察然和尚

宣長年譜 元文4年(1739)

> 同四年【己未】血脈受入蓮社走誉上人。【伝通院中興ヨリ二十七世之主矣】法名英笑号也

宣長年譜 寛延元年 (1748)

> 樹敬寺宝延院方丈にて観蓮社諦誉上人蓮阿◎(口編に爾)風義達和尚に五重を授伝し、血脈を授かり、伝誉英笑道与居士の道号を受く。

察然和尚

宣長が10歳で法名を授かった入蓮社走誉上人と19歳で道号を授かった察然和尚とは別人。
察然は宣長の母の兄というから実の叔父にあたるわけである。

厳密には「英笑」の部分が戒名、法名であって、
「道与居士」は位号、
「伝誉」が道号(浄土宗で言う「誉号」)。
「英笑道与」までが戒名であるかもしれんが。
院号は(まだ)無い。

しかしながら宣長は晩年自ら「高岳院石上道啓居士」という号を付けている。
「石上」という法名は彼の私家集の名でもあり、宣長の雅号でもあるのだろう。
で、「高岳院」が道号、この場合は院号である。
「道啓居士」が位号。「道を啓く」とはずいぶん立派な名だ。

伝通院は小石川にある徳川将軍家の菩提寺。浄土宗。増上寺の末寺。
樹敬寺は松坂にある浄土宗の寺。
父方の小津家と母方の村田家の菩提寺。京都知恩院の末寺。

今日日本の詩というものがまったくわけのわからないものになってしまった要因はいくつかあると思う。

イギリスと違ってアメリカという国が文芸の中で詩をあまり重視しないからであるかもしれない。
戦前、近代文芸史における詩の本場はイギリス、フランス、ドイツであった。
その中でもドイツ詩というのは非常に影響力があったが、
二度の大戦の敗北で、ドイツ語はその影響力をほとんど失ってしまった。
日本人が詩というものがわからなくなった理由の一つは戦争でアメリカが勝ってドイツが負けたからだ。

詩、というか韻文というものは、
言葉自体に韻律を持たせ、リズムとメロディを持たせるものだ。
それが音楽と相性が良いのは当たり前なのだが、
詩と音楽が深く結びついたのは近世以降のことだろうと思う。
詩は文芸の中では最も歴史が古い。
叙事詩というのは口承文芸時代の典型的な形式だ。
長文を唱えて、暗記して、後世に伝達するのに適した形式である。
多くの文芸はここから発する。

逆に最も歴史が浅いのは散文であり小説だ。
詩は文字の無い時代からあり、文字を獲得した時点で急速に流行し、
熟成期を向かえ、
と同時にに国語や民族意識というものが生まれ、
その民族とともにだんだんに衰退していく。
当たり前のことだが詩は民族と、言語と、深く結びついている。
詩は翻訳不可能だ。
しかし散文や小説は、特に言語を選ぶわけではなく、
その意味においては他民族的、国際的なものだ。

そもそも昔は音楽理論は未発達だし、楽譜も不便だった。
音楽と詩をあわせる技術も未熟だった。
古代ギリシャの吟遊詩人も竪琴や笛などで伴奏したのに違いない。
だが、詩と曲が、一対一に結びついていたわけではなかろう。
詩にはある定型があり、曲にもある定型があって、組み合わせやすくなっていただけであろう。
それは平曲や謡曲などにも言えることではなかろうか。

従って詩というものがそれ自体で自立している必要があったが、
近年のようにCDのようなもので完全に曲と詞を同時に記録できるようになると、
詞はほぼ完全に曲に従属するようになってしまった。
従って歌謡曲の歌詞のようなものを詩だと思うようになっても不思議ではない。
曲に合わせる詞には当然それ自体の韻律は必要とされない。
むしろ邪魔なだけだ。
逆に普通の話し言葉や台詞のようなものを曲に合わせるという「技巧」が好まれることになる。
それはもはや詩ではない。

少なくとも戦前までは和歌や漢詩という伝統文芸があって、
詩とは何かという暗黙のコンセンサスがあったのだが、
両者とも戦後完全に忘れられた。
誰も自分で漢詩を作らなくなり、
和歌は短歌という口語定型詩によって駆逐されてしまった。

詩学、詩論というものも、確かに戦前の萩原朔太郎辺りまではあったかもしれない。
彼はもともとは明星派の歌人だった。
彼の中にはまず和歌の素養があって、西洋詩の影響を受けて詩を作った。

ところが戦後まともに詩学について書いた人はいない。
吉本龍明くらいだろうか?
その他はたとえば谷川俊太郎の詩について論じたものなどがあるくらい。
そのほとんどはただお花畑な詩をお花畑に批評しているだけ。
定番はアリストテレスの『詩学』くらい。中間がほとんどない。
こういう状況で、日本人が詩とは何かということがわかるはずがない。

