三種の神器 3

「三種の神器」の初出が『平家物語』ではないかという根拠は、簡易な手法ではあるが、
新潮国語辞典の用例を調べたのである。
この辞典は用例に「もっとも頻繁なもの」ではなく「初出」つまり「もっとも古い例」を載せるのが方針である。
教科書等に載っているような、無視できない典型例は「初出」と併記されるから、「初出」が漏れることはないのだ。

それで、『平家物語』の成立は、鎌倉幕府の成立からどう見ても半世紀は後だろう。
1240年くらい。
つまり、1221年に起きた「承久の乱よりも後」なのである。

> 「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)

後鳥羽院の御時、つまり承久の乱の直前に、すでに原型が出来ていた可能性もあるのだが、
承久の乱によって、宣旨も院旨もなしに、「三種の神器」の権威だけで、
後堀川天皇は即位したのであり、それによって「三種の神器」という概念が初めて確立し、
それが『平家物語』の中に、リアルタイムで盛り込まれたのではないか。
偶然の一致とは思えぬ。

つまり、安徳天皇都落ちのときには、「三種の神器」というものが皇位継承の印として、重要視されてはいなかった可能性もあるということだ。
もし「三種の神器」が承久の乱以前から皇位継承の証であったなら、公卿の日記などにも、前々から用例がなくてはなるまい。
どうかな。

濹東綺譚

わりとひまだったので『濹東綺譚』を一気読みしてみた。
なんとも読後感の悪い話。
永井荷風のエリート意識が鼻につく。

> 何言ってやんでい、溝っ蚊女郎。

の辺りの溝臭い暑苦しい蚊のうるさそうな感じとか、

> 「ええ。それはおきまりの御規則通りだわ。」と笑いながら出した手の平を引っ込まさず、そのまま差し出している。

などは面白いのだが、

> 紙入れには・・・三四百円の現金が入れてあった。巡査は驚いたらしく、俄にわたくしの事を資産家とよび、「こんな所は君みたような資産家が来るところじゃない。早く帰りたまえ・・・」

などといったあたりを読まされるとがっかりする。
お雪と別れる理由なども、どうもいらいらする。
と思う人はいないのだろうか。

そうか、226事件のあった年なのだな。

* 1月30日 下女政江失踪。「つれづれ余が帰朝以来馴染を重ねた女を列挙する」として 16人の名と概略を記す。
* 2月26日 2.26事件勃発。
* 4月10日 「日本人は自分の気に入らぬことがあれば、直に凶器を持って人を殺しおのれも死することを名誉となせるが如し」
* 5月16日「玉の井見物の記」
* 7月3日 浅草公園散歩。 
* 9月7日 夜墨田公園を歩く。『濹東綺譚』の主人公お雪に逢う。年は 24,5、上州なまり(茨城県下館の芸妓らしき)があり丸顔で器量よし。こんなところで稼がずともと思われる。女は小窓に寄りかかり客を呼び入れる。「窓の女」の家の内部略図。 
* 9月19日 向島から徒歩で玉の井にゆく。長火鉢囲みて身の上話を聞いて帰る。何回も玉の井に通う。この日墨東奇譚起稿す。 
* 10月1日 玉の井のいつもの家に行く。 
* 10月4日 玉の井の家に行く。 
* 10月7日 終日執筆、題名『濹東綺譚』となす。 
* 10月20日 玉の井のいつもの家に行く。 
* 10月25日『濹東綺譚』脱稿。

ふーん。わずか一ヶ月余りか。
下女が居なくなり、かつなじみを重ねた女を列挙、その後、というのがなんかそれっぽい。
下女も妾も持ちたくない、懲りた、というわけなのだろうけど。
作中お雪は栃木県宇都宮の出ということになっているから茨城の下館とはちと違う。

思うに、なぜこの『濹東綺譚』がもてはやされるかといえば、やはり226事件の世相と退廃的な雰囲気が好対照だからなのではなかろうか。
小説単体を取り出してみて、そんなに傑作だと言えようか。

