月別アーカイブ: 2013年9月

ネタのかぶり

『墨西綺譚』を今読み返すと失敗したなと思うよ。 とにかく、登場人物が多すぎる。 書く方は最初から頭の中に登場人物もストーリーもできあがってから書くわけじゃないですか。 だから、書き残しても自分は脳内補間できちゃう。 自分ではどこが説明不足か気づかない。 必要十分に書いていても、 読者はたいてい一度しか読まないから、 もっと冗長に書いてあげないといけない。 くどいくらいに。 何十回も読めばたぶんわかるんだが、そんなことふつう読者はしない。 一度さらっと読んで残った印象で判断する。 しかし、くどく書きすぎたらストーリー展開がだらけるんじゃないかと心配で、 つい話をはしょりすぎてしまう。 逆に自分では気づかないところでくどくど書いてしまう。 私の場合愛読書が『日本外史』だったから登場人物が多すぎるのはむしろ当たり前なんだが、ああいうのは小説にはあり得ないわけだよね。 『墨西綺譚』だけでなくて他の私の書いたやつも読むと、 部分的にキャラかぶってたりネタかぶってたりするから、 なんとなしにどんな人がモデルだったのかとか、 どんな体験に基づくのかとか見えてくると思うが、 そこまで読んでくれる人も滅多にいない。 私自身はできるだけネタかぶらないようにしているが、 どうしてもかぶる。 以前はここかぶってるねと指摘されるのが怖かったが、 実はそこまで読んでくれるひとはめったにいないってことがわかって… 続きを読む »

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kdp

『超ヒモ理論』は自分でもすっかり忘れていたが、 最初は [2011.4.25](/?p=7875)に山崎菜摘名でパブーに公開したものだった。 つまり、2011.3.11の東日本大震災の直後に書いたのだ。 「完全にパブーのエディタだけを使って書き下ろした」「三日くらいで書いた」 とか書いてるから、全然覚えてないが、たぶん最初はそうだったのだろう。 割と短編で、その後いろいろ書き足したりしたのだが、 大まかなストーリーラインは同じ。 2012年4月くらいのことまでが書いてある。 当時はもうしばらく納豆などというものは食べられないのかと思っていたが、 案外早く普通に出回るようになったよな。 まあそのくらいで、後から予測が外れて書き直さなきゃならんようなことは特になかった。 『超ヒモ理論』の元ネタは実は大昔私が大学生の頃に書いた漫画なのだが、 それをさらに手直しして小説に仕立てたのである。 もとの漫画はたわいないものだが、 寺の娘と結婚すると良いとか、禅宗は儲からないから○○宗がよいとかなんとか。 ま、そういうことを学生どうしで話したのをそのまんま漫画にしたかんじ。 山崎菜摘というのは『川越素描』に出てくる作家志望の女子大生で、 彼女が小説書いたらこんな感じかなというので書いてみたのだった。 ちなみに「エウメネス」は今は未公開の別の小説の中に出てくるエウドキアという東ローマ帝国の女帝が書い… 続きを読む »

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藤原淑子

藤原淑子。長良の娘、基経・高子の異母兄弟。 臣籍に下った定省王(源定省、後の宇多天皇)を猶子とする。 淑子さんも宇多天皇の即位に運動したかもしれんね。 でもそれは弱い気がする。 [菅原道真公](http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/77/7722/772205.htm) > 光孝天皇が崩じたとき,尚侍の淑子は直ちに皇位の印の剣璽を奉持し,脱兎のような素早さで麗景殿に参入し,定省親王に奉呈した > 宇多天皇は,践祚の翌日に内裏の宣耀殿を出て,内裏の東に在った雅院に移りました。それから三年半後,基経が死去した翌月, 道真公を蔵人頭に任ずる直前に,天皇は漸く内裏の清涼殿に移って日常の居所とされました。 践祚の儀式の時は内裏にいたが、その後雅院、つまり東宮御所に移り、基経が死去してやっと清涼殿に入った、というのは、 ずいぶん異様な話である。 なんでそんなことをしたのか。 その頃清涼殿には誰が住んでいたのか。 基経死去は891年だな。 清涼殿にいたのはたぶん基経の妹で皇太后(清和天皇女御で陽成天皇生母)の高子だろう。 光孝天皇はどこに居たのだろう。 まさか、黒戸御所か。 話ができすぎてるな。 高子は896年に皇太后を剥奪されているから、徐々に排除されていったわけだな。 陽成上皇は冷然院に住んだんだな。 ていうか、基経が死ぬまで内裏には陽成院が住んでいた可能性… 続きを読む »

