太田道灌の出家

太田資長こと道灌の父資清の法名は道真であって、法名が似ているところから、父と同様な経緯で出家したものと思われる。
主君の扇谷持朝の法名が道朝であるところから、おそらく持朝の死(1467)とともに出家して道灌と名乗ったのだろう。

ググると道灌は、川越長福寺を開いた、曹洞宗の雲崗俊徳禅師のもとで出家したことになっているのだが、
道灌が曹洞宗であるとは信じられぬ。
道灌は鎌倉扇ガ谷で生まれ育ったが、鎌倉には臨済宗の禅寺しかない。
現在鎌倉にある曹洞宗の寺はもっとあとにできたもののはずである。

道灌が幼い頃、建長寺他鎌倉五山に学んだ、ということはいかにもありそうな話である。
であればなおさら道灌は臨済宗でなくてはならぬ。

1474年の武州江戸歌合ではすでに道灌と名乗っていたらしい。
しかし太田道灌の嫡男資康が生まれたのが1476年。
出家した後に子供を生んだりするものだろうか。

とても難しい

> Später, als sich eines hierin, das andere dorthin in den Wald hinein verlor, sah Nelly, wie Sarah, an einen Baumstamm gelehnt, vor sich hin schaute, tief in ihre Gedanken verloren.

eines(あるもの) と das andere(ほかのもの)、hierin(ここの中で) と dorthin(あそこへ) は呼応していると思われる。
最初の突破口はこの対句的表現だ。

となると sich はおそらく verlor と絡んでいて、
sich in den Wald hinein verlor 森の中へ消えていく、だろうか。主語は eines や das andere だ。
eines は einer の中性1格であるはずだ。

ある者はこちらへ、またある者はあちらへと森の中へ消えて行き、となる。

Nelly sah, wie Sarah … shaute, tief verloren. であろう。

vor sich hin は、あてどなく、それとなく、なにとはなしに。

> それぞれが森の中へ散っていった後、ザラと同じようにネリーは、木にもたれて、ぼんやりとあたりをながめながら、深く物思いにふけった。

となるのだろう。
この一つのセンテンスを解釈するだけでゆうに一時間はかかった。

明治神宮の森

明治神宮の森が今年で100年目だというのをNHKでやっていた。
明治神宮はもともとは荒れ地だった。
荒れ地と言えるかどうかはともかく、代々木練兵場という更地だったわけだ(江戸時代は井伊家の下屋敷等)。
100年前に3人の天才がいて、
最初針葉樹と常緑広葉樹を植えて、
だんだんに針葉樹が枯れて常緑広葉樹が優勢になり、
人間が手を加えなくても持続可能な、昔ながらの武蔵野の森が「再生」されるよう計画したのだと言う。

これは内村鑑三の
[デンマルク国の話 信仰と樹木とをもって国を救いし話](http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/233_43563.html)
にそっくりである。
「デンマルク国の話」は1911年初版なので、
明治天皇崩御の直前だ。
この頃にはすでに、先に針葉樹と広葉樹を混ぜて植えておき、
次第に広葉樹が優勢になっていく、というような植物学的手法は、内村鑑三ですら知っていたということになる。
ただまあ内村鑑三を農学者と言うことは不可能ではない。

それで私はこのダルガス父子のことをwikipediaなどで調べてみたのだが、
小樅と大樅を混ぜて植えてある程度大樅が生長したら小樅を切り倒すことで、大樅が育つという、
この話の根拠をどこにも見いだすことができなかった。
ダルガスの話はシュレスヴィッヒホルシュタイン戦争(1864年)頃より後のことなので、
ちょうど幕末維新頃だ。
そしておそらくこの話を内村鑑三は札幌農学校時代(1880年頃)にほぼリアルタイムに聞いたのに違いない。
ダルガスという一人の天才がこの植林技術を発明したのではないと思う。
いろんな農学者がいて、それらの研究が総合されて、おおよそ確からしい植林手法というものが確立されていったはずなのである。

