察然和尚

宣長年譜 元文4年(1739)

> 同四年【己未】血脈受入蓮社走誉上人。【伝通院中興ヨリ二十七世之主矣】法名英笑号也

宣長年譜 寛延元年 (1748)

> 樹敬寺宝延院方丈にて観蓮社諦誉上人蓮阿◎(口編に爾)風義達和尚に五重を授伝し、血脈を授かり、伝誉英笑道与居士の道号を受く。

察然和尚

宣長が10歳で法名を授かった入蓮社走誉上人と19歳で道号を授かった察然和尚とは別人。
察然は宣長の母の兄というから実の叔父にあたるわけである。

厳密には「英笑」の部分が戒名、法名であって、
「道与居士」は位号、
「伝誉」が道号(浄土宗で言う「誉号」)。
「英笑道与」までが戒名であるかもしれんが。
院号は(まだ)無い。

しかしながら宣長は晩年自ら「高岳院石上道啓居士」という号を付けている。
「石上」という法名は彼の私家集の名でもあり、宣長の雅号でもあるのだろう。
で、「高岳院」が道号、この場合は院号である。
「道啓居士」が位号。「道を啓く」とはずいぶん立派な名だ。

伝通院は小石川にある徳川将軍家の菩提寺。浄土宗。増上寺の末寺。
樹敬寺は松坂にある浄土宗の寺。
父方の小津家と母方の村田家の菩提寺。京都知恩院の末寺。

今日日本の詩というものがまったくわけのわからないものになってしまった要因はいくつかあると思う。

イギリスと違ってアメリカという国が文芸の中で詩をあまり重視しないからであるかもしれない。
戦前、近代文芸史における詩の本場はイギリス、フランス、ドイツであった。
その中でもドイツ詩というのは非常に影響力があったが、
二度の大戦の敗北で、ドイツ語はその影響力をほとんど失ってしまった。
日本人が詩というものがわからなくなった理由の一つは戦争でアメリカが勝ってドイツが負けたからだ。

詩、というか韻文というものは、
言葉自体に韻律を持たせ、リズムとメロディを持たせるものだ。
それが音楽と相性が良いのは当たり前なのだが、
詩と音楽が深く結びついたのは近世以降のことだろうと思う。
詩は文芸の中では最も歴史が古い。
叙事詩というのは口承文芸時代の典型的な形式だ。
長文を唱えて、暗記して、後世に伝達するのに適した形式である。
多くの文芸はここから発する。

逆に最も歴史が浅いのは散文であり小説だ。
詩は文字の無い時代からあり、文字を獲得した時点で急速に流行し、
熟成期を向かえ、
と同時にに国語や民族意識というものが生まれ、
その民族とともにだんだんに衰退していく。
当たり前のことだが詩は民族と、言語と、深く結びついている。
詩は翻訳不可能だ。
しかし散文や小説は、特に言語を選ぶわけではなく、
その意味においては他民族的、国際的なものだ。

そもそも昔は音楽理論は未発達だし、楽譜も不便だった。
音楽と詩をあわせる技術も未熟だった。
古代ギリシャの吟遊詩人も竪琴や笛などで伴奏したのに違いない。
だが、詩と曲が、一対一に結びついていたわけではなかろう。
詩にはある定型があり、曲にもある定型があって、組み合わせやすくなっていただけであろう。
それは平曲や謡曲などにも言えることではなかろうか。

従って詩というものがそれ自体で自立している必要があったが、
近年のようにCDのようなもので完全に曲と詞を同時に記録できるようになると、
詞はほぼ完全に曲に従属するようになってしまった。
従って歌謡曲の歌詞のようなものを詩だと思うようになっても不思議ではない。
曲に合わせる詞には当然それ自体の韻律は必要とされない。
むしろ邪魔なだけだ。
逆に普通の話し言葉や台詞のようなものを曲に合わせるという「技巧」が好まれることになる。
それはもはや詩ではない。

少なくとも戦前までは和歌や漢詩という伝統文芸があって、
詩とは何かという暗黙のコンセンサスがあったのだが、
両者とも戦後完全に忘れられた。
誰も自分で漢詩を作らなくなり、
和歌は短歌という口語定型詩によって駆逐されてしまった。

