妻が僕を選んだ理由、16日目

いちおう宣伝を兼ねて。

驚いたことにまだ売れている。
無料本なので、売れているというのは変だが、ダウンロード数のいきおいはさほど衰えてない。
といっても総数はこれまでやった無料キャンペーンと大差ないのだが、
これが今後も持続するとしたらすごいことだ。

理由はよくわからないが、やはり、世の中には、
なぜ妻は私を選んだのだろうと思う男がけっこういて気になってとりあえず読んでみるか、
無料だからとりあえず落としてみるかという気になるからじゃなかろうか。
そういうことは案外女性も気にしているかもしれない。
読者の男女比も知りたいところだ。

もちろん男女のロマンス、夫婦の情愛のようなものを、描いてないわけでもなく、
逆ハーレロマン的な要素もなくはないのだが、
エロやバイオレンス的なものは一切なく(いや、暗示するものはあるが)、
魔法や超能力もなく、
本質的にはがちな近未来SF。
起承転結的なものも特になく、ただひたすら「妻が僕を選んだ理由」は何かを読者に推理させ、読み続けさせる話、
とでもいうか。
だけどアマゾンのレビューには「サスペンスドラマ」と書いてもらった。
スリルや怖さをことさら演出したわけではなかったが、そう感じてもらえたのはうれしい。
ともかく良いレビューを書いてくれた人がいたおかげで、リバウンドしたのはよかった。
非常にありがたい。

学術的な難解な問答。すいません。
あれは、読者サービスならぬ著者サービスです。
著者の自己満足なので我慢してください。飛ばして読んでも全然問題ありません。

ともかくほとんど無名作家の私の場合、
読者サービスをするつもりで、無料サンプルを書くつもりで書くくらいがちょうどよいらしい、
ということがわかった。
でもこれが無料でなかったらどのくらい売れただろう?わからん。そんなこと考えてもしかたない。

実はまだ手直ししている。
プロットの変更はさすがにないが、細かな描写の追加はある。
誤記もまだたまにあるので油断ならない。

Amazon 売れ筋ランキング:

> 1位 ─ Kindleストア > Kindle本 > 文学・評論 > [ロマンス](https://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/digital-text/2292725051/ref=pd_zg_hrsr_kinc_1_4_last)

この「ロマンス」には他の無料本がほとんどないので、別にどうでもよいのだが、
もしかするとそこに意味があるのかもしれない。

> 1位 ─ Kindleストア > Kindle本 > 文学・評論 > [SF・ホラー・ファンタジー](https://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/digital-text/2292700051/ref=pd_zg_hrsr_kinc_2_4_last)

1週間以上この状態が続いているはずだ。
このジャンルは私の知り合いの KDP作家が一番書いているところなんでびっくりしてる。

> 12位 ─ Kindleストア > Kindle本 > 文学・評論 > [小説・文芸](https://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/digital-text/2292754051/ref=pd_zg_hrsr_kinc_3_4_last)

これもけっこうすごいことだ。このジャンルでは夏目漱石『吾輩は猫である』『こころ』、
太宰治『人間失格』が玉座を独占しているのだが、
そのはじっこにつらなっている。

> Kindleストア [無料タイトル](https://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/digital-text/ref=pd_dp_ts_kinc_1#2) – 28位

この位置をキープしているというのもかなりすごい。

公開して16日が経過した。
明らかに今まで書いた本とは反応が違うので楽しい。
それはそうと私の他の本がついでに読まれるかというと、いまのところそうではなく、むしろ減ってる。
思うにとりあえず無料本から読んでおこうかという動きかもしれない。

kobo ではまだ1部もダウンロードされてない。
kobo よ・・・。

村上春樹

まだ1Q84をちらっと読んだだけだが、私の知っている作家の中では、小林秀雄の文章に似てるなと思った。村上春樹と小林秀雄が似てるといってる人はいないかとググってみたが、どうもいない。

小林秀雄は戦前のフランス文芸の影響をうけた人で評論家になった。一方、村上春樹は戦後のアメリカ文芸を受肉化して小説家となった人だが、村上春樹の作品は小説という分類からはかなり外れているように思う。その本質は「やおい」であり、小説という体裁を使って書かれた何かだ。冗長で内容に乏しいが読める。小林秀雄の文章と同じだ。ある種の依存、麻薬中毒なのではないか?けなしているつもりはないがほめているのでもない。小林秀雄の文章も評論という体裁を使って書かれた何かなのだ。それはもう小林秀雄節というしかない。