何が言いたいかといえば
100年前に3人の天才がいた、などというのはただのNHKの煽り文句だということだし、
内村鑑三の話もかなり脚色されたものだということだ。

さらに言えば、太古の武蔵野の森などというものが存在するはずがない。
武蔵野はもともと火山灰の上に広がる草原もしくは湿地だった。
武蔵野に森ができたのはおそらくは江戸時代以降であり、それも人工林として作られたものだ。
国木田独歩の「武蔵野」に描かれた光景というのは完全に人手によって管理されたものだ。
そんなことは調べればすぐわかる。
大正時代の農学者が信じた「理想郷」をなぜ現代の我々も信じなくてはならないのだろうか。

思うに、明治神宮の森が植林した後人手が加わらなかったのは鎮守の杜という性格のものだからだろう。
そこに当時常識となりつつあった植林技術の話が薬味として加わったにすぎない気がする。
つまりは結果論だ。

今は藤原定家とヨハンナ・シュピリを同時並行でやっているのだが、
定家のほうは最終校正を終えたので、もうやることはほとんど残ってない。
いろんな意味で疲れたが、KDPと違ってこっちは共同作業的な部分が多いので、あまりいろいろ書くわけにはいかない。
著者名も田中久三でもなく、実名でもなく、なんとなく中途半端な感じになってしまったが、
まあそちらの名前で知られるならそれでも全然かまわない。
KDPのほうを廃業するつもりはないが今は完全にこちらに軸足を移した、といえる。

私の場合、昔は共著で紙の本を書いていたこともあるのだが、
2000年くらいにばかばかしくなってやめてしまった。
その後某雑誌の編集長のようなことを少しやった(それも紙の本のうちに入るといえば入る)が、それも疲れてやめてしまった。
今回本を出してもらえるのは100%その縁故である。
いろんな寄り道をしていろんなムダをしてきたが、50歳となったいま、
ほんとに役に立ったのはあのとき編集長をしたことだったかもしれないと思う。
おかげで単著の本をこの世に残せるのだから。

KDPは個人名で本を出版できるのでとてもすばらしいと思うが、
明らかに限界にぶつかってしまっている。
今回紙の本を個人名で出せることになったのは非常にうれしいことだ。
なぜ私に書かせてくれたかということもだんだんにわかってきたのだが、それもここに書くのははばかられる。
今後の企画もいくつかあり、しばらくは本を書かせてもらえるようなので、がんばってみるつもりだ。
KDPはともかくとして、昔共著で書いた本(書かされた本)しかこの世に残せないのは非常に腹立たしかったので、
そしてほんとうに書きたいものを今回は書けたと思う。

田中久三という完全に匿名のペンネームで書き始めたのは2009年から。
そのきっかけは今となってはどうでもよいことだが、
その頃から、本業や本名とは別に作家活動がやりたくなったわけだ。
田中久三の名で本を書くことと、実名でやっている仕事と、最初はそんなに分けるつもりはなかった。
分けることによる不便さというのは実際大きい。
KDPで書いているうちはわけるのはそんなむずかしくなかったし、わざわざ私がどんなやつか調べる人もいなかったと思う。
しかしこれからは分けるのは難しくなってくる。
今度出る本には今まで明かしていなかった私個人の情報がいくらか出る。
それでも私が誰かということはわからんと思うが、
いつまでもそうしてはいられない。
もともとばれてこまるようなことはしてないのだけど。

ドイツ語のほうはずいぶん上達したと思う。
もっとはやくからまじめにやればよかった。
フローニを訳した頃はほんとひどかった。
とりあえずドイツ語の翻訳で少しまとまった仕事がしたい。
いわゆる小説を書くというところからはしばらく離れるかもしれない。

私の場合こないだ50になって、精神的にも肉体的にもすでに限界を超えている気がする。
執筆活動に専念できたらなと夢想もする。
いやそもそも、もっとはやくから著作活動をやっていたら良かったと思う。
文章はだんだん書いているうちにうまくなるものだ。
35、いや、40歳くらいから本気で始めていたら全然違っただろうなと思う。