詩学、詩論というものも、確かに戦前の萩原朔太郎辺りまではあったかもしれない。
彼はもともとは明星派の歌人だった。
彼の中にはまず和歌の素養があって、西洋詩の影響を受けて詩を作った。

ところが戦後まともに詩学について書いた人はいない。
吉本龍明くらいだろうか?
その他はたとえば谷川俊太郎の詩について論じたものなどがあるくらい。
そのほとんどはただお花畑な詩をお花畑に批評しているだけ。
定番はアリストテレスの『詩学』くらい。中間がほとんどない。
こういう状況で、日本人が詩とは何かということがわかるはずがない。

たしかに口語自由詩というものは、翻訳してもその本質を損なうことはないのである。
また散文になれたものでも詩を作ることができる。
しかし彼らが試しに定型や対句などの修辞を使った詩を作るとたちまち陳腐になってしまうだろう。
つまりは演歌や軍歌の歌詞のような、下手な都々逸のようなものしか作れなくなってしまう。
韻律や修辞や伝統というものに負けてしまうのだ。
そういうものに負けずにさらに残るものが詩の本質というものではなかろうか。
私はあまり詩の本質とか内在律などというものに言及したくはないのだけど。
まあ定型詩が演歌や軍歌みたいになってしまうのは仕方のないことだ。
彼らが直接・間接に影響をうける定型詩の見本はそういうものしかないからだ。
佐佐木信綱あたりの影響を受けているのだ、本人は無自覚なままに。
佐佐木信綱は彼の短歌というよりは、軍歌の作詞によって世の中に多大な影響を及ぼした人だ
(彼の短歌は多くの漢語や外来語を含んでおり、和歌(やまとうた)とは言えない。彼もまた明星派の歌人だった)。
結局はみんな何らかの「内在律」に支配されているので、定型詩を作ろうとすると、
どうしても「佐佐木信綱律」に支配されてしまう。
「新聞歌壇律」と言っても良いかも知れない。
そういう「律」に支配されるのが嫌だから、それよりかはよっぽど無毒な「散文律」に逃げる。

定型で詠もうとすればどうしてもそういう明治の文芸よりも昔にさかのぼらなくてはならない。
明治の和歌の完成度は、しょせんその程度のものであり、
江戸期や平安時代の完成度には遠く及ばないからだ。
その努力をせずに定型詩が作れるはずがない。

夏目漱石は多くの漢詩を遺したが、
漱石の漢詩を鑑賞しようという人はほとんどいない。
漱石自身は詩人になりたかったかもしれない。
しかし世の中はすでに小説万能時代だったから、
彼は敢えて自分の詩を人目にさらそうとしなかった。
文豪の余技だと思われるのを恐れたのだろう。
もし世の中が漢詩全盛期であれば(例えば江戸中期から後期ならば)漱石は詩人として名をなそうとしたのに違いない。
もし本気で漱石を理解しようと思うならば彼の漢詩と小説の関係も議論すべきだろう。

今の世の人は頼まじ

> 学者はただ、道を尋ねて明らめるをこそ、つとめとすべけれ。私に道を行ふべきものにはあらず。されば随分に、古への道を考へ明らめて、そのむねを、人にも教へ諭し、物にも書き遺しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ゐ行ひたまひて、天下に敷き施したまはむ世を待つべし。これ宣長が志なり。

まったくその通りだ。自然科学であれば、
ニュートンの力学と、現代の量子力学では、昔より今の方がより精密になっていることを断言できる。
自然科学とか数学というものは、そうしたものだからだ。

しかし思想とか文芸などはそうとは言い切れない。
近代よりは現代が、現代よりはポストモダンが優れているなどということは決して言えない。
前衛芸術は前衛であることに意味があって、時代的には後退しているかもしれない。