たしかに口語自由詩というものは、翻訳してもその本質を損なうことはないのである。
また散文になれたものでも詩を作ることができる。
しかし彼らが試しに定型や対句などの修辞を使った詩を作るとたちまち陳腐になってしまうだろう。
つまりは演歌や軍歌の歌詞のような、下手な都々逸のようなものしか作れなくなってしまう。
韻律や修辞や伝統というものに負けてしまうのだ。
そういうものに負けずにさらに残るものが詩の本質というものではなかろうか。
私はあまり詩の本質とか内在律などというものに言及したくはないのだけど。
まあ定型詩が演歌や軍歌みたいになってしまうのは仕方のないことだ。
彼らが直接・間接に影響をうける定型詩の見本はそういうものしかないからだ。
佐佐木信綱あたりの影響を受けているのだ、本人は無自覚なままに。
佐佐木信綱は彼の短歌というよりは、軍歌の作詞によって世の中に多大な影響を及ぼした人だ
(彼の短歌は多くの漢語や外来語を含んでおり、和歌(やまとうた)とは言えない。彼もまた明星派の歌人だった)。
結局はみんな何らかの「内在律」に支配されているので、定型詩を作ろうとすると、
どうしても「佐佐木信綱律」に支配されてしまう。
「新聞歌壇律」と言っても良いかも知れない。
そういう「律」に支配されるのが嫌だから、それよりかはよっぽど無毒な「散文律」に逃げる。

定型で詠もうとすればどうしてもそういう明治の文芸よりも昔にさかのぼらなくてはならない。
明治の和歌の完成度は、しょせんその程度のものであり、
江戸期や平安時代の完成度には遠く及ばないからだ。
その努力をせずに定型詩が作れるはずがない。

夏目漱石は多くの漢詩を遺したが、
漱石の漢詩を鑑賞しようという人はほとんどいない。
漱石自身は詩人になりたかったかもしれない。
しかし世の中はすでに小説万能時代だったから、
彼は敢えて自分の詩を人目にさらそうとしなかった。
文豪の余技だと思われるのを恐れたのだろう。
もし世の中が漢詩全盛期であれば(例えば江戸中期から後期ならば)漱石は詩人として名をなそうとしたのに違いない。
もし本気で漱石を理解しようと思うならば彼の漢詩と小説の関係も議論すべきだろう。

今の世の人は頼まじ

> 学者はただ、道を尋ねて明らめるをこそ、つとめとすべけれ。私に道を行ふべきものにはあらず。されば随分に、古への道を考へ明らめて、そのむねを、人にも教へ諭し、物にも書き遺しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ゐ行ひたまひて、天下に敷き施したまはむ世を待つべし。これ宣長が志なり。

まったくその通りだ。自然科学であれば、
ニュートンの力学と、現代の量子力学では、昔より今の方がより精密になっていることを断言できる。
自然科学とか数学というものは、そうしたものだからだ。

しかし思想とか文芸などはそうとは言い切れない。
近代よりは現代が、現代よりはポストモダンが優れているなどということは決して言えない。
前衛芸術は前衛であることに意味があって、時代的には後退しているかもしれない。

> 昔の人より、君達は果たして本当に利口になったかどうか

> 文字の発明の御蔭で、誰も記憶力の訓練が免除されるから、皆忘れっぽくなる。書かれたものに頼る人々は、物を思い出す手段を、(中略)自分達には何の親しみもない様々な記号に求めている。(中略)何も知らない癖に、何でも知ってるとうぬぼれるようになる。

同じことを中島敦は『文字禍』で言っている。

> 近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

私は別に思想や文芸が自然科学より劣っているといいたいわけではなく、
新しい思想や新しい文芸、新しい芸術は必ずしも過去を凌駕しているわけではないという、
当たり前のことが言いたいだけだ。
だが往々にして人は今自分が生きているこの時代が最高であり、最も無謬であると考えたがる。
そして現代より優れているのは来たるべき未来だと考えたがる。
スマホがなかった時代よりスマホがある時代の方が人間も利口になったと思うし、
未来に今以上の何かSNSなりネットワークができればさらに利口になると思う。
果たしてそうかとそこで立ち止まり考えねばならない。
そうしたら過ぎた昔など意味はないことになってしまう。

私たちは何度も間違ってきた。帝国主義、資本主義、マルクス主義、共産主義、ヒッピー、ポストモダン。

現代人はそういう現代を賛美し過去を貶めようとする我々の現代というものと、
我々自身と戦わなくてはならない。
戦って後世に問わねばならない。
だからこそ、「私に道を行」わず、「古への道を考へ明らめて」、「物にも書き遺しおきて」、「時至りて」、「天下に敷き施したまはむ世を待つ」べきなのだ。

思うに、「古学」というもの、「古義学」「古文辞学」というものは、
中世から現代までの思想の影響を排除して、
古い時代のことをできるだけそのままの形で再現しようというものであり、
そのできるだけピュアな形態へ到達しようとするものであるから、
これは一神教との親和性が高いのである。
宣長が「古学」を極めた結果、
形態としては多神教であるが、
一神教的性格を持つ国粋主義に到達したのはある意味必然だったかもしれない。

筆者の余技

小林秀雄『本居宣長』補記一

> 今日遺されている彼の全著作が、筆者の余技を出ないものという事であれば、田中さんが言われたように、プラトン研究家は困ったことになる。プラトン自身はどうでもいいと思っていた文章から、その明さなかった哲学思想の核心となっていたものを、犯人でもあげるように探さなければならぬ、言ってみれば、そんな窮境に立たされることになる。

