新撰組始末記

新撰組始末記の中に「竜馬暗殺」という章がある。
「勝海舟」の中の描写とほぼ同じ。
しかし「軍鶏を買ってこい」というセリフはなく、
また「おれは脳をやられた。もういかん」ではなく
「慎太、僕は脳をやられたから、とても駄目だ」となっている。

まあ、よっぽど恨みを買っていたのだろうなぁと思う。
思想的なものというよりも、強引な商売や取引をしたとか。
やくざの落とし前に近いようなものを感じる。

子母沢寛と司馬遼太郎 2

思うにこれまで、子母沢寛と司馬遼太郎というのは、あまり対比して語られることはなかったと思うのだが、
比べてみるといろいろと面白い。
境遇が似ている。何度か面談もし、対談も残している。
どちらかと言えば、司馬遼太郎が一方的に慕ったかたちだ。
子母沢寛は1892年生まれ、司馬遼太郎は1923年生まれ。
約30才離れている。
司馬遼太郎は、燃えよ剣など書いてみて、幕末維新を取材するには直接の関係者はもう死に絶えていて、
不可能だと気づいたと思う。
たとえば土方歳三が死ぬのは1869年。
しかし乃木希典が死ぬのは1912年。
ざっと40年後だ。
司馬遼太郎は、戦国時代とか幕末維新などの時代が好きで良く小説に書いたわけだが、
子母沢寛のように、取材に基づいた歴史物も書いてみたいと思ったに違いない。
そうすると子母沢寛が取材して書いた時代から30年から40年ほど後となると日清日露の時代であり、
このころだとまだ関係者で生きている人がたくさん居るわけだ。
そこでまず実験的に「殉死」を書いてその後「坂の上の雲」を書いたのではなかろうか。
実際「殉死」の後書きには、それっぽいことが書かれている。
まだ関係者が生きている生々しい時代の歴史小説を彼は狙って書いたのだが、
しかし自分が参加した戦争については敢えて小説には書かなかった。
風景画も静物画も対象からある程度離れないと描けないが離れすぎると見えなくてやはり描けない。
そんなふうなものか。
自分の祖父の時代の歴史というのが一番小説には書き良いのかもしれん。
ここらは子母沢寛の方法論だと言えると思う。

子母沢寛と司馬遼太郎

1967年に子母沢寛と司馬遼太郎が対談している。
子母沢寛は1968年に死んでいるので最晩年だが、
司馬遼太郎は44才、「燃えよ剣」や「殉死」など、
初期の作品を書いたばかりの頃だ。
司馬遼太郎ははたちくらいに子母沢寛の「新撰組始末記」を読んで、
どうしてもこれは超えられないと思い、子母沢寛に会いに行って教えを請うたという。
両者とも新聞記者から歴史小説家になったのだから似た境遇ではある。

「新撰組始末記」を改めて読むとこれは小説とかそんなものではなくて、大論文だ。
これをおもしろがって読んだ人がいるとは思えない。
ただ学術的、歴史的にはそうとう重要な本であろうとは思う。
司馬遼太郎はしかしそもそもこんな小説を書こうなどと思ったはずはない。
最初からもう少し色気のあるものを書こうと思っていたに違いない。
それに、大正時代には生き証人に取材もできるが司馬遼太郎の時代にはできるはずもない。
ただ謙遜して自分には書けないと言ったのではなかろう。
司馬遼太郎はあまり謙遜するような人でもない。

対談は「幕末よもやま」というタイトルでそんな長いものではなく、
しかも司馬遼太郎が勝手に一方的にしゃべっている感じ。
ときどき子母沢寛も発言している、という程度。
ほとんど新撰組と彰義隊の話で、龍馬の話でもしていてくれると面白かったのだが、
司馬遼太郎が遠慮したのか。

子母沢寛

子母沢寛という人は、彰義隊や新撰組のことばかり書いているので、
てっきり江戸っ子か何かかと思っていたのだが、wikipedia を読むと彼の出自はさらに濃い。
祖父が彰義隊に参加した江戸の御家人で、
箱館戦争までつきあって敗れてそのまま北海道に定住したのだという。
まあそれで東京の大学を卒業して新聞社に勤務するかたわら、
彰義隊や新撰組の生き残りやその子孫らにいろいろと取材をして、
それがつもりつもって小説家になったというわけだな。

私が子母沢寛の小説をいつ初めて読んだか、もう思い出せもしないのだが、
最初に読んだのは「新撰組始末記」か「脇役」だっただろうか。
こんなものをいきなり自分で選んで買って読むはずもなく、
おそらく祖父が残した文庫本を読んだと思う。
「情人(いろ)にもつなら彰義隊」というセリフが出てくるのだが、
これは子母沢寛の祖父の幻影だったわけなのだ。