> 昔の人より、君達は果たして本当に利口になったかどうか

> 文字の発明の御蔭で、誰も記憶力の訓練が免除されるから、皆忘れっぽくなる。書かれたものに頼る人々は、物を思い出す手段を、(中略)自分達には何の親しみもない様々な記号に求めている。(中略)何も知らない癖に、何でも知ってるとうぬぼれるようになる。

同じことを中島敦は『文字禍』で言っている。

> 近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

私は別に思想や文芸が自然科学より劣っているといいたいわけではなく、
新しい思想や新しい文芸、新しい芸術は必ずしも過去を凌駕しているわけではないという、
当たり前のことが言いたいだけだ。
だが往々にして人は今自分が生きているこの時代が最高であり、最も無謬であると考えたがる。
そして現代より優れているのは来たるべき未来だと考えたがる。
スマホがなかった時代よりスマホがある時代の方が人間も利口になったと思うし、
未来に今以上の何かSNSなりネットワークができればさらに利口になると思う。
果たしてそうかとそこで立ち止まり考えねばならない。
そうしたら過ぎた昔など意味はないことになってしまう。

私たちは何度も間違ってきた。帝国主義、資本主義、マルクス主義、共産主義、ヒッピー、ポストモダン。

現代人はそういう現代を賛美し過去を貶めようとする我々の現代というものと、
我々自身と戦わなくてはならない。
戦って後世に問わねばならない。
だからこそ、「私に道を行」わず、「古への道を考へ明らめて」、「物にも書き遺しおきて」、「時至りて」、「天下に敷き施したまはむ世を待つ」べきなのだ。

思うに、「古学」というもの、「古義学」「古文辞学」というものは、
中世から現代までの思想の影響を排除して、
古い時代のことをできるだけそのままの形で再現しようというものであり、
そのできるだけピュアな形態へ到達しようとするものであるから、
これは一神教との親和性が高いのである。
宣長が「古学」を極めた結果、
形態としては多神教であるが、
一神教的性格を持つ国粋主義に到達したのはある意味必然だったかもしれない。

筆者の余技

小林秀雄『本居宣長』補記一

> 今日遺されている彼の全著作が、筆者の余技を出ないものという事であれば、田中さんが言われたように、プラトン研究家は困ったことになる。プラトン自身はどうでもいいと思っていた文章から、その明さなかった哲学思想の核心となっていたものを、犯人でもあげるように探さなければならぬ、言ってみれば、そんな窮境に立たされることになる。

これは小林秀雄が自分の著作について言っているように思えてならないのである。

> 昔の人より、君達は果たして本当に利口になったかどうかという問いが、含まれている

> 正気でいたい利口者には、恋の真相とは、まさにその通りであるかどうかという問題には、直かに出会えない。利口者は恋の愚を避けた積りでいるだろうが、実は、恋の方で、利口者など近付けないのである。

> 狂気(アニマー)とは、正気に到らないものではなく、正気を超えるもの

> 心を狂わせなかったら、到底常人には出来ぬ仕事がやってのけられた筈はない。

以前書いた[日神論争](/?p=14196)というのも合わせて読んでみてほしいのだが、
上で小林秀雄が利口者、常人と言いたいのは上田秋成であり、パイドロスである。
狂人と言いたいのは本居宣長であり、ソクラテスである。
私は以前この『補記一』を読んで、なんで宣長の本に唐突にソクラテスとかプラトンの話が出て来なきゃならないのだ、
なんかの冗談かと思ったのだったが、落ち着いて読んでみるとなかなか面白いことが書いてある。
またしても私は彼の「余技を出ないもの」、彼自身「どうでもいいと思っていた文章」から「その明さなかった哲学思想の核心となっていたものを、犯人でもあげるように探さなければならぬ」という気持ちになった。

神話は実際にあったことと信じるかいなかというパイドロスの問いに対して、ソクラテスは「もし私が当今の利口者なみに、そのような伝説は信じないと言えば、妙な男と思われないで済むだろうがと言葉を濁し」た。「気に入らなかったのは、当時のアテナイ人の知識人の風潮、神話に託された寓意を求めるという、学問めかした神話解釈であった。」

