月別アーカイブ: 2015年6月

亀山天皇と臨済宗

臨済宗はもともと鎌倉だけのもの、武士だけのものだった。 ところが亀山天皇が臨済宗南禅寺を建ててここで出家したものだから、 京都でも、公家の間でも、臨済宗が流行ることになった。 亀山天皇はなぜ臨済宗を信仰したのか。 私は、藤原為家(定家の息子)は臨済宗だと確信している。 為家は中院禅師、冷泉禅門などと呼ばれているから禅宗には違いない。 では曹洞宗か臨済宗のどちらかということになる。 為家の時代、曹洞宗は道元が越前の山奥に永平寺を建てたばかりで、ほとんど影響力はなかったと思われる。 一方、臨済宗はすでに北条時頼によって鎌倉に建長寺を建てていたし、 それ以前に泰時が東勝寺を建てており、 さらにそれより前に、北条政子の発願によって栄西が寿福寺を建てている(政子は二品禅尼と呼ばれるから明らかに臨済宗である)。 寿福寺と東勝寺は鎌倉中に作られた日本最初期の禅寺である。 建長寺は鎌倉の外、山之内に建てられた。 為家は関東申次西園寺の血を引いている。 西園寺は当時では珍しい、鎌倉寄りの公家である。 これらの状況証拠から為家が臨済宗だったのは99%確実。 為家は晩年嵯峨中院、つまり後の亀山殿に住んだ。 亀山天皇は為家に影響を受けて臨済宗に親しんだ。 おそらくそうにちがいない。 ちなみに北条氏はみな臨済宗である。 栄西の元で最も早い時期に禅宗に帰依したのは池殿こと平頼盛だったと思う。 というのは頼盛は… 続きを読む »

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俊成

藤原俊成は葉室家の養子だったとき、葉室顕広と名乗った。 葉室家の養父は葉室顕頼と言ったから、養父から「顕」の字をもらったわけである。 葉室顕頼の没年は1148年。 俊成が美福門院加賀と結婚したのは、長男・成家の生まれた年(1155年)から推測するに、 顕頼が死んでだいぶしてからだろう。 俊成1114年生まれ。 41才にしてやっと跡継ぎ出生というのはずいぶんおそい。 家族も養えないくらいに冷遇されていたということだろうか。 美福門院加賀が連れ子で再婚、俊成が初婚というのも思えば不可解だ。 俊成の姪にあたる徳大寺忻子が後白河即位とともに入内したのが1155年(当時忻子21歳。妹多子は15歳)。 俊成の運はこの前後から好転し始めたはずであり、 やっと一家をかまえ、妻を持ち、子を産む経済的余裕がうまれたのに違いない。 葉室家を離れたのは俊成と改名した1167年頃であったはずだ。 明らかに俊成の亡父・俊忠から「俊」の字をもらっているのである。 このとき成家は12才、定家は5才。 俊成の長男・成家だが、明らかに俊成から「成」の字をもらっている。 今日的感覚で言えば成家が俊成の嫡男ということになる。 成家は55才で正三位だからそれなりの出世だ。

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秀能

後鳥羽院口伝に > 又、寂蓮・定家・家隆・雅經・秀能等なり。寂蓮はなほざりならず歌よみしものなり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞかへりていたくたかくはなかりしかども、いざたけ有歌よまむとて、たつたのおくにかゝる白雲、と三體の歌によみたりし、おそろしかりき。おりにつけて、きと歌よみ、連歌しの至狂歌までも、にはかの事も、ゆへ有樣にありしかたは眞實堪能とみえき。家隆は、若かりしおりはいときこえざりしかど、建久のころほひよりことに名譽も出きたりき。歌になりかへりたるさまかひがひしく、秀歌どもよみあつめたるおほき、誰にもまさりたり。たけもあり心もめずらしく見ゆ。雅經はことに案じ、かへりて歌よみしものなり。いたくたけ有歌などは、むねとおほくはみえざりしかども、てだりとみえき。秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊外にいでばヘするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中には、さしのびたる物どもありき。しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。女房歌よみには、丹波やさしき歌あまたよめり。 とある。 > しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。 を、普通は、 > 秀能は、「無下の歌の由」(まったくひどい歌である)と定家が最近言っていた、 と解釈するらしい。 私には、 > さまざまな歌詠みがいるなかで、最近は定家が疑問の余地なく良い歌詠みであると評判である、 というような意味… 続きを読む »

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定家の禅3

そう、もともとは、定家の禅というタイトルにしようとしていたのだった。 [定家の禅2](/?p=17101)、 [定家の禅](/?p=17049)。 最初は「古今和歌集の真相」の続編で「小倉百人一首の真相」みたいのを書く予定だった。 しかし小倉百人一首は100首全部並べるのがじゃまくさいので定家に絞った。 定家と栄西というタイトルにしようかとも思った。 しかし栄西や禅も話がとっちらかってしまうので定家に絞ったのである。 当時の書き出しはこんなふうだったのだ。 > 初期の日本の禅を理解してもらうため、南宋の禅や栄西についてのイメージをつかんでおいてもらう必要がある。道元、一休、沢庵などの禅師についても、比較のために見ておこう。 栄西が渡ったころの南宋では寒山詩という禅詩が流行っていた。伝説では、寒山や拾得は唐代の風狂僧であるとされるが、そのほとんどの詩は、おそらくもっと後代に作られたもの。 時人見寒山 (時人、寒山を見て) 各謂是風顛 (おのおの謂ふ、これ風顛(ふうてん)なりと) 貌不起人目 (貌(かお)は人目を起こさず) 身唯布裘纏 (身はただ布(ふ)裘(きゆう)を纏(まと)ふのみ) 我語他不会 (我は語るも、他は会せず) 他語我不言 (他が語るを、我は言はず) 為報往来者 (為に報ず、往来者) 可来向寒山 (来たりて寒山に向かふべし) > 当世の人々は寒山を見て言う、「この人はフー… 続きを読む »

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藤原定家

藤原定家の本がまもなく出るので、 自分のブログを読み返しているところだが、すでに2010年に > 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ について[藤原定家](/?p=2902) > 定家にしてはめずらしく写生的な歌なのだが、 実際には存在しない情景を詠んでいる。何かはぐらかされたような気分になる。 > ありありと目の前に情景が浮かんでくるようで、それをいきなり否定されて、 まったくの架空の絵空事でしたという結論。 定家はやはりよくわからん。 一種の禅問答だと言われた方がわかる気がする。 > こんなものが本歌取りなら取らぬ方がまし とか [達磨歌](/?p=3333) > 言葉は美しいが、描かれた光景はただの空虚な何もない世界である。 上の句で色彩鮮やかな光景を提示しておいてそれを否定し、下の句では代わりに寒々しい虚無な光景を残して放置する。 > 和歌をただ二つにぶち切って、華やかな世界提示と否定、そして救いようのない世界の放置という構成にする。 > その言葉の美しさと禅問答のような空疎さ、難解さだろう。あるいは本歌取りという退廃的な知的遊戯として。禅もまたそれから武家社会で受容され、もてはやされた。禅ってなんかかっこいい、みたいな。 > そういうのをさらに発展させると「古池や蛙飛び込む水の音」や 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」になっていくのだろう。俳句とは要するに… 続きを読む »

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