なかなか治らない。
たぶん、神経が壊れることによって、触ったとか冷たいという感覚がすべて、痛みとして知覚されるのだと思う。すべての皮膚感覚が暖かさとか冷たさとか触覚に間違われるよりは安全というか、フェールセイフにできているのだろうが、ただものに触れただけで痛いのは困る。治るのに年齢と同じくらいの日数がかかるとか書かれていたりするのだが、
一か月半近くも治らないのだろうか。まだ十日くらいしか経ってない。別に普段の生活に困るわけではないが、不快だ。
健康第一。年寄り臭い。
なかなか治らない。
たぶん、神経が壊れることによって、触ったとか冷たいという感覚がすべて、痛みとして知覚されるのだと思う。すべての皮膚感覚が暖かさとか冷たさとか触覚に間違われるよりは安全というか、フェールセイフにできているのだろうが、ただものに触れただけで痛いのは困る。治るのに年齢と同じくらいの日数がかかるとか書かれていたりするのだが、
一か月半近くも治らないのだろうか。まだ十日くらいしか経ってない。別に普段の生活に困るわけではないが、不快だ。
健康第一。年寄り臭い。
急にやることがなくなった。じたばたしてもしかたない。
ウィルスはすでに免疫系によって退治されたようだが、破壊された神経がひりひり痛む。何もしないとどうということはないが、皮膚をさすると痛い。体の芯のほうでは腰痛のような痛みになる。これが神経痛というものなのだな。で、神経が回復するまで三週間くらいかかると。慢性化して残ることもあるらしい。こわいこわい。
もう年寄り臭い病気ばかりで困る。実際年よりなんだが。
こういう神経痛とかリューマチとかヘルペスとか皮膚病とか痛風とかにかかった老人が、米持ち込みで自分で炊いて何日も逗留するような湯治場を利用するんだなあと思うと、なんかしみじみとしてくるわな。そんなじじばばの中に混ざって、自分もじじいなわけだが、米をといで塩昆布かなんかで食べてるところを想像したりする。確実にあと20年で、はやければ5年か10年でそうなる。
和歌の本にはある一つの定型がある。
歌人の評伝と歌の解釈からなるのが普通。
ところが今回私が書こうとしたのは、
禅と、和歌と、武士というおよそ三つのテーマがあって、
それらが渾然と絡まりながら発展していく、
その中心には定家があり、承久の乱がある。
こういう本は、普通、和歌を学びたいと思っている人が読んでも、
関係ないことばかり書かれていて読めない、ということになる。
承久の乱について読みたい人には関係のない禅や和歌の話が多すぎるということになる。
禅についてもそうで、読者はすでに禅についてのある種の先入観を持って禅の本を手にとるのであり、
それが栄西とか定家とか泰時のことばかり書いてあるとなんじゃこりゃと思うだろう。
禅の本が読みたい人はふつう道元にしか関心がない。
そこを敢えてはずすのが私の本の書き方というか、
普通の書き方なら私以外の人が書けばいいわけで、わざわざ私が書く必要がないと思える。
で、要するに、
本は、和歌なら和歌のことだけ書かなくてはいけないらしい。
和歌と承久の乱に関係があるとしたら、和歌をメインに、
承久の乱は大根のツマくらいに添えないと本という形にならない。
マグロの刺身と大根が皿の上に並べてあっては料理にならないようなものだ。
普通はそれを調和とは言わない。
和歌の話をしながらいつの間にか話題は栄西に移り、栄西から頼朝、頼朝から泰時に移っていく。
私が好きなのはそんな本だ。
ありきたりの本など読んでいるくらいならWikipediaでも読んだほうがましだと思う。
或いは論文かなにか読んだほうがましだ。
たいていはWikipediaとかオープンアクセスの論文読んでれば足りる。
和歌はデータベースで読むほうがはるかに効率が良い。
あとは、『明月記』とか公家の日記なんかが直接読めればそれでよい。
それ以外の本など読むだけ時間の無駄だ。
いや、読む価値がある、書く価値がある本というのは、
私にとってはそれ以上の「新規な知見」があるものでなくてはならない。
道元の話をしてもいいんだが、
道元は村上源氏で久我氏の出でどうのこうの、だから和歌もうまいし漢詩もうまい、
それに比べて栄西は瀬戸内の豪族で材木商で日宋貿易とも関わりが深く、
平頼盛が檀那だったとか、
どうしてもそんな話になってしまう。
普通の人ならちゃんと道元の話しろよと怒ると思う。
ずいぶん長い間定家ばかりやってたが、とりあえずこっちは書き終えたということにして、
久しぶりに「海賊王ロジェール」とか「江の島合戦」などを読んでみた。
半年経つとかなりディテイルも忘れているし、
文体とか興味とかもずれてくるので自分が書いたものだがわりと新鮮に読める。
読んでみるとそれなりに面白い。
アブドゥル・ラーマンとかその娘のナディアなんて脇役は自分でもすでに忘れていたが、
こういうふうに登場させてこういうふうに描写する以外方法ないんじゃないかとおもう。
問題なのはアブドゥル・ラーマンというものすごくマイナーなシチリアの海賊を登場させることにあって、しかも彼は実在の人物であり、そこから大きく逸脱するような書き方は私はしたくないということにある。
私自身はアブドゥル・ラーマンはそのままで十分魅力的な人物に思えるが、
一般の日本人にはそうではあるまい。
「江の島合戦」にしてもこのネタで主人公を太田道灌に書くならこういう書き方をするしかない、
というか、
これより面白くはなかなかならんと思うのだが、
なにしろ「江の島合戦」という超マイナーな局地戦の話であり、
登場人物が小山氏とか宇都宮氏とか結城氏とか里見氏みたいなめちゃくちゃ関東ローカルで、
戦争自体地味で盛り上がりもなく、
そこがまた味なんだが、
一般受けするはずもない。
で、半年くらい前の私は、
ほかにも「人斬り鉤月齋」などいろんなものを書いてみて、
どこかで普通の人の興味をひかないかな、
当たりがあればそこは連載していこうってことを試行錯誤してたと思うんだが、
今や万策尽きた。
どこも当たらないのだ。
つまり、私の場合、四十年くらいの読書歴があり、
他人の本で読みたいものがなくなったので、自分が読むために小説を書き始めたようなところがあり、
自分が面白くて他人も面白ければ売れるんじゃないかという期待もあり、
少なくとも自分にとって面白い小説はかけるようになったと思うんだが、
自分に面白い小説と他人が面白いと思う小説にはほとんど接点がない、
もしくは、
潜在需要はあるかもしれんが、それを売る方法がない、
というところで行き詰まった。
自分が面白いと思うものを書くだけじゃだめなので、
やはり編集者とか出版社のような他者がなくてはならない、
少なくとも、私の場合は書いたものが直接読者に受け入れられることは考えにくい、
ということなわけだ。
で、書きたいものは今までどおりkindleで出したりブログに書いたりしていけば良いかもしれんが、
それ以外のところをどうしようかというのが問題だ。
気力が続かないのでこのへんにして脱稿すると思う。体の表面の腫れは収まってきたが、皮膚がひりひりするとこがあちこち飛び回ってなかなか収まらない。ウィルスは撤収を始めたが免疫系との最後の戦いを繰り広げているのだろうか。
はよう酒が飲みたい。
連休がつぶれたともいえるし、連休だから助かったともいえる。