これは小林秀雄が自分の著作について言っているように思えてならないのである。

> 昔の人より、君達は果たして本当に利口になったかどうかという問いが、含まれている

> 正気でいたい利口者には、恋の真相とは、まさにその通りであるかどうかという問題には、直かに出会えない。利口者は恋の愚を避けた積りでいるだろうが、実は、恋の方で、利口者など近付けないのである。

> 狂気(アニマー)とは、正気に到らないものではなく、正気を超えるもの

> 心を狂わせなかったら、到底常人には出来ぬ仕事がやってのけられた筈はない。

以前書いた[日神論争](/?p=14196)というのも合わせて読んでみてほしいのだが、
上で小林秀雄が利口者、常人と言いたいのは上田秋成であり、パイドロスである。
狂人と言いたいのは本居宣長であり、ソクラテスである。
私は以前この『補記一』を読んで、なんで宣長の本に唐突にソクラテスとかプラトンの話が出て来なきゃならないのだ、
なんかの冗談かと思ったのだったが、落ち着いて読んでみるとなかなか面白いことが書いてある。
またしても私は彼の「余技を出ないもの」、彼自身「どうでもいいと思っていた文章」から「その明さなかった哲学思想の核心となっていたものを、犯人でもあげるように探さなければならぬ」という気持ちになった。

神話は実際にあったことと信じるかいなかというパイドロスの問いに対して、ソクラテスは「もし私が当今の利口者なみに、そのような伝説は信じないと言えば、妙な男と思われないで済むだろうがと言葉を濁し」た。「気に入らなかったのは、当時のアテナイ人の知識人の風潮、神話に託された寓意を求めるという、学問めかした神話解釈であった。」

その時代時代の人が太古の神話を、その時代時代の都合に合わせて解釈しようとする。特に日本の場合には、外から新しい宗教や思想が伝来するたびに、神話は再解釈されてきた。
秋成は、仏教も儒教も、日本の神様は嫌っておらず、時代の流れで自然に今のようになったのだ、と言っている。宣長にしてみればそういうある種の合理主義というかご都合主義というのは、漢意に染まった考え方と同じく拒絶せねばならなかった。日本的多神教から秋成の考え方は自然と出てくる。宣長の一神教的な発想はなかなか出てこない。

数学者や自然科学者は必ずしも利口者ではなく、近代西洋では狂信的なキリスト教徒であることが多かった。ニュートンなどがそうだ。
彼は数学や天文学を通じて神が実在することを証明しようとした結果あのような偉大な学問上の成果を発見し得たのである。
同じことは本居宣長にも言える。
「利口者」「常人」ではない「狂人」、「妙な男」でなくては到達できない境地というものは確かにあるはずなのだ。
宣長は独力で、儒教や仏教の影響が未だ及ばなかったころの、純粋な神話までたどり着いた。
それは天武天皇が見ていた世界だった。
彼はそこに彼自身の一神教を発見した。

ところで中島敦の『文字禍』はこの「パイドロス」に着想したもののようだ。

小林秀雄『本居宣長』四十九

小倉色紙の巻頭の色紙が10枚伝わっている。
そのうちの1枚は本物で、残りの9枚は偽物だが、
上田秋成はどれが本物かなどわからぬのだから10枚とも偽物だと言おうとしている。
などと宣長が言っているのがすごくおかしい。
定家直筆の小倉色紙は1枚に1首なので、10枚同じ歌の色紙があるのはおかしい。
しかしそのうちの1枚が本物である理由にはならない。
『明月記』に定家自身が書き残したように小倉色紙はあった。
しかし1枚も後世に伝わってない可能性もあるのだ。
つまり、もし本物があるとすればそれはたかだか1枚しかない、ということしか言えない。
また『明月記』には100首100枚あるとも書いてない。もっと少なかった可能性もある。
しかし宣長は本物の小倉色紙が100首100枚あることを疑おうとしない。
どうも宣長は数学的、論理的思考は苦手だったようだ。

私は、本物の小倉色紙は宣長の時代にはもはや存在していなかっただろうと思っている。
それは嵯峨中院こと亀山殿が火災で失われたときに一緒に燃えてしまったのに違いない。
亀山殿は天龍寺になったが、天龍寺も何度も焼失している。
色紙を障子からはがして保管していない限り(そんなことするはずもないが)、
燃えてしまったに違いない。

宣長は頓阿が好きで京極派が嫌いだがそれはおそらく宣長が少年時代に和歌を学び始めたときにすでにそうだったからで、生涯頓阿のような坊さん臭い、二条派の和歌が好きで、新古今が好きで、それとは正反対の京極派が嫌いなのだ。ということは西行や式子内親王の歌も嫌いだったはずだ。
それは宣長の好き嫌いという以上のものではない。
宣長は学問的には恐ろしく直感や推理が効くところがある。
『古事記』や『源氏物語』を解き明かしたこと。古今伝授の嘘を見抜いたところなど。
しかし宣長は万能ではなかった。ある部分は醒めて、ある部分では狂った人だったからだ。

恩頼図

小林秀雄『本居宣長』第四章

佐佐木信綱によって発見された本居大平による「恩頼図」というものがあり、
これに宣長の学問の系譜が記されている。
大平とは宣長の弟子の稲懸大平という者だったが、宣長の実子・春庭が眼病で失明して以来、
養子となった人。
その「恩頼図」には、

