享和元年宣長上京の理由

あいかわらずのネタ。
宣長日記享和元年三月十六日(グレゴリオ暦1801年4月28日)、

> 公卿勅使花山院右大将殿(愛徳卿)御参向、今夕当所御泊。
藤浪殿亦御参向、一時許先給、同泊。
抑、公卿勅使参向者、去寛保元年有之(庭田宰相殿)。
其後今度也、尤珍。

さらに十八日

> 公卿勅使御還向、当所御休。

この十日後の二十八日に宣長は京都に向かっている。

[花山院愛徳](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E6%84%9B%E5%BE%B3)は当時、
右近衛大将、従三位くらいだったと思われる。
[藤波家](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E5%AE%B6)もまた公家。
御参向、御還向とは、伊勢神宮に勅使が行き帰りしたという意味だろう。
「当所御泊」の「当所」とは文脈的に宣長宅とは考えにくく、単に松坂のどこかの宿に宿泊したということだろう。
「一時許先給同泊」とは、一時的に先に行くことを許されたがやはり同じく泊まった、というような意味か。

勅使が松坂を行き来したことは書かれているが、勅使と宣長が面会したかどうかまでは書いてない。
面会したとしてどちらがどちらを訪れたか。
だが、宣長の上京がかなり長期にわたり、また入門や講義などの準備がかなり周到で、
公卿らの表敬訪問や歌会などもあったことを思えば、
ただ単に京都から来た勅使を見て宣長が急に京都行きを思い立ったというよりも、
京都の公卿か富裕な町人たち(富小路貞直、服部敏夏らか)から勅使に託して宣長宛の招待状のようなものがもたらされて、
もともとそういうことは好きなたちの宣長が、では京都にいこうかとなった、というのが真相なのではないか。
当時の宣長の名声からしてあり得ないことではない。
だが、日記にもどこにも明記されてはいない。
なんか微妙な事情があってその辺は日記に残したくなかったのかもしれんし。
宣長が、松坂に宿泊した勅使のもとをおとづれて、宣長の京都での評判などを聞いて、その気になった、という可能性もあるし、
逆に、勅使が行き返りわざわざ宣長に念押しした、とも考えられるわな。

勅使が寛保元年以来だと書いているが、1741年から1801年まで、60年もの間、
京都と伊勢神宮との間の勅使の往来が途絶えていたという意味か、
単に松坂を勅使が行き来したのが60年ぶりという意味か。
京都・松坂・伊勢の位置関係からして、伊勢に行くには必ず松坂を通るに違いなく、
わざわざ松坂を迂回する意味も見あたらないし、「尤珍」という言い方からしてどちらかといえば前者の意味か。
庭田宰相とは時代的には[庭田重熈](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%86%88)か。

宣長の遺品は奇跡的にほぼ100%残されているそうだ。
なので、普通なら残ってないようないろんなディテイルまでわかってしまう。
だが、ディテイルがわかればわかるほどさらにその先のディテイルまで知りたくなる。
宣長上京については、いろんな日記が残されているが、
当たり前のことだが、自分の関わった部分、自分に関心のある箇所しか残ってない。
香川景樹とやりとりした歌は景樹の歌集や遺稿にしか残ってない。
ホスト役の公卿や町人の日記も当時は存在していたかもしれないが、今は残ってない。
それらをすべてつきあわせたらきっともっといろんなことがわかるのに。

科挙

某つぶやきでエキサイトしてしまったのだが(あれは「もう寝ます」とか言ってやめるべきだっただろうか)、
もともと考えていたことは別のところにあって、中国が、アヘン戦争以来、西欧列強にぼこぼこにやられて、
とうとう科挙というものが廃止されて、西洋の学問体系や教育制度が採り入れられた。
そのとき、政治家や軍人を登用するのに詩人の素養を試験するのはおかしいうんぬん、だから中国は負けたのだということが言われるようになった。
中国では高級官僚は詩が作れた。
日本でも貴族は和歌をたしなんだ。
東アジアではずっと支配者階級、特権階級が詩歌を文学的な教養の基礎においてきた。
だが今はそんな教育はしない。
そんな教育はすでに否定されてしまった。

もし政治家や官僚や軍人やあるいは思想家が歌を詠むと弱くなるとか、
歌詠みの素養は政治とは関係ないとか、
歌詠みは国を滅ぼすとかいうとしたら、その反例はいくらでもあげることができる。
足利高氏、吉田松陰、頼山陽・・・。

