月別アーカイブ: 2014年7月

「とある」と「かかる」

「或る」を「と或る」と書く表現がはやっていて、特に、 ラノベのタイトルに唐突に用いられるのがよく見受けられる。 なぜ「ある」と書けばよいところをわざわざ「とある」と書くのかという疑問がわいてくるのだが、 文法的に間違っているとも言い難い。 この違和感をどう説明すればよいか。 調べてみると、太平記に 「とある辻堂に宮を隠し置いて」というのが初出らしい。 も少し調べてみると、「とあれかくあれ」「とまれかくまれ」のような形はもっと古くて、 それが「ともかく」「とかく」のような形で定着する。 「ともかく」の「と」と「とある」の「と」は同じ由来なのだ。 そしてこのような「と」の使い方は万葉集の時代までさかのぼる。 つまりは由緒正しい古語なのである。 「とある日」は不確定の日であろう。 「かくある日」「かかる日」は特定の日であろう。 「とあれかくあれ」ならばそれら全部をひっくるめてすべての場合という意味になる。 「或る」はもともと漢文訓読に由来するという。 この「或る」が「とある」と混同されて広く使われるようになったのかもしれない。 そもそも「或」は「とある」と訓読すべきであったかもしれぬ。 「とある科学」とか「とある魔術」のような言い方が重宝されているのはなぜか。 新しいニュアンスが追加されているのは間違いない。

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会話記号

[『山月記』の会話記号](http://ameblo.jp/muridai80/entry-11901836130.html)。 確かに中島敦は句読点やカギ括弧の使い方にかなりのゆらぎがある人で、 私としてはそれに好感を持っている。 言語として意味が通るかぎり作家は出版社や新聞社の慣習や、文部省の指導要領などから自由に、 文章を書くべきである。 作家は型にはめられるべきではなく、また自ら型にはまるべきではない。 > 「おはよう」と言った。 と > 「おはよう。」と言った。 には若干のニュアンスの違いがある。 それを誤記だと決めつけられるのは困る。 この例ではわかりにくいかもしれないが、私はカギ括弧の終わりの「。」は原則省かない主義であり、 しかし、「。」を意図的にはぶく場合もあるのだ。 記法が統一してないとか誤記だとか言われても困る(もちろんうっかり間違うこともある)。 間接話法だからカギ括弧はいらず、直接話法だからつけなくてはならない、とかそんなことはどうでもよろしい。 > 次の朝いまだ暗いうちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人食い虎が出るゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたがよろしいでしょうと。 カギ括弧を付けたほうが落ち着きがよいのはわかる。 特に「通れない。」で一旦切れているから、全体をカギ括弧でくくったほう… 続きを読む »

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労働からの解放

H・G・ウェルズのタイムマシンというSFでは未来の人は働く必要がなくて、 ずっと子供のまま成長せず、遊んで生殖活動だけしていると描かれている。 人類は文明が発展して労働から解放されつつあるのは確かだが、 同時に労働を奪われつつもある。 みなが労働しなくて遊んで暮らせれば良いが、 実際には労働しなければ貧困におちいり遊び暮らすどころではない。 同じ事は産業革命の頃にもあった。 人類が労働から解放されて貴族のように遊んで暮らせるようになるのはいつのころか。 そんな時代が未来にくるのだろうか。 ディストピア?

