御家人の給料

折り焚く柴の記を読んでいると、御家人に支払う給料の話が出てきて、
御家人は料地をもたないから扶持米をもらうわけだが、実物をもらうのではなくて、
その年の上米・中米・下米のうち上米を基準としてその値を金で支払う習慣だったようだ。
上米が1俵(3.5斗 = 35升)で37両なので、
1俵の米の代わりに38両を支給せよ、などと書いてある。
実に興味深い。

wikipedia によれば御家人は30俵から80俵をもらっていたそうだ。
30俵だと年収が約千両ということになる。
別にそこから所得税や住民税や社会保障費を引かれるわけではなかろうから、
手取りが千両、ということであってるだろうか。
ただしそれをまるまる自分のために使えるのではない。
収入に応じて家来を抱えなくてはならないから、その家来と家族も養わなくてはならない。
となると千両は多いのか少ないのか。よくわからん。

同じ記述の箇所に「右筆集」というのが出てくる。
これはやはり下級書記官らのことをいうのだろう。

中ノ口、というのは江戸城本丸の事務方の執務室が並ぶところだが、
そこに「お給米の張り紙」というのが貼られて、勘定書から草稿が出てそれを右筆が清書して張り紙にする。

上米の値で支給すれば、御家人たちはその金で中下米を買ってしのぐので都合がよかろう、などと書かれている。面白いなあ。中下米はもっとずっと安かったようだ。

文庫本の補強

岩波文庫を買ってくるとまず背表紙部分に両面テープを貼ってカバーを固定し、
さらにカバーと表紙をスコッチの透明テープで貼り合わせる。
こうしてカバーと表紙を完全に一体化する。
古本としての商品価値はこれでゼロになるがとにかく買ったからには外に持ち出して読み潰さないことにはその方がもったいない。
ずっと持ち歩いていると、角が外側からだんだん折れ曲がり、折れ目から破れ始める。
これがうっとうしいからやはりカバーで補強しなくてはならない。
カバーを付けるのはほんとは邪魔で仕方ないのだが長年使い潰すにはそうするしかない。
新しいのをその都度補給してもよいのだが、絶版になると入手できないから仕方ない(絶版になる危惧の無いものはわりとぞんざいだ)。
たぶん私はあまり本を大事にしない方だと思う。読めれば良いという感じ。私のような読み方をする人を周囲でみたことがない。わりとみんな本を大事に扱う。私の場合関係あることはもちろんないことも描き込んでメモ帳にすることもある。紙媒体というのはそのへんが便利なのであり、フルに活用しなきゃ損だと思わないか。
そもそも本なんてものは買っていたら切りが無いから図書館から借りてくればいいんだが、頻繁に借りたり返したりするのが面倒だからわざわざ買うわけだ。一度しか読まずあとは本棚において背表紙を眺めるだけとか意味不明だ。しかしそういう蒐集家がいるからこそ本というものはそこそこ売れるのであろう。

ま、だから、特に良く読む本は同じのを三冊くらいもっている。一つは保存用で手をつけない。一つは予備(自宅用)でもう一つは携帯用。

加後号

いわゆる加後号というものは、
後一条天皇から始まっている。
これは系譜を見ると明らかなように、
村上天皇の皇子に冷泉天皇と円融天皇があって、
ここで皇統が二つに分かれてしまっている。
円融天皇を冷泉天皇の皇子の花山天皇がつぎ、
花山天皇を円融天皇の皇子の一条天皇が継ぎ、
一条天皇を冷泉天皇の皇子の三条天皇が継ぐ、といった両統並立状態だ。
これはまずいというので、
三条天皇を継いだ一条天皇の皇子には後一条天皇という追号がおくられた、後一条天皇が一条天皇の正統な後継者だ、
という意味合いが込められているのだろう。
それはわかる。

しかしその後がもうわけわからない。
後朱雀天皇は朱雀天皇の直系子孫ではないし、五親等も離れている。
後冷泉天皇も後三条天皇も円融天皇の系統であって、冷泉天皇の子孫ではない。
どうもこの道長・頼通の時代に朝廷の原理原則というものが乱れきっているように思われる。