つまり今の世の中は、政治家や官僚を養成するのに、西洋の法学とか経済学とかを大学で教えるのが当たり前なんだが、
なぜ国語ではいかんのか、国語の中でも詩歌ではいかんのか、大学入試に歌を詠むということがなぜないのか、
小論文ならあるのになぜ詠歌はないのか、なぜ国語教育は、
かつてのようではないのか、ということをつらつらと考えていたのだ。

田植え

古くは「田植ゑ」という言葉はなかった。
歌には「早苗取る」という言い方なら良く出る。
苗代の早苗を取って田んぼに移し替えるわけだが、
その田んぼに移し替える作業、つまり田植えに相当する言葉がない。
苗代に水を「堰き分く」とも言う。
その前の段階で田かへし(「耕し」の語源)、田おこし、というのもある。

つまり、歌に詠まれるのは、田を耕して、苗代に水を入れてその苗を取るところまでで、
その後の農作業はいちいち歌にしなかった、ということか。

享和元年上京日記

宣長は十代後半から二十代後半まで、京都遊学のために何度か京都と松坂を往復している。
その後では、寛政二年(1970)、寛政五年(1973)、享和元年(1801)の三回しかないようだ。
寛政二年の上京は、[御遷幸](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/gosenkou.html)、
つまり新築された御所に、天皇が仮御所から帰るところを見物に行ったものと思われる。

宣長晩年の上京は四月十五日賀茂祭から六月初旬祇園祭までの長期間で、知人宅に泊まるというのでなしに、
四条通東洞院の宿に宿泊し、なかなか豪勢な旅だったように思われる。
四月十五日の賀茂祭の日には小沢蘆庵宅をたずねている。
「京みやげ」という記録に

賀茂の祭りを見奉りて 宣長

> 四十とせはよそに過ぎぬる神わざにまたもあふひのけふのたふとさ

蘆庵

> ちはやぶる神のみわざのたふとさになほよろづ世もあふひとを知れ

返し 宣長

> よろづ世も八百万世も君も我もともにあふひのよはひともがな

とある。さらに「鈴屋大人都日記」には、蘆庵の門人の小川布淑が

> めづらしくけふぞあふひのもろかづらもろともにませ八百万世も

と詠んだとある。
これはなかなかの壮観ではなかろうか。

錦小路室町の服部五郎左衛門敏夏(服部敏夏)が四月早々に宣長に入門している。
五月十八日の円山の饗宴はこの人の主催だったというから、京都のお金持ちだったのだろう。
「鈴屋大人都日記」「京みやげ」にもいくつか歌が記録されている。
京都における宣長の重要なパトロンだったに違いない。

「鈴屋大人都日記」

> 敏夏がいざなひきこゆれば、午時ばかりより、泉涌寺にまうで給ひて・・・、かくて未時ばかりに、円山にものしつるに、
人々つどひゐて出迎ふ。そもそも、この円山と言ふは、東山の寺なるを、鰭の広もの狭ものを調じ出づれば、
京人田舎人雅びたるたはれたる、絶えず遊びをものする所なりけり。
けふは敏夏があるじにて残るくまなく心をし用ひければ、まづ南面払ひ開けさせて、日影さすかたには幕引きはへしつらへたれば、
吹く風もことに涼しくなむ、松杉など生ひ茂り、作庭のさまおかしうしなしたり。
すのこより見やれば、京の町々西山かけて見えわたるもえならぬながめなり。

> 香川景樹も出迎へて、御旅ゐにものすべう思ひわたり侍れど、とやかくやとことしげくてなむ、
けふここへものし給ふことを嬉しく思ひ給へて、ふりはへてものし侍り。著し給へる御書どもは、早う見奉りてみかげをかうぶる事少なからず、
いとめでたくなむなど言ふ。
師もなにくれと語らひ給ひ、人々酒のみ歌いののしり、心々に歌をも詠みて、暮れ深く帰り給ふ・・・

「都日記」を書いた石塚龍麿は香川景樹とほぼ同世代で、すでに知り合いでもあったかのような書きぶり。

「享和元年上京日記」同じ箇所

> 今日、服部敏夏のあるじにて、円山に到り、終日饗宴、日暮れて帰る。香川式部、対面。右の人、予、旅宿へ訪ね来たき由かねがね望まるる所、
今日ここへ来訪なり。

宣長は「対面」と言っているので、入門したわけでも教えを受けたわけでもなく、
この若輩の歌人に、一応対等の立場で応対したのだろう。
景樹がすでに宣長の著作を読んで勉強しており、なんとしても面会したいと押しかけてきたという感じがややおもしろい。