> 西山公、屈景山、契沖、真淵、紫式部、定家、頓阿、孔子、ソライ、タサイ、東カイ、垂加

と書かれている。
西山公とは水戸光圀のことで、契沖に『万葉代匠記』を書かせた。
屈景山とは宣長が京都に医者となるために遊学したときに「よのつねの儒学」を学んだ堀景山のこと。
ソライとは荻生徂徠。
タサイとは太宰春台という徂徠の弟子。
東カイとは伊藤東涯という伊藤仁斎の長男。
垂下とはここでは垂加神道の山崎闇斎。
それで、小林秀雄としては、
伊藤仁斎や荻生徂徠についても、そして徂徠の師・中江藤樹についても、
一応は調べてみないわけにはいかなかったということだろう。

同第十章

> 仁斎は「童子問」の中で、「論語」を「最上至極宇宙第一書」と書いている。(中略)彼は稿を改める毎に、巻頭に「最上至極宇宙第一書」と書き、書いては消し、消しては書き、どうしたものかと迷っている(中略)恐らくこれは、ある人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者だけが知るためらいと思われる。軽信家にも、狂信家にも、軽信や狂信を侮る懐疑家にも亦、縁のない躊(ためら)いであろう。

すごく面白いことを書いているのだが自分のことを言いたいのだろうか。
明らかに宣長とは何の関係もない。

同第十一章

> 宣長はよく愚をいざなひて、天の下に名を得し者也。是実に豪傑といふべく候。親鸞日蓮が、愚者をいざなひて、法を説きひろめし如く、皇朝学は、宣長に興りて、天の下に広ごりにたれど、其学する愚者共の、宣長が廓内に取込られて、その廓を出る事能はず。故ニ、皇朝学は宣長に興りて宣長に廃るものといふべし。可惜可歎候。

真淵の弟子で宣長の後輩、伊勢外宮の神官の出で荒木田久老(ひさおゆ)という人が書いた書簡にある言葉である。
宣長は後世人に誤解され、平田篤胤のような連中に利用され、戦前戦中も国威発揚のために利用され、
戦後は無視された人なわけだが、
その傾向は宣長が存命のときにすでに現れており、
その責任の一部は宣長自身にあると言いたいのである。

> 宣長発足後、段々不評判なるは、京師の人情也(宣長が京都に出発してからだんだんと不評判になったのは京都の人情である)

つまり、「律儀者」で「欺かれ」やすい宣長を京都の連中は自分たちの廓の中に取り込んでしまい、そこから宣長が出られないようして、利用しているというのだ。そのために「皇朝学」というものができたけれども、それがすでに愚民らによって変質してしまい、宣長の学問は誤解されることになろう、と荒木田久老は予言しているのである。おそるべき卓見である。
そして小林秀雄はよくこの文章を佐佐木信綱の著書「和歌史の研究」の中から拾い出してこれたものだと、感心せざるを得ない。
こんなふうに雑記雑談ふうの冗長な文章の中に小林秀雄はときどきこんなすごい着想を混ぜ込むのだ。

小林秀雄は戦時中に読んだ『古事記伝』から得られた直感がなんであったかを確認するために本居宣長という人を調べてみることにした。
宣長は戦前と戦後でほとんど正反対の評価をされた人であった。
小林秀雄にはおそらく、戦前に持ち上げられた宣長でもなく、
戦後に貶められた宣長でもない、
ほんとうの宣長の姿というものを、確かめてみないわけにはいかない気持ちがあったはずだ。
宣長という人に、戦前と戦後の連続性というものを見たかったはずだ。
戦争によって分断された日本の歴史というものに再び連続性を与え、つなぎ合わせたかった。
それはベトナムやドイツの再統一事業と似たような作業だったはずだ。
後世に対して、戦争を引き起こした当事者として、責任を果たすつもりだったはずだ。

それでまず宣長の墓参りをし、宣長の著作を調べ、
宣長に影響を与えたであろう先達たちを一通り調べ、
源氏物語も読み、上田秋成との論争についても考察してみた。
そうしているうちにあっというまに10年以上が経ち、
宣長について書いたそれらの膨大な文章を整理するまもなく、晩年を迎えたということだろう。

同第五十章

> もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

なんだかよくわからない文章だが、小林秀雄は、まとめてもいないし、整理もしてないが、いつまでもきりがないので、こんな未完成な形のまま終わらせてくれ、あとは読んで察してくれ、とりあえず必要な準備はしておいた、と言っているように思われるのである。彼の『本居宣長』はそういう意味では、長い長い「素描」なのである。

小林秀雄『本居宣長』

小林秀雄『本居宣長』をまたしても読むことにした。今度は徹底的に読むつもりだ。以前に書いたもの。「本居宣長」連載小林秀雄 源氏物語池田雅延氏 小林秀雄を語る

小林秀雄は1902年生まれ。『本居宣長』は 1904年創刊の月刊の文芸雑誌『新潮』に、1965年から1976年まで、小林秀雄が63歳から74歳まで、64回連載された。隔月くらいの掲載だったのだろうか。これらに1977年、最終章を加筆し、50回にまとめて同年単行本として出版。小林秀雄 78歳。およそ10万部が売れた。さらにその後も『本居宣長補記』の連載を78歳(1980年)まで継続。1983年、小林秀雄没、80歳。ほとんど死ぬまで書き続けた、最晩年の長大作、と言って良い。効なり名を遂げ何を書いても許されるようになった大批評家が、晩年、やや耄碌した頃に書き綴ったよくわからないエッセイだと片付けることもできなくはない。というよりそういう評判の方がずっと多いと思う。また、小林秀雄という人は、戦前も戦後もまったく主義主張を変えなかった人であり、「反省しない人」とか「反省できない人」などとも言われた。その小林秀雄が、若い頃はフランス文芸の翻訳、或いはヨーロッパ芸術の評論などをやっていたが、晩年になって日本固有の「国学」に回帰しちゃった残念な人、というようにもとらえられよう。そういうもろもろが小林秀雄のファンの大半には気に入らないものと思われる。

