月別アーカイブ: 2010年5月

享和元年宣長上京の理由

あいかわらずのネタ。 宣長日記享和元年三月十六日(グレゴリオ暦1801年4月28日)、 > 公卿勅使花山院右大将殿(愛徳卿)御参向、今夕当所御泊。 藤浪殿亦御参向、一時許先給、同泊。 抑、公卿勅使参向者、去寛保元年有之(庭田宰相殿)。 其後今度也、尤珍。 さらに十八日 > 公卿勅使御還向、当所御休。 この十日後の二十八日に宣長は京都に向かっている。 [花山院愛徳](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E6%84%9B%E5%BE%B3)は当時、 右近衛大将、従三位くらいだったと思われる。 [藤波家](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E5%AE%B6)もまた公家。 御参向、御還向とは、伊勢神宮に勅使が行き帰りしたという意味だろう。 「当所御泊」の「当所」とは文脈的に宣長宅とは考えにくく、単に松坂のどこかの宿に宿泊したということだろう。 「一時許先給同泊」とは、一時的に先に行くことを許されたがやはり同じく泊まった、というような意味か。 勅使が松坂を行き来したことは書かれているが、勅使と宣長が面会したかどうかまでは書いてない。 面会したとしてどちらがどちらを訪れたか。 だが、宣長の上京がかなり長期にわたり、また入門や講義などの準備がかなり周到で、 … 続きを読む »

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科挙

某つぶやきでエキサイトしてしまったのだが(あれは「もう寝ます」とか言ってやめるべきだっただろうか)、 もともと考えていたことは別のところにあって、中国が、アヘン戦争以来、西欧列強にぼこぼこにやられて、 とうとう科挙というものが廃止されて、西洋の学問体系や教育制度が採り入れられた。 そのとき、政治家や軍人を登用するのに詩人の素養を試験するのはおかしいうんぬん、だから中国は負けたのだということが言われるようになった。 中国では高級官僚は詩が作れた。 日本でも貴族は和歌をたしなんだ。 東アジアではずっと支配者階級、特権階級が詩歌を文学的な教養の基礎においてきた。 だが今はそんな教育はしない。 そんな教育はすでに否定されてしまった。 もし政治家や官僚や軍人やあるいは思想家が歌を詠むと弱くなるとか、 歌詠みの素養は政治とは関係ないとか、 歌詠みは国を滅ぼすとかいうとしたら、その反例はいくらでもあげることができる。 足利高氏、吉田松陰、頼山陽・・・。 つまり今の世の中は、政治家や官僚を養成するのに、西洋の法学とか経済学とかを大学で教えるのが当たり前なんだが、 なぜ国語ではいかんのか、国語の中でも詩歌ではいかんのか、大学入試に歌を詠むということがなぜないのか、 小論文ならあるのになぜ詠歌はないのか、なぜ国語教育は、 かつてのようではないのか、ということをつらつらと考えていたのだ。

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田植え

古くは「田植ゑ」という言葉はなかった。 歌には「早苗取る」という言い方なら良く出る。 苗代の早苗を取って田んぼに移し替えるわけだが、 その田んぼに移し替える作業、つまり田植えに相当する言葉がない。 苗代に水を「堰き分く」とも言う。 その前の段階で田かへし(「耕し」の語源)、田おこし、というのもある。 つまり、歌に詠まれるのは、田を耕して、苗代に水を入れてその苗を取るところまでで、 その後の農作業はいちいち歌にしなかった、ということか。

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陰暦・陽暦変換

探せばけっこうあるのだが [換暦](http://maechan.net/kanreki/) などがシンプルで便利か。

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享和元年上京日記

宣長は十代後半から二十代後半まで、京都遊学のために何度か京都と松坂を往復している。 その後では、寛政二年(1970)、寛政五年(1973)、享和元年(1801)の三回しかないようだ。 寛政二年の上京は、[御遷幸](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/gosenkou.html)、 つまり新築された御所に、天皇が仮御所から帰るところを見物に行ったものと思われる。 宣長晩年の上京は四月十五日賀茂祭から六月初旬祇園祭までの長期間で、知人宅に泊まるというのでなしに、 四条通東洞院の宿に宿泊し、なかなか豪勢な旅だったように思われる。 四月十五日の賀茂祭の日には小沢蘆庵宅をたずねている。 「京みやげ」という記録に 賀茂の祭りを見奉りて 宣長 > 四十とせはよそに過ぎぬる神わざにまたもあふひのけふのたふとさ 蘆庵 > ちはやぶる神のみわざのたふとさになほよろづ世もあふひとを知れ 返し 宣長 > よろづ世も八百万世も君も我もともにあふひのよはひともがな とある。さらに「鈴屋大人都日記」には、蘆庵の門人の小川布淑が > めづらしくけふぞあふひのもろかづらもろともにませ八百万世も と詠んだとある。 これはなかなかの壮観ではなかろうか。 錦小路室町の服部五郎左衛門敏夏(服部敏夏)が四月早々に宣長に入門している。 五月十八日の円山の饗宴はこの… 続きを読む »