新撰組ならともかく彰義隊を知っている人がそんなに居るとも思えない。
上野公園には彰義隊の石碑が建っているけど注目する人もほとんどいない。
しかし子母沢寛にとってはきわめて具体的な意味があった。

wikipedia で読むと「新撰組始末記」は1928年の彼の処女作だが、
「脇役」は 1962年で、割と晩年の作品だ。それにもちょと驚いた。
彼の小説は、たとえば「勝海舟」などは、おそらくは新聞に連載された娯楽歴史小説だが、
「新撰組始末記」はルポルタージュか学術論文に近いものだ。
きちんきちんと出典を記載している。

子母沢寛が坂本龍馬の最期について「勝海舟」(新潮文庫4巻)の中にちらと書いているのだが、
なるほどよく調べて書いてある。
「腹が空いた、軍鶏を買ってこい」とか「おれは脳をやられた。もういかん」などのせりふも、
子母沢寛の独自取材でこれが初出ではなかろうか。
勝海舟に龍馬暗殺を最初に知らせたのは益満休之助だという。
益満はでは誰から聞いたのだろうか。
というか子母沢寛はどういうソースでこのようなことを知り得たのか。

また杉亨二という勝海舟の弟子の一人が

> 龍馬は野人だ。この辺で死んだ方がむしろいいかもしれない。

> 世の中が落ち着けば、またみんな馬鹿に思えて、じっとしていられなくなる男ですよ、あれは。

> 薩摩、長州。天下を奪(と)った奴がきっとあの男を目の上の瘤にする。どうせは、誰かに一服盛られますよ。

などと言っている。
実に興味ぶかい。
おそらく子母沢寛の創作ではなく、杉亨二が実際にそんな発言をしたのだろう。
しかしこれまたどういうソースでこんなことを調べたのか。
不思議だ。
まあしかし、子母沢寛はそれ以外にはほとんど龍馬について書いてない。
きちんと取材して書く人だったから、それ以上のソースがなかったということではないか。
遺族に取材したにしてもほら話も混じっていたろう。
だが小説にするにはその方が面白かったこともあったろう。
子母沢寛が自分で勝手に創作したセリフはなかった、と思いたい。

紀貫之と吉田松陰と坂本龍馬

坂本龍馬の有名な歌

> 世の中の人は何とも言はば言へ我がなすことは我のみぞ知る

については以前も考察した[1)](/?p=3091)[2)](/?p=6446)。
これは直接には、吉田松陰の歌

> 世の人はよしあしごともいはばいへ賤が心は神ぞ知るらむ

を本歌とするものだと思っていたのだが、紀貫之の歌に

> 人知れぬ思ひのみこそわびしけれわが歎きをば我のみぞ知る

というものがある。古今集に収録されていて、坂本家は一族全員が和歌をたしなんだというから、
坂本龍馬がこの歌を知らなかったはずはなかろう。
紀貫之と吉田松陰の歌から、ほとんど自動的に坂本龍馬の歌が出てくるのは誰の目にも明らかだ。

> 大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです

どうなのかなあ。
大岡信という人がどうなのか、はなはだ懐疑的なのだが、
ざっと坂本龍馬の歌を見る限りでは、吉田松陰の影響がかなり強いと思えるし、
たとえば

> かくすればかくなるものと我もしるなほやむべきかやまとたましひ

これなんかはまったく吉田松陰の歌

> かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

そのままだし(しかも「なほやむべきか」は意味不明)、
それ以外ではいわゆる月並な古今調というか、つまりは江戸後期から幕末に流行した桂園派そのもののように思える。
勝海舟もけっこう和歌を詠んだ方なので、多かれ少なかれ影響はあるに違いない。
ただまあ詠草にあれこれ文句を言っても仕方ない。
歌集を出版したというならともかく、詠草というのは未発表の草稿というほどのものだろうから、
それが松陰や貫之の歌にそっくりだったとしても、龍馬が悪いわけではない。

大岡信という人は何を根拠に新葉集やら新古今やらを持ち出してきたのだろうか。
新葉集については龍馬がそれをほしがったという逸話に引っ張られているだけではないか。
具体的に、新葉集のどの歌、どのような歌風と似ていると言いたかったのだろうか。

龍馬と言えば誰もかれも無批判にほめる風潮の昨今。
龍馬は、「文盲」ではなかったかもしれないが、かなりそれに近かった可能性が高い。