その時代時代の人が太古の神話を、その時代時代の都合に合わせて解釈しようとする。特に日本の場合には、外から新しい宗教や思想が伝来するたびに、神話は再解釈されてきた。
秋成は、仏教も儒教も、日本の神様は嫌っておらず、時代の流れで自然に今のようになったのだ、と言っている。宣長にしてみればそういうある種の合理主義というかご都合主義というのは、漢意に染まった考え方と同じく拒絶せねばならなかった。日本的多神教から秋成の考え方は自然と出てくる。宣長の一神教的な発想はなかなか出てこない。

数学者や自然科学者は必ずしも利口者ではなく、近代西洋では狂信的なキリスト教徒であることが多かった。ニュートンなどがそうだ。
彼は数学や天文学を通じて神が実在することを証明しようとした結果あのような偉大な学問上の成果を発見し得たのである。
同じことは本居宣長にも言える。
「利口者」「常人」ではない「狂人」、「妙な男」でなくては到達できない境地というものは確かにあるはずなのだ。
宣長は独力で、儒教や仏教の影響が未だ及ばなかったころの、純粋な神話までたどり着いた。
それは天武天皇が見ていた世界だった。
彼はそこに彼自身の一神教を発見した。

ところで中島敦の『文字禍』はこの「パイドロス」に着想したもののようだ。

小林秀雄『本居宣長』四十九

小倉色紙の巻頭の色紙が10枚伝わっている。
そのうちの1枚は本物で、残りの9枚は偽物だが、
上田秋成はどれが本物かなどわからぬのだから10枚とも偽物だと言おうとしている。
などと宣長が言っているのがすごくおかしい。
定家直筆の小倉色紙は1枚に1首なので、10枚同じ歌の色紙があるのはおかしい。
しかしそのうちの1枚が本物である理由にはならない。
『明月記』に定家自身が書き残したように小倉色紙はあった。
しかし1枚も後世に伝わってない可能性もあるのだ。
つまり、もし本物があるとすればそれはたかだか1枚しかない、ということしか言えない。
また『明月記』には100首100枚あるとも書いてない。もっと少なかった可能性もある。
しかし宣長は本物の小倉色紙が100首100枚あることを疑おうとしない。
どうも宣長は数学的、論理的思考は苦手だったようだ。

私は、本物の小倉色紙は宣長の時代にはもはや存在していなかっただろうと思っている。
それは嵯峨中院こと亀山殿が火災で失われたときに一緒に燃えてしまったのに違いない。
亀山殿は天龍寺になったが、天龍寺も何度も焼失している。
色紙を障子からはがして保管していない限り(そんなことするはずもないが)、
燃えてしまったに違いない。

宣長は頓阿が好きで京極派が嫌いだがそれはおそらく宣長が少年時代に和歌を学び始めたときにすでにそうだったからで、生涯頓阿のような坊さん臭い、二条派の和歌が好きで、新古今が好きで、それとは正反対の京極派が嫌いなのだ。ということは西行や式子内親王の歌も嫌いだったはずだ。
それは宣長の好き嫌いという以上のものではない。
宣長は学問的には恐ろしく直感や推理が効くところがある。
『古事記』や『源氏物語』を解き明かしたこと。古今伝授の嘘を見抜いたところなど。
しかし宣長は万能ではなかった。ある部分は醒めて、ある部分では狂った人だったからだ。

恩頼図

小林秀雄『本居宣長』第四章

佐佐木信綱によって発見された本居大平による「恩頼図」というものがあり、
これに宣長の学問の系譜が記されている。
大平とは宣長の弟子の稲懸大平という者だったが、宣長の実子・春庭が眼病で失明して以来、
養子となった人。
その「恩頼図」には、

> 西山公、屈景山、契沖、真淵、紫式部、定家、頓阿、孔子、ソライ、タサイ、東カイ、垂加

と書かれている。
西山公とは水戸光圀のことで、契沖に『万葉代匠記』を書かせた。
屈景山とは宣長が京都に医者となるために遊学したときに「よのつねの儒学」を学んだ堀景山のこと。
ソライとは荻生徂徠。
タサイとは太宰春台という徂徠の弟子。
東カイとは伊藤東涯という伊藤仁斎の長男。
垂下とはここでは垂加神道の山崎闇斎。
それで、小林秀雄としては、
伊藤仁斎や荻生徂徠についても、そして徂徠の師・中江藤樹についても、
一応は調べてみないわけにはいかなかったということだろう。