64回+最終章がどのようにして50回になったかだが、たぶん何回か分をまとめたものがあるという程度のことで、知ったところでどうということはないかもしれない。64回分を1/3くらいに縮めて49回にしたわけだが、もともとがどれほど冗長な文章であったか、雑誌連載をリアルタイムで読んだ人(たとえば白洲正子など)が、それをどれほど退屈な思いで読んだだろうか、ご愁傷様、という気にもなる。

* 1 序章。宣長の墓探訪。14
* 2 宣長の遺言、墓参、法事等。辞世の歌。6
* 3 宣長の少年時代。松坂の生家、生い立ち、家業。京都遊学。12
* 4 大平『恩頼図』。宣長が影響を受けた学者ら。京都時代の師・堀景山。12
* 5 儒学との関わり。孔子。10
* 6 契沖。13
* 7 契沖。水戸光圀。万葉代匠記。12
* 8 中江藤樹。15
* 9 伊藤仁斎。13
* 10 荻生徂徠。11
* 11 儒学まとめ。荒木田久老による宣長(の取り巻き)批判。12
* 12 あしわけ小舟。宣長の学問は真淵に入門する前にすでに方向性が決まっていたということ。7
* 13 もののあはれ。源氏。15
* 14 同上。17
* 15 同上。17
* 16 同上。12
* 17 源氏。契沖。秋成。真淵。17
* 18 源氏。15
* 19 真淵と契沖。真淵の万葉考、枕詞考 16
* 20 宣長と真淵の書簡のやりとり、和歌添削。真淵の破門状。16
* 21 宣長と真淵の対立。16
* 22 万葉調批判。15
* 23 歌とは。語釈は緊要にあらず。15
* 24 源氏の読み方。9
* 25 大和魂 13
* 26 篤胤 12
* 27 業平、土佐日記。言霊、大和心、手弱女ぶり。15
* 28 古事記の文体。18
* 29 津田左右吉による宣長批判。14
* 30 古事記。主に序文。19
* 31 新井白石による古事記評価。14
* 32 荻生徂徠の影響。22
* 33 徂徠。直毘霊。漢意。15
* 34 雑記?10
* 35 雑記?13
* 36 和歌の本義。10
* 37 まごころ 13
* 38 雅の趣、迦微(カミ)。9
* 39 迦微 12
* 40 上田秋成との論争(日の神論争)。14
* 41 続き。13
* 42 続き。8
* 43 熊沢蕃山批判など。学者らしく、もっともらしく処理することの拒絶。「あやしさ」へのこだわり。14
* 44 晩年の真淵。10
* 45 荷田在満、田安宗武、真淵。古事記解釈。14
* 46 続き?13
* 47 続き?14
* 48 続き?「あやしさ」の処理。12
* 49 秋成との論争、再び。15
* 50 終章(1977年10月)24
* 江藤淳との対談(1977年12月)28
* 補記1 (1979年1-2月)
* 1 ソクラテスは神話を信じるかいなか。12
* 2 雑記 21
* 3 真暦考 21
* 補記2 (1980年2-6月)
* 1 13
* 2 17
* 3 16
* 4 19

最初の3章はある程度話の流れがあり、途中にも少し整理して書いているところもあるが、全体に調べたり思いついたりしたことをその順番に記していて、必ずしも一つのテーマで一つの章ができているのではない。特に補記などは、ソクラテスの話と真暦考には一応の流れがあるが、他は後から思いついたことを付け足した雑記になってしまっている。補記を執筆したときにはすでに相当高齢になっているので、論旨もものすごく錯綜しているように思われる。ただまあそれはそれとして辛抱して読んでみるかと思っている。

28回目以降は古事記の話題が中心になり、明らかにどうでも良いような神道教義の解釈うんぬんという話になり、29回目の「津田左右吉「記紀研究」の紹介など」からどうも明らかにテンションが下がりまくり、後はもうどうでも良い感じ。

という感想をかつて書いたわけだが、上田秋成との論争はそれなりに面白いし、神道教義の解釈うんぬんとか古事記伝についての話は以前感じてたほど多くはないなと思った。というより後半へ行くにつれて、雑記感がどんどん強くなっていく。前に言及し忘れていたことをつけたし付け足ししているのが見え見えであり、本来なら全部一度整理し直さなくちゃならないところをそのまま時系列につないであるようだ。だから、誰かが整理してあげるとよいのだろうが、誰がそんな仕事をわざわざ引き受けるだろうか。源氏物語についての箇所も一つにまとめてきちんと筋立てて論じれば面白いと思う。国文学の学生なんかがそういうのを論文にすれば良いと思うが、まあ、誰も注目してはくれないだろうな。

