伊豆の修善寺温泉に行くことにしたのだが、
鎌倉などに比べてネット上にあまり情報がなくて困った。
まあ、鎌倉と比べるのもかわいそうだが、るるぶなどの旅行情報誌にもあまり情報がない。
るるぶ紙面では沼津や三島などの情報も非常に少ない。
今回、沼津、三島、韮山、修善寺と観光して回ったのだが、
潜在的需要の割りには観光情報が不足していると感じた。
沼津駅から若山牧水記念館あたりまで歩く。
海からの富士山の眺めはいわゆる絶景。
田子の浦の製紙工場の煙突の煙もよく見える。
とんびかからすかかもめかしらないが富士山を背景に群れ飛んでいる。
沼津港で昼食。まあまあ。
タクシーで駅まで戻る。
1000円かからない。
タクシーならあっと言うまだが、ぶらぶら歩くと1時間コース。
時間がないときはあっさりタクシーで移動した方が良いだろう。
JRで三島に移動。
沼津市内にはほとんど観光客向けの表示がなくて難儀したが、
こちらはいたれりつくせり。
三嶋大社まで楽に歩けた。
三嶋大社はいろんな意味でいろいろ興味深い。
境内の南側に池があり、島があって、鶴ヶ丘八幡宮の場合ここは弁天様だが、
こちらは厳島神社が祭ってある。
富士山の豊富な伏流水が、ここ三嶋で湧き出しているのだ。
安政の大地震で社殿はすべて倒壊したが、
時の神主・矢田部盛治の尽力によって総檜造りで慶応四年に復興したという。
この矢田部家は物部氏の一族で伊豆国造の子孫でずっと三嶋社の神主として世襲しているというが、
国造というのはつまり律令で国司が任命されるより前の土着ということであるから、ほんとうならばおそろしく古い家系だ。
国造の子孫が今も続いている家系というのがどのくらいあるだろうか。
宝物殿の絵巻を見ると昔の社殿は朱塗りだったようだが、
幕末に復興された今の社殿はしぶく黒ずんだ天然木目である。
彫刻もかなりほどこされているが東照宮のように華美ではない。
やや狭いが神鹿苑というところに数十頭の鹿が飼われているのは、かつて鹿がここらで放し飼いになっていたなごりだろうか。
神馬社というのもかつてはほんとの馬を飼っていたそうだ。
三嶋社はもともと三宅島にあったが、
延喜式の時代には下田に移り、頼朝の時代にはすでに今の場所にあったようだ。
明治には官幣大社。
これまた宝物殿の説明によれば、伊豆沖に新島ができたり火山が噴火したり、
地震が起きたりといった自然現象はすべて三嶋の神の仕業だと考えられており、
また伊豆は地震や噴火が多いので、延喜式にも神社が非常に多く記録されているのだという。
確かに地震の神様とか噴火の神様というのは日本に居てもおかしくない。
浅間神社などがそれか。
伊豆諸島に680年頃に新たにできた島ってなんなのだろう。
調べてもよくわからん。
それから伊豆箱根鉄道駿豆線に乗って修善寺駅に向かう。
伊豆箱根鉄道というのは他にも小田原から大雄山線も運営しているのだな。
なるほど西武グループなのか。
バスが西武系なので不思議だと思った。
三島駅から修善寺駅までは30分程度。
そこからバスで210円で修善寺温泉へ。
タクシーだと1200円程度のようだ。
日が暮れたのでその日はそのまま寝る。
翌日観光。
伊豆半島の中央を流れて沼津辺りで駿河湾にそそぐ狩野川という、わりと大きな川があり、
その支流の桂川沿いに修善寺温泉郷はある。
なぜここに来たかと言うと、源頼家と範頼がこの地に幽閉され、殺害されもしくは自害し、
この地に墓があるからだった。
で、いまでは「伊豆の小京都」と呼ばれてミシュランで二つ星をもらっているらしい。
ミシュラン二つ星がどの程度すごいのかよく知らんのだが。
なるほど、レストランガイドの赤ミシュランと、観光ガイドの緑ミシュランというのがあって、
こちらは緑の方なのね。
まずは、頼家の墓、
頼家の死後蜂起した十三人の家臣の墓、
頼家の菩提をとむらうために北条政子が建てたという指月殿というものを見にいく。
指月殿は伊豆に残る最古の木造建築であるという。
指月殿にはなるほどそこはかとなく風情がある。
本来は修善寺に寄進された大蔵経を収める経堂だったらしいが、それらは散逸し、
今は釈迦如来像と仁王像が置かれている。
修善寺温泉郷の中心地は修善寺近くの桂川の中にある「独鈷の湯」というものらしい。
そのほど近くに新井旅館という古風な旅館がある。桂川に面しており、
向かいの岸辺の竹林は確かに小京都というだけのことはある。
おそらく戦前はこの新井旅館周りのこぢんまりとした温泉場だったのだろうなと思う。
独鈷の湯の周りの河川敷は工事中で入れず。
川沿いに新たに足湯なども建設中。
山奥のせいか梅もまだほとんど咲いておらず、桜もなく、紅葉もなく、
独鈷の湯も工事中ということで、いわゆる完全なシーズンオフに来てしまい、
宿もずっと外れだったわけだが、
だから割安だったのだろう。
人混みしているとそれはそれで鬱陶しい。
修善寺は寺の表記は「修禅寺」となっており、曹洞宗であればそれでも良いのだが、
弘法大師が開祖とは不思議だと思ったのだが、
もとは真言宗だったのだが、途中から臨済宗(禅宗の一つ)となり、
のちに北条早雲が曹洞宗(これも禅宗の一つ)として再興したのだという。
手水が温泉なのがやや珍しい。
鬼門に日枝神社あり。ここに範頼が幽閉された館があったらしい。
ここらだけ、杉木立がうっそうとしており、夫婦杉などある。
神社の境内は樹木の伐採などしないから自然とそうなるのだろう。
範頼の墓。やや離れたところにある。
帰途、韮山で降り、江戸時代の江川氏の代官屋敷、韮山町の郷土資料館、韮山城跡に行く。
正確には、韮山町は合併して伊豆の国市となったらしい。
韮山城は北条早雲の最初の居城。城山と城池が残る。
子母沢寛「新撰組始末記」によれば、近藤勇が生まれた調布も韮山代官江川氏の支配だったという。
蛭が島。
頼朝と政子の像。
富士山の方角を向いているのだが、
どうしても逆光になる。
フラッシュかレフ板が必要だな。
記念撮影しにくい。
しかも背景の送電線が気になる。
北向きに銅像を建ててはいかんね。
向きを変えた方がいいんじゃあるまいかなどと思った。
流刑地が蛭が島というのは後世の伝承、推定らしいが、
それ以外に特に情報もなく、
ここらは昔は狩野川の氾濫原で、
この辺りのどこかに、蛭が島という狩野川の中州があって、頼朝が居たと思ってもまあいいかと思った。
平氏がもし北条氏に託して頼朝を厳重に幽閉しようというのであれば、
北条の里の後背地で、より行き詰まった修善寺辺りの谷あいに住まわせるだろうが、
おそらくそこまで配慮はしていないだろう。
このやや狭苦しい伊豆の内陸部の狩野川の流域が北条の里であり、頼朝や北条氏や後北条氏の故地であった、
とおもえば、なにやら感慨深い風景ではあるな。