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寛政五年上京日記

あいからわずのネタ。 宣長の寛政五年(1793)上京日記(全集第16巻)。 四月十一日(陽暦5月20日)、蘆庵宅訪問。 蘆庵 > 来む年を契りおけども老いぬればけふの別れをしばしとぞ思ふ かへし。宣長 > しばしとて立ちもとまらば松陰に千世や経なまし飽かぬ心は > 千世八千世長らへて待てながらへて我もとひ来む来む年ごとに また別の箇所に > 道のついでに小沢蘆庵といふ歌人の岡崎なるいほりにとぶらひものしてたるに軒ちかくたてる松はわかの浦よりうつしたるなりと聞きて、 あるじの雅びを思ひよせて 宣長 > 思はずも都ながらにわかの浦のこ高き松をけふ見つるかも > この庵南に向かひて東山の見わたさるるいとおもしろし > 見るか君ひむがし山の花の春月の秋をも宿のものにて > とよみけるに > 本居翁のことの葉は松のおもておこしなめればこの庵に残してむと思ふついでに 蘆庵 > 春ごとに松はみどりもそへてけり年のみ高き我や何なる > とぞうめかるる庵の見わたしはげに四の時うつりゆくをりをり飽かぬことなくなむ 蘆庵 > わがものの君に贈らで悔しきは野山をいるる庵の明け暮れ > とありけるかへし 宣長 > 年のみと何かはいはむ君が名は松より高く聞こえける世に > 春秋の野山をいるる言の葉にその月花も見るここちして 亡くなった年は同じだが、蘆庵の方が宣長よりもだいぶ年配なので、 常に宣長が蘆庵を敬って… 続きを読む »

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静養中

昨日は午前の9時から20時くらいまでぶっおしで働きそのあと0時過ぎまで遊んだ。 風邪引きなのに。 起きたらもうろうとしてた。体重もかなり減っていたらしい。 らしいというのは、朝、爆食爆飲したあと計ったからだ。 もう少し静養する。 午後から働くかどうかはまだ決めてない。 風邪は最終段階のようでそろそろ治ると思う。

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上田合戦

サマーウォーズにちらっと出てくる [上田合戦](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6) だが、なかなか面白そうな話だな。 三河物語も読んでみたい。 面白そうな話が多すぎて困る。 [あずまきよひこ.com](http://azumakiyohiko.com/archives/2010/05/18_0825.php) に書いてあったのでつい反応した。 いや、安彦良和の三河物語なら、もう読んだのだが。

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享和の上京

宣長の享和の上京の件だが、門人と京都の学者らがみなで資金をまかなったのだろうか、 二ヶ月半もの長い間、松坂を離れている。 72才の最晩年に、歩いて行ったとも思われない。馬か、籠か。 四条烏丸という、今でも一番繁華な辺りに宿泊している。 「天の下に住ままほしき里は京をおきてほかにはなかりけり」などとも言っているし、 > 涼しさに 夏もやどりも ふるさとに 帰らむことも みな忘れけり などと言っているのはよほど京都が気に入ったからでもあろう。 この年、1月には和歌山に居た。 それから詠歌を見るに、2月24日に仁徳天皇陵、その後法隆寺やなどを旅行している。3月1日に帰宅。 3月28日出発。 > 鈴鹿山 坂の下道 分け暮れて 関はなけれど 泊まりぬるかな などと言っている。 29日、鈴鹿山越え。30日、勢多。 4月京都で(グレゴリオ歴では5月13日。ちょうど今頃だ罠) > さみだれと春の雨との中空も晴れやらでのみ日数ふるかな 4月8日、平野神社で > 神垣や春思ほゆる桜かな並木の青葉かげ暗きまで すでに葉桜だったようだ。 10日、清水寺に行こうとしたがにわか雨にあって、六波羅蜜寺に雨宿り、 > かきくもり思ひもかけずふる雨に古寺たのむふることのとも 12日、清水寺 > 見渡しにさはる青葉はつらきかな桜が枝も花ならぬころ > 清水に我も夏来て桜木の青葉に春をしのぶこのもと などとまたしても葉… 続きを読む »

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養子

江戸時代は、いやつい最近まで日本では、家を絶やさないために養子をとることが多かった。 家が産業であり(学者の家ならば学問でもあり)、家が財産であり、家が共同体であったからだが、宣長も大平を養子にしている。 大平が弟子の中で特に良く出来たからでもあろうが、実子が眼病で、家業を継がせられなかったからだろう。 玉勝間を読んでいると、11の巻に「本生の父母」という話があって、 実父実母というのは、養父母の方を虚構のようにみなす心ばえであって、よろしくないから、 養父母に対して本生の父母と呼んではどうかなどと書いている。

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