作者贅言をのぞけば、およそ原稿用紙換算200枚くらいの長さだろうか。ふーむ。

三種の神器 2

「三種の神器」の初出はどうやら平家物語らしい。
「十善帝王、三種の神器」という言い回しが二度、後は「主上、並びに三種の神器」、等。

「十善帝王」というのは、
「天子に父母なし。吾十善の戒功によて、万乗の宝位をたもつ。」
とあってすなわち殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見の十悪を犯さないことを「十善戒」
といって、この戒を守ればその功徳によって人間界の王になるという。
「三種の神器」という言い回しも、なんとなく仏教説話から由来しているような気になるな。

木曽義仲

木曽義仲は武蔵国に生まれ、それから信濃国で成長しここで挙兵、それから上野国に侵入、信濃善光寺辺りで頼朝と対峙したあと越後から越中と転戦しつつ、
加賀、越前、近江ときて京都に入った。
あれっ、木曽義仲って美濃とか飛騨とか尾張には一度も入ってないじゃん。なんで木曽義仲なの。
と思ったのだが、
木曽(木曽谷)というのは、鎌倉時代までは美濃国であったが、それより後には信濃国の一番西の美濃国に隣接する地域であって、
従って信濃という認識らしい。
平家物語にも「われ信濃を出でしとき」などと書いてある。
なんか紛らわしすぎないか。

身代わり

ちと、村上義光関係で、いろいろ調べているのだが。

まず、「身代わり不動尊」というのは、川崎市高津区、熱海、横浜市旭区の三箇所にあり、
その本院は、川崎の大明王院、祐天上人による開山。
明王とはつまり不動明王、不動尊のこと。
大日大聖不動明王とも。

それから、身代わり地蔵というのは、少なくとも江戸時代に駒込にあったようだ。

第五代執権・北条時頼が夫人と双六をうったときに、夫人が負けそうになったので地蔵が身代わりになった、
という伝説もあるようだ。

長崎には身代わり天神というのがある。

厄除け桃。桃をなでると桃に厄を移すことができる。

撫牛。自分の体の悪いところと同じところを撫でると直る。

公共事業

思うに、諫早湾の干拓とか八つ場ダムなどが、他の公共事業より、マスコミにたたかれやすいのは、
およそ戦後まもなくに計画が立ち上がり、その着工が昭和末期であり、
未だに完成していないというパターンだからだ。
もし、この公共事業が、計画・着工・完成までに十年以内で起きていれば、
こんなに叩かれないだろう。
政治的判断というのは、実時間で行わなくてはならないから、
現在の基準で判断すると、間違っていたことは少なくないはず。
それは民間企業の経営判断と同じだ。
正しいか正しくないか迷っているヒマはないのであり、
結果的に、正しいことが間違っていることより多いとか、
損失より利益の方が多いというので、進めていくしかあるまい。
学問でも同じことで、三十年前の研究を今見れば間違いだらけなのは当たり前だ。

それでもし諫早湾にしろ八つ場ダムにしろ昭和四十年代くらいに完成していれば、
当時良くあった公共事業の例ということで、今更蒸し返されることもあるまい。
よほど揉めた成田空港ですら、既成事実化しつつあるのだから。
首都高にしろ江戸城外堀の埋め立てにしろ、
四国と本州の間の橋にしても、うみほたるにしても、
さっさと短期間でやってしまったから問題になりにくいのだ。
それに比べると新幹線とか高速道路はいつまでもだらだらやってるから叩かれやすい。
結局巧遅より拙速を尊ぶというだけのことだろう。
巧みでも遅いといつまでも叩かれる。叩かれ続け、叩かれる理由がどんどん増えていく。
これはまずい。

ドラマとかドキュメンタリーなどはどのようにでも作れるものだ。
そんなことは作ってる現場の人間なら誰でも知ってる。
おそらく同じプロデューサ、ディレクター、スタッフでまったく逆の視点で番組を作れる。
どちらの視点で作るかは単に視聴率次第というわけだ。
現在の視点で過去を裁くとか、若者の視点で旧システムを叩くとか、一番作りやすく受けやすいやり方だよ。
見てるがわのリテラシーの問題なのだろうけど。

