小室直樹「三島由紀夫が復活する」の中に
坊城俊民 「焔の幻影 回想三島由紀夫」の次のくだりが引用されている。
>「坊城さん、ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」
「そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった」
「あそこも面白いですが、定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから神になったのです」三島の眼は輝いた。(中略)
今になって思うのだが、三島は少なくともそのころ、四十五年正月ごろは、進むべきふたつの道を想定していたのではなかったろうか。ひとつは、世人が皆知っている、自決への道である。これを三島の表街道とすれば、裏街道は、定家を書く道であった。裏街道をたどらざるを得ないことが起こったとすれば、それは三島にとって不本意にはちがいなかろうけれども、私は後者をとってほしかった。
これの
> そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった
の箇所は坊城のセリフであって三島ではないのだろう。
「定家が自ら神になった」とは何が言いたいのか。
三島が抱いていた何かの虚像なのだろう。
三島由紀夫や小室直樹が定家を理解していたとはとても思えないのだが、
それはともかくとして
「ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」
というセリフが私にはどきりときた。
私はこの「三島由紀夫が復活する」をその出版当時、つまり昭和60年2月26日頃に、
読んでいるのである。
当時私は19才だったはずだ。
そして私が「定家を書いた」のはちょうど私が50才の時であった。
実際には49才頃からすでに書き始めていて、構想はもっと前からあったのだが。
私の脳のどこかの無意識にこのセリフが刻み込まれていて、
それが時限装置のように働いて私に定家を書かせたのではないか、
そんな気がしてきたのだ。
小室直樹はこの本をその2年前から書き始めたと言っているのだが、
1932年9月9日生まれの小室直樹にしてみると、彼が50才の時のことだったはずだ。
小室直樹はだから、50才で定家を書くのではなく、三島由紀夫を書き始めて、
2年の歳月をへて、ちょうど226事件の日に、「三島由紀夫が復活する」を刊行したのである。
私はずっとこの「三島由紀夫が復活する」が、小室直樹の書いたものの中では一番難解だと思っていた。
カッパブックスなどの売れ筋の本は編集者の手が入っていて多少読みやすいが、
「三島」は小室直樹が好き勝手書いているからちんぷんかんぷんなんだと思っていた。
しかし50才になって「定家」を書き、「ヨハンナ・シュピリ」を書いて、
その他いろんなものも書いてみて、著者の気持ちというのがわかったような気がしてきた。
著作を深く理解するには自分も著作してみるとよいと思う。
読者を意識して書くという作業を通じて、著者が読者に何を言いたいかが読み取れるようになる。
というより、書こうと思って書き切れなかったことにも今なら気づけるのではないか。
私が「三島由紀夫が復活する」を理解できないのは小室直樹の執筆意図を理解せず誤読しているせいかもしれない。
そう思ってもう一度丹念に読んでみることにした。
それでまあこの本は小室直樹が真剣にまじめに書いたものであって、
きちんと一冊の書籍の体裁にまとまっているのはわかった。
しかしいろんな点でやはり納得はできない。
唯識論や三島理論と天皇制とは特に関係ないとしか言いようがない。
「ミリンダ王の問い」という仏典が引用されている。
これはギリシャ的哲学とインド的哲学の対立と捉えられているのだが、
例えばギリシャ人でもディオゲネスなどは明らかにインド思想の影響をうけている。
またギリシャの宗教でもギリシャ由来でないものは多い。
アドニス、アルテミス、デュオニソスなどは西アジアやインドの影響をうけている。
イエスにも仏教の影響は見える。
西洋と東洋を対立させてみるという考え方は本質を見誤らせるし、定家が自ら神になろうとした、
なんていう証拠はどこにもない。
そんなことを定家がやろうとしたはずがない。
それでもまあ、小室直樹や三島由紀夫を知るには貴重な本であるのには変わりないが、
三島由紀夫は結局50才で「定家」を書かずに45才で死ぬ。
三島由紀夫が1970年11月15日に割腹自殺したのは1971年1月14日に転生しなくてはならなかったからだ、と書かれていて、
おそらくこれは小室直樹の持論なのだろう。
そして1月14日は三島由紀夫の誕生日なのである。
小室直樹は三島由紀夫は自分自身に転生したかったのだと言いたいわけだ。