村上春樹の文章はどこもかしこもことわざめいた言い回しで埋め尽くされていて、もちろん全部違うが全部同じような既視感がある。イスラム建築の回廊をぐるぐる回っているような感じというか。それが私にとって心地よいかといわれれば、はぐらかされているような、おちょくられているような、つまりは車酔いにも似た不快な感じがして、村上春樹が嫌いな人も同じことを感じているのだろう。奇妙な言い回しで同じところをぐるぐる回っている、回らされている感じ。

もちろん何かのストーリーとか落ちとか展開とか伏線というものはあるんだろうが、たぶんそれは小説という体裁を整えるために付け足されたもので、あると落ち着くが無くても済む、日本建築の床の間のようなものではないか。

あ、違うな。読者を登場人物に感情移入させるための何かの仕掛けがしてあるわけだ。そして、明らかに、私にはその辺りの設定が、存在しないくらいに透明で、まったく感情移入できない。心の琴線の固有振動数がまったくあってなくてぴくりとも共鳴しない。だから、ただ美文だけ延々読まされる感じがする。あるいは、絵に例えると南画みたいな朦朧体みたいな感じ。

「やおい」だが「読める」というのは日本文芸のお家芸といってもよく、「やおい」だが美麗なアニメ絵でむりやり作品に仕上げたのが新海誠ではないか。村上春樹と新海誠の雰囲気も似ていると思う。

戦前の日本人が小林秀雄に眩惑されたように、今は村上春樹と新海誠がそうしていて、世の中の磁場が非常にゆがみ始めていることを感じる。その磁場の中心が何かはだいたい想像がつく。やはりそこが日本文芸の核であり、読者のマジョリティなのかと、諦念にも似た気持ちになる。

例えば1Q84を映画化しましょうとか言って、できないよね。映画監督に指名されたらとても困る。タルコフスキーなら喜んで作るかも。ていうか、ある意味タルコフスキーの映画とも似ているよね、村上春樹は。超絶退屈だが、好きな人は好き。それなりにファンもいる。よく女の子が六時間も七時間も長電話してしまいにゃ話しながら寝てしまう。でも話す内容はとくになくて覚えてもいない。そういう需要があるってことは、知識としては知っている。だからそういうものを書いて提供する人がいて、実際に売れている。

狙いは悪くないらしい。

最初ちょこちょこ間違いを修正しながら加筆したりしてしまうのだが、
出版して1週間ほど経過して
「妻が僕を選んだ理由」
はやっと落ち着いてきた。
すでに読んだ人、買ってもらった人には悪いのだが、私の本はだいたいそんなものだ。

一箇所、「ナターシャ」のはずが「メアリー」と書いたところがあった。
ごめんなさい。
他にもいろいろ間違いがあった。もうだいぶなくなったと思う。

「妻が僕を選んだ理由」「潜入捜査官マリナ」はわざと「大衆小説のようなもの」を書いたのだけど、
狙いは悪くなかったらしい。
というのは、「この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています」
に出てくる本が多くて、しかも今までと全然違うジャンルの本が出てくるからだ。
今までとは全然違う人の目に触れているのは間違いない。

KDP を始めたのはたしか 2013年頃だったはずで、この3年間で知り合いになった人も多くて、
最初から見てくれていた人たちはもちろんありがたいのだが、
私としては、普通の書店に並べるように、あるいは図書館に置いてもらうようにして、不特定多数の人の目に触れてもらいたいのだ。
同人活動のようなことがしたいのでは決してない。
日本の文芸史に果たした同人の力は大きいし、今も脈々と、コミケのような巨大イベントや pixiv のような形に引き継がれている。
しかし、だからこそ、同人活動というものはやり尽くされていて、どんなものかというのはやる前からおよそわかっている。
KDP にはまだ未知の要素があって何が起きるかわからないのが面白い。
もちろん KDP と同人活動という、この異質なものが融合して、なにか新しい化学反応を起こすかも知れない。
しかしもし私が同人活動というものが好きならすでにやっているはずだし、
学会活動というようなものならもうすでにやったし、そしてすでにその限界を見て疲れてしまった。
つまり私は旗振り役にもなれないしかといってただのメンバーでいるくらいなら個人で動こうと考えてしまう。

