ネタのかぶり

『墨西綺譚』を今読み返すと失敗したなと思うよ。とにかく、登場人物が多すぎる。書く方は最初から頭の中に登場人物もストーリーもできあがってから書くわけじゃないですか。だから、書き残しても自分は脳内補間できちゃう。自分ではどこが説明不足か気づかない。必要十分に書いていても、読者はたいてい一度しか読まないから、もっと冗長に書いてあげないといけない。くどいくらいに。何十回も読めばたぶんわかるんだが、そんなことふつう読者はしない。一度さらっと読んで残った印象で判断する。

しかし、くどく書きすぎたらストーリー展開がだらけるんじゃないかと心配で、つい話をはしょりすぎてしまう。逆に自分では気づかないところでくどくど書いてしまう。

私の場合愛読書が『日本外史』だったから登場人物が多すぎるのはむしろ当たり前なんだが、ああいうのは小説にはあり得ないわけだよね。

『墨西綺譚』だけでなくて他の私の書いたやつも読むと、部分的にキャラかぶってたりネタかぶってたりするから、なんとなしにどんな人がモデルだったのかとか、どんな体験に基づくのかとか見えてくると思うが、そこまで読んでくれる人も滅多にいない。私自身はできるだけネタかぶらないようにしているが、どうしてもかぶる。以前はここかぶってるねと指摘されるのが怖かったが、実はそこまで読んでくれるひとはめったにいないってことがわかってきた。今は、そこまで読んでくれましたかと逆に感謝するかもしれない。そのうちわざとかぶらせといて、これは昔のここで使ったネタでしてとかネタばらししたりとか。ある程度はね、自分のネタなんだから、使い回しても誰も怒らないと思うのよね。
少なくともなんだ同じネタじゃないか金返せとは言わないと思う。そんなこといったらバロック音楽とかどうするんだということになる。

だいたい作家って、ネタかぶってるよね。夏目漱石とかね。いや、そうじゃない。良く研究された作家はネタがかぶっていて、あまり注目されてない作家は研究されないからネタがかぶったかどうかも知られてない。

『紫峰軒』は最近書いたものだから、そのへんのバランスはだいぶ改善されていると思う。しかし『紫峰軒』みたいなのを量産するのは難しい。ネタばらしするとあれに出てくるおばちゃんはだいたい三人くらいの女性がメインのモデルになっているのだが、一人のヒロインに三人のモデルを使うとなると、どんだけ知り合いがいなきゃならんかしれん。もちろん赤の他人を取材してもいいんだが。とにかくたいへんなのですよ。すごく贅沢なネタの使い方してるんです。おいしいところだけ残して組み合わせて足りないところはうまく補完する。ただのフィクションでもないし、かといって私小説でもないんですから。そこは察してください。一人の人間に書ける量はその人の人生経験で決まるわな。そんなには書けないよ。

たぶん絶対に気づかないネタばらしを一つだけすると、『墨西綺譚』のヒロイン乾桜子と『西行秘伝』のヒロイン源懿子はもともとは同じ女性がモデルなんだが、私自身の頭の中では同一人物なんだが、読んだ人にはさっぱりわかるまい。ていうか、ほとんどの人は『墨西綺譚』のヒロインが桜子だと気づかないかもしれない。桐子がヒロインかと思うとあれ違うな、じゃあだれだろうくらいだろうか。そう、『墨西綺譚』は最後まで読まないと誰が主人公かわからない。実は主人公が誰かを当てる推理小説なのです(笑)。

『特務内親王遼子』の遼子と『エウメネス』のアマストリナと『将軍家の仲人』の喜世は、だいぶキャラかぶってるわな。でも、どのくらい読者は気づいてるんだろう?

kdp

『超ヒモ理論』は自分でもすっかり忘れていたが、
最初は
[2011.4.25](/?p=7875)に山崎菜摘名でパブーに公開したものだった。
つまり、2011.3.11の東日本大震災の直後に書いたのだ。

「完全にパブーのエディタだけを使って書き下ろした」「三日くらいで書いた」
とか書いてるから、全然覚えてないが、たぶん最初はそうだったのだろう。
割と短編で、その後いろいろ書き足したりしたのだが、
大まかなストーリーラインは同じ。
2012年4月くらいのことまでが書いてある。
当時はもうしばらく納豆などというものは食べられないのかと思っていたが、
案外早く普通に出回るようになったよな。
まあそのくらいで、後から予測が外れて書き直さなきゃならんようなことは特になかった。

