亀山天皇と臨済宗

臨済宗はもともと鎌倉だけのもの、武士だけのものだった。
ところが亀山天皇が臨済宗南禅寺を建ててここで出家したものだから、
京都でも、公家の間でも、臨済宗が流行ることになった。

亀山天皇はなぜ臨済宗を信仰したのか。

私は、藤原為家(定家の息子)は臨済宗だと確信している。
為家は中院禅師、冷泉禅門などと呼ばれているから禅宗には違いない。
では曹洞宗か臨済宗のどちらかということになる。

為家の時代、曹洞宗は道元が越前の山奥に永平寺を建てたばかりで、ほとんど影響力はなかったと思われる。
一方、臨済宗はすでに北条時頼によって鎌倉に建長寺を建てていたし、
それ以前に泰時が東勝寺を建てており、
さらにそれより前に、北条政子の発願によって栄西が寿福寺を建てている(政子は二品禅尼と呼ばれるから明らかに臨済宗である)。
寿福寺と東勝寺は鎌倉中に作られた日本最初期の禅寺である。
建長寺は鎌倉の外、山之内に建てられた。
為家は関東申次西園寺の血を引いている。
西園寺は当時では珍しい、鎌倉寄りの公家である。

これらの状況証拠から為家が臨済宗だったのは99%確実。
為家は晩年嵯峨中院、つまり後の亀山殿に住んだ。
亀山天皇は為家に影響を受けて臨済宗に親しんだ。
おそらくそうにちがいない。
ちなみに北条氏はみな臨済宗である。

栄西の元で最も早い時期に禅宗に帰依したのは池殿こと平頼盛だったと思う。
というのは頼盛は栄西の檀那だったからだ。
為家も非常に早い。

臨済宗の寺に鎌倉五山、京都五山という格式があり、南禅寺はその中でも別格、最高とされる。
これは亀山天皇による(日本初の)勅願禅寺であったためと、亀山天皇の孫に当たる後醍醐天皇が南禅寺を重んじたためだ。
南禅寺の住職は日本人だった。
建長寺の住職が中国人であり、またのちに建仁寺にも鎌倉から中国人の住職が送り込まれるのだが、
南禅寺は臨済宗の寺であるのに中国人を住職とはしなかった。
南禅寺が日本の臨済宗の中で別格とされるのは京都独特の公家趣味と言わざるを得まい。

室町時代になると足利氏が京都に住むようになるわけだが、東国武士の足利氏が臨済宗を重んじたのはある意味当然。

建仁寺の創建に栄西が関わったのは事実かもしれないが、初期の建仁寺は純粋な禅寺とは言えない。
栄西が帰宋後博多に建てたという寺もおそらくは純粋な禅寺ではない。
栄西は鎌倉という新天地で、頼朝や政子といった理解者に恵まれて、初めて日本に独立した禅寺を建てたのだ。
それが寿福寺である。
だから本来臨済宗で一番伝統ある寺は寿福寺であり、従って最も格上であるべきだ。
足利氏と京都の公家があとからそれをゆがめてしまった。
おかげで我々は禅宗というものがどのようにして広まったのか、
誰の功績であるのか、わからなくなってしまっている。

臨済宗はもともと座禅などしなかったと思う。
座禅は道元の曹洞宗が流行らせたものだ。
臨済宗はもともとは実学的、宋学的な性格が強かったはずだ。

九条道家は東福寺を建立したが、彼もまた臨済宗だったようだ。
どうもね、藤原定家の周りはみんな臨済宗なんだよね。
定家もやはり臨済宗だったと思うが確証がない。しかし、彼が禅の影響を受けているのは間違いない。

俊成

藤原俊成は葉室家の養子だったとき、葉室顕広と名乗った。
葉室家の養父は葉室顕頼と言ったから、養父から「顕」の字をもらったわけである。

葉室顕頼の没年は1148年。
俊成が美福門院加賀と結婚したのは、長男・成家の生まれた年(1155年)から推測するに、
顕頼が死んでだいぶしてからだろう。
俊成1114年生まれ。
41才にしてやっと跡継ぎ出生というのはずいぶんおそい。
家族も養えないくらいに冷遇されていたということだろうか。
美福門院加賀が連れ子で再婚、俊成が初婚というのも思えば不可解だ。

俊成の姪にあたる徳大寺忻子が後白河即位とともに入内したのが1155年(当時忻子21歳。妹多子は15歳)。
俊成の運はこの前後から好転し始めたはずであり、
やっと一家をかまえ、妻を持ち、子を産む経済的余裕がうまれたのに違いない。

