関宿城

利根川流域の城というのは、古河公方が拠った古河城にしろ、石田三成が水攻めにしようとして失敗した忍城にしろ、或いは上杉家の五十子陣にしろ、太田道灌の川越城にしろ、みんな水上の城、浮き城なのである。日本の中でこの地域にしかない城の形態と言ってよい。関宿城ももとはそうした城であったようだ。

石田三成が秀吉の高松城攻めを真似して忍城を水攻めにしようとしたというのは、どうも信じられない。五十子、川越、古河、忍城。それらの城の形態をみればこれらの城に対して水攻めなんてものが全く効果がないってことは、三成だってすぐ気づいたに違いない。水攻めすればますます敵は守りを固くするだけだし、水上の城を水上封鎖しようとしても抜け道はいくらでもあるんだから失敗するに決まってる。

大阪にいた秀吉が水攻めにこだわり、むりやり三成に水攻めをやらせたということはあり得るかもしれないが、それもまた秀吉を貶めようという意図が感じられる。

そもそも忍城などというものは戦略的に重要な拠点ですらなかっただろう。単に後に忍城が三成を撃退したという盛った話にされただけではなかろうか。

関宿(せきやど)はチーバくんの鼻の先端にある。ここは武蔵、下総、常陸、下野、上野の国境であり、かつて香取海のど真ん中にあった。香取海がだんだんに干上がり干拓されていって、そのため国境が一点に集中したのである。さらに家康が利根川を付け替えたためにここが江戸川と利根川の分岐点になった。チーバ君の鼻はそうした低湿地に突き出た尾根にあたっていてここに流山街道が通っている。地形的には非常に興味深いところだし、江戸時代には戦略的にも重要なところだっただろう。

今より10才も若ければ古い時代の桎梏から抜けだそうとか新しい時代に適用しようなどと思うかもしれんが、もう60才にもなろうという年になると、そのどちらの努力もする気になれず、将来のために新しい試みを今から始めて仕込んでおこうという気にもならない。ただ、やり残した仕事があるとすればそれをきちんと仕上げてから死のうと思うだけだ。

昔は、つまり私が生まれ育った昭和の頃は、確かにどうしようもない時代だった。今の時代のほうがましなのは明らかだ。しかしながら、今の時代に積極的に自分を合わせていこうという気にもなれない。

昔も今も民間企業というのは生きにくいところのようだ。私はただそういう世界から離れて、自分のやりたいことだけ、好きな仕事だけやって生きて死ねればそれでよかった。

今の時代も、昔の時代に劣らず、何から何までなんとガチガチに縛られていることだろうか。みんな自分の意思で自分の好きなときに働き自分の好きなときに休暇を取ろうとはせず、国が決めた休日に同じような休暇をとろうとする。社会全体が自分で自分を縛っている。その傾向はむしろ昔より今のほうが加速しているようにみえる。なぜみんなもっと自由に生きようとしないのだろうか。結局それが人間の本能に基づいているからなのだろう。だから自然と人は資本家と労働者に分かれるようになっているんじゃないのか。労働者は資本家をうらやむが自分が資本家になろうと努力するわけではないので、結果的にいつまでも労働者のままだ。人から賃金をもらって生活し、不平を言いながら、すべて他人のせいにして生きている。

年寄りは年寄りになるまでにいろんな試行錯誤や失敗をしてきているから、慎重に、臆病になるのがほんとうだと思う。今はもう死ぬまでの間、痛い思いをせず、何か失敗をしでかさないように、びくびく怖がりながら生きている。外で酒を飲むのが一番危険だ。しかしこれをやめてしまうとほとんど何も外界との接点が無くなってしまうので、すべてやめてしまうわけにはいかないのが問題。

酒を飲むと気が大きくなる。酒がまだ血の中に残っている早朝が一番気が小さくなる。酒に酔って気が大きくなると細かいことはどうでもよくなってしまう。金遣いも荒くなる。記憶も残らなくなる。

無意識でやっていることと意識的にやっていることの境目が酒を飲むことによって動く。無意識だと記憶に残らないから後でなんであんなことやったんだろうと思う。

動画を撮ってみてみるとわかるがいろんなノイズや周りの人の話声なんかが入っていて、自分が撮りたかったものが埋もれてしまっている。人は意識していることとそれ以外のことを無意識に選別して知覚しているわけだが、聴覚過敏になったり自閉症になったりするとその選別ができなくなってしまう。年を取るとそれまでどうでも良かったことがいちいち気に障るようになる。鈍感であることは精神を疲弊させないためにどうしても必要なことだが、年を取るとその調整ができにくくなるように思える。

コロナ以前は、私にまだうかつにも、人間社会に対する信頼というものがあったが、もはや完全にそんなものは失われた。人間は救いようのない、手の施しようのない、なんの取り柄もない馬鹿なので、ただ右往左往慌てふためくだけ。なぜかは知らないが最初からそういうふうに作られているらしい。人間社会に何か貢献しようという気も薄れてきた。人間以外の何かとか、ずっと遠い未来の何かのためになら、いろいろ頑張っても良いかもしれないが、今の人間には何をしても無駄なので、ただできるだけ社会と関わらず、不快な思いをできるだけしないように生きようと思うようになった。私にとってあのコロナ騒ぎで得たほとんど唯一のものは人間のために何かすることはすべて無駄だということを学習したことだった。

イレーザー

イレーサーを見たのだが、ミッションインポッシブルの主役をトム・クルーズからアーノルド・シュワルツェネッガーにして、より馬鹿っぽくした感じのもの。いろいろと変なところはあるが、それゆえにというべきか、単なるエンタメとして最後まで楽しめた。

シックスセンス

シックスセンスも見たんで感想を書いておくが、なるほど着想、特にオチは面白く、見終わるまでは良い映画だなあと思いながら見ていられるんだが、終わったあと思い返すとシナリオ的にはかなり不味くて不自然なことが多い。なんとなく煽られて踊らされてだまされた感がある。

幽霊が、自分が死んだということに気付いていない、まだ自分が生きていると信じ込んでいる、という前提がそもそも怪しい。で、幽霊なんだからどんな設定でもありだろ、で話は終わってしまう。

そこいくとたとえばシャッターアイランドの場合には怪奇現象でもホラーでもなんでもないので、患者本人が狂っているのか、狂っていると思われされているのか、解釈しようによってはどっちとも考えられるってあたりが面白い。これがホラーならどっちでも良いじゃんで終わってしまう話だ。どこまでもサスペンス、ミステリーとして作られているから良い。

でも世の中にはミステリーでもホラーでもどっちでも良い、面白けりゃそれで良いという人も多いのかもしれんね。