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安積

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。 > 安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに 極めて古い歌である。 > 安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國 > 右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日 この葛城王とは橘諸兄のことであるという。 聖武天皇の時代。 ほかにも、古今集に > みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。 芭蕉の奥の細道で有名。 伊勢物語の > みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに これも相当な古歌であろう。 安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。 > みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ > みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも 弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。 「反る」は「せる」。 安達も信夫も安積もほとんど同じところ。 これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、 聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。 白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、 安積や信夫はすでに前線基地というよりは… 続きを読む »

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山家心中集

岩波書店の全集あるいは岩波文庫などでは、 勅撰集は定家の新勅撰集まででそれ以後の歌集がほとんどない。 8代集以降の21代集やら数々の私家集は、確かにおおむね退屈だが読まなくて済むものではない。 特に私は最近、正徹に注目しているのだが、詳しいことはほとんどわからない。 禅宗とも関連がある。 こういう人がいるからうかつに何も大したことのなかった時代では済まされない。 鎌倉後期京極派の玉葉集、風雅集に関しては岩佐美代子氏による精細な研究書があるが、 他はほとんどうち捨てられ、 鎌倉時代や室町時代の和歌などどうでもよいというような状態である。 唯一、角川国歌大観があるのみと言ってよい。 時代がずっと下って江戸後期や幕末の歌人、 たとえば香川景樹や小澤廬庵などは全集に採られているものの、 やはり江戸時代、特に、後水尾天皇や細川幽斎の時代の厚みが無い。 それはそうと「山家心中集」を見てみると、「山家集」とくらべて歌の配置がずいぶん変わっていて、 詞書きも略されている。 「山家集」から誰かが抜き書きし配列し直したものだといってよい。 特に注目すべきは、あの有名な「ねがはくは」の歌がずっと巻頭のほうに移動していて、 「花」が「さくら」特に「やまざくら」としか解釈しないような配置になっているということだ。 これがまあ後世の西行の見方なのだが、 すでに鎌倉期成立の「心中集」においてすでにそのような形に… 続きを読む »

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「いただく」と「くださる」

例によって病院で処方箋もらってドラッグストアで薬出てくるのぼーっと待っていたのだが、 店内アナウンスで、最初に 「本日のご来店まことにありがとうございます。」とか 「ご来店いただきましてありがとうございます。」という枕で始まって 「ご来店いただきましてありがとうございました。」でしめている。 で、 竹田恒泰という人が [問題 次の文の誤りを正しなさい。「ご来店いただき、ありがとうございました。」](https://twitter.com/takenoma/status/487542912381493249) などと言っているわけだが、正解は 「ご来店くださり、ありがとうございました。」 なのだそうである。 はて。何か変ではないか。 この理屈で言えば、 「ご宿泊いただきありがとうございました。」 「お召し上がりいただきありがとうございました。」 などもダメで、 「ご宿泊くださりありがとうございました。」 「お召し上がりくださりありがとうございました。」 でなくてはならないことになる。 ここでは「お客様にご来店いただいた」 「お客様にご宿泊いただいた」 「お客様にお召し上がりいただいた」ことに対して、 店主や従業員が「ありがとうございました。」とお礼を言っているだけのことであって、 特別問題とは思えない。 「いただく」は「もらう」の謙譲表現、「くださる」は「くれる」の尊敬表現。 「もら… 続きを読む »

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自殺

すでに誰か指摘していることだと思うが、 夏目漱石の「こころ」では「K」がまず自殺し、次に乃木希典が妻を巻き添えにして殉死という形で自殺し、 最後には「先生」も自殺してしまう。 この小説のテーマが自殺であることは紛れもない事実だ。 なぜ高校の教科書に必ずと言ってよいほどに「こころ」が掲載されているのか。 自殺した作家も多い。 すぐに思いつくだけでも病気を苦にして死んだ芥川龍之介、情死した太宰治。 三島由紀夫も自決という形で自殺したし、 江藤淳も妻を追って自殺した。 他にもいるかもしれないがこのくらい挙げれば十分だろう。 日本は自殺が多い国だが、この特殊な、近代日本文学の影響は当然あるだろうし、 そうした状況で、「こころ」が必ず教科書に採られるというのは異様な気がする。 自殺防止に躍起になる一方で自殺を美化しているような。 小説やテレビドラマでは死、殺人、自殺があふれていて日本人は不感症になっている。 だから別に高校教科書だけ健全でも仕方ない、影響ないと言えばいえるかもしれない。 実際古代ギリシャ悲劇にも死や殺人はつきものだ。 アガメムノーンの娘イーピゲネイアも、神に犠牲として献げられる形で自殺している。 だが、それにしても「こころ」は大した話の盛り上がりもないのに、 「K」「先生」の二人が自殺するというのは異常ではないのか。 高校生の頃は案外読んでもピンとこないものだが、 年をとって… 続きを読む »