『超ヒモ理論』の元ネタは実は大昔私が大学生の頃に書いた漫画なのだが、
それをさらに手直しして小説に仕立てたのである。
もとの漫画はたわいないものだが、
寺の娘と結婚すると良いとか、禅宗は儲からないから○○宗がよいとかなんとか。
ま、そういうことを学生どうしで話したのをそのまんま漫画にしたかんじ。

山崎菜摘というのは『川越素描』に出てくる作家志望の女子大生で、
彼女が小説書いたらこんな感じかなというので書いてみたのだった。
ちなみに「エウメネス」は今は未公開の別の小説の中に出てくるエウドキアという東ローマ帝国の女帝が書いたらこんな小説になるんじゃないかという設定で書いたものです。

そんでまあ知り合いにイラストを頼んで、
花宮さちというペンネームも決めてもらって出したわけだが、
残念ながら今回もキラーコンテンツとはならなかったようだ。
ランキングも徐々に下がり始めている。
最近はカスタマーレビューをほとんど書いてもらえないのが痛い。
ツイッターやブログでいろいろ書き散らしているせいもあるかもしれないな。
まあしかしこのスタイルを変えるつもりもない。

いろんな種類の本を出してみて思うが、
ジャンルとかたぶんあまり関係ない。
マーケティングというものがなければまず本は売れない。
マーケティングすれば売れるというものじゃないだろうが、
しなければ、あるとき突然話題になるのを待つしかない。
kdp始めてまだ1年経ってないわけだし、気長に待つしかないのかと思う。

仮に誰かに広報お願いしていまよりずっと売れたとする。
そしたらその人にも売り上げのかなりの部分を折半しなくてはならなくなるよね。
それでも売り上げ増のほうが大きいのなら広報した方がいいんだろうけど、
今のところその気がない。
ていうか、広報したから売れるという確信がもてないし。
このままでしばらくやってていいじゃんと思わなくもない。
出版社の人に相談にいけば、とアドバイスされることもある。
でもなあ。
廃業した出版社の社長さんも知ってて、
菓子折もって持ち込みにいこうか悩んだが、
結局やめた。

ちなみに花宮さちさんとは売り上げを半分ずつ分ける約束になっている(笑)。

イラスト、装丁、広報とか、出版にはいろんなコストがかかるわな。
作者に一割印税が入るのは少ないようで実は多い気もする。
売れなかったときのリスクを作家がとらなくて済む形だ。
逆に、売れたときの取り分がいまいちなわけだが。
ちなみに紙の本も実名(共著の下っ端)で出したことはある。
まだ二十代の頃だ。
そのとき搾取されたのが今も嫌な思い出だ(笑)。
初版3000部で再版しなかったから出版社はたぶん損したとおもう。
売れ残っても印税まとめて先払いでしょ。悪くないかもね。
学生バイトとしては。

三十代でもやはり共著の下っ端でだしたことがある。
こちらは再版かかったからもうけはあったんだろうけど、
仕事としては最悪つまらんやつだった。
ワープロソフトのマニュアル本書くみたいなやつ。
いまさらそんな本書いてもしょうがないと思う。
時代が違うからそんな紙の本書いても売れないだろうし。

図書館に行くと未だにたくさん紙の本を読む人がいるなと思う。
彼らは賢い。私も自分でわざわざ本を買って読んだりしないほうだ。
第一紙の本だと部屋が狭くなる。
キンドル本は、有料のものを買わないわけではないが、
私の場合、漫画とかラノベとか推理小説とか買う人たちに比べればほとんど買わないに等しい。
その代わり漫画の週刊誌は週に四、五冊も買っていたけど、
今はそれもない。
なんでか知らないが読むといらいらするのでやめてしまった。
今、通勤移動中の暇つぶしはもっぱらタブレット。

ああそういや、岩波文庫の再版とかは割と買うわな(笑)。
すぐ買わないとまた絶版になるからね。
あの、再版と絶版を繰り返すの、あれなんなのかね。
まあ、アマゾンで古本買えば済む話なんだが。

でも十年二十年と経てば紙の本から電子書籍に人が移ってきて、
読者の数が桁違いに変わってきて、
私の本が目に触れる機会も増えるだろう。
今はあまりに読者が少なすぎる。
そんな気がする。