中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠なんかはいかにも余計だと思うけど、私もいろいろ調べていくうちに、白洲正子やら柳田国男やら佐佐木信綱のことも一応書いておきたくなるから、それは仕方のないことかもしれない。

竜田川と神奈備の杜

万葉集には「たつたがは」が一つも詠まれていないという宣長の指摘は大発見であった。
古今集ですでに竜田川が奈良の龍田山に流れる川であるという誤解が生まれていたのにもかかわらず。
その歌はもともと読み人知らずだったはずだが、
柿本人麻呂や平城天皇の歌であろうと推定されたのである。

> 題しらず 読人不知 この歌は、ある人、ならのみかとの御歌なりとなむ申す

> 竜田河 もみちみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ

> 題しらず 又は、あすかかはもみちはなかる

> 読人不知 此歌右注人丸歌、他本同

> たつた河 もみちは流る 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

ある人の説によれば、とこの頃はかなり消極的である。

業平の歌

> 二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる

> ちはやふる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは

ただし、『伊勢物語』106番

> むかし、男、親王たちの逍遥したまふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、

> ちはやぶる神代も聞かず龍田河からくれなゐに水くくるとは

こちらがおそらく古い形だろう。男とは業平、親王たちとは惟喬親王らと考えれば、
ぴったりくるのである。

> 神なひの山をすきて竜田河をわたりける時に、もみちのなかれけるをよめる

> 深養父

> 神なびの 山をすぎ行く秋なれば たつた河にぞ ぬさはたむくる

私はずっと、竜田山こと神奈備山は、京都と大和の往還の途中にあるのだと思っていた。
しかし、奈良であればともかくとして、京都から大和へ行く用事がそれほどあるとは思えない。
京都から奈良に行くには竜田山を通るはずもない。
それに対して京都から西国へ下っていく途中で必ず山崎は通るのである。
山崎はずばり地峡という意味である。
巨椋池から淀川が大阪平野に流れ出す地峡であり、
おそらくかつてはここに急流があった。

竜田川は今の水無瀬川だということを先に書いた。
そして神奈備山はその川の上流であったろうし、
神奈備の杜はこの川の流域の森であったはずだ。

> 秋のはつる心をたつた河に思ひやりてよめる

> 貫之

> 年ごとに もみち葉ながす 竜田河 みなとや秋の とまりなるらむ

これを見るに竜田川には港があったことになる。
『土佐日記』

> 九日、心もとなさに明けぬから船をひきつつのぼれども川の水なければゐざりにのみゐざる。
> (中略)かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つつ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。ここに人々のいはく「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の「世の中に絶えて桜のさかざらば春のこころはのどけからまし」といふ歌よめる所なりけり。(中略)こよひ宇土野といふ所にとまる。

> 十日、さはることありてのぼらず。

> 十一日、雨いささか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。ここに相應寺のほとりに、しばし船をとどめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。

> 十二日、山崎にとまれり。

> 十三日、なほ山崎に。

> 十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。

> 十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。

というわけで、山崎から先は都から車を取り寄せて、車に乗り換えて移動したらしい。

山崎橋は桓武帝即位三年に作られたという。
八幡の宮とは男山の石清水八幡宮のこと。
相應寺というのは石清水八幡宮の対岸に位置した寺で今の離宮八幡宮。
男山八幡宮こと石清水八幡宮は清和天皇の御代に宇佐八幡宮を勧進したものであるという。
清和天皇は惟喬親王と同様に文徳天皇の皇子だから、渚の院も同じ頃に作られたということか。
平安遷都があってからこの山崎、男山、そして渚の院などは西国旅行の要衝となり、
竜田川の歌も詠まれ始めた。
ところが嵯峨天皇の御代にはすっかり和歌は宮廷から遠ざけられていて、
初期の竜田川の歌は誰が詠んだのかわからなくなってしまった。
それで奈良時代の歌と勘違いされたのだろう。

思うに竜田川(水無瀬川)が淀川に合流するあたりに山崎宿があり、
また山崎港などと呼ばれた港があり、
渚の院はそのすぐ側にあったのだが、惟喬親王が没落して、
貫之の時代にはすでに廃れていたのだろう。

後撰集

> 御春有助(みはるのありすけ)

