文系理系

世の中には文系も理系も得意な人と、文系も理系も不得意な人しかいないのだが、
特に英語が嫌いな人が理系へ行き、
特に数学が嫌いな人が文系へ行く。
国語が文系理系問わず嫌われないのは単に学ばなくてもそれなりの点がとれてしまうからだ。

子供が多くて学校が少ない時代はそれでもよかったが、少子化で教員も余ると、
文系しかできない理系しかできないというような教員は害悪であり、
また本人もそれに気付いているからなおさら古い体制にしがみつこうと必死になる。

高校の段階で理系文系と分けるのは時代にあわない。
ドイツやフランスなどでやっているように、大学で高等教育を受けるか、
さもなくば職業訓練学校に行くのかを高校で選別すればよい。
文系理系などの専門に分かれるのは大学に入ってからでよく、場合によっては大学院に入ってからでよい。
学位は全部Ph.Dに統一してもよい。
そうしないと、文系も理系も出来る人の居場所が確保できない。
そして、文系も理系も教えられる教員だけを残して、
場合によって数学を教えたり、場合によって語学を教えたりすれば良いだけだ。

日本の文部省は高校に文系コース理系コースを残しながら、
学位だけ博士に揃えようとした。
抵抗が強いので博士(理学)とか博士(文学)などという珍妙な呼称を押しつけてきた。
気違いだ。

俊頼髄脳、etc

歌論集 : 俊頼髄脳, 古来風躰抄, 近代秀歌, 詠歌大概, 毎月抄, 国歌八論, 歌意考, 新学異見 新編日本古典文学全集 (87)

非常に良くできた本だ。
密度が濃い。
原文と、解説と、ほぼ完全な現代語訳がついている。
原文にかぶせた註が茶色に着色されているのもすばらしい。
全集の中に埋もれているのが惜しい。
この「新編日本古典文学全集」は比較的後発のためか、あまり図書館には納められていないのだ。
新しいがゆえに完成度も高いのだろう。

『俊頼髄脳』が読めるのは事実上この本だけではなかろうか。
源俊頼によるこの歌論書は、
古今集仮名序や後拾遺集序などを下敷きにしつつ、
先行する公任による[新撰和歌髄脳](http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%AB%84%E8%84%B3)をさらに長大精緻にしたものと言って良い。
公任や俊頼の時代の歌論は、後世の古今伝授のようないかがわしさがある。

> をののはき みしあきににす なりそます へしたにあやな しるしけしきは

これは句の頭の一字ずつ集めると「をみなへし」となり、句の終わりの一字ずつを逆に読むと「はなすすき」
となる。

> むらくさにくさのなはもしそなはらはなそしもはなのさくにさくらむ

これは回文。こういうトリッキーな例がいろいろ蒐集してある。
歌論としての深みはあまりない。
変なことを言っているところもある。
たとえば「安積山」は「あざかやま」と濁って読むべきだとか。
安積山は万葉仮名で「阿佐可夜麻」と書くことが出土した木簡などからも確認されていて、
「あさかやま」と濁らず読むのが正しいと思うのだが。
「あさかやま」と「あさきこころ」と浅いが繰り返されているのが歌の病だ、
歌の親が病んでいるのだから後代の歌は影響を受けないのだろうか、などと言っているのもおかしい。

『毎月抄』はやはり偽書であろう。
いろんな人の説があるようだ。
関連する『定家十体』も偽書だろう。
頓阿の『井蛙抄』あたりと関係あるか。やはり頓阿はあやしい。
ここらの偽書の話も今書いている本に盛り込もうかと思っていたが、
も少しちゃんと調べてから、きちんと書いた方がよさそうだ。

『俊頼髄脳』を読んでみると、
俊成がなぜ『古来風体抄』のようながちがちの天台教学的歌論を書いたかわかる気がする。
私はずっと『古来風体抄』は偽書ではなかろうかと疑っていたのだが、
法華経かぶれの俊成が年寄りの繰り言のようなこんな文章を、俊頼に対抗して書く可能性はあるなと思った。
俊成は俊成なりに、俊頼のようなぐにゃぐにゃした歌論を、
仏教思想に基づいてきちんと整理しなきゃいけないと考えていた。

定家は仏教と和歌を混ぜるようなうかつなことはしなかったが、
京極為兼が『古来風体抄』の影響をもろにうけて『為兼卿和歌抄』のような歌論を残したのは残念である。

『近代秀歌』『詠歌大概』は定家の歌論で間違いない。
『近代秀歌』の秀歌例に異同があるなと思っていたら、
前掲の本の解題にちゃんと解説があった。
歌論についてはあまり深入りせず今書いてるやつからは極力除こうと思うが
『近代秀歌』だけはちゃんと調べなきゃいけないなと思った。

定家の禅2

まったく終わる気がしない。
すでに四百字用紙換算で300枚超えている。
分量はもうそんなに増えないはずだが、書き換えが終わらない。話が収束しない。
調べ始めるときりがなく、
wikipedia と吾妻鏡の記述に矛盾があったりして困る。

余暇のほとんどを執筆活動に追われて、ツイッターとか書いてるヒマがない、のは良い傾向だ。

wikipedia の日本史は汚染されている。
読んでてすごく嫌だ。
特に仏教関係には捏造が多い印象。

定家の禅

藤原定家について書いている。
タイトルは仮に「定家の禅」。受け狙いでもあり、わりと本気でもある。

さくっと書き終えたと思ったが、調べているうちに知識が増えていき、
最初は推測で「かもしれない」などと言っていたところが、
確かな証拠を発見したりして、「なのだ」などと断言したり。
全体をまんべんなく加筆するのではなく一部がどんどんふくらんでいくので、バランスが崩れていき、
全体のテーマ自体が変わっていく。

先に古今集をやったから、次は百人一首の真相みたいなのを書こうかと思ったのだが、
定家個人が面白くなってきて、ある意味百人一首なんて、どうでもよくなってきた。
だれが読むのだろうか。
いずれにしても今回は紙の本で出す予定なので売れないわけにはいかない。
こむつかしい本ではなく、ある程度娯楽性のある本を書かねばならぬ。
基本的には、定家の時代の歌論書である。

定家は以前は嫌いだった。
今は割と好きになった。
定家は以前は勉強家の秀才だと思っていた。
今はある意味天才だと思っている。
少なくとも、若いころに「天命」に目覚めた人である。
癇癪を起して、発作的にやってるのではない。すべて確信的にやっている。
オタクとか、マニアとか、マッドなわけでも必ずしもない。
のめりこむ性格ではあったかもしれないが、必要に迫られて勉学に励んだのだと思う。

編集の人と相談して意外だったのは、
私のような門外漢でもネタしだいでは定家の本を書いて出版してもよいということだった。
ただ、筆名を田中久三以外にできないかと言われてやや戸惑った。
編集の考えることはよくわからん。