古今集読んでるとわからんことがわらわらわいてくる。
光孝天皇は、即位するとき、基経に、まずは固辞したが、
それでもどうしても即位しろと言われて、
じゃあ私は一時的な中継ぎなんで、私の息子たちはみんな源氏にしちゃいますね、
皇統は文徳天皇か清和天皇か陽成天皇の皇子に戻してくださいね、
とかいう条件を付けた。
で、ご丁寧に自分の皇子を陽成上皇の侍従にして、業平と相撲をとらせたりした。
その侍従というのが宇多天皇なのだが、
宇多天皇が陽成上皇の侍従だったというのは、十五歳から二十歳くらいまでの期間だろう。
父・光孝天皇からは、帝王学ならぬ、臣下学を学ばされた、ということだ。
業平は宇多天皇よりも四十歳以上年上だから、
当時もう六十くらいのおじいさんで、まともに相撲をとったはずがない。
神遊びの神事として相撲をとったはず。
にしても相撲を取るくらいだから、親密な間がらだっただろう。
光孝天皇は、自分の意思に反して即位したのだから、
自分の意思に反して後継者が決まるだろうと覚悟していた。
基経が先に死ねば別だったろうが。
だから後継者を指定しなかった。
ともかく、光孝天皇にしてみると、陽成天皇の正統性にはまったく疑いがなく、
陽成天皇が廃位されたことにもなんの正当性もない、
と考えていた。
態度にそれがあらわれている。
光孝天皇は崩御するまで、後継者指名に関しては何もしなかった。
基経が適当に裁いて、皇籍復帰した宇多天皇が即位するが、
まあ、帝王学は学んでないわけで、
いきなり位を継いだわけです。
で、父はもういない。
しかも二十歳そこそこの若さ。
さてどうしようかと途方に暮れただろう。
もうなんでもかんでも摂政関白に任せちゃおうと思ってもおかしくないんだが、
そこはたぶん何かしらの反骨精神、自立心があった。
というより摂関家に対する対抗心とか復讐心がめらめらわいてもおかしくないわな。
親子二代天皇を継いでしまったわけだから、
いまさら陽成天皇に皇統を戻さなきゃとは考えなかった。
せっかく天皇になったんだから、
努力して良い天皇になろうと思ったと思う。
それで源氏だった頃に生んだ皇子がいて、後の醍醐天皇だけど、
その息子になんとしても皇位を継がせられるようにしようと宇多天皇は思ったと思う。
光孝天皇と宇多天皇はほとんど接点がなかったと思う。
だけど宇多天皇としてみれば光孝天皇がやりかけていた文芸復興ということを引き継ぎたいと思ったと思う。
父親の遺志を継ぐというのが宇多天皇のやりかただった。
宇多天皇という人は、基本的には典型的なプランナータイプの人だったと思う。
アイディアマンといってもよい。
アイディアは自ら出すが、あとは臣下や息子になんでも丸投げする。
政治は菅原道真に、和歌は紀貫之に、天皇という仕事は醍醐天皇に。
割と放任しちゃうタイプだったと思う。
そう考えると宇多上皇と醍醐天皇と菅原道真の関係もなんとなくわかる気がする。
醍醐天皇は宇多上皇の留守中に菅原道真を左遷してしまう。
宇多上皇はその決定を覆すこともできたはずだ。
太宰府に流されてから道真は二年以上生きていたのだから。
でもそれをしなかったというのは、さほど道真を大事に思ってなかったということじゃないか。
好き嫌いで取り立てたというよりは、才能を買ったと。
で道真はおそらくは才におぼれるタイプだった。
どんどん一人でつっぱしって周りの忠告も耳に入らないタイプ。
まあ太宰府辺りでのんびりしてろよというつもりではなかったか。
太宰府権帥というのは当時そんな低い官職ではない。
遣唐使盛んな頃は非常な重職で、遣唐使の大使になったりする職。
遣唐使廃止されたあとも、太宰府で交易品の管理とかしなきゃならない。
左遷ではあったかもしれないが、島流しというようなニュアンスはそれほどなかったのではないか。
菅原道真については、彼の漢詩をじっくり読んでみようと思う。
宇多上皇という人と道真の関係は、貫之との関係とも、醍醐天皇との関係とも似ていたと思う。
割とドライな感じだったと思う。
そうかじゃあそうしろと。そうしたけりゃそうすりゃいいでしょ、みたいな。
宇多上皇はいろいろやりたいことがあった。
日本国中御幸したかったし、法皇として仏教にも励んでみたかったし、延喜式も整備したし、