「妻が僕を選んだ理由」は出たばかりだが、
「潜入捜査官マリナ」が一番関連書籍が多く、
「エウメネス」は「妻」「マリナ」より少なく、
かつ、これらの本の関連書籍は見事なまでにかぶっていない。
書いてる自分も意識して書いていることではあるが、一冊一冊ジャンルがばらけている。
「虚構の歌人」「ヨハンナ・シュピリ」もたぶんジャンルはかぶってない。
つまり私の場合いろんな場所で撒き餌をまいているわけだ。
「エウメネス」は撒き餌のつもりではなかったが、
「妻」と「マリナ」は明らかに魚影の濃いところを狙ってまいている。
そしてもう完全に新人賞は無視することに決めた。アマゾンに乗っかるほうがましだと思い始めた。
kobo は全然売れてないし、カクヨムも全然読まれてない。
私の本がまがりなりにも売れたり読まれたりしているのは明らかにアマゾン様のおかけだ。

「虚構の歌人」「ヨハンナ・シュピリ」に関していえば、まあ、普通に言って無名の中年新人の小説は売れませんよね。
それよりかかっちりした学術書を書いたほうが、私という人間には需要がある、ということでしょう。

なんでこんなことを始めたかといえば、
「特務内親王遼子」がまったく売れなかったせいかもしれない。
ともかくも、世の中が必要とする本を書いて誘導しないことには、
私が世の中に読ませたい本は読まれない。

妻が僕を選んだ理由

カクヨムでだんだんに肉付けしていったものを、
だいたいのところで kobo ライティングライフで無料で出版しておいて、
そのあと KDP で 99円で出して、
今 0円にしてもらえないかどうか交渉しているところなんだが、
もう買ってくださった人がいらっしゃる。

KDP で試し読みした人はいないので、たぶん KDP 関係者の人は
twitter を読んでて早めに読みたい人はカクヨムを読んで、
0円になるのを待っているのだと思うのだが、
たぶん、kindle でタイトルだけ見てすぐ買った人がいるということなんじゃないか。
kobo ではこうはいかない。
アマゾンは偉大だ。

ほとんど書き終えているんだけど、今も、たとえば、

> 彼女はまずドライブスルーのマックに車を駐め、インターホンに向かって大声でオーダーする。

とだけ書いていたところを

> 淡い青紫の花の房が枝をたわわにたわませているジャカランダの並木道を走らせ、金持ちが住む住宅街を抜けて、彼女はまずドライブスルーのマックに車を駐め、インターホンに向かって大声でオーダーする。

などのように加筆したり、

> 涼しげな木陰を店先に落とすベンジャミンの巨木が印象的な、海風に吹かれるオープンテラス。

みたいな言い方をして「西海岸」っぽさを出そうとしている。
これに対して

> さんさんと日の当たる公園のベンチは暖かかったが川にはもう氷が張っていた。

というのは「東海岸」を表現しているつもりで、

> フィヨルドに流れ込む川はどれも細く急流で、ときにははるかな岩の上から、海に滝となって流れ落ちる。その水は澄んでいるがごく冷たい。

というのは北欧辺りをイメージしているわけなんだが、
そういう細かな枝葉が必要かどうか私には、実はよくわからない。

「たわわにたわませる」というような言葉遊びは好きだし(「たわわ」と「たわむ」は同語源)、
西海岸、東海岸、亜寒帯の空気感の違いは出せるものなら出した方が良いと思ってやってみている。

最近はわざとプロットやタイトルが一般読者向けの小説を書いている。
「潜入捜査官マリナ」「妻が僕を選んだ理由」などがそう
(「生命倫理研究会」は単にラノベを書こうとして失敗した例)。
官能小説か大衆小説みたいなタイトルを付けて、
冒頭ぱっと見、ハーレクインロマンスみたいな展開にしている。
それはまあ、疑似餌なわけだが、
疑似餌は疑似餌なりに楽しめるようにしておきたいし、
読み始めて違う意味で興味を持ってもらいたいと思っているのである。
ある意味騙してるみたいなもんなので、作品解説でもいちおうネタばらしはしてあって、
そのうえ念を入れて無料配布にしたいのだが、
有料で買っていただけて恐縮している。

実は4万字しかなかったのを8万字まで増やすためにエリックというキャラを追加したのだが、
これは結果的には一応良かったと思っている。
エリックはベタなキャラで、彼の登場で明確な三角関係ができる。
ストーリー的には安定するが、少し陳腐な匂いがしなくもない。

「妻」はなぜ「僕」を選んだか。これは完全にSF的な理由なので、
多くの人はだまされると思う(騙されなきゃ作者は困る)。
まあこれ以上自分でネタばらしするのはやめておこう。

今回の表紙絵は、JPEG のリンギングがあまりにひどいので背景になにやら模様をつけた。
これは clip studio paint のフィルタだけで描けるものだ。

> かんたんにミステリを書く方法。

> 1)死体を転がす。

> 2)死体の5W1Hを列記する。

> 3)2でつくった5W1Hを逆から追い込む。

> 推理小説は応募数が少ない。乱歩賞は「該当作なし」がない。ミステリは穴場だぜ、小説家志望者諸君。(鈴木輝一郎小説講座より)

ネタだよな?