[「限界集落温泉2巻」99円セール中](http://www.misokichi.com/chinge/2013/09/299.html)
これを読んでね。考えさせられるわけです。
鈴木みそは好きな作家なのでほぼ全部読んでる。
原発ネタは嫌いなのでそこだけよけて読んでないけどね。

> 「限界集落温泉第1巻」は電子版で17000部売れてるんですね。100円なので。
2巻以降は400円と値段があがるために、1巻→2巻の継続率が低かった。
2巻は7000部強なので、40%にも届いてない。

そう。で、値段が安ければ買っても良いという潜在需要が
10000部くらいあるわけじゃないですか。
そこで値引きキャンペーンをやった結果、

[エンジン全開!もう走れないよ…](http://www.misokichi.com/chinge/2013/09/24487221110015020027013ff1.html)
うーん。
トータルでさらに1000部くらいはいきそうな勢いだけど、
10000部はとうていいかないってことよね。
1巻の50%くらいまでかね。

私の場合有料で1000部なんて今のところ夢のまた夢でして、
100部いけばいいくらい。
ほんといえば無料でどんどん読んでもらって一部だけ有料で残したいくらいなんだが、
無料にしたからといっても1000部いくのはたぶん難しい。

どうすれば読んでもらえるのかね。
今のとこ『古今和歌集の真相』は無料キャンペーンしない予定。
いや、一度くらいやってもいいかな、無料キャンペーン。
それで誰かカスタマーレビュー書いてくれるといいけど。

いずれにしてもこれ買うひとってのは「古今和歌集」で検索して見つけてくれる人だと思うのよね。放置するしかないと思うんだわ。
自分自身、古今集を深く読み始めたから古今集に興味がわいたわけで、
普通の人がいきなり古今集の本を読みたいと思うはずがないと思う。
まして宇多天皇なんてマイナーな天皇に興味持つはずがない。

藤原淑子

藤原淑子。長良の娘、基経・高子の異母兄弟。
臣籍に下った定省王(源定省、後の宇多天皇)を猶子とする。

淑子さんも宇多天皇の即位に運動したかもしれんね。
でもそれは弱い気がする。

[菅原道真公](http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/77/7722/772205.htm)

> 光孝天皇が崩じたとき,尚侍の淑子は直ちに皇位の印の剣璽を奉持し,脱兎のような素早さで麗景殿に参入し,定省親王に奉呈した

> 宇多天皇は,践祚の翌日に内裏の宣耀殿を出て,内裏の東に在った雅院に移りました。それから三年半後,基経が死去した翌月,
道真公を蔵人頭に任ずる直前に,天皇は漸く内裏の清涼殿に移って日常の居所とされました。

践祚の儀式の時は内裏にいたが、その後雅院、つまり東宮御所に移り、基経が死去してやっと清涼殿に入った、というのは、
ずいぶん異様な話である。
なんでそんなことをしたのか。

その頃清涼殿には誰が住んでいたのか。
基経死去は891年だな。
清涼殿にいたのはたぶん基経の妹で皇太后(清和天皇女御で陽成天皇生母)の高子だろう。
光孝天皇はどこに居たのだろう。
まさか、黒戸御所か。
話ができすぎてるな。
高子は896年に皇太后を剥奪されているから、徐々に排除されていったわけだな。
陽成上皇は冷然院に住んだんだな。

ていうか、基経が死ぬまで内裏には陽成院が住んでいた可能性すらあるわな。
うわーわけわかんねえ。

剣璽というのは三種の神器のうちの剣と曲玉とされる。
それでは、二種の神器なのではないか。
もひとつは鏡か。

宇多上皇

古今集読んでるとわからんことがわらわらわいてくる。

光孝天皇は、即位するとき、基経に、まずは固辞したが、
それでもどうしても即位しろと言われて、
じゃあ私は一時的な中継ぎなんで、私の息子たちはみんな源氏にしちゃいますね、
皇統は文徳天皇か清和天皇か陽成天皇の皇子に戻してくださいね、
とかいう条件を付けた。
で、ご丁寧に自分の皇子を陽成上皇の侍従にして、業平と相撲をとらせたりした。

