいつのころか。
そんな時代が未来にくるのだろうか。
ディストピア?

安積

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。

> 安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

極めて古い歌である。

> 安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國
> 右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日

この葛城王とは橘諸兄のことであるという。
聖武天皇の時代。
ほかにも、古今集に

> みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ

とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。
芭蕉の奥の細道で有名。

伊勢物語の

> みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

これも相当な古歌であろう。
安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。

> みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ

> みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも

弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。
「反る」は「せる」。
安達も信夫も安積もほとんど同じところ。

これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、
聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。
白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、
安積や信夫はすでに前線基地というよりはそれより後方の兵站基地であったろう。
このみちのく征伐に常陸や下野の関東武士が動員されたのは当然あり得ることである。
将軍クラスは大和の人たちであり、和歌くらいは詠めたのに違いない。

上記の歌は本来はえぞみちのくという外征先から大和にもたらされた音信のようなものであっただろう。
光孝天皇によって平安朝に和歌が復活した以後には単に歌枕となってしまい、
実景を詠む人はいなくなってしまった。
いたとしても頼朝くらいだが、
頼朝は自分で白河の関を越えてはいない。

西行は信夫佐藤氏であろうとされている。
佐藤は藤原氏である。
関東や陸奥の藤原氏はみな藤原秀郷の子孫を称するが、
秀郷は下野の人である。
下野を拠点とした藤原氏が朝廷の外征に従って、
白河の関を越えて安達、安積、信夫と勢力を広げていった、
と考えられる。

西行は二度も京都からみちのくに下っているのだが、単なる郷愁であったのか。
それとも何かの仕事か。
二度目は東大寺の大仏が焼けたので平泉に大仏を再建するための金を勧請に行ったのだという。
しかしこのころ安達・安積・信夫は奥州藤原氏の支配であって、
頼朝とは白河の関で対峙し、京都とつながり、義経を匿っていた。
頼朝は藤原氏によって背後をうかがわれていたのである。
結局頼朝と京都は和解し、孤立した奥州は頼朝に討たれてしまう。

西行は奥州藤原氏に連なる人なのだが、
頼朝はよく彼を通したと思う。
西行は明らかに頼朝の敵である。
西行が京都・頼朝連合側の間諜だった可能性もあるかもしれん。

> 美み知ち乃の久く能の 安あ太だ多た良ら末ま由ゆ美み 波は自じ伎き於お伎き弖て 西せ良ら思し
馬め伎き那な婆ば 都つ良ら波は可か馬め可か毛も

弓の弦をはずしてそらしっぱなしにしておくと弦が付けられなくなるよ、
あまりほったらかしておくと、元の仲に戻れないよ、という意味。
安達太良真弓は非常に強い弓であったとされる。
「めかも」は反実仮想だわな。

山家心中集

岩波書店の全集あるいは岩波文庫などでは、
勅撰集は定家の新勅撰集まででそれ以後の歌集がほとんどない。
8代集以降の21代集やら数々の私家集は、確かにおおむね退屈だが読まなくて済むものではない。
特に私は最近、正徹に注目しているのだが、詳しいことはほとんどわからない。
禅宗とも関連がある。
こういう人がいるからうかつに何も大したことのなかった時代では済まされない。

鎌倉後期京極派の玉葉集、風雅集に関しては岩佐美代子氏による精細な研究書があるが、
他はほとんどうち捨てられ、
鎌倉時代や室町時代の和歌などどうでもよいというような状態である。
唯一、角川国歌大観があるのみと言ってよい。

時代がずっと下って江戸後期や幕末の歌人、
たとえば香川景樹や小澤廬庵などは全集に採られているものの、
やはり江戸時代、特に、後水尾天皇や細川幽斎の時代の厚みが無い。

それはそうと「山家心中集」を見てみると、「山家集」とくらべて歌の配置がずいぶん変わっていて、
詞書きも略されている。
「山家集」から誰かが抜き書きし配列し直したものだといってよい。
特に注目すべきは、あの有名な「ねがはくは」の歌がずっと巻頭のほうに移動していて、
「花」が「さくら」特に「やまざくら」としか解釈しないような配置になっているということだ。
これがまあ後世の西行の見方なのだが、
すでに鎌倉期成立の「心中集」においてすでにそのような形になっていた、
もし「山家集」が失われて「心中集」だけが伝わったら、
西行という人はよりわからなくなっていただろう。

西行は多作な人で当時から人気も高く、また自ら人に自詠を披露するのも好きな人だったようだ。
だから歌が残るのは当たり前だが、
「山家集」が自著かというのはあやしい。
かなり不親切な、雑多な寄せ集めのようにも思える。

「明治天皇百首」というようなごく短いものを書こうと思うのだが、
なかなか書けない。難しい。
私は明治天皇御製から和歌を学んだので、
明治天皇を師として私淑したわけで、
その批評をするというのは非常におこがましい気がする。
しかし、私以外の誰が明治天皇の歌の真価を広く知らしめられようかと思うと、
いずれ書かぬわけにはいかないとも思う。
明治天皇の歌を評価するということは、
ありのままの明治天皇と一人の人間として向き合うということだ。
明治大正の歌人たちにはそれが恐れ多くてできなかった。
しかたのないことだ。
天皇の歌を知るということは人としての天皇を知ることだ。
誰かがやらねばならない仕事だとは思わないか。

人気記事の順位で言えば明治39年が一番アクセスされている。
日露戦争が終結した年だ。
なるほどみんなそこが好きなんだなあと思う。