名探偵コナンはこんなふうにできてるが、さすがに相棒はこんなにひどくない。

ましかし、コナンのシナリオ書いている人も、それで飯を食っているわけだから、立派なプロのライターには違いない。

高校生の頃は中島敦と小室直樹をよく読んだ。
この二人に共通しているのは学者タイプだということだろう。
夏目漱石や太宰治は学者というよりは文人だ。
ただし、中島敦も小室直樹も、かなりエキセントリックな学者だ。

今は頼山陽や本居宣長などをよく読むが彼らも文人ではあるが、学者だ。
エキセントリックな学者だ。
平田篤胤までいくともはや学者ではない。単なる思想家だ。

大学教員で作家という人は多いが、あまり読みたい人はいない。
森鴎外や永井荷風も大学教員だったが、そんなむちゃくちゃ好きなわけではない。
森博嗣もそうらしいが私の琴線には触れない。
丸谷才一も一時期大学教員だった。
そういえば丸谷才一もよく読んだなあ。

あと、内村鑑三も好きだった。
好きだったけど今読むとあり得ない作り話を書いている。
小室直樹もそうだ。
この辺が高校生の頃ストライクゾーンだった人はあまりいるまい。

カクヨムで「ジオコミューン」を書き始めたのは、
プライスマッチで売ることを考えたからで、
要するに無料サンプル的なものである。
今現在、けっこういろんな人がやっているんで、私もやってみようかという気になった。
だがほんとにやるかどうかはわからない。

で、カクヨムで、連載で、
ちょっとずつ公開してわかるのは(小説家になろうでもわかったのかもしれないが)、
PVが指数関数的に減衰するってこと。
第1話を読んで、3分の1くらいの人が第2話を読む、くらい。

こういうことやってて思ったのは、読者数は有限だということ、
その読者の多くも、試し読みまでだってことだね。
アマゾンがいろんな新しい出版手法を提案してきて、
また私自身もいろんな人のお世話になって出版を試みてきて、
それでなんとか読んでもらうんだが、
ある一定のところまで読まれると、もう読者が枯渇して読まれなくなる。

今の時代読者よりも著者のほうが多いってのは事実だと思う。
だから KDP ってのは、
読者に向けて書くよりは自分と同じ趣味を持つ(個人出版の)著者に向けて書いた方が売れるのかもしれない。
いやもともとそんな媒体なんじゃないかという気がしてきた。
pixiv なんかもそうで、自分が描くから人の絵も見る、という人の集まり。
コミケもそう。
特に日本はそういう層が発達してる。
しかし、そこから外への広がりが弱い。
まるで研究者が同業者にむけて論文を書いているみたい。

「君の名は。」見てないのにしばしば言及して心苦しいが、
一般人に見せることに特化した作品なんだろうなと思う。
作家とかクリエイターの外の世界の人を楽しませることが第一義に作られている。
それって当たり前じゃんと自分でも今書いてて思うが案外当たり前じゃない。

歌謡曲ってあるじゃないですか。
あれってパターンは決まっててAメロ・Bメロ・サビでできてる。
小説も映画もそうで、もうみんなが見慣れてる、読み慣れてるパターンに沿って作らないとダメなわけ。
流行る前にパターンがあるのではなく、流行ったからパターンとなる。
つまりは古典。
そのパターンを再利用するから、流行りの勢いを利用するから読みやすい、見やすいとなる。
そうやって一つのパターンに収束していく。
もちろんみんなが同じパターンを使うからレッドオーシャン化する。
しかしその激しい競争にうち勝ったごく一部の作品だけがヒットする。
その競争にはとにかく勝つためにはありとあらゆる手段を使う。

それが歌謡曲の原理だし、「君の名は。」なわけじゃないですか。

宮崎駿やジブリは少し違う。パターンを自分で作ったところはすごい。もちろん本人はすごい。
ただ彼らは日本アニメの黎明期からずっと関わってきているから、それが出来た。

庵野秀明も少し違う。彼はともかくも自分の作りたいものを作った。
クリエイター仲間やオタクには受ける。
しかし当たり前だが、外の世界には広がらない。そこがジブリとも違う。
庵野秀明は押井守タイプ。
細田守はジブリへ行こうとして結局押井守や庵野秀明と同じ方向へ行った。
そっちに行かなかった新海誠が結果的に勝った。