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宇多上皇

古今集読んでるとわからんことがわらわらわいてくる。 光孝天皇は、即位するとき、基経に、まずは固辞したが、 それでもどうしても即位しろと言われて、 じゃあ私は一時的な中継ぎなんで、私の息子たちはみんな源氏にしちゃいますね、 皇統は文徳天皇か清和天皇か陽成天皇の皇子に戻してくださいね、 とかいう条件を付けた。 で、ご丁寧に自分の皇子を陽成上皇の侍従にして、業平と相撲をとらせたりした。 その侍従というのが宇多天皇なのだが、 宇多天皇が陽成上皇の侍従だったというのは、十五歳から二十歳くらいまでの期間だろう。 父・光孝天皇からは、帝王学ならぬ、臣下学を学ばされた、ということだ。 業平は宇多天皇よりも四十歳以上年上だから、 当時もう六十くらいのおじいさんで、まともに相撲をとったはずがない。 神遊びの神事として相撲をとったはず。 にしても相撲を取るくらいだから、親密な間がらだっただろう。 光孝天皇は、自分の意思に反して即位したのだから、 自分の意思に反して後継者が決まるだろうと覚悟していた。 基経が先に死ねば別だったろうが。 だから後継者を指定しなかった。 ともかく、光孝天皇にしてみると、陽成天皇の正統性にはまったく疑いがなく、 陽成天皇が廃位されたことにもなんの正当性もない、 と考えていた。 態度にそれがあらわれている。 光孝天皇は崩御するまで、後継者指名に関しては何もしなかった。 基経が適当… 続きを読む »

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イグザレルト

心房細動は今回はでなかったが、 前回からイグザレルトというのを飲んでいるのだが、 白血球が減ってると言われた。 ググってみてもイグザレルトで白血球減ったとか言う話は出てこない。 まあ、新薬なのと、たまたま体が合わないのかれしん。 また一ヶ月後検査して他にも新薬とか昔飲んでたワーファリンとかあるし、 それで変えることになるかもしれん。 プラザキサってのを飲んでたこともあるのだよね。 採血するとき血が出てこなかったので挿しなおした。 こっちも血は採られ慣れてるので別にどうということはない。 静脈に当たらなかったのな。 新人さんが多い季節とか曜日というのはあるのかしれん。

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来たるべき日曜日 他6編

うーん。 短編集の二話目まで読んだ。 悪くないが、これはなんか、ギャグ漫画を文字おこしした感じだな。 展開が現実離れしてて、しらける。 マンガとしてならさらっと楽しめるかもしれんが・・・。 日本刀は折れないと思う。 曲がるだけだ。 なんだ頭で考えて作った話かと、しらけた。 そこでもう、話にのめりこめなくなった。

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如月の望月の花

> 願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ 西行の命日(とされている日)はグレゴリオ暦だと、3月23日。 旧暦で如月の望月というのはちょうど春分くらい。 西行はだいたい春分(3月20日か21日)くらいをあてにしてこの歌を詠んでいるはずだ。 春分に咲く桜の花はなくもないが、かなり早咲きのほうである。 どうもこの花というのは桜ではない。 梅か、桃ではないか。 西行は確かに桜、特に山桜の歌を詠んでいる。 ヤマザクラの開花時期は春分頃ではない。 とくに吉野のような山の奥のほうのヤマザクラは、 よっぽど異常気象じゃない限り、春分には満開にはならない。 山家集の中の配置を見ると桜のようではあるが、しかし、梅の歌も西行はたくさん詠んでいるから、 梅の可能性はなくもない。 桃の歌はなくはないが少ないので桃ではあるまい。 どうもみんなしてだまされているようだ。

