月別アーカイブ: 2012年11月

ビックカメラのカレンダー

ビックカメラのカレンダーは便利だが言いたいこともたくさんある。 六曜と九星はいらん。何の役にも立たない迷信に過ぎない。 明治政府が禁令を出したにもかかわらず、ブライダル産業と葬儀屋と田舎者が使い続けている。 月の和名の由来も単なる俗説であり、読むたびいらいらする。 書くなら干支を書いてほしい。これは古代から連綿と続く六十日周期の期日法であって、 たとえば平安時代の公家の日記や鎌倉時代の吾妻鏡、近世では永井家風の日記などを読むとき非常に役に立つ。 google calendar にも採用してもらいたいくらいだ。

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販売状況

セルジューク戦記がまた kobo 経由で売れていた。 販売状況を確認できるまで少しタイムラグがあるようである。 まだ3部しか売れてないから印税は150円。 なぜセルジューク戦記だけが売れるのか、 現代ものや和物より世界史ものを書いたほうが売れるのか、 よくわからん。 閲覧数ではアルプスの少女デーテがだんとつ、 川越素描が意外に健闘していて、 セルジューク戦記は三番目。 新井白石を書いてから、大分間があいてしまった。 なかなか書けない。

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新井白石

少しヒマがあったので、「折りたく柴の記」を最初から順に読んでみたのだが、 Wikipedia 「新井白石」の記事に > 先祖は、上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の小田原征伐によって没落したといわれている[1]。 と書いてあるのだが、白石本人は父から聞いてなくて知らないという。 どうやって調べたのだろう。単なる伝説のたぐいか。 > 白石は明暦の大火の翌日の明暦3年(1657年)2月10日、焼け出された避難先で生まれた。幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。聡明だが気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから、藩主土屋利直は白石のことを「火の子」と呼んで可愛がったという。 「火の子」と呼ばれたのは火事の時に生まれた子だから、と「折りたく柴の記」には書いてあるのだが。 それから、三歳で儒学の書(?)をそっくり書写した、などとはどこにも書いてないし、そんなことは不可能だろう。 ただ、「上野物語」という仮名草子を、紙を草紙の上に重ねて、写し取ったもののうち、文字になっているものが十のうち一、二あった。 と書いてある。もしかしてそのことを言っているのか。 どうもこの「新井白石」の記事はおかしくないか。 > 利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は… 続きを読む »

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線香

九州に来て見ていると線香を寝かせる人が多い。 浄土真宗では、香炉が狭いと折って寝かせることもあるという。 まあいろんな理由付けがされているようだが、 横浜中華街の関帝廟でも、 浅草観音でも線香は立てるわな。 線香というのはもともと道教に由来するものでインド由来ではないんじゃないか。 で、香炉というは香木を焚くものでもあるから、その種のお香を焚くのであれば寝かせるのが当たり前だと思う。 中国での線香の由来を調べようとしても、よくわからんな。 ともかく、線香を立てると、関帝廟や孔子廟みたいな道教臭というか先祖崇拝的、偶像崇拝的なものを感じるので、 浄土真宗ではそれを嫌っている(積極的に否定している)のではなかろうか。 思うに、本来仏教というのは先祖を敬うとか死者を弔うという意味はなかっただろう。 だが、葬式というのは、少なくとも中国や日本では先祖を敬い祭るものだから、 それが関帝廟のような偶像崇拝的儀礼となっていくのは至極当然であり、 線香にそのような意味合いを持たせることに浄土真宗が反発するのもまたあり得ることだ。 そもそも東アジアの「孝」という概念は仏教の根本教義とは相容れないものだ。 「孝」が仏教に取り込まれてしまったのが東アジアなのだから、どうしようもないのではないか。 いまさらどうにもならないし、どうかしようと努力することに意味があるとも思えない。 結論を言えば私は線香は立て… 続きを読む »

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墨染めの袖

承久の乱後の後鳥羽院の歌を見るに「墨染めの袖」というフレーズが目立つのだが、 検索してみると一番最初に使ったのはどうも花山院らしい。 ただ単に墨染め、墨染めの衣、墨染めの衣の袖などならば、古今集に、上野岑雄 > 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 壬生忠峯 > すみぞめの君がたもとは雲なれやたえず涙の雨とのみふる または詠み人知らず > あしひきの山へに今はすみぞめの衣の袖はひる時もなし > 心にもあらぬうき世にすみぞめの衣の袖のぬれぬ日ぞなき などたくさんある。「墨染め」を「住み初め」にかけている例が多い。 花山院 > 七夕に衣も脱ぎて貸すべきにゆゆしとや見む墨染めの袖 これはつまり、よくはわからんが、七夕に人に服を貸す習慣でもあったのだろうが、 それが僧侶の服、あるいは喪服であればあやしまれるだろう、という意味である。 がある。 後鳥羽院はおそらく花山院の境遇と自らを重ね合わせ、 「墨染めの袖」というフレーズを使ったのだろうと思う。 ただまあ、有名どころでは慈円の歌 > おほけなくうき世のたみにおほふかな我が立つ杣にすみぞめのそで などがあって、墨染めの袖イコール花山院もしくは後鳥羽院、 というイメージに固まることはなかったかもしれない。

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五月雨の頃

[五月雨の頃](/?p=1727)を大幅に加筆したのでリンクしておく。

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司書夢譚

某県立図書館が廃止されるというニュースを見て、 懐かしさのあまり[司書夢譚](http://p.booklog.jp/book/34682)を再公開した。

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後鳥羽上皇

例によって wikipedia の「後鳥羽天皇」を読んでいたのだが、 > 伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた[1]。 また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[2]。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[3]。 本気で言っているのか。 [1]はただの個人の感想ではないのか。 [2]は藤原定家ならそのくらいの悪口は言うだろう。ていうか定家が後鳥羽院に対してかなりネガティブなイメージを持っていた証拠にはなるだろう。それに定家が言いたいことは、即位のときに神器がなかった、という正統性の問題ではなく、神器のうちの宝剣が失われて戻ってこなかった、ということだけだ。三種の神器がそろってないから蹴鞠ばかりする、とまあその程度の意味だろう。 [3]だが、承久の乱の原因が、三種の神器を欠いて即位したコンプレックスによるものだとする、まあ、そんな意見もあるかもしれん、だが、戦前戦後のすべての学説を並べた中にこれがあるならともかく、こういう書き方は公平性を欠いているのではないか。かなり歪ん… 続きを読む »

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