宿貸せ

家隆の

> 海の果て空の限りも秋の夜の月の光のうちにぞありける

だが、この人は定家と同時代の人で、けっこうおもしろい歌をたくさん詠んだのだが、
玉葉集に採られていると思って見るとなんとなく浪漫的で幻想的のような感じがする。
つまり為兼の

> くにつちうるふあめくだすなり

のような感じ。定家の幽玄とかそういう禅宗的、前衛的な意味での幻想的というのでなくてね。
浪漫的としか言いようがない。
つまり、説明しにくいが、日本の花鳥風月を歌っていても、
どことなくドビュッシーやラヴェルの交響曲のようなものを感じるということ。

家隆の歌では私は

> 思ふどちそこともいはず行き暮れぬ花の宿かせ野べの鶯

これがわりとすきなのだが、素性法師の

> 思ふどち春の山べにうちむれてそこともいはぬ旅寝してしが

と大中臣能宣の

> をみなへし我に宿貸せいなみののいなと言ふともここを過ぎめや

の二つの歌を合成したような歌なのだな。

為兼の謎の連作

> 来し方はみなおもかげに浮かび来ぬ行く末照らせ秋の夜の月

これは玉葉和歌集にある定家の歌で、その後に為兼の歌が

> いかなりし人のなさけか思ひ出づる来し方語れ秋の夜の月

> 秋ぞ変はる月と空とは昔にて世々経しかげをさながらぞ見る

と続く。
いや、その定家の前の西行の歌

> 人も見ぬよしなき山の末までに澄むらむ月のかげをこそ思へ

や家隆の歌

> 海の果て空の限りも秋の夜の月の光のうちにぞありける

もなかなかすごい歌で、玉葉集に採られてなければもっと有名になったのかもしれん。
それは定家の歌についても言えることで、たまたまこの歌が玉葉集に採られたことによって、
定家の秀歌であるにもかかわらず歴史に埋もれてしまったのかもしれん、などと考えてしまう。

まず定家の歌だが、素直に解釈すれば、久しぶりに会った人に、その面影を見て、
これまでのいろいろな思い出がよみがえってきた、あるいは自然と想像される、というような意味だろう。
下二句はたぶんただの付け足しだ。

続く為兼の歌だが、これもそのまま素直に解釈するしかしようがない。
どのような人の恩義があったのか、思い出すことを語ってくれ、というような意味だろう。
最後のは、単なる叙景の歌とも取れる。
昔ながらのそのままの秋の月と空を見ている、という意味。
しかしながら、この、秋の夜の月の一連の歌の配置はみごとだ。

俊成

> 世を憂しと何思ひけむ秋ごとに月は心にまかせてぞ見る

> あはれとは我をも思へ秋の月いく巡りかは眺め来ぬらむ

西行

> 憂き身こそ厭ひながらもあはれなれ月を眺めて年の経ぬれば

きざな歌だな。定家

> 何となく過ぎ来し秋の数ごとに後見る月のあはれとぞなる

玉葉集に採られた歌だと、俊成や定家でも違ったおもむきがあるわな。
孝標女

> あはれ知る人に見せはや山里の秋の夜深き有明の月

孝標女。珍しい。どうやら更級日記に出てくる歌のようだ。当時18才。

> 思ひ知る人に見せばや山里の秋の夜深き有明の月

なんとこちらは新千載和歌集にも採られているようだ。
初句が違ったので同じ歌とはわからなかったようだな。
それほどオリジナリティのある歌ではなさそうだ。
清原元輔

> 思ひしる人に見せはやよもすからわかとこ夏におきゐたるつゆ

能因法師

> 心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の景色を

あるいは真淵の

> もろこしの人にみせばやみよしのの吉野の山の山さくら花

などなど。そういえば

> 外つ国の人にみせばや武蔵野の千代田の城の春の盛りを

なんてのもあったな。

カッコウ

カッコウはもちろん古語ではない。
ホトトギスは万葉時代からあるまぎれもない古語である。
ホトトギスを郭公と表記したとして、この郭公なるものが、
カッコウではなくホトトギスであるなどという証拠はあるのか。
漢語ですら、しばしば混同されているのだから、
和語でも同様ではないか。