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五・七五・七七

> 思ひきや ひなのわかれに おとろへて あまのなはたぎ いさりせむとは 倒置表現というのは、万葉時代にもあったわけである。 ただし、初句切れの倒置表現というのは、小野篁が最初かも知れない。 万葉時代のはだいたい二句切れで、 > こころゆも われはおもはずき またさらに わがふるさとに かへりこむとは のようになる。 で、これは小野篁が漢文の語順を輸入したからだというのが、 丸谷才一の説だが、 その可能性はないとはいえないが、たぶん違う理由だと思う。 万葉時代は基本的に五七調なので、 初句切れということはまずあり得ない。 二句切れか四区切れになる。 ところが古今集の時代になると、七五調が主流になる。 短歌形式ではわかりにくいが長歌には如実にその傾向が現れている。 七五調になると、二句目と三句目のつながりが強くなる。 そこで初句が浮いた形になって初句切れというものができてくる。 二句三句が強く結びついたせいで、上三句(発句)と下二句(付句)に分かれる傾向が強くなり、 連歌となり、発句だけが残って俳句となる。 平安末期の今様とかそれからのちの歌舞伎の歌詞なんかも、 そして童謡や軍歌や、今の演歌なんかも、 ほとんどが七五・七五・・・となっている。 そんで、初句切れは七五調と相性がいいから、普及したのであり、 漢文語順で効果が斬新だからみんながまねして使われるようになったとは思えない。 特… 続きを読む »

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古今集の時代

古今集は平城天皇から醍醐天皇までの歌集なんだが、 平城天皇の歌が残っているのは、たぶん、 平城天皇から在原氏が出て、在原行平が宇多天皇から歌を集めるように依頼されたからだろう。 次の嵯峨天皇は和歌には何のシンパシーもなかった。 嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和、陽成の六代は和歌の低迷期であった。 この時代のことはほとんど忘れられて、知られてない。 特に嵯峨天皇が即位してから崩御するまでの三十年間くらいは暗黒時代といってよく、 この時代に歌人だったといえるのは、小野篁と在原行平くらい。 仁明天皇から光孝天皇の代というのは藤原良房と基経の時代であった。 この時代に登場してくるのが、 僧正遍昭、文屋康秀、在原業平、小野小町であり、 (あまりにも情報が少なすぎてわけわからんが)喜撰と大伴黒主もこの時代であろうと考えられる。 つまり六歌仙の時代である。 六歌仙の時代とは良房・基経の時代であり、伊勢物語の時代である。 遍昭は桓武天皇の後胤、業平は平城天皇の後胤であるから、 比較的身分が高く、歌もよく残っているが、 あとはよくわからない。 ともかくこの時代は和歌の低迷期で、 六歌仙に関する情報も断片的にしか残ってない。 この時代の情報はノイズに埋もれかけており、間違っているものも多いと思う。 で、光孝天皇が和歌を復興させはじめる。 いよいよ本格的な古今集の時代が始まる。 宇多天皇はそれを加速させ、上… 続きを読む »

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源氏を賜った皇女

普通、皇女や内親王は、一般人と結婚するときに、 皇籍を離脱して、そのまま夫の姓になる。 たとえば、清子内親王は、結婚したあと、 区役所に婚姻届を出したと同時に皇籍離脱して、黒田という姓になったことになっているようだ。 これが「臣籍降嫁」というものだろう。 だから、清子内親王がいったん「臣籍降下」して、 たとえば源清子という名前になり、 源清子が一般人として婚姻して黒田清子になったわけではない。 もしそうなら一時的にも、昭和源氏というものが生まれたことになる。 或いは皇族以外と婚姻しても内親王などの身分はそのままで、 厳密には姓がない、のか。 だが、女性でも源氏をたまわって臣籍降下した人いる。 たまたま見つけた。 [源潔姫](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BD%94%E5%A7%AB) という人だ。 しかしいくらなんでも四歳で良房の妻になったりするのだろうか。 他にも例があるのだろうか。 ああ、嵯峨天皇の皇女には源氏を賜った人がたくさんいるな。 光孝天皇や宇多天皇にもいるな。 [源順子](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%86%E5%AD%90) とか。 ついでだが、 宮家の場合は「親王」ではなくて「王」なのだな(間違った。「親王」の場合もある)。 で、厳密には姓があるのかな… 続きを読む »

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