太田資長こと道灌の父資清の法名は道真であって、法名が似ているところから、父と同様な経緯で出家したものと思われる。
主君の扇谷持朝の法名が道朝であるところから、おそらく持朝の死(1467)とともに出家して道灌と名乗ったのだろう。
ググると道灌は、川越長福寺を開いた、曹洞宗の雲崗俊徳禅師のもとで出家したことになっているのだが、
道灌が曹洞宗であるとは信じられぬ。
道灌は鎌倉扇ガ谷で生まれ育ったが、鎌倉には臨済宗の禅寺しかない。
現在鎌倉にある曹洞宗の寺はもっとあとにできたもののはずである。
道灌が幼い頃、建長寺他鎌倉五山に学んだ、ということはいかにもありそうな話である。
であればなおさら道灌は臨済宗でなくてはならぬ。
1474年の武州江戸歌合ではすでに道灌と名乗っていたらしい。
しかし太田道灌の嫡男資康が生まれたのが1476年。
出家した後に子供を生んだりするものだろうか。