ひたすらジブリ見る。

「海がきこえる」氷室冴子原作来ター。うわー。高知。宮崎駿臭がほとんどない。
ていうかこれなぜ実写でやらないのか。
普通はこういう少女漫画を実写で映画化するとずっと楽なところを敢えてアニメでやった、
というのが売りなのか。
ていうか実写でやるとビーバップハイスクールとかごくせんとかになっちゃうのが嫌なのか、
というよりはアイコ十六歳か時をかける少女か(笑)。
まーそういうところはあるかもな。
実写だと役者や監督が好き勝手やって手垢のついた学園ドラマになってしまう。
それはどうしても避けたいだろうアニメファンとしてはなー。

「耳をすませば」柊あおい原作。京王線聖蹟桜ヶ丘。
なんか多摩の団地に異様な執着があるのかジブリ。
宮崎駿が絵コンテ描いてるせいかかなり絵的に動き的に宮崎駿的。

しかしまあ少女漫画は見てて恥ずかしい。
氷室冴子はさすがにすごいね。
需要は一部にあるのかもしれん…ジブリとか宮崎駿と関係なしに。
オトコノコが士郎正宗原作が好きなようにね。

Kiki’s Delivery Service Disney日本語字幕版見たりとか。
おもろいな。

ステレオタイプ

世の中はステレオタイプに満ちあふれているが、ステレオタイプのすべてが偏見であり邪悪なものであるわけでなく、むしろステレオタイプの多くは社会的に意味があって不可欠なものだ。
ステレオタイプとはつまり社会的常識ということであり、その多くは単に人間社会が勝手に決めた決まり事や架空の宗教的イデオロギー的な産物ばかりでなく、生物学的解剖学的根拠に基づく正当で良心的なものも多く含まれる。
信号機の青が進めで赤が止まれというのもそうだ。
ステレオタイプはいちいちその功罪を論じ、悪しきものはなくして行かなければならないというのは、それ自体が「ステレオタイプ」である。
多くのステレオタイプはわざわざ気づかせる必要もない。
常識の存在にいちいち気づかないと前に進めないようではまともに社会生活ができない。
ジェンダーの問題に取り組む人たちがほとんどすべて女性であり、その発想がきわめて「女性的」であるのに本人たちはその「ステレオタイプ」に気づいてないか、気づいていても故意に避けているように見える。

ジブリ

鉄道オタクはほとんど男だ。
男の子供というのは凶暴で乱暴だ。
自分の子供を観察するだけでも明らかに教育とか体験の結果ではなく性差というものは存在すると思う。
鉄道好きの親がいるから鉄道を好きになるのでもないし、
乱暴ものの親がいるから暴力をふるうわけでもない。
攻撃性や破壊衝動や嫉妬心や反抗心や独占欲などいうものは生まれつきそなわっていると言わざるを得ない。
普通に観察していれば明らかだと思うのだが。

わけあってジブリ作品をいろいろ見る。
今まで見たやつも、見なかった「おもひでぽろぽろ」とかも全部通して見る。

おもひでぽろぽろの主演声優は今井美樹と柳葉敏郎なんだが、
アニメじゃなくてそのまま実写でやりゃいいじゃんと思わなくもない。
普通は実写だったり純文学だったりするところをわざとセルアニメ化しておもしろがってるところがある。
そういう意味では一種の実験映像といえるかもしれん。

こういうものを商業アニメとして出してしまえるところが、
実はジブリの恐ろしいところなのかもしれないと思う。
退屈きわまりないが駄作ではない。
そういう意味では人気は高いが駄作ばかり作っている某とかに比べればはるかにましだと思う。
農村回帰というテーマを1991年にジブリブランドでやったことの意義はもしかすると大きいのかもしれない。
二ノ宮知子「グリーン」や今やってるダッシュ村など。
こんなの全部同工異曲でしょう。

同じジブリでも時代と作品によって動きが古くさかったりCG使ったりとか、
そういうこと考えながら見てると、
まだまだいくらでも見落としがあるなあと思いながら見てる。