和歌集も編纂したかったし。
やりたいことが多すぎて自分だけじゃできないってこともあったろうし。
わざわざ自分でやってたら切りないって思っただろうし。
でもちゃんとプロジェクトのマネージメントはする、みたいな人ではなかったか。
そんで宇多上皇は古今集の中では法皇という名前ででてくるんだが、詞書きにしかでない。
歌が一つも採られていないのだが、これはいかにも不自然だ。
たとえば亭子院歌合というのがあって主催者が宇多上皇で判者も宇多上皇。
すると、宇多上皇は自分では歌は詠まない。判定する側だから。
でも一個だけ自分の歌を紛れ込ませた。
えへ。じつはこれは私の歌だよんとか、詞書きに残している。
古今集についても同じような気分だったのではないか。
宇多上皇はスーパーバイザーであるから、自分の歌は載せない。
ほかにもいろいろ遠慮した理由は考えられるが、ともかく、
もし、宇多上皇が何か紀貫之に注文をつけたとすれば、自分の歌は載せるな、ということ。
あるいは、載せても良いが詠み人知らずにしとけということ。
古今集には詠み人知らずとして宇多上皇の歌がいくつか混じってるんじゃないか、
という気がしてくる。
いや、もしかすると詠み人知らずの歌の大半がそうなんじゃないかという気がしてくる。
たとえば
> 色よりもかこそあはれとおもほゆれたが袖ふれしやどの梅ぞも
詠み人知らずの古歌というものは、もう少しわかりやすいものだと思う。
この歌はわかりにくく、従ってある個性を感じる。
この歌の解釈はこうだ。誰が私の家の梅に、袖をふれただけで去っていったのだろう。
一本くらい折り取っていけば良いのに。
色よりも香りのほうが優れている、とでも思ったのだろうか。
> 梅ノ花ハ色モヨイガ 色ヨリ香ガサ ナホヨイワイ アヽハレヨイニホヒヂヤ 此ノヤウニヨイニホヒノスルハ タレガ袖ヲフレタ此庭ノ梅ノ花ゾイマア
これは宣長の解釈。
多くの場合、だれかの袖が触れたせいで、梅にこのように良い香りがついたのだ、と解釈されるのだが、
かなり無理がある。
普通は梅から袖に香りが移るものであって、その逆というのはあり得ない。
そこを無理に解釈しようとしてはいけない。
丸谷才一は、触れただけではなく実は折り取ったのだ、と解釈しているが、
これもかなり無理がある。
折り取ったのであれば、香りだけでなく色もあわれだと思ったのである。
香りだけで色がないということは枝は折ってないはず。
おそらくこの歌を詠んだ人は、だれかが自分の家の軒先まできて梅の花を見ていったのを目撃したのだろう。
普通は来訪のしるしに一枝折っていくものである。
当時の習慣では、いろんな人がやいやい指摘するように、実際そうだったかもしれない。
やあこないだ君の所から一本梅をもらったよ、今うちの瓶に差してあるんだ、へえそうかい、みたいな会話のきっかけになる。
しかし、折らなかった。
だれかもわからなかった。
誰だったのだろう、ずいぶん中途半端なことをして。
当時の社交辞令的にはかなり不完全で不審な行動だったわけだ。
それで怪しんで詠んだ。という意味だと思う。
小料理屋の女将さんが、
店先をふと立ち寄って通り過ぎた客を恨んで詠んだような、
そんなニュアンスの歌だと思うんだよね。
そう解釈すべきなんだが、そこまで読み取るのはかなりたいへんだ。
こういうひねった歌というのは、詠み人知らずにないとは言い切れないが、
どうも身分を隠しただれかの作のようにおもえてならない。
貫之が詠んだ歌だとしても不思議ではないが、
貫之が名を隠す必要性がない。
宇多上皇と醍醐天皇の中は決して良好でなかったのは確かである。
醍醐天皇にもたくさん弟たちがいて、
いつそっちに皇位が移るかしれない。
しかもお父さんは教育熱心。
いつまでも政治やらなにやらに口出ししてくる。
邪魔くさいお父さんだったと思う。
ある意味、光孝天皇と宇多天皇の関係とは真逆。
醍醐天皇がどんな性格の人だったかはさっぱりわからない。
醍醐天皇がもすこし長生きして宇多上皇が崩御して、
父親の影響なしでどんなことをしたかわかればいいんだが、
先に死んでしまった。
どうも病弱だったらしい。
なんとなく気が弱く反抗的な息子、という感じがする。
まあイメージだが。