雨乞い小町

筒井康隆の「雨乞い小町」を久しぶりに読んだのだが、
その中で、ずっと気になっていたのだが、

> ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは

> ちはやぶる 神も見まさば 立ち騒ぎ 天の戸川の 樋口開けたまへ

の二首があって、「ことわりや」の出来が悪くて「ちはやぶる」の方が良いと言っているところだ。
なぜ筒井康隆は、そう判断したのだろうか。
いろいろ調べてみると面白いのだが、まず、「ちはやぶる」の方は『小町集』『小大君集』に採られており、
小野小町か小大君かはわからぬが、ともかく、平安中期にはもうあった歌なのだ。
ところが「ことわりや」の方がどちらかと言えば有名であって、
初出は江戸初期のいろんな説話集、元はといえば、『雨乞小町』という謡曲(能)の演目の一つだったようだ。
『雨乞小町』は七小町というものの中の一つで、浮世絵の題材には良く採られるが、テキストなど失われて久しいようだ。

弘法大師が京都の神泉苑で雨乞い勝負をしたという伝説があって、
和泉式部もここで同じように勅命で雨乞いをして、そのときに「ことわりや」の歌を詠んだ、

> 日の本の 名に負ふとてや 照らすらむ 降らざらばまた 天が下かは

> ことわりや 日の本ならば 照りもしつ 天が下とは 人もいはずや

などといったバリエーションもあるらしい。
いずれにしても女性が詠んだということになっている。
弘法大師も、竜王という女性に雨乞いをさせたらしい。
雨乞いは女という定説でもあるのだろう。
そういえば、雨女とは言うが、雨男とはあまり言わない。

そうだなあ。どれもできばえは大して違わないように思えるのだが。
いずれにしても、民間の雨乞いの歌だよな、きっと。

加門七海『くぐつ小町』という小説にも「ちはやぶる」の歌が出てくるようだ。こちらは比較的新しい1996年に単行本になった作品。
筒井康隆の『雨乞い小町』の単行本初収録は『ホンキィ・トンク』1973年。

伊勢物語25段。

> むかしをとこありけり。あはじともいはざりける女の、さすがなりけるがもとに、いひやりける

> 秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも 逢はで寝る夜ぞ ひぢまさりける

> 色ごのみの女 返し

> 見るめなき わが身をうらと 知らねばや かれなで海人の 足たゆく来る

これらを業平と小町の間でやりとりした歌として解釈している。
筒井康隆が和歌を論じてるのが珍しいので、少し考察してみたいのだが、
これは伊勢物語にも古今集にも採られている有名な歌なので、
筒井康隆が特に和歌に関心を持ったというより、たまたま目について取り上げたにすぎないだろう。

小町の歌は、業平の歌の返歌の形には、まったくなってない。
返歌なら返歌らしく元歌を何か参照するなりしなくちゃならないが、
まったく別々の歌という印象だよな。
ああ、たまたま古今集で隣り合った歌なのか。

筒井康隆の解釈では、これは二人が美男美女の似合いのカップルだと言われて、その気になって詠んでみて、
あまりにも大向こう受けの嫌らしい歌だったので二人とも破って捨てた、
実は二人は恋愛感情よりも友情の方が強くてうんぬん、
という設定。
はて、どうだろうか、そんな解釈ができるだろうか。

常盤橋

今、八重洲には常盤橋、新常盤橋の他に、昔のままの常盤橋がある。実に紛らわしい。

もともとの常盤橋は、新常盤橋と常盤橋に挟まれていて、
西岸には常盤橋公園があり、東岸には日銀本店がある。
上を首都高が通り、橋の上には浮浪者の段ボール小屋がある。
ほとんど人通りがない。

外堀は、常盤橋まで来ると日本橋川に折れ曲がり、呉服橋の辺りから南がすべて埋め立てられている。

この、大手町とか八重洲の辺りは、歩いていてもあまり愉快なところじゃないね。
黒塗りの車が多すぎる。

三種の神器

改めて、後醍醐天皇という人はよくわからん。
中継ぎで31才で即位したのだが、
似たような例では後白河天皇がいる。
後白河天皇はすぐに譲位して上皇になってしまった。
しかし、後醍醐天皇は決して譲位しない。
三種の神器とともに逃げ出してしまう。
宮中祭祀を自ら行うことに異様に執着したようにも見える。
天皇のうちは神事にたずさわるため、仏事を行うことはできない。
上皇になれば神事から離れて、出家するのも自由。
当時の天皇は、ほとんど全員、すぐに譲位してそのうち出家している。
その方が気楽だからだろう。
でも、後醍醐天皇は、そうしなかった。