「おもひでぽろぽろ」はガロに連載された漫画のアニメ化で、
原著が岡本螢、絵が刀根夕子、岡本螢は東京生まれで日芸出身。
うーむ。ガロかぁ(笑)。
じゃ、次は辛酸なめ子「にがよもぎ」か「千年王国」でよろしく。
失踪日記でもいいよ。ていうかやりかねんな「となりの山田くん」すらやったわけだから。
なんでもありだな。

寸暇を惜しんでぼーっとする。

「寸暇を惜しんで」の後に続く言葉はたいてい「仕事する」「趣味に励む」「英会話の勉強をする」「ゲームする」とかだろうか。
最近は寸暇を惜しんでぼーっとするという感じだが。
寸暇というものは人類数万年来役に立たない半端な時間だからぼーっとするより仕方なかったのかもしれん。
寸暇を埋めるには活字というものがあったが、今ではノートPCや携帯でけっこう遊べる。
以前は空き時間をせっせと本を読んで埋めていたが、最近はそれも頭が疲れるのでやらず、ぼーっと考え事している。

作家事務所

作家とかアーティストという人たちは、一人で制作もマネージメントもプロデュースもやる人(やりたがる人)のことのようだ。
そうでない人たちは別のカテゴリー、たとえば教員とか日曜絵描きとか変なおじさんとか、普通のデザイン事務所の人とか広告代理店の人とか、プロダクションの人とか経営者とか社長さんに分類されてしまう。
何が言いたいかというと、作家の人たちが大勢集まって作家事務所のようなもんを作ればよさそうに思えるが、それでは普通の会社になってしまうので、そんなことは彼らはやりたがらないのではないか、いつもニュートラルな位置に居たがるのが作家なのではないかという気がする。
だとすれば収益とか生産性とか効率などというものを追求したり、学会立ち上げたり、交流の場を作ろうとか、そんなよけいなお節介を焼いてもしょうがないということにならんか。

作家事務所というのは中世的に言えばギルドのこと、ギルドがさらに高度に自治組織化されたものが大学。
大学の原点は作家事務所だろう。
近代になると大学は国策によって保護され、プロイセンだと「国民大学」は学費がタダだったりした。
国力増大にあまりにも科学が有効なもんだから、科学者が優遇されまくった。

アメリカだとやや事情は違い、戦争のどさくさで国家というパトロンと癒着した一部の(私立)大学 (MITとか) が突出して巨大化していった。
教員は軍事予算によって養われたりした。

しかしいまどき Volks Schule とか国民大学などというものは時代遅れで、科学者は冷や飯食わされる時代で、商業化したり民営化していって、勢い専門学校やらカルチャースクールとなんら変わらんところまで来た。

科学者や芸術家の待遇或いは社会的地位は近世というよりは中世に戻りつつある。
個人個人で活動しているとあまりにも身分が不安定なので、自治組織を作りましょう、後継者の教育もやりましょう、副業として研究成果を社会に還元しましょう、資金調達のためにはカルチャースクールや下請けまがいのこともやりましょう、というのが本来の大学の姿で、現代でも大して逸脱してないのでないか。
そこのところを押さえておかないと、大学ってなんだということがまったくわからなくなる。
本来、国や地方自治体によって教員資格を完全にコントロールするのが小中高までの教育、自主的に組織作りも教育もするのが大学。
もし大学をなんだかんだで解体しようとしたり縛ろうとしても、研究者や作家の組合とか自治組織というものが大学以外のところに自然に生まれるだろう。
それがすなわち大学とか学会というものなのであろう。

商業主義に走ってもいかず、かといって孤立孤高の道に進むべきでもなく、自分たちの居場所を確保するために何が必要かということを考えれば、自然と募集や就職や立地など決まってくるのでないか。
そんな5年10年先のことばかり考えたり、まして来年どうしようとか今年はどうだとか考えても仕方ない。