岩波古語辞典によれば、ホトトギス、カラス、ウグヒスなどの語尾の「ス」は鳥を表すという。

杜鵑は音読みではトケン。

「杜鵑啼血」の最古にして最も有名な出典はやはり白居易なのではないか。
角川新字源にも引用されている。
ホトトギスの鳴き声というのは、
私もYouTubeか何かでしか知らないが、
「キョッ・キョッ・キョキョキョキョ・・・」という、なにやら怪鳥が叫ぶような、すさまじいものなので、
血を吐くほどに声をふりしぼって啼いている、というのだろう。
血を吐くまで鳴き続ける、という意味ではないわな。
それはたまたま正岡子規がそうだったというだけだろう。
子規にしても、日清戦争の従軍記者など無茶なことをやらなければもっとずっと長生きできただろう。
中島敦だって、ずっと南洋に居て戦後特効薬が出来てから治療を受けていれば普通に天寿を全うしたのではないか。
自らもパラオに居て、
ロビンソンクルーソーの伝記なんか書いて、
そんなことは承知していたはずだ。
しかし、当時の日本の切迫した時勢というのが、子規と同じく、
無茶な行動をとらせたのかもしれない。
そういう時代に、二十代後半から三十代前半に身を置いてみなくてはわからない何か。

子規

ホトトギスなのだが、
中文のウィキペディアには「小杜鵑」と表記されており、
単に「杜鵑」と書くとこれはカッコウの総称となる。
「中杜鵑」はツツドリ。
「大杜鵑」はカッコウ、これは「郭公」「霍公」とも言う。郭公または霍公は明らかに鳴き声の音写だろう。

さらに中文ウィキペディアで「子規」を検索すると「鷹鵑」にリダイレクトされる。
「鷹鵑」は英語では Large Hawk Cuckoo
で、要するに、鷹のように大きなカッコウということだろう。

[杜宇](http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E5%AE%87)は中文ウィキペディアにも記事がある。
杜宇は、商周から春秋時代まで蜀にあった国の帝王で、望帝とも言う。
宋代になった伝記「太平寰宇記」に、

> 望帝自逃之後,欲復位不得,死化為鵑,每春月間,盡夜悲鳴。蜀人聞之曰:我望帝魂也。

とあり、また、

> 傳說其死後,每逢農曆三月,便化為杜鵑,以叫聲催促蜀人趁農時播種。

とあるから、毎年旧暦三月にホトトギスが鳴いて蜀の人たちが種まきをしたという風習があったのだろう。
「不如帰去」とは杜宇の言葉だとあるが、単に鳴き声の音写だろう。
「蜀魂」もまた同じ伝説による。

「田鵑」というのは、田んぼにいるカッコウの一種か。ともかく、これらの漢字表記の差異は、
一つは古代の伝説、もう一つはさまざまなカッコウの種類によるものだと思われる。

沓手鳥、沓直鳥などは和語由来と思われる。

> ほととぎす鳴きつる夏の山辺には沓手いださぬ人や住むらむ

沓手とは靴を買う代金。
広辞苑によれば、ほととぎすは前世に靴を作って売っていたというが、
おそらくは中国ではなくて日本の伝承なのだろう。

それで、思うに、蜀に古代王国があって、戦国時代に秦に滅ぼされたなどというのは後世の作り話であろう。
おそらくそういう伝説はさかのぼれても三国志の頃までだろう。
さらに、ホトトギスが血を吐くうんぬんという話はもっとくだって宋代以後の伝承だろう。
となると、新古今集の時代に日本に伝わって影響を与えた可能性はあるが、
古今集以前にはありもしない話だったに違いない。

事実、和歌を見てもホトトギスが血を吐くなどという表現はまったくない。
江戸期になってもない。
しかるに、子規は22才で結核を患い喀血して子規と号した。
明らかに歌人の発想ではないと思う。
もし影響を受けたとすると漢詩か何かだろうと思う。

白居易の詩に

> 杜鵑啼血猿哀鳴

とある。唐代だな。ということは宋よりはずっと前だわな。
ということは古今集時代に日本にすでに伝わってるよな。うーむ。
まあ、ホトトギスやサルの鳴き声というのは美しいというよりもどちらかと言えば凄絶な感じだよな。
そんな雰囲気を詠んだものだろう。