その侍従というのが宇多天皇なのだが、
宇多天皇が陽成上皇の侍従だったというのは、十五歳から二十歳くらいまでの期間だろう。
父・光孝天皇からは、帝王学ならぬ、臣下学を学ばされた、ということだ。
業平は宇多天皇よりも四十歳以上年上だから、
当時もう六十くらいのおじいさんで、まともに相撲をとったはずがない。
神遊びの神事として相撲をとったはず。
にしても相撲を取るくらいだから、親密な間がらだっただろう。

光孝天皇は、自分の意思に反して即位したのだから、
自分の意思に反して後継者が決まるだろうと覚悟していた。
基経が先に死ねば別だったろうが。
だから後継者を指定しなかった。

ともかく、光孝天皇にしてみると、陽成天皇の正統性にはまったく疑いがなく、
陽成天皇が廃位されたことにもなんの正当性もない、
と考えていた。
態度にそれがあらわれている。

光孝天皇は崩御するまで、後継者指名に関しては何もしなかった。
基経が適当に裁いて、皇籍復帰した宇多天皇が即位するが、
まあ、帝王学は学んでないわけで、
いきなり位を継いだわけです。
で、父はもういない。
しかも二十歳そこそこの若さ。
さてどうしようかと途方に暮れただろう。
もうなんでもかんでも摂政関白に任せちゃおうと思ってもおかしくないんだが、
そこはたぶん何かしらの反骨精神、自立心があった。
というより摂関家に対する対抗心とか復讐心がめらめらわいてもおかしくないわな。

親子二代天皇を継いでしまったわけだから、
いまさら陽成天皇に皇統を戻さなきゃとは考えなかった。
せっかく天皇になったんだから、
努力して良い天皇になろうと思ったと思う。
それで源氏だった頃に生んだ皇子がいて、後の醍醐天皇だけど、
その息子になんとしても皇位を継がせられるようにしようと宇多天皇は思ったと思う。

光孝天皇と宇多天皇はほとんど接点がなかったと思う。
だけど宇多天皇としてみれば光孝天皇がやりかけていた文芸復興ということを引き継ぎたいと思ったと思う。
父親の遺志を継ぐというのが宇多天皇のやりかただった。

宇多天皇という人は、基本的には典型的なプランナータイプの人だったと思う。
アイディアマンといってもよい。
アイディアは自ら出すが、あとは臣下や息子になんでも丸投げする。
政治は菅原道真に、和歌は紀貫之に、天皇という仕事は醍醐天皇に。
割と放任しちゃうタイプだったと思う。

そう考えると宇多上皇と醍醐天皇と菅原道真の関係もなんとなくわかる気がする。
醍醐天皇は宇多上皇の留守中に菅原道真を左遷してしまう。
宇多上皇はその決定を覆すこともできたはずだ。
太宰府に流されてから道真は二年以上生きていたのだから。

でもそれをしなかったというのは、さほど道真を大事に思ってなかったということじゃないか。
好き嫌いで取り立てたというよりは、才能を買ったと。
で道真はおそらくは才におぼれるタイプだった。
どんどん一人でつっぱしって周りの忠告も耳に入らないタイプ。
まあ太宰府辺りでのんびりしてろよというつもりではなかったか。
太宰府権帥というのは当時そんな低い官職ではない。
遣唐使盛んな頃は非常な重職で、遣唐使の大使になったりする職。
遣唐使廃止されたあとも、太宰府で交易品の管理とかしなきゃならない。
左遷ではあったかもしれないが、島流しというようなニュアンスはそれほどなかったのではないか。
菅原道真については、彼の漢詩をじっくり読んでみようと思う。

宇多上皇という人と道真の関係は、貫之との関係とも、醍醐天皇との関係とも似ていたと思う。
割とドライな感じだったと思う。
そうかじゃあそうしろと。そうしたけりゃそうすりゃいいでしょ、みたいな。

宇多上皇はいろいろやりたいことがあった。
日本国中御幸したかったし、法皇として仏教にも励んでみたかったし、延喜式も整備したし、
和歌集も編纂したかったし。
やりたいことが多すぎて自分だけじゃできないってこともあったろうし。
わざわざ自分でやってたら切りないって思っただろうし。
でもちゃんとプロジェクトのマネージメントはする、みたいな人ではなかったか。

そんで宇多上皇は古今集の中では法皇という名前ででてくるんだが、詞書きにしかでない。
歌が一つも採られていないのだが、これはいかにも不自然だ。
たとえば亭子院歌合というのがあって主催者が宇多上皇で判者も宇多上皇。
すると、宇多上皇は自分では歌は詠まない。判定する側だから。
でも一個だけ自分の歌を紛れ込ませた。
えへ。じつはこれは私の歌だよんとか、詞書きに残している。