KDPは結局仲間向けに書いているものだとして、
だから「小説はこう書け」みたいな本が(素人が書いたくせに(失礼))よく売れる。
よく売れるといってもたかが知れてるわけだが。
私自身は「小説はこう書け」なんて本は恥ずかしくて書けないけど、
似たような近いことはよく書いているわけだ。
こうやって他人の作品を批評したり。
自分の書いたものの解説をしたりする。
私の場合は特に自分の作品を解説しすぎている気がする。

プロの作家が自分の書いたものの解説をしないのは、
作品が自分の力で読まれているのでも売れているのでないことを知っているからだ。
もちろん作家自身の力はあるだろうが、その比率がどのくらいのものかを、わきまえているから、
解説できないよね。

新作も書かず広報活動もしないとほとんど読まれなくなる。
ほっといちゃダメなんだが、読まれないと書く意欲もなくなってきて悪循環だ。
逆に読まれていると無駄に張り切ってしまうところがある。

夏目漱石という人は、日本人が欧米文学、とくに英文学に飢えているときに、
イギリスで実際にそれを学んで、日本語で書いてみせたひとだ。
当時はほかには森鴎外くらいしかいなかったよね?
漱石や鴎外ってのは、最澄と空海みたいなもの。
供給に対して需要が逼迫してたからみんなが読んだ。
みんなが読むとそれは遺伝子となって後世に残る。
勝れた作品だから面白いのではなくて、古典だから面白い、というところは必ずある。
ていうか私もパターンが嫌いなわけじゃないらしい。古典が大好きだから。
もちろんもともと面白くなくちゃダメだが、ただ面白いだけじゃダメだ。
ボトルネック理論と同じで、
ある時代に希少価値がなきゃだめだ。

村上春樹もボトルネック理論で説明がつかなくもない。
彼の場合、日本人が戦後、アメリカ文学に飢えていた時期があって、
そこに一番うまく乗っかったのが村上春樹だった。
似たような作家には村上龍や山田詠美、田中康夫なんかがいる。
吉本ばななもある意味そうかもしれない。

吉田拓郎が流行ったのも、いちはやくボブ・ディランを真似たからだし、
グループサウンズにしてもそうだ。

自分で書いてみるとわかることがあって、
わかってみると、書いても無駄だってことがわかってくるわけだ。

エロは、衣食住に準じる基本的欲求だから、需要が桁違いに多い。
広く浅く需要があるから読まれる。
うまかろうがまずかろうが人は一日三食たべなくちゃならない。
それと同じでエロはコンスタントに消費される。
エロとおもしろさをうまく調和させて、相乗効果をもたせる天才はいるかもしれない。
谷崎潤一郎はそれに近い。永井荷風は違う。
いずれにしてもエロにおもしろさは必須ではない。

マンガとエロを同次元に論じることはできないが、
絵づらだけ眺めていれば読めなくもないマンガは当然しきいが低く需要も多い。
映画やアニメやゲームも同じ。
私の場合面白いストーリーを書けるかどうか試すために書いている、といってよい。
面白いというか、私の頭の中からしか出てこない話を書きたい、もしそういうものがあるとしたら。
それが新しくしかも面白いならば、ある一定の評価を受けるはずだ、という前提で書いている。

世の中に迎合して注目を集めたり、小遣い稼ぎをしたりするために書いてるのではない。
売れても自分の実力でないなら意味がない。味気ない。
身内ではなく赤の他人に評価されたい。

ただ作家活動というものは広報や宣伝や営業を含めて作家活動だったってことは、
人類の長い歴史を見れば明らかなわけで、
身内だろうがなんだろうが利用できるものはなんでも利用するのが営業なわけだ。
作家活動はやりたいが営業はやりたくないというのは比較的新しいタイプの人種、
つまり学者、科学者タイプなので、私はやはり作家というよりは学者なのだろうと思う。

「ジオコミューン」だが、こういうSFものは今までも書いてきた。
「安藤レイ」「生命倫理研究会」などがそうで、
実は、本名で公開している作品の中に同じようなものがある。

「ジオコミューン」は外人ばかり出てくるので、自分で書いててなんか恥ずかしいのだが、
そんなこといったら「エウメネス」「エウドキア」「海賊王ロジェール」も外人ばかり出てくる話なのだよなあ。

「ジオコミューン」は今からもっと肉付けする可能性がある。
私の場合、最初に50枚くらいのあらすじだけみたいな話を書いてそこに肉を付けて服を着せたりして100枚くらいにする傾向がある。
つまり、最初から最後まで順番に書いているわけではない。
なのでできあがってからまとめて読んでもらってもまったくかまいません。