> あやなくて まだきなきなの たつた河 わたらでやまむ 物ならなくに

西国に派遣されるのに通る場所だったということだ。

> しのびてすみ侍りける人のもとより、かかるけしき人に見すな言へりければ

> 藤原元方

> 竜田河 たちなば君が 名を惜しみ いはせのもりの いはじとぞ思ふ

岩瀬の杜は奈良にあるという。
ただ、このころにはすでに竜田川が大和にあることになっていたから、
単に詠み合わせただけかもしれない。

拾遺集

> 奈良のみかど竜田河に紅葉御覧しに行幸ありける時、御ともにつかうまつりて

> 柿本人麿

> 竜田河 もみち葉ながる 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

これは古今集の歌の再録である。
かなり附会が進んだ形だと言える。

> 源のさねが、筑紫へ湯浴みむとてまかりけるに、山ざきにて別れ惜しみける所にて詠める

> しろめ

> いのちだに 心にかなふ 物ならば なにか別れの かなしからまし

> 山ざきより神なびのもりまでおくりに人人まかりて、かへりがてにして、わかれ惜しみけるに詠める

> 源さね

> 人やりの 道ならなくに おほかたは 生き憂しと言ひて いざ帰りなむ

> 今はこれより帰へりねと、さねが言ひけるをりに詠みける

> 藤原兼茂

> したはれて きにし心の 身にしあれば 帰るさまには 道も知られず

これらは古今集に出てくる、
京都から筑紫へ旅立つ人を見送りに、山崎から神奈備の杜で別れを惜しんだという一連の歌。

源実(みなもとのさね)は嵯峨天皇の曾孫。昌泰三(900)年没。
嵯峨天皇第六皇子・[源明(あきら)](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%98%8E) – 長男・[源舒(のぼる)](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%88%92)- 三男・源実。
宇多天皇から醍醐天皇に代替わりする頃に死んでいるから、
おそらく古今集が編纂されている最中に収録された歌なのだろう。

「しろめ」は謎だが、山崎宿あたりにいた遊女ではなかろうか。

語釈は緊要にあらず

小林秀雄『本居宣長』二十三

> 契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持つてゐたから、決して辞書的な語釈に安んじてゐたわけではなかつたが、語義を分析して、本義正義を定めるといふ事は、彼らの学問では、まだ大事な方法であつた。ところが宣長になると、そんな事はどうでもよい事だと言ひ出す。

> 「語釈は緊要にあらず、(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々(シカシカ)の言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬひがこと多きぞかし。」(「うひ山ぶみ」)

> これと殆ど同じ文が「玉勝間」(八の巻)にも見えるところからすると、これは、特に初学者への教へではなく、余程彼の言ひたかつた意見と思はれる。古学に携る学者が誘はれる、語源学的な語釈を、彼は信用してゐない。学問の方法として正確の期し難い、怪し気なものである以上、有害無益のものと断じたい、といふ彼のはつきりした語調に注意するがよい。契沖、真淵を受けて「語釈は緊要にあらず」と言ふ宣長の踏み出した一歩は、百尺竿頭にあつたと言つてよい。

ここで玉勝間八の巻というのは、

> 言の然(シカ)いふ本の意をしらまほしくする事

> 物まなびするともがら、古言の、しかいふもとの意を、しらまほしくして、人にもまづとふこと、常なり。然いふ本のこころとは、たとへば天(アメ)といふは、いかなる意ぞ、地(ツチ)といふは、いかなる意ぞ、といふたぐひ也。これも学びの一ツにて、さもあるべきことにはあれども、さしあたりて、むねとすべきわざにはあらず。大かたいにしへの言は、然いふ本の意をしらむよりは、古人の用ひたる意を、よく明らめしるべき也。用ひたる意をだに、よくあきらめなば、然いふ本の意は、しらでもあるべき也。そもそも万ヅの事、まづその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論なけれど、然のみにもあらぬわざにて、事のさまによりては、末よりまづ物して、後に本へはさかのぼるべきもあるぞかし。大かた言の本の意は、しりがたきわざにて、われ考へえたりと思ふも、あたれりやあらずや、さだめがたく、多くはあたりがたきわざ也。されば言のはのがくもんは、その本の意をしることをば、のどめおきて、かへすがへすも、いにしへひとのつかひたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざ也。たとひ其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなるところにつかひたりといふことをしらでは、何のかひもなく、おのが歌文に用ふるにも、ひがことの有也、今の世古学をするともがらなど殊に、すこしとほき言といへば、まづ然いふ本の意をしらむとのみして、用ひたる意をば、考へむともせざる故に、おのがつかふに、いみしきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、しかいふ本の意と、用ひたる意とは、多くはひとしからぬもの也。たとへばなかなかにといふ言はもと、こなたへのかなたへもつかず、中間(ナカラ)なる意の言なれども、用ひたる意はただ、なまじひにといふ意、又うつりては、かへりてといふ意にも用ひたり。然るを言の本によりて、うちまかせて、中間(ナカラ)なる意に用ひては、たがふ也。又こころぐるしといふ言は、今の俗言(ヨノコト)に、気毒(キノドク)なるといふ意に用ひたるを、言のままに、心の苦きことに用ひては、たがへり。さればこれらにて、万の言をも、なずらへ心得て、まづいにしへに用ひたるやうをさきとして、明らめしるべし。言の本にのみよりては、中々にいにしへにたがふことおほかるへしかし。

ここでもまず宣長の頭にあるのは詠歌のことだ。
なぜあれほど宣長がつまらない歌を大量に詠んだのかといえば、それは詠歌すること自体が詠歌の訓練だからだ。
正確に、即興で、優れた歌を詠むために、常日頃から歌を詠む訓練をしていた。
歌を正確に詠もうと思えばその正しい語義を知らねばならぬ。
しかし語義というものは時代や文脈によって変わっていくものだから、まずその用例をしらねばならぬ。
そういう用例というものをはなれて言葉の本義などというものを知ろうとしても無駄だと言っているのである。