古今集についても同じような気分だったのではないか。
宇多上皇はスーパーバイザーであるから、自分の歌は載せない。
ほかにもいろいろ遠慮した理由は考えられるが、ともかく、
もし、宇多上皇が何か紀貫之に注文をつけたとすれば、自分の歌は載せるな、ということ。
あるいは、載せても良いが詠み人知らずにしとけということ。

古今集には詠み人知らずとして宇多上皇の歌がいくつか混じってるんじゃないか、
という気がしてくる。
いや、もしかすると詠み人知らずの歌の大半がそうなんじゃないかという気がしてくる。
たとえば

> 色よりもかこそあはれとおもほゆれたが袖ふれしやどの梅ぞも

詠み人知らずの古歌というものは、もう少しわかりやすいものだと思う。
この歌はわかりにくく、従ってある個性を感じる。

この歌の解釈はこうだ。誰が私の家の梅に、袖をふれただけで去っていったのだろう。
一本くらい折り取っていけば良いのに。
色よりも香りのほうが優れている、とでも思ったのだろうか。

> 梅ノ花ハ色モヨイガ 色ヨリ香ガサ ナホヨイワイ アヽハレヨイニホヒヂヤ 此ノヤウニヨイニホヒノスルハ タレガ袖ヲフレタ此庭ノ梅ノ花ゾイマア

これは宣長の解釈。

多くの場合、だれかの袖が触れたせいで、梅にこのように良い香りがついたのだ、と解釈されるのだが、
かなり無理がある。
普通は梅から袖に香りが移るものであって、その逆というのはあり得ない。
そこを無理に解釈しようとしてはいけない。

丸谷才一は、触れただけではなく実は折り取ったのだ、と解釈しているが、
これもかなり無理がある。
折り取ったのであれば、香りだけでなく色もあわれだと思ったのである。
香りだけで色がないということは枝は折ってないはず。

おそらくこの歌を詠んだ人は、だれかが自分の家の軒先まできて梅の花を見ていったのを目撃したのだろう。
普通は来訪のしるしに一枝折っていくものである。
当時の習慣では、いろんな人がやいやい指摘するように、実際そうだったかもしれない。
やあこないだ君の所から一本梅をもらったよ、今うちの瓶に差してあるんだ、へえそうかい、みたいな会話のきっかけになる。

しかし、折らなかった。
だれかもわからなかった。
誰だったのだろう、ずいぶん中途半端なことをして。
当時の社交辞令的にはかなり不完全で不審な行動だったわけだ。
それで怪しんで詠んだ。という意味だと思う。

小料理屋の女将さんが、
店先をふと立ち寄って通り過ぎた客を恨んで詠んだような、
そんなニュアンスの歌だと思うんだよね。
そう解釈すべきなんだが、そこまで読み取るのはかなりたいへんだ。

こういうひねった歌というのは、詠み人知らずにないとは言い切れないが、
どうも身分を隠しただれかの作のようにおもえてならない。
貫之が詠んだ歌だとしても不思議ではないが、
貫之が名を隠す必要性がない。

宇多上皇と醍醐天皇の中は決して良好でなかったのは確かである。
醍醐天皇にもたくさん弟たちがいて、
いつそっちに皇位が移るかしれない。
しかもお父さんは教育熱心。
いつまでも政治やらなにやらに口出ししてくる。
邪魔くさいお父さんだったと思う。
ある意味、光孝天皇と宇多天皇の関係とは真逆。

醍醐天皇がどんな性格の人だったかはさっぱりわからない。
醍醐天皇がもすこし長生きして宇多上皇が崩御して、
父親の影響なしでどんなことをしたかわかればいいんだが、
先に死んでしまった。
どうも病弱だったらしい。
なんとなく気が弱く反抗的な息子、という感じがする。
まあイメージだが。

イグザレルト

心房細動は今回はでなかったが、
前回からイグザレルトというのを飲んでいるのだが、
白血球が減ってると言われた。
ググってみてもイグザレルトで白血球減ったとか言う話は出てこない。
まあ、新薬なのと、たまたま体が合わないのかれしん。
また一ヶ月後検査して他にも新薬とか昔飲んでたワーファリンとかあるし、
それで変えることになるかもしれん。
プラザキサってのを飲んでたこともあるのだよね。