後醍醐天皇をわかりにくくしているのは、やはり、歴代天皇に類例がないからだ。
後鳥羽天皇とも、似てない。
後鳥羽天皇は、まあわかる。西国の武士を糾合したら鎌倉に勝てるかもしれないな、
と思っちゃったのも、まあ理解できる。

後醍醐天皇は、たぶん、倒幕運動などといえるような、組織的なことはなにもしてない。
比叡山や南都の僧兵を味方にすれば幕府を倒せると思ったのか。
そんなはずはない。その可能性は平清盛の時に否定されている。
西国武士では板東武士は倒せないことも、承久の乱でわかっている。
じゃあ、後醍醐天皇は何をしようとしたか、というと、ただひたすら、譲位を拒んだ、
というくらいしか思い当たらないのだ。

皇位継承は天皇の宣旨もしくは上皇の院旨によって決まるというのは、
天智天皇が定めた律令制以来のシステムであって、それまでは「三種の神器」こそが皇位継承の絶対的権威だったと、
思いがちなのだが、実はそうではなく、
天皇もしくは上皇の意志こそが、古来の素朴な家父長制の名残であって、
それを天智天皇が律令とか詔勅という形で制度化しただけなのかもしれない。

「三種の神器」は、皇位継承の象徴、イコンの一種であり、それに何か神秘的な意味合いを持たせ始めたのは案外後世のことではないか。

後鳥羽天皇は「三種の神器」なしに即位したと騒ぐ向きもあるが、後白河法皇の院宣によって即位したのだから、律令的にはまったく合法だ。

承久の乱では、逆に、「三種の神器」はあったが、宣旨も院旨もなかったのだから、律令的には違法だ。
ということは、「三種の神器」に絶対的権威が必要となったのは、実は承久の乱以降ということなのだ。

後醍醐天皇は、「三種の神器」が天皇しか所持できない、
ということに、最初に着目した天皇だったに違いない。
インフレを起こしていた上皇ではなく。
「三種の神器」という神話的権威を最大限に利用したのも後醍醐天皇だ。
だから彼は、決して譲位しようとしなかったのだ。
そのヒントは、承久の乱にあったに違いない。
北畠親房がその理論構築に関与した可能性は、きわめて高いと言えるだろう。

一方、上皇がたくさんいる方が北条氏にとっては都合がよかった。
そのうちの誰か一人を傀儡にすることに成功すれば、皇位継承をコントロールでき、
未だに厳然たる律令国家だった日本で、合法に、宣旨も院旨も発令できるし、官位官職も思いのままになったのだから。

両統迭立、十年おきに皇位継承というのは北条氏が定めたわけだが、
これは二十年おきの伊勢神宮の式年遷宮にも似た、当時としては、きわめて合理的なシステムだったと思う。
天皇家にとっても、必ずしもメリットのないやり方ではなかったと思う。
結局、皇位継承というのは、天皇家、公家、武家の合議でやるより他なかったのだから。
両統迭立が後の南北朝の対立につながったとして批判するのは、結果論に過ぎないし、
その原因を後嵯峨天皇の優柔不断さのせいにするのは安易だと思う。
衆議院と参議院の二院制のようなもので、幕府との分権ができて、
たまたま後醍醐天皇という人が現れなければ、あと百年くらいはうまく機能したのではないか。

逆に、「三種の神器」こそ絶対だという考え方は、当時普及していた院政とも幕府とも真っ向から対立する。
それは天皇親政というのを通り越して、神政、神道というのにきわめて近い。

明治天皇記

『明治天皇記』を読んだのだが、明治時代に『明治天皇記』という書物が出版されるわけもなく、
これは大正以後に、侍従などの日記をもとに書かれたものだから、一次資料はそのもとの日記などを参照するしかない。
めんどうだな。
で、鎌倉宮の創建は確かに明治2年2月の勅命によるものなのだが、同じ箇所に記述されている、
井伊谷宮は明治5年2月創建のはずであり、明治2年の箇所に書くのは紛らわしいのではないか。
また、鎌倉宮の摂社、村上社と南方社は明治6年11月22日に創建となっていて、
明治6年4月16日に御幸した後に作られているようなのだが、
やはり『明治天皇記』の同じ箇所の記述では、その時系列が極めて曖昧だ。
井伊谷宮や村上社、南方社についても明治2年2月になんらかの勅命があったということなのだろうか。