同第十章

> 仁斎は「童子問」の中で、「論語」を「最上至極宇宙第一書」と書いている。(中略)彼は稿を改める毎に、巻頭に「最上至極宇宙第一書」と書き、書いては消し、消しては書き、どうしたものかと迷っている(中略)恐らくこれは、ある人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者だけが知るためらいと思われる。軽信家にも、狂信家にも、軽信や狂信を侮る懐疑家にも亦、縁のない躊(ためら)いであろう。

すごく面白いことを書いているのだが自分のことを言いたいのだろうか。
明らかに宣長とは何の関係もない。

同第十一章

> 宣長はよく愚をいざなひて、天の下に名を得し者也。是実に豪傑といふべく候。親鸞日蓮が、愚者をいざなひて、法を説きひろめし如く、皇朝学は、宣長に興りて、天の下に広ごりにたれど、其学する愚者共の、宣長が廓内に取込られて、その廓を出る事能はず。故ニ、皇朝学は宣長に興りて宣長に廃るものといふべし。可惜可歎候。

真淵の弟子で宣長の後輩、伊勢外宮の神官の出で荒木田久老(ひさおゆ)という人が書いた書簡にある言葉である。
宣長は後世人に誤解され、平田篤胤のような連中に利用され、戦前戦中も国威発揚のために利用され、
戦後は無視された人なわけだが、
その傾向は宣長が存命のときにすでに現れており、
その責任の一部は宣長自身にあると言いたいのである。

> 宣長発足後、段々不評判なるは、京師の人情也(宣長が京都に出発してからだんだんと不評判になったのは京都の人情である)

つまり、「律儀者」で「欺かれ」やすい宣長を京都の連中は自分たちの廓の中に取り込んでしまい、そこから宣長が出られないようして、利用しているというのだ。そのために「皇朝学」というものができたけれども、それがすでに愚民らによって変質してしまい、宣長の学問は誤解されることになろう、と荒木田久老は予言しているのである。おそるべき卓見である。
そして小林秀雄はよくこの文章を佐佐木信綱の著書「和歌史の研究」の中から拾い出してこれたものだと、感心せざるを得ない。
こんなふうに雑記雑談ふうの冗長な文章の中に小林秀雄はときどきこんなすごい着想を混ぜ込むのだ。

小林秀雄は戦時中に読んだ『古事記伝』から得られた直感がなんであったかを確認するために本居宣長という人を調べてみることにした。
宣長は戦前と戦後でほとんど正反対の評価をされた人であった。
小林秀雄にはおそらく、戦前に持ち上げられた宣長でもなく、
戦後に貶められた宣長でもない、
ほんとうの宣長の姿というものを、確かめてみないわけにはいかない気持ちがあったはずだ。
宣長という人に、戦前と戦後の連続性というものを見たかったはずだ。
戦争によって分断された日本の歴史というものに再び連続性を与え、つなぎ合わせたかった。
それはベトナムやドイツの再統一事業と似たような作業だったはずだ。
後世に対して、戦争を引き起こした当事者として、責任を果たすつもりだったはずだ。

それでまず宣長の墓参りをし、宣長の著作を調べ、
宣長に影響を与えたであろう先達たちを一通り調べ、
源氏物語も読み、上田秋成との論争についても考察してみた。
そうしているうちにあっというまに10年以上が経ち、
宣長について書いたそれらの膨大な文章を整理するまもなく、晩年を迎えたということだろう。

同第五十章

> もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

なんだかよくわからない文章だが、小林秀雄は、まとめてもいないし、整理もしてないが、いつまでもきりがないので、こんな未完成な形のまま終わらせてくれ、あとは読んで察してくれ、とりあえず必要な準備はしておいた、と言っているように思われるのである。彼の『本居宣長』はそういう意味では、長い長い「素描」なのである。