採血するとき血が出てこなかったので挿しなおした。
こっちも血は採られ慣れてるので別にどうということはない。
静脈に当たらなかったのな。
新人さんが多い季節とか曜日というのはあるのかしれん。

来たるべき日曜日 他6編

うーん。
短編集の二話目まで読んだ。

悪くないが、これはなんか、ギャグ漫画を文字おこしした感じだな。
展開が現実離れしてて、しらける。
マンガとしてならさらっと楽しめるかもしれんが・・・。

日本刀は折れないと思う。
曲がるだけだ。
なんだ頭で考えて作った話かと、しらけた。
そこでもう、話にのめりこめなくなった。

如月の望月の花

> 願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ

西行の命日(とされている日)はグレゴリオ暦だと、3月23日。
旧暦で如月の望月というのはちょうど春分くらい。

西行はだいたい春分(3月20日か21日)くらいをあてにしてこの歌を詠んでいるはずだ。

春分に咲く桜の花はなくもないが、かなり早咲きのほうである。
どうもこの花というのは桜ではない。
梅か、桃ではないか。

西行は確かに桜、特に山桜の歌を詠んでいる。
ヤマザクラの開花時期は春分頃ではない。
とくに吉野のような山の奥のほうのヤマザクラは、
よっぽど異常気象じゃない限り、春分には満開にはならない。

山家集の中の配置を見ると桜のようではあるが、しかし、梅の歌も西行はたくさん詠んでいるから、
梅の可能性はなくもない。
桃の歌はなくはないが少ないので桃ではあるまい。

どうもみんなしてだまされているようだ。

五・七五・七七

> 思ひきや ひなのわかれに おとろへて あまのなはたぎ いさりせむとは

倒置表現というのは、万葉時代にもあったわけである。
ただし、初句切れの倒置表現というのは、小野篁が最初かも知れない。
万葉時代のはだいたい二句切れで、

> こころゆも われはおもはずき またさらに わがふるさとに かへりこむとは

のようになる。

で、これは小野篁が漢文の語順を輸入したからだというのが、
丸谷才一の説だが、
その可能性はないとはいえないが、たぶん違う理由だと思う。

万葉時代は基本的に五七調なので、
初句切れということはまずあり得ない。
二句切れか四区切れになる。
ところが古今集の時代になると、七五調が主流になる。
短歌形式ではわかりにくいが長歌には如実にその傾向が現れている。

七五調になると、二句目と三句目のつながりが強くなる。
そこで初句が浮いた形になって初句切れというものができてくる。
二句三句が強く結びついたせいで、上三句(発句)と下二句(付句)に分かれる傾向が強くなり、
連歌となり、発句だけが残って俳句となる。

平安末期の今様とかそれからのちの歌舞伎の歌詞なんかも、
そして童謡や軍歌や、今の演歌なんかも、
ほとんどが七五・七五・・・となっている。

そんで、初句切れは七五調と相性がいいから、普及したのであり、
漢文語順で効果が斬新だからみんながまねして使われるようになったとは思えない。
特にほとんどの女はそんな漢文とか知らないんだから、漢文っぽい和歌なんて詠むはずがない。

初句切れの倒置表現というのは非常に多い。
「思ひきや」「知るらめや」「忘れめや」「ちぎりきな」「みせばやな」
こういうの使いこなせるようになると、なんか急に和歌がうまくなったように錯覚する。

発句がひとかたまりになってしまい、付句が弱いとものすごく弱いかんじになる。
いわゆる腰折れというやつで、それが昂じて俳句になってしまう。
もう下の句要らんよねということになる。

そこをまあ、枠構造というんですか。
ドイツ語にあるような枠構造というのは、
歌全体の統一感を高めてくれるんですよね。
伏線回収とも言うかも知れない。
初句と付句が七五の二句三句を挟み込む形になって、
非常に安定する。
初句が枕詞になったり、
枕詞ではないが何かのあまり深い意味の無いことばになったり。
或いは初句と付句が倒置表現になったりする。
特に初心者なんかはそれを意識して詠んだ方が、
割と簡単に良い歌が詠めたりするから便利なんじゃなかろうか、
などと思ってしまう。