新井白石は後三条天皇がお気に入りである。
蝦夷征伐を行い、記録所を置いて荘園を整理した。
しかしその後の鳥羽天皇や白河天皇はもうだめだ。

荘園ばかり増えて国司は任地に赴きもしない。
国の直接財源は百分の一ほどとなり、勝手な地方自治状態になっている。
鳥羽天皇や白河天皇も自分で荘園を持っていたから富裕だっただけであって、
きちんと国の経営をしたわけではなく、
そのツケが後白河天皇の時代に保元の乱やら平治の乱やら源平合戦となって噴出した、という考え方だ。

結局古代律令制というのは後三条天皇のときにすでに死んでいた、というわけだ。

中国では趙匡胤が統一国家宋を作り、歴史上世界的に中国が最も先進的な時代を迎えていた。
中国が工業も政治も軍事力もすべてにおいて世界に優越してのは宋のときしかない(宮崎市定の受け売りである)。
宋学という当時世界最先端の中央集権的な政治思想が当然後三条天皇の時代に日本に流れ込んできただろう。
道長タイプの政治家とは違う実務的で有能な官吏が、日本も宋のようになればよいと考えたに違いない。
そういう高級官僚は後白河法皇の時代にも、何人も現れている。
要するに私営地を減らして国営地を殖やし、国の財源を確保して、健全な国家経営をしようという、
ごくまっとうな、つまり現代的な発想をする人たちだ。
だがそういうまともな官僚たちは、はじめに藤原氏に、次には平氏につぶされてしまい、
結局源氏を経て北条氏に政治の実権がうつってしまった。

新井白石は高級官僚だから一民間人の頼山陽とはやはり発想が違ってくる。
天皇と朝廷が国を経営しなくなったのがまず悪い。
後三条天皇以後はもうむちゃくちゃで「政道を行はるることことごとく絶えはてて」「日本国の人民いかがなりなまし」という状態に至った。
だから頼朝が出て北条氏が出て賤臣の分際で国の政治を執り行った、ということになるのであり、
白石自身が感じていた為政者側の責任感というものから、そういう考え方に至ったのであり、至極自然だと思う。

後三条天皇は皇太子時代が長く藤原氏を外戚とせず、三十代半ばの壮年期に天皇に即位した。
これだけのことからでも、その志は察しえよう。

後三条天皇の号は母親が三条天皇の皇女(道長の孫娘)であるからおくられたものであろうか。
つまり藤原氏の血縁関係の方が皇統よりも重視されたということか。

友人に宛てて送った手紙

> 彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。

> 彼女は後に友人に宛てて「ウィーンでは私が不安の中で暮らしていると思っている事でしょう。でも、事実は違うのです。私は少しもナポレオンを怖いとは思っていません。むしろ、ナポレオンが私を怖がっているのではないかと最近思い始めました」という手紙まで書いている。

その、「友人に宛てて送った手紙」というのは実在するのだろうか。
その友人というのは誰なのか。
極めてあやしい。
調べてもよくわからん。英語版には何もそれらしき文言がないのは明らかだ。

しかしこれまた使えるネタではある。
虚構の「親しい知人に宛てて送った手紙」というものを持ち出せばいくらでもうそが書けるのだから。

安藤レイの感想

私の場合読者から感想を聞けることがほとんどないのだが、たまたま「安藤レイ」を読んだという人に話を聞いたら、結局人間の女よりアンドロイドが良いって話でしょとか言われて、違うよそれ全然読み間違ってるよとかいうと、世の中にはいろんな読み方をする人がいるのよとか逆に言われて、まあそういうものなのかもしれないな、こまかいところまで読む人はいないかもしれないなと思った。

世の中にはアンドロイドとはこういうもんだという先入観があり、アンドロイドと男と女とはこういうものだという観念があって、それを裏切るような書き方をしても、ざっと読んだ人には自分の思い込みの通りに書かれているとしか見えないのだろう。それはそれで面白い現象だ。なぜかというと私の書いたものはたいてい読者の観念を裏切るようにできているからだ。

世の中の大塩平八郎のイメージとか。アルプスの少女のイメージとか。そんなものを利用しながらまったく違うものを書いている。人の予測の裏をかく、そこが売りなはずなのだが、しかし、世の中の人がざっと読んだだけでは違いがわからんということになろう。

古典とかロングセラーとかベストセラーというものはたくさんの人に読まれるから世の中に固定観念というものを植え付ける力を持っている。それはすごいことなのだ。いいかわるいかはともかく。