葉室家を離れたのは俊成と改名した1167年頃であったはずだ。
明らかに俊成の亡父・俊忠から「俊」の字をもらっているのである。
このとき成家は12才、定家は5才。

俊成の長男・成家だが、明らかに俊成から「成」の字をもらっている。
今日的感覚で言えば成家が俊成の嫡男ということになる。
成家は55才で正三位だからそれなりの出世だ。

秀能

後鳥羽院口伝に

> 又、寂蓮・定家・家隆・雅經・秀能等なり。寂蓮はなほざりならず歌よみしものなり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞかへりていたくたかくはなかりしかども、いざたけ有歌よまむとて、たつたのおくにかゝる白雲、と三體の歌によみたりし、おそろしかりき。おりにつけて、きと歌よみ、連歌しの至狂歌までも、にはかの事も、ゆへ有樣にありしかたは眞實堪能とみえき。家隆は、若かりしおりはいときこえざりしかど、建久のころほひよりことに名譽も出きたりき。歌になりかへりたるさまかひがひしく、秀歌どもよみあつめたるおほき、誰にもまさりたり。たけもあり心もめずらしく見ゆ。雅經はことに案じ、かへりて歌よみしものなり。いたくたけ有歌などは、むねとおほくはみえざりしかども、てだりとみえき。秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊外にいでばヘするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中には、さしのびたる物どもありき。しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。女房歌よみには、丹波やさしき歌あまたよめり。

とある。

> しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。

を、普通は、

> 秀能は、「無下の歌の由」(まったくひどい歌である)と定家が最近言っていた、

と解釈するらしい。
私には、
> さまざまな歌詠みがいるなかで、最近は定家が疑問の余地なく良い歌詠みであると評判である、

というような意味に思えるのである。
この箇所はいろんな当時の歌人らが列挙されているところである。
唐突に定家の秀能に対する反論が出てくるのは変ではないか。

定家の禅3

そう、もともとは、定家の禅というタイトルにしようとしていたのだった。
[定家の禅2](/?p=17101)、
[定家の禅](/?p=17049)。
最初は「古今和歌集の真相」の続編で「小倉百人一首の真相」みたいのを書く予定だった。
しかし小倉百人一首は100首全部並べるのがじゃまくさいので定家に絞った。
定家と栄西というタイトルにしようかとも思った。
しかし栄西や禅も話がとっちらかってしまうので定家に絞ったのである。
当時の書き出しはこんなふうだったのだ。

> 初期の日本の禅を理解してもらうため、南宋の禅や栄西についてのイメージをつかんでおいてもらう必要がある。道元、一休、沢庵などの禅師についても、比較のために見ておこう。
栄西が渡ったころの南宋では寒山詩という禅詩が流行っていた。伝説では、寒山や拾得は唐代の風狂僧であるとされるが、そのほとんどの詩は、おそらくもっと後代に作られたもの。

時人見寒山 (時人、寒山を見て)
各謂是風顛 (おのおの謂ふ、これ風顛(ふうてん)なりと)
貌不起人目 (貌(かお)は人目を起こさず)
身唯布裘纏 (身はただ布(ふ)裘(きゆう)を纏(まと)ふのみ)
我語他不会 (我は語るも、他は会せず)
他語我不言 (他が語るを、我は言はず)
為報往来者 (為に報ず、往来者)
可来向寒山 (来たりて寒山に向かふべし)

> 当世の人々は寒山を見て言う、「この人はフーテンだ。地味な風貌に粗末な布衣。」私は言う、「私の言葉を他人は理解せず、他人の言葉を私は言わない。道行く人々よ、私に会いたければ寒山に来るがよい。」
済公、あるいは道済などとも呼ばれる済顛(さいてん)は、栄西が南宋に渡ったころに実在していた禅僧である。その肖像の画賛に言う、

両隻帚眉、但能掃愁。一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚。未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子帰天嶺、釣月耕雲自琢磨。

> 左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。寒くてもいつも裸足。年は取ってないのに白髪。無頓着。何事も気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。
寒山のイメージそのまんまの人だったようだ。済顛は現代中国でも人気で、日本の一休さんのようにテレビドラマの主人公になっているそうである。

今と全然違う。今は道長の話を枕にしている。
いずれ栄西については書きたいのだがせっかく書くなら鎌倉の寿福寺や建長寺できっちり取材して書きたいわな。
で、最初から「虚構の歌人 藤原定家」というものを書こうとしたわけではない。
承久の乱についても書こうとしたがこれもじゃまなので削った。