万葉時代が五七調なのは、単に、もともと長歌というものは、
五七・五七・五七・・・と続けるものだったからだ。
見てみると、五七五七七ではなく五七五七七七というものけっこうある。
仏足石歌というのだな。
まあ、五七で来て、〆に七を重ねたのが長歌で、
さらに七を重ねたのが仏足石歌。

五七だと、五と七の間に間が空く。
声に出して詠めばすぐに気がつくこと。
これは、呼びかけ、語りかけの場合には、
相手が気づくのを待つ、
こちらの呼びかけの意味を理解する、
その間だという気がする。
相手が聞いた。それを理解した。それから続ける。
今の会話でもそういうことはある。
「いいかい、」とか「ほらね、」とかまず短く相手の注意を引くわけで、
注意を引いたところで言いたいことを継ぐ。
呼びかけだから、特に意味は無くて良い。だから枕詞のようなものが使われる。
枕詞だと次に来る語がだいたい予想つくから、余計に呼びかけには都合がよいわけだ。
「ひのもとの」とくれば「やまと」とくる。
冗長であるが、これもまた語りかけのプロトコルだと思えばリーズナブルだ。
今で言う、ヘッダーみたいなもの。

五七・五七・七ってのはだから、
ヘッダーとメイン、ヘッダーとメイン、フッターみたいなもんだと思えばいい。

政治家の街頭演説もだいたいそんな風にできている。
歌とは本来、訴えるひとから聴衆への語りかけだからだ。
「ねえ、みなさん」「なんとかかんとかでしょう。」
そこでいったん聴衆の反応を見て、
「ですから、」「これこれなわけなんですよねえ。」
それの繰り返し。
たぶんなんかの話術のテクニックとして学んだもんじゃない。
自然と語りかけとはそうなるもんだ。

五で相手の気をひいておいて七でつなぐ。
ふたたび五で気をひいて七でつなぐ。
それが五七調なんだが、
楽器の伴奏なんかが入ってくるとそういう相手とのやりとりというのかな。
プロトコルが必要なくなるじゃないですか。
むしろリズムの方が重要になる。
リズム、テンポという意味では七五調のほうがずっとなめらか。
あと、文字に書いた歌には、やはりそういう相手の気を引く、相手がこちらの語りかけに気づくための間がやはり要らない。
むしろ間があるとじゃまな感じがする。

だから、言葉だけの時代から、
奏楽と文字の時代に移って、
五七が七五に逆転したのだと思う。

おそらく外国の詩歌にも類例はあるはずだ。
探してみたいもんだ。

古今集の時代

古今集は平城天皇から醍醐天皇までの歌集なんだが、
平城天皇の歌が残っているのは、たぶん、
平城天皇から在原氏が出て、在原行平が宇多天皇から歌を集めるように依頼されたからだろう。

次の嵯峨天皇は和歌には何のシンパシーもなかった。
嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和、陽成の六代は和歌の低迷期であった。
この時代のことはほとんど忘れられて、知られてない。

特に嵯峨天皇が即位してから崩御するまでの三十年間くらいは暗黒時代といってよく、
この時代に歌人だったといえるのは、小野篁と在原行平くらい。

仁明天皇から光孝天皇の代というのは藤原良房と基経の時代であった。
この時代に登場してくるのが、
僧正遍昭、文屋康秀、在原業平、小野小町であり、
(あまりにも情報が少なすぎてわけわからんが)喜撰と大伴黒主もこの時代であろうと考えられる。
つまり六歌仙の時代である。
六歌仙の時代とは良房・基経の時代であり、伊勢物語の時代である。
遍昭は桓武天皇の後胤、業平は平城天皇の後胤であるから、
比較的身分が高く、歌もよく残っているが、
あとはよくわからない。
ともかくこの時代は和歌の低迷期で、
六歌仙に関する情報も断片的にしか残ってない。
この時代の情報はノイズに埋もれかけており、間違っているものも多いと思う。

で、光孝天皇が和歌を復興させはじめる。
いよいよ本格的な古今集の時代が始まる。
宇多天皇はそれを加速させ、上皇時代にほぼ完成させる。
その成果が古今集となるのだが、
この時代の歌人というのが、いわゆる古今集の撰者たちであり、
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑。
あとは素性法師、菅原道真、伊勢、藤原敏行。

素性法師は僧正遍昭の息子だからまあいいとする。
菅原道真もまあ古くからの公卿の家柄。
あとがよくわからない。
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、伊勢。
これらは殿上人未満の下級役人だったが、
光孝天皇という人は苦労人で下積みが長かったし、
宇多天皇は臣籍降下までした人だったから、そういう地下にいて、
才能ある人によく気がついて、抜擢したということだろうと思う。