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シンクロ率

小説を書けば書くほどにわからなくなっていく。 著者と読者が共感できる話を私は書けないのだろうか。 読者と、せめて50%くらいはシンクロしたい。 100%はまあ無理として(著者しか知らない裏設定などがあるから)80%とか90%くらいは普通にシンクロしたい。 だが現状は10%くらいだと思う。 どうしてこうなってしまうのか。 120%くらい理解してくれる読者がいてくれるとうれしいのだが。 つまり、私が隠しているつもりの裏設定までみやぶり、 私自身も気づいてない私の深層心理までも指摘してくれるような。

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著者不在読者万能

私の小説の中では「エウメネス」「エウドキア」がよく売れている方なのだが、 比較的マイナーなはずのエウドキアが売れている理由がよくわからなかった。 だがオタクの世界では、エウメネスほどではないにせよ、エウドキアはよく知られたキャラであり、 エウドキアがどんな人であったか知るために(もしかすると二次創作のための設定資料として)ポチる人が多いのではないか。 私以外の全然別の人が全然別の話を書いても同じくらいには売れたのではないか。 とすれば私という書き手は不要であり、不在であり、存在するのは読者だけということになる。 私が書かなくてはならない必然性がない。 本を売るということは、それを買う読者がいるということであり、 ようは読者万能ということである。 同じ事はすべてに言える。 政治家にしろ君主にしろ、近代・現代は国民万能時代だからどうしてもそうなる。 売れっ子ライターやアルファブロガーなどみんなそうだ。 ツイッターではそういうよく読まれる人のことは、なんと呼ばれているのだろか。 私は話の中で登場人物を死なせるのが嫌いだ。 もちろん歴史小説では死ぬが、それはその人が死ぬことが歴史的に確定しているからだ。 私が勝手にこしらえた人物を殺すのは忍びない。 ほとんど唯一の例外は墨西綺譚に出てくる乾長吉だが、墨西綺譚は今は非公開にしている。 石原慎太郎、村上龍、山田詠美、村上春樹などの流れをみると、… 続きを読む »

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砂丘

最近になってミュートとリストという機能をおぼえて、割とほんきでツイッターを使い始めた。 小説を書いて公開していて思うことだが、 こういうコミュニティは閉じていて、 一定以上の読者を獲得するのは難しい。 いろんなコミュニティを渡り歩くのは有効ではあるが、 結局いつかは頭打ちになる。 ツイッターはいろんな人たちがいるからコミュニティが閉じてないというか、コミュニティが非常に広い。 そういう世界で地道に人をフォローし、人からフォローされることは、 いわゆる名刺を配る的な営業のようなもので、 やってみる価値はあるんじゃないかと思い始めた。 Adwords なんか広告使う気にはあまりなれない。 現在やっと2000の壁超えたばかりくらいだが、2000フォローしているうち1000くらいはミュートしてると思う。 ミュートしているのは営業とボットが多いだろう。 ミュートしてないけどそもそもあまりツイートしない人もいるから、 素で読んでるのは500くらいか。 それでも多い。 リストもかなり使っていて、 こちらはどうせフォロー返ししてくれなさそうなw有名人や政府機関なんかが多い。 ボットもフォロー返ししてくれなさそうなのはリスト。 すべてのリストを公開しているわけではない。 一度やっと二桁くらいリツイートされたことがあり、 はあ、こんなことリツイートするんだなあと感心した。 世の中にはプロと素人と、その… 続きを読む »

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