この本だが、定家だけではない、
九条兼実、良経、道家、式子内親王、後鳥羽院、西園寺公経、北条泰時、宇都宮頼綱らについても今までになかったいろんな見解を書いている。
結局定家に絞り切れてないのである。
兼実と良経と式子だけでも独立して一冊の本になるだろう。
膨らませるのが苦手なのだが。
承久の乱についてはいつか書きたい。

藤原定家

藤原定家の本がまもなく出るので、
自分のブログを読み返しているところだが、すでに2010年に

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ

について[藤原定家](/?p=2902)

> 定家にしてはめずらしく写生的な歌なのだが、 実際には存在しない情景を詠んでいる。何かはぐらかされたような気分になる。

> ありありと目の前に情景が浮かんでくるようで、それをいきなり否定されて、 まったくの架空の絵空事でしたという結論。 定家はやはりよくわからん。 一種の禅問答だと言われた方がわかる気がする。

> こんなものが本歌取りなら取らぬ方がまし

とか
[達磨歌](/?p=3333)

> 言葉は美しいが、描かれた光景はただの空虚な何もない世界である。 上の句で色彩鮮やかな光景を提示しておいてそれを否定し、下の句では代わりに寒々しい虚無な光景を残して放置する。

> 和歌をただ二つにぶち切って、華やかな世界提示と否定、そして救いようのない世界の放置という構成にする。

> その言葉の美しさと禅問答のような空疎さ、難解さだろう。あるいは本歌取りという退廃的な知的遊戯として。禅もまたそれから武家社会で受容され、もてはやされた。禅ってなんかかっこいい、みたいな。

> そういうのをさらに発展させると「古池や蛙飛び込む水の音」や 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」になっていくのだろう。俳句とは要するに「達磨歌」の末裔なのだ。

とか
[影](/?p=15388)

> 定家ただ独りがたどり着いたこの境地を、現代人はわかってない。 幽玄とかありがたがっておりながら幽玄の意味がわかってない。

などと言っている。
確かに定家が一番影響を与えたのは武家社会と禅と俳句なのであり、
定家が偉大なのは宮廷や和歌からそれらの文化を派生させたからなのだ。
密教的平安時代から禅的鎌倉時代に移行する。
定家は和歌に禅詩的な要素を導入した。

[鉢木](/?p=15545)
に書いているように、

> ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む

> ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む

などが直接の本歌となったと思われるが、「駒駐めて」を初句に持ってきたのは父俊成の

> こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは

の影響だろう。
「駒駐めて」には独特の旅情がある。
普通ならば、

> 駒駐めて袖振り払ふ

とくれば

> 駒駐めて袖振り払ふ旅人の家路はるけき雪の夕暮れ

などとするだろう。
むろんこれではただの平凡な歌であって、
後世に残るようなものではない。
定家はそういうふうな展開を予想させておいていきなり「かげもなし」と否定した。
だから私はそこではぐらかされたような、馬鹿にされたような気分になったのである。
そしてそれゆえに、それこそがこの歌の斬新なところなのに、
室町時代の人は鉢木のように、誰にでもすんなり解釈できるように解釈し直してしまった。
虚無的な歌をなんだか普通の牧歌的な歌にしてしまった。
こういうことはよくあることだ。
キリスト教でパンをキリストの肉として食べ、ワインをキリストの血として飲むというのも、
最初はおそらく(伝統的なユダヤ教に対する)黒ミサ的なものだったのだが、
後世はそれを万人に受け入れられる聖餐として解釈しなおしたのだ。

今では私は、

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし

の駒を駐めて袖を打ち払ったのは定家自身だろうと解釈している。
賀茂の河原だか井手の玉川だかはしらないが、
真冬の雪景色の中を定家一人が騎馬していた。
そして駒を駐めて袖を打ち払いながら、自分より他の人影もないなあ、と思ったというのであれば写生の歌であるとも言える。
しかし続く「佐野の渡り」という歌枕によって定家は自らこれが写生の歌であることを否定してしまう。
実際この歌は源氏物語に表れる古歌をコラージュしたものなので、
最初から完全に絵空事に詠んだ歌の可能性もあるのである。
せめて

> 駒駐めて袖打ち払ふかげもなし賀茂の河原の雪の夕暮れ

くらいにしておいてくれると好感が持てたのだが。