その時期はわりと遅く、おそらくは菅原道真が失脚し、
宇多天皇が上皇になった後だろう。
もともと宇多天皇は菅原道真、在原行平、是貞親王あたりに歌の蒐集・編纂をやらせようとした形跡があるからである。
業平の妻が紀名虎の孫(紀有常の娘)だった関係で、在原氏と紀氏は当時比較的近く、
おそらく有常が仲介となって業平と友則がつながり、
貫之、躬恒、忠岑、伊勢らはもともと下級役人仲間でつるんでいたか。
実際古今集の歌人で全然どんな人か知られてない人がたくさんいるのだが、
そういう連中もおそらくこの階層の人たちだ。

藤原敏行の妻も有常の娘である。

たぶんもともとは友則が選者の第一人者だった。
延喜五年というのがだいたいそのタイミング。
何らかの理由で、
友則をリスペクトするために、彼が生きていた時代に勅撰があった、
としたいのだと思う。

六歌仙時代の歌というのは、伊勢物語を中心にして、なんとなくもやっと、
伝説的に残っていた。
業平、二条后、惟喬親王、源融、良房、基経、遍昭、文屋康秀、小野小町。
政治的には非常にどろどろとした時代であり、
その雰囲気が古今集にも投影されている。
暗かった旧き悪しき時代というイメージ。

有常、貫之、友則の関係は少しわかりにくい。
ずっと祖先に紀勝長がいた。
勝長の子に名虎と興長がいた。
名虎の子が有常。
興長の子が本道。
本道の子が有友と望行。
有友の子が友則で、望行の子が貫之。

古今集の真名序を書いた人というのが、
紀淑望なのだが、彼と貫之らとの家系の関係はよくわからん。
同じ紀氏ではあろうが。
で、淑望はけっこう早死にしている。
宇多天皇や貫之より先に死んでいる。
てことはたまたま漢文が書けたというので、
おまえ古今集の序文書けとか言われて、
古今集ができた直後くらいに(つまり亭子院歌合の直後くらいに)、
いろいろ調べて書いた人なのだろう。
彼の時代までくると六歌仙の時代というのは伝聞であり、伝承であって、
よくわからなかったはずだ。
宇多天皇にも貫之にもよくはわからん。
伊勢物語の原型になったような、大鏡的な歴史書(日記?)があった可能性がある。
さらにもっと時代が下ってから、仮名序は書かれたはずであり、
ゆえにあのような支離滅裂な文章になってしまった。

源氏を賜った皇女

普通、皇女や内親王は、一般人と結婚するときに、
皇籍を離脱して、そのまま夫の姓になる。

たとえば、清子内親王は、結婚したあと、
区役所に婚姻届を出したと同時に皇籍離脱して、黒田という姓になったことになっているようだ。
これが「臣籍降嫁」というものだろう。
だから、清子内親王がいったん「臣籍降下」して、
たとえば源清子という名前になり、
源清子が一般人として婚姻して黒田清子になったわけではない。
もしそうなら一時的にも、昭和源氏というものが生まれたことになる。

或いは皇族以外と婚姻しても内親王などの身分はそのままで、
厳密には姓がない、のか。

だが、女性でも源氏をたまわって臣籍降下した人いる。
たまたま見つけた。
[源潔姫](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BD%94%E5%A7%AB)
という人だ。
しかしいくらなんでも四歳で良房の妻になったりするのだろうか。

他にも例があるのだろうか。
ああ、嵯峨天皇の皇女には源氏を賜った人がたくさんいるな。
光孝天皇や宇多天皇にもいるな。
[源順子](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%86%E5%AD%90)
とか。

ついでだが、
宮家の場合は「親王」ではなくて「王」なのだな(間違った。「親王」の場合もある)。
で、厳密には姓があるのかないのかよくわからない。
宮家から皇籍離脱したときには、たしかに宮家を姓とするように思われる。

ふむ。宮号というのは、称号であって姓ではないようだ。
しかも宮家の当主で皇族男子しか宮号は用いないのだから、やはり姓ではない。

つまり宮家というのは、普通に皇族(変な言い方だが)なわけだ。

ふむ。たとえば、
伏見宮博明王は伏見博明という名前になったわけだ。