もちろん宣長は語義なんてどうでもよくて用例さえ調べりゃ良いと言っているわけではない。
むしろ宣長ほど根掘り葉掘り語義を調べる人はいない。
しかしそんな宣長だからこそ、語義というものは往々にして知り難いものであるから、たくさん用例を見ろよと言っている。
宣長が古学を好んだのは詠歌が好きだったからだ。
詠歌のために古文を学び、或いは源氏物語を読み、とうとう古事記を解き明かしたのである。
宣長がどれほど和歌が好きかということを知らずに宣長を理解することは不可能だ。

そして小林秀雄はそんな宣長をきわめて正確に理解している。

つまり筒井康隆は宣長だけでなく小林秀雄をも誤解していたということになる。

小林秀雄の『本居宣長』がつまらないとかわからないという人は、要するに、宣長に興味がないか、宣長がわかってないのだ。
ただ小林秀雄のファンであるだけで宣長がわかるはずがない。

立田川と水無瀬川

本居宣長は玉勝間(巻一、巻二)で、立田川というのは今の水無瀬川であると言っている。

竜田川というのは大和国竜田山を流れる川であるというのが定説で、
業平の伊勢物語第百六段に「昔、をとこ、みこたちのせうえうし給ふ所にまうでて、たつた河のほとりにて」

> ちはやぶる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは

もまたそのように考えられているのだが、
これは文徳天皇の時代に「渚の院」と呼ばれ、皇子の惟喬親王に相続され、
のちに廃れて(土佐日記に「渚の院」「これ、昔、名高く聞こえたる所也」と出る)、
後鳥羽院の時代に(おそらく業平にちなんで)再建され「水無瀬離宮」と呼ばれ、
宗祇・肖柏・宗長らが水無瀬三吟百韻を奉納し、
現在「水無瀬神宮」が建っている場所で詠まれたと考えるのが自然だ。
というのは、業平は惟喬親王のお供でしばしばこの渚の院を訪れ、たくさんの歌を残しているが、
わざわざ大和の立田山に行ったという話は出てこないからである。
また、同じく宣長が指摘しているように、万葉集には「立田山」という地名は何度も出るが「立田川」という地名は一度も出ないのである(いずれもいずれも山をのみ詠みて、川を詠めるは一つも見えず)。
また立田川は筑紫へ下る途中に通る場所として歌に詠まれている。「源重行集」

> 白浪の 立田の川を 出でしより のちくやしきは 船路なりけり

従って大和には立田川などいうものはなかったと言わざるを得ない。
つまり、古今集「なぎさの院にてさくらを見てよめる」業平

> 世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし

また後鳥羽院によって

> 見渡せば やまもとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ

が詠まれたのと同じ場所だということになる。
立田川は別名、山崎川とも呼ばれ、後に水成川(みなしがは)と呼ばれ、水無瀬川となったが、
もともと水無瀬川とは涸川、もしくは水無川のことであったという。

京都から見ると大阪平野に出るまえに巨椋池というものがあって、そこが地峡になっていた。
この地峡の西側が山崎。
東側は男山石清水八幡宮である。

宣長がとっくの昔に発見しているのに小倉百人一首の解説にはみな、「竜田川」を「奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある竜田山のほとりを流れる川」
としているのがおかしいではないか。
誰も玉勝間を読んでないのだろうか?

短篇小説講義

筒井康隆の『短篇小説講義』だが、
私が最近読んだ「小説の書き方」の本の中では一番わかりやすくて面白かった。
小説の新人賞というのは最近ではみなだいたい短篇であって、
それはつまり応募者がたくさんいるから、
あんまり長いの書いてこられたら迷惑だというのもあるのだろう。
作家としての才能の有無を見るだけならば名刺代わりの短篇でも良いではないかということじゃないか。

文学部唯野教授も短篇を書いている。
それと平行してこの『短篇小説講義』を筒井康隆は書いたわけだ。
『文学部唯野教授』は岩波書店だし、『短篇小説講義』は岩波新書だし、
『短篇小説講義』に出てくる短篇のサンプルはみな岩波文庫だ。
そして筒井康隆が『短篇小説講義』を書いた直接のきっかけは岩波新書の『短篇小説礼讃』(阿部昭 1986)を読み、自らも短編小説についてエッセイを書いたからだという。

筒井康隆はいろんな批評家からの批評やら、
直木賞を逃したことやらに腹を立てて『大いなる助走』(1979)を書いて
『文学部唯野教授』はその続編みたいなもんだ。
そして自分でも文芸論や文芸批評論を書いてみたくなった、のだと思う。

でまあ、私はあまり小説を読まない人で(笑)、
日本文学もだが欧米文学は特に読まないので、
チェーホフとかトーマスマンとかゴーリキーとかの簡潔な紹介をしてもらったのはありがたかったし、
ディケンズ、ホフマン、ビアスはなかなか興味深く読んだ。
でまあいろんな古典的サンプルを紹介してその結論というのは、
良い小説とはまだ手垢の付いてないアイディアとか文体で書かれたものだというものであって、
そりゃそうなんだろうが、
たぶん新人賞を取るのにはあんまり役に立たない話だわな。
新人賞なんてものはとびきり有能で上質なライターの素質がある人、
つまり作家としての商品価値のある人が取るもんじゃないのか。
或いはなんらかの話題性(タレント性)がある人とか。
ほんとに novel なものを書く人(そういう人は往々にして商業的に成功するとは限らない)にほんとに出版社が新人賞を与えるなんて私には信じられない。